板長は元殺人犯、それがどうした。

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板長は元殺人犯、それがどうした。

 爽やかな晴天の十月初め、ちょっとは名の知れた神楽坂の割烹、幣舞ぬさまいの帳場で、女将の百代ももよが電話を受けた。

「毎朝テレビの安本といいます。ご多忙のところ、大変、申し訳ありません。今、よろしいですか」

 相手は若い女性の声だ。百代は客商売ながら、二つ返事で愛想よく、応じた。

「ありがとうございます。実は、十二月に発売予定の例のミシュランガイド東京で、幣舞さんが、三ツ星の最有力に上がっています。大将か板長にインタビューしたいのですが」

「うちが三ツ星ですって。ご冗談でしょ」

「いえ、うちのインテリジェンスでは、当確です。お店にとっては、大変な名誉ですね」

「そのような大層な話は、まったくありませんよ。何かのお間違いです」

「いえ、当方のインテリジェンスは、信頼度がとても高いです。え~と、大将は亀川伸介さん、板長は友田泰三さん、ぜひ、インタビューをお願いします」

 女は食い下がる。

「そのう、インテリジェンスって」

「失礼しました。情報収集のことです」

「ああ、そうですか。横文字にはどうも弱くてねえ。まあ~ねえ、そんなにおっしゃるなら、あとでお電話いただけますか。うちの人に、訊いてみますから」

「ありがとうございます。コロナ退散、ミシュラン人気で繁盛間違いありません。出来るだけ、早くにお願いします」

 百代は、その受話器を静かに置いた。

「ミシュランねえ。ホントかしら」

 ここで、少し説明しておこう。この話は、「幣舞」が、この一本の電話から、てんやわんやになったことに始まる。店名は、北海道の東、釧路の夕焼けで有名な幣舞橋から名付けた。ここで中学まで育った大将、亀川が上京し、苦労の末、幣舞を創業して四十年だ。喜寿になる亀川のもとで、板場を仕切る板長は、五十半ば、同郷の友田だ。ちなみに、語り部のわたしは、三十年来の馴染み客、茶の湯の師匠、一茶と申します。

 その電話の直後、こんどは贔屓筋から、次々とお祝いの電話が鳴った。毎朝テレビと視聴率を競うテレビ日東が今さっきのバラエティー番組で、ミシュランを占う特番を放映し、もう決まったかのように、幣舞を取り上げたのだ。毎朝テレビに一歩先んじている。直接取材は何もない。

「どうなってんだい。ミシュラン、ミシュランと、ミンミン鳴くセミみたいに、うるさいぜ」

 痩せて長身、四角い黒縁メガネの亀川が帳場にどっかと座り、茶をすすって嘆息した。

「SNSの口コミが、それを上回っていますよ、大将」

 若い板前、シュンが、手にスマートフォンを握っている。

「バカ野郎、握るものが違うだろう、握るものが。板前が、包丁じゃなくて、そんな電話機なんか四六時中、持ち出して修業になるか」

 大将は虫の居所が悪いのか、一喝だ。

「すみません。なんか、とんでもなくミシュラン予想で盛り上がっているもんですから」

 板長の友田が口を挟んだ。

「大将、それにしても、まだ、決まっていない話で、こうも大騒ぎするものですかね」

 友田は和帽子を脱ぎ、ごま塩の短髪と浅黒い顔が精悍だ。首をひねる。

「まっ、考えてもみりゃあ、神楽坂の客層も、イタリアンだのフレンチだのと、女性客がわんさか増えて、それにコロナ前はインバウンドで外国のお客さんが押し掛けていたからなあ。昔から見りゃあ、華やいだのも分かるしなあ。どうだ、百代」

「あたしは、テレビ映りのいい化粧品買おうかな」

 江戸小紋の鮫文様は美しい薄紫だ。背筋をピーンとした女将は古希を超えたが、妙に艶っぽい。

「女将さん、インスタ映えですよ。今は」

「あれね、あれ、あれ」

「なんだ、そのインスタントって」

「シュンちゃん、相手、しないでいいよ」

 百代は、笑った。

「友さん、飛鳥ちゃんの白無垢と色打掛は、呉服店から届いたかい。あたしも早く、見たいのよ。やっぱり、いくつになっても、花嫁衣装はたまらないからねえ」

「間もなくと、店から連絡がありました」

 友田も愛娘のことになると、板場の硬い表情が解け、思わず相好を崩す。ミシュランが本当だとすると、幣舞には祝い事が続く。友田の一人娘、飛鳥が一カ月後に結婚式を挙げる。飛鳥がまだ小学二年生の頃、妻を交通事故で亡くし、男手一つで育て上げた。むろん、亀川夫婦の協力があってこそだ。

 冬のメニューに向けて、板場がチャレンジする喫緊の課題にも触れねばなるまい。わたしたちのような馴染み客は幣舞の新しい味には、それはこだわる。

「板長、トクビレの件は、結局、板場はまとまったかい」

 大将だ。

「十五年ぶりの試みなので、遅れてます。申し訳ありません」

「謝ることはないんだ。難しいのは百も承知だ」

「問題は新鮮なものが安定的に入荷するかどうか、です。数が少なく、高値ですし」

「そうだよなあ、失敗して十五年になるか」

「あたしは、間違っていない、と今でも思っていますよ」

 百代が口を挟む。

「そういってもなあ。冬の懐石に幣舞だから、北海道らしい焼き物を、とトクビレの軍艦焼きを出してみたら、大ヒンシュクだ。こんなグロテスクなもの懐石じゃあねえだろうと、贔屓筋から大目玉。あれは、おれの冒険過ぎたな」

「あんた、冬の凍て付く夜、釧路や小樽の港町の炉端で、あのヒレが大きな旬の八角はっかくがねえ、ミソを載せた軍艦焼きで出されたら、香ばしくてたまらないねえ。タイやブリ、サワラでもなんでもね、定番の焼き魚は懐石では確かに無難だろうけれど、あの時のあんたの冒険は、それはそれで、北海道からここ東京で店を構えた幣舞のDNAよ」

「おお、DNAとはな。板長、女将はさすがだろう」

 のろけられても困る。友田は、心の中で苦笑した。

 幣舞の特色を出す料理は当然、必要だが、一つの懐石コースで、先付、八寸、先吸い、向付け、煮物に続く、焼き物はメインディッシュだ。その後の和え物、蒸し物、揚げ物、酢の物、ご飯、止め椀、水物と流れる。味や見た目のバランスが懐石には必要だ。つまり、誰もが受け入れることが出来る和やかな気流である。乱気流ではお客さまをおもてなし出来ない。

 この魚は〈特鰭とくびれ〉と書く。体は固い骨板に覆われて、細長く大きな背びれと尾びれが特徴だ。一見、タツノオトシゴを長くし、羽が生えた感じに近い。横断面が八角形なので一般に「ハッカク」とも呼ばれる。主な産地は北海道。もともとローカルな地魚だった。近年、マスコミに取り上げられ、東京でも広く出回る高級魚になった。

 刺身は脂ののった白身の薄造り。その焼き物だが、背を割って開き、そこに肝、ミソ、酒、ミリン、砂糖を合わせて塗り、焼く。軍艦焼きだ。女将は香ばしいのが好きだが、硬く食べられない骨板が焼くと香り立つ。これもほかの料理との兼ね合いで、香りが強すぎないか、検討材料だ。いずれにしろ、課題はあるが、友田は大将の意を受けて、十五年ぶりに一部のメニューで試みようと決めていた。確かに女将の言う通り、幣舞のDNAはレゾンデートル(存在意義)だ。

 午後五時、女将が暖簾をかけた。格子の引き戸の入り口前、一畳ほどの石畳に打ち水し、引き戸に沿って両側に塩を置いた。幣舞の文字は江戸紫の地に白抜きも鮮やかだ。店は、明治時代の商家を改造した木造二階建てだ。客と板前が接するカウンターである晒し場はない。板場が厨房となっている日本料理店である。二十歳のシュンから、五十を越えた友田まで、五人の板前が働く。


 ミシュランの星予想は、テレビやラジオ、SNSで燎原の火の如く、あちこちで噂され広がった。バラエティー番組、グルメサイトに取り上げられ、各地域のあの店、この店が寸評のまな板に乗った。星獲得の評価基準は①素材の質②調理技術の高さと味付けの完成度③独創性④コストパフォーマンス⑤常に安定した料理全体の一貫性。これに店のしつらえも加味されるらしい。

 しかし、幣舞にとんでもない暗雲が立ち込めた。慄然とする事態だ。その朝、友田は、スキャンダルのスクープネタで業界トップを走る「週刊春秋」から自宅前で直撃取材を受けた。

「幣舞の板長、友田泰三さんですね」

「ええ、そうですが」

「週刊春秋の記者、秋山と言います。よろしければ、この場で友田さんを取材したいのですが、いかがでしょうか」

「ミシュランですか」

 秋山の隣に、カメラマンの男がいる。

「単刀直入に伺います。友田さん、殺人罪で服役していましたね」

 友田は息を呑んだ。

「公判記録を持っていますので、否定は出来ませんよ。十九歳で過剰防衛の情状もあり、懲役十二年のところ、さらに模範囚なので九年で出所、同郷の亀川さんが引き受けて、現在の板長まで這い上がった。最近は次のミシュラン三ツ星の最右翼になっていますね。よくここまで来ました。うちは、暴露記事で貶めるつもりではないのですよ。事実を確認したいだけです。コメントをいただけますか」

「…」

「友田さん、仕事の邪魔はしません。今のお気持ちを聞かせてください」

「…あの、大将と相談してから」

「いえ、あなたの事実関係ですから、ここでお答えください。この殺人事件について、現在のお気持ちと、ミシュランが取り沙汰されるほどの和食のスターとなった板長としての感想をぜひ、お聞かせください」

 秋山は慇懃であり、有無を言わせない。しかし、友田は答えられない。秋山の同僚が、デジタルカメラで連写した。とっさに、友田は顔をそむけた。目は虚ろだ。何を今さら、だ。飛鳥の挙式も控え、これほど、幸せだと思っていたのに、なぜ、週刊春秋は過去を掘り返そうとするのか。

「お父さん、もう、その取材は拒否しなさい」

 背後から娘の大声だ。飛鳥は、父を玄関に引っ張り込み、記者とカメラマンを睨み付けた。

「帰ってください!」

 飛鳥は、ドアをピシャリッと閉めた。

「わたし、何があっても、お父さんと一緒だから」

 父の背中を押し、リビングに入ると、飛鳥は凛とした眼差しで、湯気が立つコーヒーのマグカップを友田に突き付けた。

 週刊春秋の取材とほとんど同時に、SNSの世界で一挙に、その話は広がった。一番手は、人気のグルメサイト「ハッピー・グルメ きょうのイチオシ」だ。

 ◇板長の友田泰三さんが背負う殺人罪の十字架

 十二月発表 ミシュラン 三ツ星当確?

 神楽坂 割烹幣舞(ぬさまい)

 味で定評のある幣舞。板長、友田さんは三十五年前の十九歳の時に、北海道釧路市で殺人を犯し九年間、服役した過去があります。

 幼友達の女性が夫の家庭内暴力で虐待されるのを見かねて柳刃包丁で刺殺した罪です。こうした過去の罪が、ミシュランの星に影響するかどうか、みなさんのご意見を集めます。

 味の基本的チェック項目に、板長の過去の十字架が隠し味で加味されるのか、されないのか。編集部では、ご意見を募ります。

 大将は、シュンから、帳場のパソコンでその画面を見せられた。

「おい、隠し味とは、なんだ。この隠し味とは。人をバカにするにもほどがある。百代、この編集部に電話するぞ。とんでもない。人をバカにするな」

 激怒する亀川。

「あんた、落ち着いてよ。あたしたちがちゃぶ台をひっくり返したり、オロオロしちゃあ、相手の図に乗るだけ。そんなもの無視!」

「こんなこと書かれちゃあ、黙っていられない。とっくに罪は清算した。今さら、ミシュランの星で何が問題だ。ご意見を募りますだと、隠し味だと、とんでもねえ」

 亀川の怒りは収まらない。イライラして、パソコンの電源コンセントをブチッ抜いた。

 著名な女性グルメ評論家が自分のブログで、ハッピー・グルメを批判した。

「料理人を冒涜している。ミシュランの星に、まったく何も関係のない話だ。ハッピー・グルメのような、隠し味と称して、食の楽しみを冒涜するサイトは、必要ない!」

 SNSで書き込みが始まった。

「バカなグルメ評論家、死ね。ハッピー・グルメは正しい。隠し味は、その通りだ。ハッシュタグ♯殺人板長を立てよう」

「隠し味は、和食にとって大切な調味料だろう。ミシュランは、当然、評価点にする」

「全体の味を引き締めて、それ自体は表面に出て来ないのが隠し味でしょ。少しの酒、塩、醤油、味醂、味噌とか。血ってあるの」

「殺人者の作った料理、食べられますか?わたしはムリ、絶対ムリ!」

「凶器の柳刃包丁、刃渡り二十五センチだって。まだ、板場で使っているの。ウッ、血塗られた和食!」

「女のグルメ評論家は、板長からカネをもらっているの」

「ミシュランだって、こんな店に星付けるのかなあ。黒星?」

「血で固めたブラッドソーセージって、ヨーロッパが本場だ。ブタの血なんかで、鉄分が豊富なヤツ。板長はミシュランの好みに合うと思う」

「人間の血だぜ。ちょっと、血がう、ごめん、違うと思う」

「ミシュランは、余計な忖度はしないだろう。誰が料理しているか、その人間の過去まで調べるない」

「するよ。ブランドが大事だもの。血塗られた三ツ星なんて評価、フランス人は一番嫌う。まして、日本人を下に見ている国だ、あそこは」

「おい、編集部。ミシュランのコメントを取れよ。ちゃんと、取材しろ」

「フランスは、リベルテ・自由、エガリテ・平等、フラタニテ・寛容を国是とする国だ。そんな偏見はない!」

「フランスでなくて、和食の隠し味と殺人板長の話、してんの」

「関東大震災の時のフランス大使、ポール・クローデルは、第二次世界大戦で日本が負けても、日本びいきだぞ。あのロダンの恋人、カミーユ・クローデルの弟だぞ」

「殺人板長とロダン、どんな関係あるの。あっ、ロダンの代表作、地獄の門ね。殺人者は、地獄行きだ」

 ※編集部から ミシュランのコメントは、いただけませんでした。


 幣舞の固定電話は朝から鳴り続けた。

「殺人板長を解雇しろ」

「殺人者の料理を出しているのか。気持ち悪い」

「前に食べた金、返せ」

「閉店しろ」

「血の味、どんな味だ」

 これに、予約のキャンセルが相次いだ。店の前には面白半分にスマホを手にした野次馬が押しかけた。周辺の飲食店から、コロナとこれで二重苦だ、トラブルを恐れて客が来ない、とクレーム電話が殺到した。

 亀川の自宅も取材陣が囲んだ。頭に来た大将は、赤穂の天塩が入った壺を持ち出し、玄関口で取材陣にぶっ掛けた。この映像はもちろん、テレビで流された。ユーチューブの投稿は、一日で視聴回数が十万回を超えた。

 テレビ日東のバラエティー番組が面白おかしく伝えた。

 元俳優の著名な男性司会者。

「板長の過去を〈隠し味〉とは言い得て妙ですねえ。〈板長の背負った十字架〉の表現も含蓄がある。この評判のお店、行ったことがありますか」

 人気タレントの男性コメンテーター。

「いいえ。ありません。板長が殺人犯、そのお店、ちょっと怖いですね」

 バカ食いで有名な女性タレント。

「一年前に、一度行きました。美味しかったですよ。わたし、ステーキもヴェルダンでなくて、血の滴るレアが好きなので、この話、嫌じゃないです」

 現代のカサノバと異名をとる初老の男性俳優。

「人間、過去があるほど、味が出るものですよ」

 全国の視聴者から、テレビ局に批判の声が殺到した。

「ちょっと、怖い? どういうことだ。刑を終え、立派に更生している板長が、どうして怖いのだ」

「取り消してください。ちょっと怖い?失礼でしょう。立派な和食を出す店だから、ミシュランの候補に挙がっているのでしょう」

「殺人の話と、ステーキのヴェルダン、レア?何、関係あるの。頭、おかしいんじゃないの」

「女ったらしの男と、同列に扱うな」

「何が、過去があるほど、味だ。ただのすけべえ、じゃないか」

 炎上だ。


 さて、その殺人事件を少々、語らねばならない。それは、友田が十九歳の晩秋だった。常緑針葉樹のイチイの枝や幹に激しい雨が当たっていた。アスファルトの道路や石畳の歩道は川のようだった。豪雨だ。友田は、ずぶ濡れで歩み続けた。黒いジャンパー、グレイのズボン姿で黒い頭髪から滝のように水が落ちる。気温は零度近い。

 警察署の正面玄関から中に入った。制服警官が訝しげに用件を尋ねた。

「人を殺しました。これが、その凶器です。自首します」

 右手で差し出した晒の手ぬぐいはぐっしょりと濡れている。一見して富士山の絵柄と分かる。まだらに赤く、薄赤い。中に、刃渡り二十五センチはあろうか。刺身包丁で関西では正夫しょうぶと呼ばれる、真新しい鋭利な柳刃包丁が不気味に光っていた。

 釧路地裁の法廷。裁判長が主文を読み上げた

「被告を懲役十二年に処す」

 水産会社専務、吉田雅人、二十七歳を吉田の自宅居間で刃渡り二十五センチの柳刃の刺身包丁で左腹部及び左胸部の三か所を刺し、出血多量で死亡させた。幼馴染みである吉田の妻、美智子から「夫に暴力を振るわれ、殺されるかもしれない」と相談を受けた。吉田と話し合いをしていた最中、吉田が台所から包丁を持ち出し、友田に切り付けた。

 友田の国選弁護人は、「吉田から包丁を持ち出し、その揉み合いの末、吉田を刺した。過剰防衛であるが、殺人の故意はなく傷害致死罪」を主張した。しかし、検察側は、刺し傷が三か所に及び、一か所は心臓に達し、明かに殺意を示していると論じ、懲役十五年を求刑した。

 裁判長は、吉田が包丁を持ち出した点に情状酌量の余地があるとし、十二年を言い渡した。友田は上訴せず、服役し、模範囚として九年で仮出所した。

 それ以来、美智子と会うことはなかった。正確には、亀川が諭した。地元の釧路では、人妻である美智子と友田の関係を疑っている。友田は、過剰防衛に見せかけて恋敵の吉田を殺した。そのうち、二人は一緒になる。一時、噂が立った。亀川の誘いで上京し、幣舞で働いた。それから四半世紀が過ぎた。男手で育てた娘は大手商事会社に勤め、同じ職場の青年と結婚する。そこに舞い込んだ、この騒動だ。

 ところがだ、結婚式の延期の話が持ち上がった。青年の兄夫婦が介入した。この男は、東大卒で財務省に勤めるエリートだ。夫婦揃って、友田の自宅に来た。

「うちは、家名を大切にしています。今回の件は、大変、遺憾です。世間が鎮まるまで、しばらく結婚は延期とさせていただきたい」

 両親の名代だ、とほざく。飛鳥は不在だ。とらやの竹皮包羊羹三本入りを持参していた。一万円はする。

「披露宴に、親類縁者、会社幹部も出席する。祝いの席で話題になるのは避けたい。ここは一つ、お父さんの決断で、娘さんを説得してほしい。二人の将来にとって、何が大切か、わたしたちがアドバイスしてあげないと」

「友田さん、二人の幸せは、お父様次第ですわ」

 兄嫁が父親の責任を説いた。

「二人の将来に、誰も傷を付けたくないですわ。わたしなら、しばらく冷却期間をおきますわ」

「娘と話してみます」

 友田は、その一言だった。二人が帰ると、とらやの羊羹を、ゴミ箱に捨てた。

 娘は結婚式の延期を一蹴した。

「お父さん、延期しません。彼に、伝えました」

 友田は、娘の確固たる眼差しで決意を知った。もし、相手が延期を望んだら、娘は、この結婚を破談にする覚悟なのだ。

「そうか」

 その夜の会話は、それだけだった。もちろん、翌日、青年は娘に明確に伝えた。

「ぼくたちの結婚だ。誰にも邪魔させない。予定通り、式を挙げよう」

 素晴らしいカップルになる。わたしは、もう天にも昇る気持ちになった。薄茶と思ったが、なつめから抹茶を茶杓で一杯、二杯、三杯と、斑紋が美しい曜変銀油滴天目茶碗に落とし、とんでもない濃茶で、その苦みを味わいながら、人生の機微に浸った。ああ、濃い愛は強い。


 事態は急展開した。毎朝テレビはワイドニュースで、あの殺人事件の被害者の妻である、吉田美智子を引っ張り出して来たのだ。

 わたしも、食い道楽仲間の、何かあるらしいよ、との知らせでテレビの前にいた。小柄で、淡いサーモンピンクの留袖だ。楚々として、カメラワークで映し出された襟足が何とも艶やかだ。

 地元の釧路で料理店を営み、独身で切り回している人気の女将だ。彼女には相当な勇気が必要だったであろうことは、想像するに難くない。美智子は、この間の沈黙を破って、驚きの告白をした。

「あの夜、夫を刺殺したのは、友田泰三さんではありません。妻のわたしです」

 ええっ、素っ頓狂な声を上げて、わたしは飛び上がった。

 キャスターの女性が叫んだ。

「みなさん、お聞きになりましたか。ミシュランで過去の殺人事件が果たして評価の対象となるのかどうか、話題沸騰のいま、新たな驚くべき証言です。美智子さん、確認します。あなたが、夫の吉田雅人さんを殺害したことは、真実ですか」

「はい」

「では、友田さんは共犯ですか」

「いえ、まったく違います。友田さんは、わたしが夫を刺殺して呆然としているところに、心配して駆け付けてくれました。とっさに、ここはおれが身代わりになる。何があっても、このことは言ってはならない。分かったなと。わたしはただただ、頷くだけで、狼狽していました」

「それにしても、これまでに罪を贖おうとはしなかったのですか」

「…」

 美智子は、しばらく言葉を探していた。目を閉じている。

「大丈夫ですか」

「ええ。最後に連絡を取ったのは十五年前です。友田さんは、自分は可愛い娘もいる、幣舞の板長となって責任もある、過去は過去。互いに前だけを向いて、進もう。二度と口にするなと。それから会うことはありませんでした。…わたしが、ここにすべてを明るみにするのは、全うに生き、自分を犠牲にしてもわたしを守ってくれた人が、疎まれ、中傷に晒されているのが、どうにも耐えられないからです。罪を犯したのはわたしです。友田さんは、無実です。それが、あの事件の真実です」

「敢えて、お聞きします。この身代わりの動機に関する重要な質問です。あなたと友田さんの間には恋愛感情があったのですか。男女関係はあったのですか」

「ありませんっ。わたしたちは、幼馴染みなだけです」

 美智子は、きっぱりと否定した。

「分かりました。では、コメンテーターに伺いましょう。検察の判断はどうなりますか」    

 女性キャスターが、顎に山羊ひげを生やした特捜検事上がりの弁護士に解説を振った。ボードには、こう書いてある。

〈刑事訴訟法第四三五条

 再審の請求は、左の場合をおいて、有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることが出来る。

 刑事訴訟法第四三五条六号

 有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき〉

「つまりですね、真犯人、告白によると美智子氏になるわけですが、その告白によって、〈明らかな証拠をあらたに発見したとき〉に当ります。〈証拠の新規性〉と言いましてね、再審事由に該当しますね。友田氏は、無罪になるでしょう」

「美智子さんは、どうなるのでしょうか」

「これは真犯人を今の時点で罪に問えるか、ですね。殺人罪の公訴時効は二○一○年四月に廃止されていますが、友田さんの罪が確定し、服役した時点では二十五年でした。複数の学説がありますが、わたしの見解では時効は完成し、美智子氏は、罪に問えないと思いますね。倫理的な問題は別でしょうが」

「みなさん、友田さんは殺人犯ではありません。一人の虐げられた女性を守るために、身代わりで刑に服したのが真相です。毎朝テレビは、噂や憶測ではなく、真実を報道します」


 結婚式の当日、板場に全員が集まった。大将の亀川は、眼光鋭く、板前たちを見渡した。

「今夜は、板長の娘、飛鳥さんの披露宴だ。祝いの膳は、幣舞が仕切る。このところ、いやあ、星に振り回された。相撲取りじゃあ、あるまいし、星取表で一喜一憂なんて、和食の真髄ではない。料理人は、一点の曇りもないおもてなしの心だ。さあ、みんなの力を合わせて、幣舞の本領発揮の時だ。みんな、気を張って、飛鳥さんのために一世一代の料理を作ろうじゃないか。どうだ」

「へえっい」

「ついでに言っておく。おれは今夜で引退する。この店は板長が引き継ぐ。以上」

「へえ?」

「おい、シュン、披露宴の料理、インスタ映え、頼むぞ」

「へえっい」

 全員が持ち場につき、祝いの膳を作り始めた。


 さて、後日、ミシュランの発表があった。わたしも期待に胸を膨らませ、ワクワクしながら、その日を待った。星なんか、いくつあっても、とは言いながら、気にするのも人の性というわけか。

 で、幣舞はどうだったかって。それは読者のみなさんのご想像にお任せします。神楽坂のお店に行って、その目でご確認されることを、おススメしますよ。冬メニューのトクビレは、一品料理でも味わえますし、ね。

 でも、大団円の最高のオチは、飛鳥が妊娠三カ月と分かり、どうも女の子らしい。これはわたしのインテリジェンスが弱く、最終確認は取れていませんが、わたしたち馴染み客は酒と話の肴が一つ増えて、大賑わいだ。

 だって、未来の若女将でしょ。               了

                       

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