第4話

 クモノイトに連れ去られて、帰ってきたのは、娘と夫だけではなかった。

 街のそこかしこに、いた。

 はじめはそうとはわからなかったけれど、今ではなんとなくわかる。なんというか、空気感というか、表情というか、これといって形容するのは難しいなにかが私たちとは違っているのだ。

 ある日にはコンビニのアルバイトの子がそうだった。その子はうっすらと笑っていた。薄ら笑いをしているというより、もとからそんな顔のようで、どんなにレジが混んでいようと、学生グループがはしゃいで棚の商品を乱そうと、苛立った様子で入店してきた中年男性から理不尽に怒鳴りつけられようと、声音や表情に一切変化はなかった。うっすら笑って、どこかぼんやりとした声でその一つ一つに対応していく。

 またある日には電車でたまたま一緒に乗り合わせていた高齢の女性がそうだった。イヤホンを装着してスマホに夢中な若者と寝たふりをしている中年で埋まった優先席を、微笑みながら見つめて立っていた。別段、立っているのがつらいふうでもない。優先席以外の何人かが席を譲ろうとして、丁重に断られていた。

 私の近くにいた人が小声でひそひそと話している。

 まだいるよ。

 ああ本当だ。

 ずっとああしてるのかな。

 ええ? でもずっとって、さ。

 うん。

 これ環状線だよ? あれからもう五時間くらい経ってるでしょ。

 うん。

 いくらなんでも、それは。

 うん、でもモドリビトならありえるんじゃない?

 ああなるほど、モドリビト。

 そうモドリビト。

 モドリビト。クモノイトに連れ去られ、帰ってきた人たちのことをそう呼ぶらしい。科学的根拠のある話ではないものの、モドリビトは誰かに戻ってきてほしいと強く望まれた人が帰ってくると、まことしやかに俗説が流れていた。

 コンビニのアルバイトも、あの高齢の女性も、きっと誰かに望まれてここにいるのだろう。

 もしも、私がクモノイトに連れ去られたら?

 ふと、小さな疑問が頭をもたげる。

 だれかが戻ってくることを望んでくれるのだろうか?

 高齢の女性はいつまでも席には座らず、微笑んだままだ。


 ある日にまた、私はモドリビトを見かけた。

 それは夫と、夫と共に消えたはずの若い女だった。二人は私の視界の中でとても幸せそうに微笑み合い、仲睦まじく、幸せそうだった。私の夫は何十と若返った上、今、仕事中のはずだ。目の前にいる実際の年齢通りの姿をした夫は、朝着ていた服と違う服を着て、朝までとは違う髪型をしている。おまけに、二人の間に挟まれるように男の子が一人、いた。ずっと夫が欲しがっていた男の子。私のお腹の子が女の子だと分かった瞬間の、あの、落胆を必死で隠そうとしていた、あの表情。私は混乱していたのだと思う。なにも考えず、そのどこからどう見ても幸せいっぱいの三人家族にしか見えない人たちに声をかけてしまった。

 おばさん、だあれ? 

 男の子がきょとんとした顔をする。お父さんとお母さんのお友だち?

 私は曖昧にほほ笑む。子ども相手になんと説明すればいいのかわからなかった。

 あのね、お父さんとお母さん、モドリビトなの。僕のことが心配で、戻って来てくれたの。

 そうなんだね。ええと、おばさん、お父さんとお母さんとちょっとお話したいなって思って……。

 あのね、お父さん、本当の僕のお父さんじゃないの。本当のお父さん、ずっと前に死んじゃっててね、今のお父さんはお母さんが助けてあげたんだよ。お父さんの前のお嫁さんね、お父さんにいっぱいイジワルしてたんだって。

 男の子の言葉の意味が分からず、頭の中が真っ白になる。動揺する私の様子になどおかまいなしで、男の子はまるで憑りつかれたかのようにまくし立てた。

 だってね、お父さんの前のお嫁さん、赤ちゃんができてから、お父さんのことずっとホッタラカシっていうのをして、オセワをしてあげなかったりね、コギタナイカッコウっていうのをしてね、えっと、それもわざとしてね、ずっとお家にいるのにいそがしいってイイワケしたりしてね、いっぱいいっぱいお父さんにイジワルしてたんだって。

 私は目の前の夫を見る。夫は幸せいっぱいで慈しむような表情を男の子に向けていて、決してこちらの方を向かない。

 だからね、お母さんがカワイソウと思って、いっぱいナグサメテあげてね、悪い奴から助けてあげたの。

 男の子の言葉は所々曖昧でたどたどしく、意味を分かって使っているわけではなさそうだった。たぶん、日ごろからそんな話をこの二人から聞かされているのだろう。

 だから、だからね、ダメなの。

 ……ダメ?

 うん。ダメ。もう連れてっちゃダメ。僕は三人がいい。もう一人はダメなの。

 男の子の必死な表情と、それを温かく見守る夫と若い女。

 すっと、背筋に寒いものが走る。

 その後のことはよく覚えていないけれど、気が付くと私は寝室の布団にくるまっていた。いつの間にどうやって帰ってきたのかわからない。けれど、今日見たこと、聞いたことは忘れようと思った。


 考えてみれば、強く望む、とはどうゆうことなのだろう。

 モドリビトは誰かに戻ってきてほしいと強く望まれた人で、娘も夫もモドリビトだ。ならば私が強く望んだのだろうか。いまいち、実感がない。

 そういえば、私は今までの人生の中で、心の底から幸せを感じたことが一度もない。それはきっと、何かを強く望んだことがないというのと同じなんじゃないだろうか。

 ならば今の私は強く望んだものを手に入れられて、幸せなのだろうか。これも実感はないけれど、少なくとも今の生活に不満はない。

 しかし、私に不満はなくとも、不満を持っている人はいた。

 夫の母親だ。

 彼女が夫を伴ってやって来た時、夫はバイトに行っていた。彼女の連れてきた夫は小学校高学年から中学生くらいの容姿で、ぼんやりとした様子で母親に付き従っていた。

 返しなさい。

 夫の母親は開口一番に言った。

 私の息子を返しなさい。

 夫は今、仕事に出ていまして。

 夫? とっくに夫婦生活なんて破綻していて、あなたは捨てられ、離婚も時間の問題だったでしょうに。

 彼女は憎々し気に吐き捨てる。彼女の夫は明後日を向いてぼんやりとしている。

 でも、戻ってきたんですよ、夫は私のところに。

 知ってるよ。だからわざわざこうして出向いてきたんじゃないの。

 さあはやく、と彼女は私に手のひらを向ける。まるで夫が彼女の手のひらサイズの小人で、私が部屋の奥から夫を持ってきて彼女の手にぽんと渡すのを待っているかのようだ。

 ですので、夫は今、仕事に出ています。

 その、オットって、俺のことだろ?

 彼女の夫がもごもごと口を開く。まさか喋るとは思っていなかったのか、彼女がぎょっとしたように彼を凝視した。彼はそんな母親に対して全く気にしたそぶりも見せず、言葉を続ける。

 俺、やっぱりそうゆうの、嫌なんだけど。

 そうゆうの?

 夫とか、仕事とか、なんかそうゆうの。責任っていうか、なんかこう、嫌なこと全部押し付けられたみたいで、嫌。

 嫌なことは無理してやらんでもいい。お母さんがなんとかしてあげるから。

 夫の母親は力強く言うと、私を再び睨む。

 ほら、この子もこう言ってるんだし、はやく返しなさい。

 いえ、ですから夫は今、ここにはいないんです。

 俺、もうここに居たくないんだけど。

 え、という声が私と夫の母親の口から同時に漏れた。

 俺、ここに居るの嫌だよ。働いてる俺がいたり旦那だったり父親だったりする俺がいたりするの、考えただけで吐き気がする。そんな俺は見たくないしそんな俺の話は聞きたくない。俺以外の俺のことなんて、もうどうでもいいから帰ろう。

 夫の母親は最初の勢いの良さがなくなって、おろおろと夫の母親の夫を説得にかかっていたけれど、彼は帰ろうの一点張りで、ほどなくして彼女は白旗を上げた。

 夫の母親は玄関のドアを締め切るぎりぎりまで私のことを睨みつけていた。対照的に、彼女の夫は既に何もかもに興味を失い、ぼんやりと明後日の方角を向いていた。

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