第3話
お金が貯まり、奮発してそこそこいいベビーベットを購入することができた。
両親は私が、両親のために実家の古い家電を買い替えたり両親に温泉旅行をプレゼントしたりするのではなく、稼いだお金を連れ去られてもういない娘のためのベビーベットを買うのに使ったことに少なからずショックを受けていた。
ようやくまともに戻ったと思っていたのに。
そう小声で呟いたのが聞こえた。あえて聞こえなかった振りをして、にこにこと笑っておく。
大丈夫。
特に意味もなく、私は両親を力づけるために言った。
大丈夫だから。
なにがどう大丈夫なのかは自分でもよくわからない。
でも仕方ないではないか。娘が戻ってきたの、だから大丈夫、なんて本当のことを言うわけにもいかないのだから。
本当に、帰ってくる気はないの?
親が、どこかすがるように言う。
ええ、大丈夫だから。
私は自信たっぷりに答える。私には娘がいる。だから大丈夫なのだと、胸の内だけで付け加える。
クモノイトという現象が初めて起こってから、二年が経っていた。
クモノイトに連れ去られる被害者は一向に減らないがその原因も対策も、いつまで経っても見つかっていない。
なるべく外出しないでください、一人にならないでください、不審なものに近寄らないでください。
連日メディアでそう呼びかけられていたけれど、常にこの全てを守り続けるのはほぼ不可能なことだった。
仕事もあれば買い物もあるし、遠方の親族との付き合いだってあるのだから外出しないのは無理だし、どれだけ気を付けていてもふとした拍子に一人になってしまうことだってある。目的地に行く道すがら、見たことのないものがあったからといってその都度いちいち引き返して別の道を探してなどいられない。
ほとんどの人々の日常が変化することはなかったけれど、一部の人々の生活は一変していた。
クモノイトに連れ去られた人やその被害者家族、友人知人などはもちろんだが、そうではなく、直接的に被害があったわけではない人たちの中で、クモノイトを極端に意識し過ぎて人生の基準がそちらに傾いてしまった人たちがいるのだ。
ある人々はクモノイトが国家の陰謀だと主張する。
本当はクモノイトなんてなくて(なにせこんなに年月が経っているのに、これだけ科学が進歩した現代で未だに何の解明もできていないのはおかしい。これは解明できないのではなく、そもそもそんなもの自体が存在していないということの証明に他ならない! らしい)、倫理観が邪魔で行えない人体実験を行うため、攫った人柱のことをクモノイトに連れ去られた人などと言い訳をしているだけ、なんだそうだ。だから政府やメディアの言うことを信じて踊らされている群衆は愚かで、その欺瞞に気が付いている彼らは愚かな群衆の目を覚まさせる使命を帯びている、らしい。彼らはSNSなどを中心に陰謀論に関する情報を発信している。
またある人々はクモノイトが救済だと主張する。
天から垂れた糸に出会えるのはとても幸運なことで、迷わず疑わず導きにすがるべき、だそうだ。またその幸運を疑ったり恐れたりするのは何か心にやましさがあるせいであり、不幸で、極悪な人間である証、だという。
私のところへも、救済だと説く人がほんの一時、来ていた。
娘がクモノイトに連れ去られるずっと前から浮気をしていて、その浮気相手の若い女と出て行き、最後に二人そろってクモノイトに連れ去られると、その後には来なくなったが。
かつてない、とんでもないことが起こっているのは確かだった。
なのに、私の生活がとんでもなく変化することはなく、日々がつらつらと過ぎて行った。たぶん、他の人たちもほぼ同じような状況だったのだと思う。
もっと世界中がパニックになってもおかしくなかったのに、人はどんな状況にだって順応してしまう。
だから、何食わぬ顔で夫が帰ってきた時にも、私はパニックにはならなかった。むしろ娘が帰ってきたのだから、夫だって、帰ってきて当然だとさえ思ったくらいだ。
いろいろ悪かったよ。ちょっと魔が差したんだ。
夫は不貞腐れたように、こちらとは目を合わせずに言った。
もう、いいよ。娘も帰って来たんだし、また三人でやっていきましょう。
本心だった。もういい。帰って来てくれさえすれば、もう、私は。
夫はクモノイトに連れ去られたので、既に戸籍も無ければ前の会社の席も残ってはない。
問題ないよ。やりようはいくらでもある。
夫は自信満々に言うと、瞬きする間に十も二十も若返っていく。見た目だけなら十代後半で通せるくらいに若返ると、近所で募集していた自給のいいバイトをし始めた。
それならばと私はパートを辞め、以前までのように家事育児に専念することにする。
夫の稼ぎは以前よりもずっと落ちたけれど、何の問題もなかった。娘も夫も、お金がかからないのだから。食事は必要ないみたいで、娘は一週間以上授乳しなくても元気そうだったし、夫も何十日も飲まず食わずバリバリと精力的に働いた。当然、排泄もしない。トイレットペーパーが減らなければおむつもいらない。入浴しなくても二人とも臭くならず、いつでも清潔だ。時折、思い出したようにそれらの真似事をすることもあるけれど、実質生活にお金がかかっているのは私だけだった。贅沢をせず、余計なものを買いさえしなければ、今の夫の収入でも十分にやっていける。それにいざとなれば貯金がまだ残っていることだし。
私は満足だった。
夫が外で稼ぎ、妻が家を守り、二人で育むべき子どもがいる。
私の思い描いていた人並の生活が、きちんとここにあったのだから。
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