今際の際、幸福論

くろぽん

序章

 

     序章


 師走の凍えた通い慣れた道。薄っすらとそこへ積もった雪を足早に踏み締める。澄んだ早朝の空に白く息が舞い上がり、ゆっくりとその姿を散らしてゆく。今年の冬の到来は、例年に比べて少し早い――。


 寒空の下。電線に止まった雀達は皆、朝の空気の冷たさに羽毛を膨らませ、その身をそっと寄せ合っていた。澄み渡った空気の中、響く彼らの鳴き声に橘結月(たちばなゆずき)は靴へ付いた雪をマットの上、軽く落とした。

 鈴とマスコットの付いた合鍵を取り出すと店の入口、ドアの鍵を開ける。ノブの冷たさに一度は手を引いて、改めてドアノブに手を掛けた。

「おはようございます」

 誰にともなく言葉を掛け、いつものように鞄を下ろし、外したマフラーと共に戸棚へと置く。机の上のリモコンを手にし暖房を入れて、給湯室へと向かった。ケトルに水を汲み、コンロの火を付ける。給湯室を出ると緩く作動し始めた暖房の下、モゾモゾと動く棚の上にその傍らへ歩み寄った。

「まる君、おはよ。今朝は寒いね」

 猫ベットへ掛かったズレたブランケットを直すと、真ん丸な顔をした大きな三毛猫が目を薄っすらと開けて橘を見た。

「今、事務所、暖まるからね」

目を閉じ、彼は再びベットの中へと潜っていった。またブランケットを軽く直しつつ目を細め、汲み置きの水にて窓辺の観葉植物にゆっくりと水を遣りながらカーテンを静かに開けた。それが、彼の日常。いつもの風景――。



「橘。冬休み、いつから?」

 ここは街の片隅、路地裏にある“萬屋”。所謂、便利屋――何でも屋だ。

「来週の土曜ですよ。はい。鬼島さん、珈琲」

「ん」

 鬼島一樹(きじまいつき)は朝刊を片手に珈琲を橘から受け取る。――鬼島はここ、萬屋の所長である。といっても、従業員はアルバイトの橘ただ一人で。主に雑用を橘に任せ、仕事の全ては鬼島が常に回している。

 余談ではあるが、所長席は事務所で飼っている猫の“まる”が占領していて。本来、所長である筈の鬼島はいつも接客用のソファーに追いやられている。前にその事へと触れた際には「所長の席ならマルに譲ったよ」と鬼島は諦め半分に笑っていた。萬屋の看板猫にして猫所長。三歳半の雄猫に鬼島も橘も甘いのは、彼らが“猫好き”というだけの理由で十分だろう。



 早々に朝食を済ませたマル所長は、所長席の黒革の椅子の上へと跳び乗ると優雅に顔を洗い始める。事務所内で一番、夏は涼しく冬は暖かいその場所は彼の特等席で。舌を舐めずる所長の毛並みが朝の陽射しの下、そよそよと揺れている。

「大変です、鬼島さん!」

 突如として、橘の深刻さを帯びた声が事務所内に静かに響いた。吸っていた煙草を途中で灰皿に潰しながら、鬼島は無言で眉を顰めた。橘が給湯室から小さな紙の箱を手に、青褪めた様子で顔を出す。

「しまったな」

鬼島の顔にも焦りが見えた――。

「まる君のゴハンが、最後の一個です。明日の分がありません」

「何で気付かなかったんだ。今日は日曜だぞ。ドラッグストアもスーパーも激混みだ。しくじったな……」

 鬼島は朝からガックリと肩を落とし、天井を見上げた。

「それからなんですが」

「まだ何かあるのか?」

ソファーの背もたれへと、ふんぞり返って。鬼島は焦った様子で橘を見た。

「鰹節も」

そこには、もう袋の底へと僅かな粉々の鰹節しか残っていないお買い得パックが橘の手の中にてヘタレていた。

「おいおい、嘘だろ。業務スーパー行きだと……?」



 所長の食事が尽きるという事は、萬屋にとって一大事。食事を一日の中で何よりも楽しみにしているマルに「今日はカリカリだけで我慢してね」は、効かない。ウエットフードを切らした暁には、それを口にするまで頑ななまでに決して決して鳴き止まない。挙げ句の果てに最後の頼みの綱、鰹節を切らしたなどとなれば――。

「橘。ちょっと出てくる。この案件は如何にしても早朝の内に済まさなければ……」

「ご武運を」

 うん、と一つ頷き。鬼島は上着を羽織り、身支度をし始めた。


 しかし、そこへ。まだ開けていない事務所の入口のドアを、頻りに誰かがガタゴトと開けようとしている音が事務所内へと響き渡ったのだった――。



 

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