第一章 1

 

  一章、萬屋という仕事




     1.


 カチコチと古めいた柱時計が規則正しく時を刻む。マルはクワッと一つ大きく欠伸をすると所長席の猫座布団の上、クルッとその場で回り軽くポジション取りをしてから体を丸め目を閉じた。弱くゴトゴトと音を立てる事務所の扉。しかし。例え、来客があろうとなかろうと基本、所長はそんな事はお構いなしなのだ。猫たる特権は絶対に譲らない。何処までも彼はマイペースを貫き通す。

 玄関先の扉の向こうで小さくはっきりしない声がした。

「橘、出て」

「はい」

 身支度を整えていた鬼島に代わり、橘が素早く玄関へと駆けた。鍵を外して扉をそっと開ける。思わぬ朝からの来客に、鬼島は橘の背を見やりながら仕舞ったばかりの煙草の箱から一本、口に銜えた。

「鬼島さん。豊崎さんちのおばあちゃん」

鬼島は銜えた煙草を手に取った。




「どうしたの、絹恵さん。こんな朝早くから――。歩いてきたの?」

 橘に代わり鬼島が出迎える。絹恵さんは鬼島の顔を見て、ホッとしたように表情を弛めた。

「おはよう、一樹くん。朝早くにごめんね」

「うん、大丈夫。それより中入って。橘」

雪道に付いたシルバーカーのタイヤの跡。絹恵さんの押してきた彼女のマイカーをそっと玄関先に寄せてから、鬼島は足を払いドアを閉めた。

「わあ、絹恵さん。手、冷たい。こっち来て座ってください」

橘が絹恵さんをソファーまで連れていく。鬼島は掛けていたサングラスを外した。鬼島の強面オーラを醸し出していた雰囲気が一気に丸くなる。

「橘、ゆっくり」

「はい」


 ようやっとソファーに座った絹恵さんは、橘を見てニコニコしている。お孫さんにでも重ね合わせているのだろうか。

「それで、絹恵さん。どうしたの、一体」

鬼島が優しく静かに彼女へと問う。

「ええ、あのね。ちょっと電話を貸して欲しくって」

「電話? それくらい、別にいいけど……」

 本体の電話機までまた絹恵さんを歩かせるよりはと、橘が子機を取りに別室へと駆けた。

「家の電話、壊れちゃった?」

「それがねぇ――」

「鬼島さん」

戻ってきた橘に絹恵さんは言葉の先を途切れさせた。

「まあ、いいや。橘。電話番号、聞いて掛けてあげて」

ソファーへと立ったまま寄り掛かって、腕組みした鬼島がそう指示する。橘は絹恵さんの隣へと座り「電話先、教えてください」と声を掛けた。

「えーっと。080……」

出だしの番号に二人は一瞬、不安を覚えたが。絹恵さんはゆっくりと、しかしきちんと十一桁の番号を橘へと伝えた。

「凄いですね。携帯の番号が、ちゃんと頭に入ってるなんて。僕、自分の番号すら怪しいかも」

「これだけは頑張って覚えたの」

橘に嬉しそうに笑って、絹恵さんは子機に耳を当てた。しかし――。

「あら、出ないわ」

鬼島と橘は顔を見合わせる。電話先で、呼び出しコールが留守番電話へと切り替わり機械音声がした。

「もしもし? 幸恵。母さんだけど……。さっき、うちに寄った? 鍵がね。開かなくて――。今ね、“萬屋さん”から掛けてたんだけどね? 鍵、開けて欲しくって。戻ってこられる? 電話くださーい。じゃあね、またね。バイバーイ」

 絹恵さんの娘さんに宛てたらしき留守電の内容を聞きながら、二人は視線を合わせた。鬼島は顎に手を当てる。橘は絹恵さんから子機を受け取り、通話を終了させた。

「一樹くん。悪いんだけど、ちょっと待たせて貰えるかしら? 娘から、折り返し電話が来るまで……」

「それは構わないよ。でも、何があったの? 家に入れないって」

絹恵さんに向かいながら、鬼島は橘に彼女へお茶を出すよう指示した。

「あら。いいわよ、いいわよ。おトイレ近くなっちゃうから」

「絹恵さん、珈琲飲めますか?」

「ココアがあっただろ。そっち出したげて」

「え、と。何処にあります?」

「んー、待ってろ。戸棚にあった筈だ」

給湯室に一度、二人して向かった後で。鬼島は直ぐに絹恵さんの元へと引き返した。橘は見つけ出したココアをどうにか淹れ始める。

「今日、日曜なの勘違いしちゃってて」

「うん? あ、はい」

 鬼島は癖で煙草を吸おうとして、一度取り出した煙草をまたポケットへと引っ込めた。

「明日のゴミの日と間違えてダンボール出しちゃったのよ。だから、取りに行ってたんだけど。その内に多分、娘がうちに寄ったみたいなんだけど。家を出る時、鍵、掛けてっちゃったみたいで」

「どういう事? 絹恵さんは鍵は?」

「近くだったから掛けなかったのよ。そしたら、ね? ――生憎、家の鍵はうちの中だし」

「ああ、それで……」

 鬼島の合点がいった所で、橘が絹恵さんにホットココアを運んできた。



 

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今際の際、幸福論 くろぽん @kurogoromo

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