第5話

 クモノイトに連れ去られた時のことと戻って来た時のことについて、モドリビトたちの証言は概ね覚えてはいない、の一言に尽きた。

 ただ、一度戻らないことには仕方がない、と思ったことだけは覚えているそうで。

 仕方がない、とは?

 テレビで、モドリビトがインタビューを受けている。

 いや、まあ自分でもよくわからないですね。でもまあ、一度戻らないとと思ったわけでして。

 思ったら、戻ってこられた、ということですか?

 はい。

 ではまた、どこかに消えてしまう可能性も?

 さあ、それはなんとも……。

 そもそも、あなたたちって、巷で言われているように、本当にクモノイトに連れ去られたんですか?

 覚えていないのです、申し訳ないのですが。

 あなたを一時的に消し去った、クモノイトと呼ばれるものについて、本当に何の心当たりもないのですか?


 そこでテレビが消えた。真っ黒な液晶には私の背後でリモコンを持つ夫の姿があった。

 そんなもの、観るなよ。

 夫が苦笑いする。

 そんなにクモノイトが気になるの?

 ソファの隣に寝転ぶ娘が不思議そうにまだ座りきらない首をかしげる。

 ええ、まあ。

 ほんとうに?

 え?

 みんなが気にしているから気になるだけじゃなくて?

 うーん……。

 なにがそんなに気になるの? よくわからないことなんて、世の中ごまんとあるのに。

 それはそうかも、しれないけれど……。

 娘と夫から目を反らすと、部屋の隅に溜まったほこりに気が付いた。

 次いで、自分の放つ悪臭に気が付く。

 そういえば、最後に風呂に入ったのはいつだったっけ。部屋の掃除も随分長いことしていない。

 立ち上がると、ぐらりときた。なんだか気持ち悪い。

 食事も、最後に食べたものは何だったか。今日はなにか口にした? 記憶にない。

 どうしたの? どこか痛い?

 娘が心配そうに私を見つめる。

 具合が悪いのなら休みなさい。

 夫が優しく諭すように言葉を投げかけてくる。

 そう、そうだね、じゃあ少し休もうかな。

 ふらつく足取りで一人寝室に入り、布団に潜り込む。

 こんなやりとりは何回目だっただろうかと、ふと疑問がよぎった。少なくとも、一回や二回ではない。

 実家に戻ろうかな。

 誰もいない寝室で、ぽつりと呟いてみる。


 断られる可能性も考えてはいたけれど、今更失敗作なんていらないとまで言われるとは思っていなかった。

 寝室から出られなくなってからしばらく経つ。いわゆる引きこもりというやつだ。日付感覚が完全に消失しているので正確にはわからないが、三か月くらいは経っているような気がする。

 なぜこうなってしまったのかわからない。どこで間違えてしまったのか、どこでどうするのが正しかったのか。

 休みなさい、と夫から言葉をかけられるたび布団に入っていたのが、気付くと布団から出られなくなっていた。動くことも、喋ることさえ億劫になっていき、なぜだか話しかけられることさえ怖くなっていた。

 だからいくら対面ではないとはいえ、実家に電話するのにも非常に勇気が必要だった。

 久方ぶりの実家への電話だった。

 何と言っていいのかわからず、開口一番に帰りたいと伝えた。それに対する返答が、今更失敗作なんていらない、だ。

 産んでやったのに、育ててやったのに、その恩もまともに返せないような失敗作が今更なにをしに帰ってくるつもりなんだ。

 それは、でも、前に帰ってもいいって言ってたし……。

 今更遅いんだよ。まったく、昔からとろい子だと思っていたけれど、ここまでとろいなんて、話にならない。ねえ、あなたもそう思うでしょう?

 電話から、子どもの笑い声がする。とても聞き覚えのあるその笑い声は、確かに娘のそれだった。

 もう、あんたはいらないんだよ。恩知らずな娘よりも、やっぱり孫の方がかわいいよねえ。育て上げなければいけないプレッシャーがないし、ただひたすらかわいがってるだけでいいから、気も楽だ。

 子どものはしゃぐ声と、嬉しそうにそれをあやす親の声が電話口で混ざり合う。

 夫が三人。私の夫と、男の子の夫と、義母の夫。

 それから娘が二人。私の娘と、親の娘。

 どの夫が、どの娘が、本物なのだろうか。

 少し前に、ふと気になってスマホで検索をかけてみた。案の定、最初にクモノイトに連れ去られたとされる幼い息子のいる母親も、モドリビトとなっていた。戻ってきた当初は幼い息子も幼い息子の父親も大喜びしていたようだった。三人で過ごす時間がかけがえのないものだと、SNSで語っているのがネットニュースに出ていた。しかし、そのネットニュースの出た日付から半年も経たずして、幼い息子の父親が遺書を残して自殺した、と新しいネットニュースが出ていた。遺書は、耐えられない、〇〇(母親の名前)はもういないのに、なぜ俺たちはまだ家族ごっこを続けているんだ。申し訳ない、でももう、これ以上がんじがらめにされるのは耐えられない、△△(幼い息子の名前)、ごめんな、本当にごめん。そんなような内容のものだったらしい。幼い息子がどうなったのかはわからない。父親の後を追ったとは思えないが、それではモドリビトの母親と共にいるのだろうか。

 気づけば電話は切れていた。


 国の偉い人がクモノイトの正体が判明したと発表した。

 すでに国民の三分の一以上はモドリビトになっていた。

 たくさんの頭のいい人たちが論文や書籍、ブログ、SNS、テレビなどのメディアを通して一般人向けにわかりやすい解説をしてくれているのだけれど、私にはそのわかりやすい解説ですらよく飲み込めない。

 なんでも、オゾン層の一部が複合的な理由から崩壊したことにより(崩壊とはいうものの、紫外線に関しては人体にほとんど影響はないレベルらしい)、宇宙から未知の物質が地球に流入したそうだ。その物質こそがクモノイトらしい。クモノイトという物質についての細かい説明は全く理解できないけれど、要は触ってはいけないし、目視できる距離まで近づくのもよくない、ということだけはかろうじてわかった。

 クモノイトに連れ去られた人がどうなったのか、なぜ戻ってくることができたのか、モドリビトとは一体何者なのか。これらについての解説はさらに難解なものだった。専門用語を専門用語で説明し、曖昧なニュアンスの言葉を多用し、まるでわざとわかりにくくしてけむに巻こうとしているようにしか思えない。おまけにクモノイトの解説とは違い、異なる説が複数あった。そこへさらに身もふたもない憶測が飛び交い、もはや収集がつかない。

 唯一共通した見解が、モドリビト自身がクモノイトのような、人体に直接的な悪影響を及ぼす危険性はないだろう、ということ。モドリビトのあふれかえった世の中で、今更提供されたこの情報に安心すればいいのか拍子抜けすればいいのか、今ひとつわからない。

 とにもかくにも原因がわかったならば対策も立てられる。

 世界中の頭のいい人たちが一斉にクモノイトを無効化する新たな物質を開発して散布し始めた。

 効果は徐々に、しかし確実にあらわれた。

 クモノイトの出現回数は見る間に激減、クモノイトに連れ去られる人も減り、やがてクモノイトの目撃証言もクモノイトに連れ去られる人も一人としていなくなった。

 どことなく安心した空気感が世の中に広まる。ほんの一瞬だけ。

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