蜘蛛の糸
洞貝 渉
第1話
娘がクモノイトに連れ去られた。
連日ニュースになってはいたけれど、まさか自分が被害者家族になるとは思ってもみなかった。
周囲の反応はまちまちで、同情してくれる人もいれば、しっかり見ていなかったのが悪いと責める人もいれば、クモノイトに連れ去られたなんて羨ましいという人もいた。
夫は周囲のあらゆる反応から私をかばい、気にする必要はないんだと慰めてくれた。はじめだけは。
しだいに私を責めるような態度や言葉が増えていき、最後には若い女と手に手を取り合い出て行ってしまった。
そして、出て行ってからそう間を置かず若い女と共に、仲良くクモノイトに連れ去られた。
クモノイトという現象が初めて起こったのは、今から一年ほど前のこと。
最初の被害者は(もしかしたらもっと前にも被害者はいたかもしれないけれど、少なくともテレビで報道され世間に認識された最初の被害者は)幼い息子と公園へ散歩に来ていた母親だった。
なにかしら、これ。蜘蛛の糸みたいだけど……キラキラしていて綺麗ね。
息子に言葉をかけ、にっこりと微笑んで、何の脈絡もなくふっと消えたのだそうだ。後に残ったのは母親が身に着けていた服と手荷物のみで、母親はこの世界からすっかり消失してしまった。
とはいえ、警察もメディアもはじめはこの話を真に受けてはいなかった。なにせ目撃者が年端もいかない子どもなのだから。
状況が不可解であったことと状況を裏付けるような子どもの証言はほんの一時だけ珍事件として話題になったが、次の被害者が現れるまでの短い間忘れ去られた。
類似した珍事件が世界各国で起こり始め、日本でも二件目、三件目と回数が増えるにつれて、それがただ話題性の高い珍事件ではなく、現実に差し迫った危ない現象なのだと認識されていった。
少ない目撃証言から、被害者はどの場所で消えたどの国の人間であっても、みんな消失直前に蜘蛛の糸のようなものを見ていることがわかった。そこから、クモノイトに連れ去られた、という表現があっという間に定着した。
最初の被害者が出てから一年経った現時点でも、いまだにクモノイトに関してわかることは少ない。
もしそれに類似するものを見かけたら決して近づかないこと。
なるべく複数人で行動して、もしもクモノイトに連れ去られるようなことになったとしても、目撃者だけは確保しておくこと。
できるだけ外出は控え、家でおとなしく過ごすこと。
出来ることといったらこれくらいしかなかった。
なぜクモノイトが現れるのか、クモノイトに連れ去られた人はどうなったのか、調べようもないのだから、仕方がない。
原因不明の人間の消失が相次ぐが、それでも世界でそう大きな混乱が起きることはなく、それなりの日常が淡々と営まれていた。
娘をベビーベットに寝かせていた。
その日は珍しく熟睡しているように見えた。
とはいえ、どうせすぐ起き出すだろうと思い、ベビーベットの足元で洗濯物をたたんでいたのだ。
目を離していた時間は十分にも満たない。
機嫌のよさそうな声がした。
思いの外すぐ起きてしまったという思いとは別に、一体何に反応してあんなに楽しそうな声を出しているのか、といぶかしむ。
立ち上がり、ベビーベットを覗き込んだ時には、もう連れ去られていた。
ほとんどの人がクモノイトを警戒していたが、なかにはクモノイトに連れ去られることをタマシイノキュウサイと考え、同志を募り、自ら探し求める人たちもいた。
私の娘が連れ去られたのを羨んだ人も、その内の一人だ。
宗教、とまではいかないまでも、ネットを中心にクモノイト探しはちょっとしたブームになっていた。
これはキュウサイですよ。
その人は言う。けれど、生まれてからまだ幾年と生きていない赤ん坊に、一体どんな救済が必要だというのか。
これはシレンなのです。
その人はこうも言った。
しれん?
そう、シレン。あなたはこのシレンを乗り越え、罪を払拭しなくてはなりません。
ふざけるなと言いたかったのに、口から漏れ出たのはふふふという笑いだけだった。
今はまだおつらいでしょうけれど、
ふふふ
このシレンを乗り越えた先に、
ふふふふ
きっと神のお導きがありますよ。
ふふ、仏じゃなくて?
え?
ふふふふふふふ。
しかし、離婚が成立する前から若い女性と同棲をはじめていた夫が、私よりも先に『救済』されたことを知ると、その人はそそくさと私から離れて行った。
日々は単調に過ぎてゆく。
娘と夫がいなくなり、一人で過ごす時間が増え、はたと気が付いたことがある。
私は今までの人生の中で、心の底から幸せを感じたことが一度もないのだ。
いつも、ただこんなものだろうと考えていた。
人並みに恋をして、人並みに結婚して、人並みに子を出産し育児して。
でも、その人並みがそろって消失してしまい、どうしていいのかわからなくなった。
両親は帰ってこいと言う。
私もそうするべきだと思う。
夫の通勤に便利な立地にある、一人で住むには広い賃貸に住み続ける理由など、どこにもないのだから。
それにも関わらず、なぜか実家に帰省できないでいる。
娘の物と夫が半端に置いていった物に囲まれ、私はどうしようもなく身動きが取れなくなってしまっていた。
それじゃあダメだよ、しっかりしないと。
娘が言う。
まだ喃語すらまともに喋れなかったはずの娘が。
ほら、しゃんとして。部屋をきれいにして、ご飯もちゃんと食べて。
私は娘の言葉に従う。
窓を開け澱んだ部屋の空気を外へ出し、散らかった物を元の場所へ片付け、ごみをまとめ、部屋の隅々までほこりを取り拭き清め、簡単な調理ではあるものの主食汁物主菜副菜を用意して、朝昼晩と決まった時間に食事する。
そういえば、娘が生まれて以来、こんなにじっくりと家事をしたことはなかったように思う。
そうだったの? それじゃあ、私の世話は大変だったんだね。
娘が照れたような、申し訳ないような、そんな人間臭い表情をする。まさか赤ん坊がこんな表情をするなんて思ってもみなくて、私は少し笑ってしまった。
そう、そうだね。とても大変だったよ。でも、嫌ではなかった。
ほんとうに?
ええ、本当に。
そうなの。それならよかった。
娘は言って、リビングのソファにどっしりと横になる。
あのね。
なあに?
これからはきっと、私のお世話、うんと楽になると思うよ?
そう?
うん。だって私、前のようには泣かないもの。してもらいたいことがあればちゃんと言うから。
そう。そうなんだね。それなら、うんと楽になるよ。
でしょ?
娘が無邪気に笑った。
かわいい。愛おしい。まるでこの子は天使だと、心の底から思った。
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