第2話
その日を境に、私の生活は夫と娘がいたころの、以前のような……いや、以前以上にしゃんとしたものとなっていった。
まずは部屋のこと。
いくら一通り清掃したとはいえ、ずっと閉じこもっていた間に溜まった澱みのようなものが、しつこく部屋のそこかしこにこびり付いている。
私は澱みをひっかきまわし浮かして外に放り出していく。一回追い出したくらいでは、なかなか澱みは消えない。だから何度でも根気よくひっかきまわし、浮かせ、外へ追い出す。
結局、部屋の澱みをすっかり追い出すのに一週間ほどかかってしまった。
次に自分のこと。
鏡に映る私は、実年齢よりもずっと老けて見えた。それはそうだろう。ずっと部屋に引きこもり、何の気力もわかずに不規則で乱れた生活をしていたのだから。
私は生活リズムを正し、毎食栄養に気を遣った食事を心がけ、朝晩の散歩も始めた。それから肌の手入れを徹底し、メイクもするようにした。
やるじゃん。
娘がいたずらっぽくチャーミングに笑う。
でしょう?
私はちょっと得意げに言って、娘に乳を含ませた。とたんに娘から人間臭い表情がすとんと抜け落ち、赤子のそれになる。
とても安心する。これはとても正しい状態だと、私は安心する。
授乳を終えてゲップさせると、私は娘をソファに寝かした。
それにしても、ソファは寝にくくない?
娘の健やかな顔を覗き込みながら私は尋ねる。
あなたの着ていたものとあなたが寝ていたベビーベットは、研究のためとかなんとかで持っていかれちゃって戻っては来ないのだけれど、新しいの買ってあげようか?
半分眠りに入っていた娘は、ほぎゃ、とだけ呟いた。
これまでは貯金を切り崩して生活に充てていたけれど、さすがにベビーベットのお金まで貯金ではまかなえないと思い、パートに出ることにする。
両親は喜んでいた。やっと立ち直った、と。
私は何も言わず、にこにこと笑っておく。娘に怒られちゃって、なんて本当のことを言うのも何か違う気がしたから。
大変な世の中になったものの、存外仕事はいくらでもあった。
今住んでいる賃貸から近い、という理由で、私はスーパーのレジ打ちパートを始めることにした。
インターネットで何でもそろう時代になったにも関わらず、スーパーは連日買い物客で混んでいた。
買い物客はみんな目的の物目指してせかせかと歩き、もしくは値段と商品を吟味しながらふらふらと店内を徘徊し、欲しいものを買い物かごに放り込み、放り込み、商品でいっぱいになったかごをたいして嬉しそうでもない様子でレジにやってくる。
私はその系統だっていそうでまったく節操のないかごの中身を一つ一つ手に取り、レジを通してピッと音がするのを確認してから商品名と値段を読み上げ隣のかごへと移す。
ずっとその繰り返し。
棒立ちで足が痛み、同じ動作で肩が凝り、感情も何もない機械のように抑揚もなく商品と値段の読み上げをして声がかすかすになるころ、ようやく一日の業務が終わる。
ねえ、あなたの知り合いにクモノイトに連れ去られた人っている?
仕事終わりに、パートの先輩に声をかけられ、私は曖昧にほほ笑んで回答を誤魔化した。
私の知り合いの親戚に、いるのよ。連れ去られた人。
そうなんですか。
みんな言ってるわ、まさかあの人が連れ去られるなんてって。でも、私思うのよ。連れ去られるからには、連れ去られるような、なにか悪いことでもしてたんじゃないかって。
私は夫のことをぼんやりと思い返す。
そうなんですか?
そう。お天道様はちゃんと見てるからね。私、連れ去られた人のこと、スマホで見せてもらったんだけど、人当たりよさそうな顔して、裏では何をやってるんだかわからないような顔をしていたわよ。
そうなんですね。
身もふたもないと思ったものの口には出さず、ただ、人当たりがよくて裏では何をしているかわからない顔、というのがどんな顔なのか想像する。
浮かんできたのは、クモノイトに連れ去られた最初の被害者として報道されていた、幼い息子のいる女性の顔写真だ。テレビの中でその写真は、柔らかにほほ笑んでいる。
パートの先輩は言いたいことを言えて満足したようで、ニヤリと笑ってから仕事へ戻って行った。
仕事から帰ると娘が静かに涙を流していた。
なあに、どうしたの?
なにもない。どうもしない。
娘の物言いにカチンとくる。こっちは仕事を終えて帰ってきたばかりでとても疲れているっていうのに。
じゃあ、なぜ泣いているの?
誰にだって泣きたい時くらいあるでしょう? 理由なんかいらないよ。
娘は涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向ける。
仕事はどう?
どうってことはないけれど、とても疲れたよ。
ふーん?
ふーんって、なによ?
別に。
ごめんなさい。
え、なにが?
ずっと一人にさせてるの、悪いとは思っている。
……。
娘が意外そうな顔をする。私も我ながら意外だと感じた。ずっと以前に娘がクモノイトに連れ去られた時やそれを夫と夫以外の他人に責められた時にも、決して私の口からごめんなさいの一言が出ることはなかったっていうのに。
娘を抱き上げるとずっしりと重量が感じられ、ほのかにミルクの匂いがする。
私のこと、嫌になったんじゃないの?
不安そうに尋ねてくる娘。愛しさとこの子を守ってあげなければという使命感で胸がいっぱいになる。
違うの。そうではないの。
ほんとうに?
ええ、本当に。私はあなたのことがとーっても大好き。
娘はようやく泣き止んで、きゃっきゃと笑い声をあげた。
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