第12話 言わせない

 窓の外に寒くて落ち着いた白銀の空と大地を見た。上空から見つめる景色の端の方、そこに積もった雪は遠いはずなのに、未だ飛行機の中であるはずなのに、背もたれに伝わった自分の温もりがそこにはあるはずなのに、背筋を走る寒気が抑えられなかった。

 震える想いを背負いながら鉄の塊の進むままに景色を視界から流して。

 少しだけ白の群れが近付いてきただろうか。

 リリアンヌが初めて身近に感じた豪勢な雪は日本でのことだったものの、目の前に聳え広がるものを目にしてしまった今、あの時の感情を抱かせた積雪は優しい雪景色だったのだとひしひしと感じた。

 自然の驚異を、人の手で司る事の出来ない脅威を、魔法すら関わりのないただの自然から、当たり前の世界から教えられたような気がした。

「凄い雪」

 隣に座っているアーシャに呟きかけてみたものの返事は一つもない。目をやれば眠り続ける色白の姫。

 ある種の気まずさを覚えてアーシャを起こさぬよう窓に再び目を向けて。逸らした目の先にある景色、見えないはずの寝顔、二つが重なり悩みを加速させてくる。

 きっと彼女は気が付いていないだろう、リリアンヌの今の想いに。

 気が付いているのなら狸寝入り。

――タヌキくらい可愛いから寝たふりでもいいけど

 隣の存在感があまりにも強すぎる時間の中で思うことなど目的地で果たすべき事に対して役に立つ気が微塵にも感じられないものでしかなかった。


 やがて飛行機は下へ下へと降りていく。本来人の身が立っている場所へ、人の手によって作られた物質たちで埋め尽くされたような自然への冒涜の権化たる現在の大地へと。

 見えていた空が窓の枠の外へと追い出される。

 やがて見えてきたのは飛行機の群れたち。翼を広げて地を滑り歩く姿は大きな鳥のようでどこか恐ろしさを感じさせた。

 これから再び乗るのはいつだろう。またしても前日の予約となるのだろうか。いつ目的を果たすことが出来るのか分からない以上はそうなのだろう。

 リリアンヌの思考の全てを空白へと替えてしまう大きな揺れが起きた。

 妙な浮遊感が消えて代わりに地に足をついた感覚を得て、着陸作業も終わりを迎えようとしているのだと悟り安心感に身を任せる。

 未だに眠り続けるアーシャの肩を揺らし起こしては窓の外を指して声を滑らかに流して伝えていく。

「着いたよ」

 アーシャのまぶたは緩やかに開かれて、耳は好きな人の言葉をしっかりと聞き取って、頬を緩めながらリリアンヌの肩に頭を乗せて呟いた。

「着いたんだね」

  ゆるゆるとした感情の色を見てリリアンヌの口は本音を抑えることが出来なかった。

「かわいい、まだはっきりしてないの大好き」

 きっとこの言葉を耳にしてのことだろう。アーシャは目を見開いて背筋を伸ばす。

「ゴメン」

「いいのいいの」

 勢いよく出て来た謝罪の言葉に深い愛らしさを見いだして、リリアンヌは今にも飛びついてしまいそうな身を、愛に絡めてしまいそうな腕を抑え込むのに必死だった。

 地面を滑り余った勢いをそこら中に流す航空機の鳥はやがて遊び走りをやめていく。動きは次第に遅くなっていって、のろのろと未だに勢いに背を押されて。

 それから数分後のことだろうか。ようやく動きを止めて横から口を開いて飲み込んでいた人々を外へと向かわせて。

 そんな巨大な鳥を背にアーシャはよろめきながら歩いていた。

「飛行機苦手なのか」

「飛行機苦手」

 言われた言葉をそのまま借りてくるまでに落ちた思考の力。回らない頭は、周りの音とともに違和感を拾う耳はまさに飛行機での移動が苦手なことの象徴。

「そっか、少し休もう」

 足取りがあまりにも不確かで、辺りを闊歩する強い冷気は更に体力を奪ってしまいそう。今にも足を取って転倒を引き起こしてしまいそうな勢いを持っていた。

「休みたいのって」

「私も」

 リリアンヌの身体が一切触れたことの無い気候。初めての厳しさに慣れていないのは当たり前にしても日本の冬ですら一月や二月には毎日の通学ですら凍り付く覚悟を持って挑んだものだった。

 このままではすぐにでも心まで凍り付いてしまう。動くことも思うことも叶わず命までも。

 空気の凍てつきに脅かされる中で取った選択は一先ず休むことだった。

「空港の中なら」

「そうだね」

 建物の中へと急ぎ足。観光を楽しむことなど用事の性質を考慮しなくとも不可能だと思い知らされた瞬間だった。

 建物の中は流石に寒気が遮られていた。

 立ち尽くして人の作り出した温もりを感じながら一分か二分の時を経ただろか。

 風の当たらない安全な場所から乾いた木々の並ぶ様を眺めていた。

 堂々と立って広がる緑の巨人たち、そんな様を思わせる緑の向こうは空白の世界で更に遠くに伸びた空は曇った水、そこからこぼれ落ちる水滴たちはキラキラと輝きを放つ儚い宝石となっていて。

 黄緑色の瞳を通して心に語りかけてくるようで実は染み渡っている。人の言葉など無くても語りかける心など無くても生きている。人が感情や心と呼ぶものとは異なる何かがそこに息づいていた。

 深呼吸を一度挟む。空気の味は分からないものの、美しい景色に似合うものを想像しながら折り紙製の満悦を貪る。

 太陽はこれから沈み込もうとしている。澄んだ空に浮かぶ星々はきっとこの世のどのような景色よりも純粋で映画を思わせる程の偽りを感じてしまうかも知れない。目の前に広がる景色がすでに自然すぎて。嘘だと思わせてしまうまでに作り物めいていた。

 そんな想いを人知れず繰り広げるリリアンヌの背に分厚い温もりが掛かり始める。

「はい、リリアンヌの上着買ってきたから、私の家に行こ」

 アーシャの声にもまた温もりを覚えてリリアンヌは導きの施しを受けながら歩き続ける。

 褐色の草原は季節が巡れば豊かな色を持ってくれるものだろうか。緑の森とは異なる場所なのだと告げる領域だと思いながら目に焼き付けながら進み続ける。アーシャの助けが無ければいつまでも空港で進めずに足止めを食らっていたかもしれない。それ程までに寒さが苦手だった。

「まさか上着を重ね着するなんて」

 アーシャと比べて見ては身体の分厚さがいつも以上に目立ってしまう。日頃から気にしていたそれがいつも以上にはっきりと現れてしまう。身体のラインは曖昧になっているはずなのに。

「ここから角を右に右にそれから左に」

 曲がり曲がり曲がり続ける。

 まるで迷路のよう。一度で記憶の世界に叩き込むことなど叶うはずも無く、アーシャがいないときは外出は控えようと心に決めてしまう程。

 幾つの角を曲がっただろう。似たり寄ったりな建物が多く目印さえ見いだせないその中、アーシャの家もまた、目立たない赤統一の洗礼を受けた屋根をしていた。

「ここだよ」

 そう言われなければ何も思うことは無かっただろう。きっと理解が追いついていないのだ。

 アーシャがドアを開くと共に出迎えた景色に思わず目を見開く。

 リリアンヌの目の前に現れたそれは瓶の中でトカゲが浮いているという幻想を思わせる光景。アーシャはトカゲのホルマリン漬けといっていた。声からは外以上の寒気を感じさせる。もしかするとアーシャはは虫類が苦手なのかも知れない。

「大丈夫かい」

「大丈夫、トカゲくらいなんとでも」

 そう述べて上着を脱いで椅子に掛ける銀髪にも見える金髪の少女。薪を放り込み暖房に火をつけ戻ってくる時、服の裾が引っ掛かり躓いていた。

 そんな彼女が前のめりで手をテーブルに掛けてどうにか今の姿勢を保ったところ。

 目の前にトカゲがお出迎えして事実を目に捉えてすぐさま悲鳴を上げる。

 妙に甲高くてか細く力ない悲鳴。それはどこか愛らしくありながらも頼りなさが強くて。

「アーシャも大変だね」

 今にもやれやれと零しそうな面持ちで見つめながらアーシャの手を引いて身体を引き寄せる。家に長く住んでいたのはどちらの方だろう。そんな様子を見せながらアーシャは別の部屋へと向かってていく。

「ゴメンね、少し慌てちゃった」

「かわいい」

 そんな返しはアーシャの機嫌を損ねてしまうだろうか。きっとそうなのだろう。頬に妙に力が入っていた。目もまた心なしか鋭くなっていて、実に分かりやすい情を奏でていた。

 ドアを開いたその瞬間、アーシャは一歩、後ずさりをした。

「これ」

 更に一歩、引き下がってからの沈黙の時間を作り、そのまま時間だけが過ぎ去って行く。

 リリアンヌはアーシャの肩を優しくつかみ彼女が見た光景をその目で丸呑みにする。

「なんだこれ」

 目を疑った。これ程までに近くに異形の気配を感じる日が来るだなんて。

 そこに在ったものは暗黒が渦巻く白い塊。真っ白な暗黒か黒一色の閃光か。矛盾を孕んだ物質は見方を変えれば幾つもの姿を見せたものの矛盾だけは取り払うことが出来なかった。

 水の色をした炎、メラメラと燃えさかるような姿をした氷、風のように吹き荒れると同時に地に落ち着いている砂、見ただけで辛さを感じさせるチョコレートケーキ。

「認識が……上手くいかない」

 人の感覚では捉えきれないモノなのだろう。かといって完全に支離滅裂なものを見ているわけでも無い。もしかすると人の認知ではそこまでに至ることが出来ないのかも知れない。

 アーシャは手袋をはめて首に下げていたクルミの姿を持った錆び付いた飾りを開いて青白い輝きを持つ石を取り出した。

 途端に石は震え始め、輝きは暴れ出す。

「これ、どうなってるの」

 呟きはリリアンヌに届かなかったのだろうか。リリアンヌは口を開いて言葉を発していたものの音の一つさえ聞き取ることが出来ない。アーシャは孤独を感じながらリリアンヌの顔を見つめた。

「る……こう」

 声が聞こえる、口の開き方とは異なる言葉が幾つもの静寂と共に流れ込む。

この場所の環境は一体如何なる状態を指し示すか。音響、気温、湿度、酸素濃度。何も分からずただ時間の感覚の破片だけがつかめた。

 アーシャの気づき、時間の流れが過去と今を行ったり来たりしながら止まり続けながら流れ続ける。

 時間という概念が支離滅裂の気まぐれとなっていた。

 つかめない、分からない。

――これが悪魔の核

 アーシャは突き進む意志を決めて進み出そうとした。希望を手に収めるために、平穏を受け入れるために。

 突然身体は悪魔の核に近寄り、少し遠退き、近付こうという意志を持ち始めて少し核から遠ざかりながら意志を確かなものとして心に刻み込み、核の前に立ちながら意志を抱き始めて再び矛盾を孕んだ異形からから離れてリリアンヌの腕に絡められた姿勢に戻りつつクルミから取り出した鉱物を握り締めてやがて物質の目の前に再び立ち。

 時空の乱れ、行動の順番の入れ替え。そんな中でも始点と終点だけははっきりとしていた。

 悪魔の核を冷やしながら燃やしつつ、輝きと暗闇を与えながら全て奪いながら、悪魔の核は全てを拒絶して拒絶などしなくて受け入れて受け入れない。

 様々な状態を同時に展開するさまは世界線の万華鏡。

――間違いない、これが可能性の悪魔の世界

 アーシャはふとそんなことを思っていた、思っていなかった。アーシャは何かを考えていた、何も考えていなかった。永遠の矛盾の絡み合う繭の中、意識ははっきりとしていながらはっきりとはせず、モヤモヤしないものでありながらモヤモヤとしていて。

 きっとこの全てがアーシャの今あり得る可能性でありながらあり得ない可能性。

 やがて意識ははっきりとしていながら落ちてしまいながら何事も無く、何事も有った。



  ☆



 そこはどこだろう。開かれた目は背の高い木々を取り入れた。やけに背の高い建物に妙に大きなティーカップ。

 どうしてそう思ってしまったのだろう。分からないままアリサは小さな歩幅で歩き出す。

 まだまだ育ち盛り。もしかすると育ち盛りすら訪れていないかも知れない。日本の学校に留学するべきかしなくてもいいのか。

 昔は強力な魔法使いが住んでいたがために魔法に携わる人々は日本語を学びつつ日本の学校に通うのだという。

 今のアリサは生きることそのものに楽しみを持った無邪気な人物だった。

 そんな彼女に若い男は語る。

「アリサ、いいかい。錬金術というものはね」

「料理や絵の具の配合と同じ」

「そう、良く覚えてたね」

 目の前の男に褒められて、アリサは頬を緩めて目をキラキラと輝かせる。

「お父さん大好き」

「キラキラ輝く瞳が海みたいだな」

「海ってなにかな」

 父の話に依れば塩水の池のようなものでかなりの大きさを誇るものなのだそう。

「海、行ってみたいね」

「私と一緒に行っただろうに」

 突然響いてきた声にアリサは思わず振り返る。確かに聞こえたはずの声、一瞬だけちらついた褐色肌の女性は何者だったのだろう。

 静寂の空白に揺られながら浮かない顔をしているアリサの目を見つめながら父は首を傾げた。

「どうしたんだアリサ」

「なんでもないよ」

 アリサは素早く首を左右に振って否定の意を必死に唱える。

 父は笑いながらアリサを肩に乗せて言葉を零す。

「悪い魔法使いもこの世にはいるからな、気を付けような」

「うん」

 草原を歩き出す。頬を撫でる風がこの上なく心地よくて優しくて。

 これから待っている紅茶を楽しみにしつつも今の景色を目に焼き付け続ける。

 父が思っているよりもずっとずっと大人、アリサはそう思いながら広い森の端から端を見回した。そんな想いは止まらなかった。

 やがて家がアリサを出迎えて、父は熱した水をティーポットに注ぎ始めた。

「今日はスコーンとお茶だ」

「ありがとう」

 心の中で弾む楽しさはどれだけの想いを引き連れてきたものだろうか。どれだけの景色をアリサの色に染めただろう。アリサの瞳に薄らとかかったフィルターは全てをアリサの喜びの色に染めて記憶に刻まれる。

 やがて出されたスコーンを頬張り始め、アリサは訊ねた。

「お父さんはどうしてそんなに料理が上手なの」

 父はゆっくりと笑いながら答えるだけ。

「それはね、頑張ってきたからだよ」

 努力、父が積んできたものはそれだけなのだという。

「それだけで上手になれるの」

「ああ、もちろんさ」

 父が打ち明けること、初めは何もかもが失敗続きだったのだという。

「何も出来ないって思っても二つだけ忘れなかったことがあるのだよ」

 それはどのような魔法なのだろう。魔法使い一家の生まれであるアリサはそうした想像を裏で巡らせながら目を輝かせていた。

「それはね、学ぶことと愛することだよ」

 想像も付かなかった言葉に肩を落とす。思いのほか普通のことを語っていた、アリサの期待を超えるような答えなど持ち合わせてはいなかったのだ。

「どんなことでも良くする方法はあるんだ。失敗したら何がいけなかったのか、一つずつ正解に塗り替えていけばきっと良くなる」

 父の曇りきった顔、そんな顔で語られることは何故だか胸を締め付けてきた。

「学ぼうにも手遅れなこともたまにあるんだけど」

 どういったことだろうか。アリサの脳裏をよぎった脅威は命に関わるような災害やおぞましい殺人鬼の存在だった。

「愛すること、それが父さんに足りなかったんだ」

 失敗の中身は分からなかった。しかし父の言葉はしっかりと心に澄み渡っていく。

「アリサも大切な人が現れたなら、いっぱい愛するんだよ」

「分かった」

 父の言葉に、振り向いて歩み出す姿に腕を引かれながら歩くアリサ、その歩幅はいつもより狭く感じて仕方がなかった。どうしてだろう。精一杯足を開いて素早く歩いているにもかかわらず、進みが遅く感じられた。

 違和感が大きくて仕方がないものの、その原因が分からない以上は運命に従って歩くほか無かった。

 青々とした草原はその目にやけに新鮮に映り、辺りを流れる川は自然が生きている証だと思い込む。

 家へと向かっているのだろう、まだまだ昼間だったものの、父に導かれているからには従う他なかった。

 大きなドアを開き、アリサを先に入れて父も戻る。

 そこに待っていたのは見覚えのある顔よりも少しだけ若々しく感じる女の顔。

――いつも見てるはずなのに

 どうしてだろう、この感想、一つ一つがどこか至らぬ方向を見ているように感じていた。それは如何にもついさっきこの歳になりました、ここまで違った人生を歩んでいましたとでも言わんばかりの違い。

「ただいま」

「おかえり」

 交わし合う挨拶、その声に得体の知れない黒々とした想いを抱きながら進み行く。薄汚れた石の床、磨かれてツルツルとした感触を持っていた頃の名残を感じさせる床は何故だか遠い昔の姿に感じられた。記憶が語ることによればそれ程昔のことでは無いはずなのに。

「紅茶を淹れようか」

 父の言葉に女、エレオノーレは頬を緩める。

「嬉しいわ、愛してる」

――それが私を生け贄にするだけの愛

 気が付けば睨み付けていた。更にふと気が付いたときに気を取り直し、感情の叫びが記憶に無いことを語っているのだと気が付いて。

 アリサの全身を駆け巡る寒気が強く深く突き刺さった。恐怖の寒気はこの国の気候よりもはっきりとした寒さを持っていた。

 やがて気品を感じさせる香りが漂ってくる。微かに見える白い霞は温かで、湯気に触れて笑顔を咲かせる。

「アリサったらまた遊んでる」

「だって温かいんだもん」

 そんな声に違和感を、必要以上の幼さを感じながら動きを止める。母の反応は綺麗な笑顔。美しさで着飾った純粋な日だまりの表情だった。

「アリサはまだまだ子どもね」

 父が持ってきた小瓶から小皿へとジャムを移す。まさにこれこそがこの国で好まれるお茶の味わい方。

 アリサはジャムを多めに取って更に皿に盛り込んで笑っていた。

「ジャム美味しいよね」

 マーマレードのジャム、残った果実感を楽しみながら紅くて温かな液体を流し込み、ゆっくりしっかりと味わい続ける。広がる甘さと存在感の大きなオレンジの酸味、それらが紅茶の渋みによって薄められて口の中を満遍なく充たしていく。

 紅い海に身を浸しているようで心地よかった。

 そんな中で父の姿は消えていた。

 辺りを見渡す。寂しさと得体の知れない恐怖に襲われながら振り向いては目だけで父の姿を捉えるべく。

 彼の姿はキッチンにあり。

 それを確認してアリサはほっと一息ついた。

 母はアリサに訊ねる。

「ねえ、お父さんのこと好きかしら」

 笑顔を満開に咲かせて元気よく答えた。

「大好き」

「じゃあ、あなたの首に掛かってるクルミ、ちょうだい」

「クルミなんか持ってないよ」

 アリサは首を傾げる。

 母の言葉の意味が何一つ理解できないといった様子を見せていた。

「そう、じゃあもうちょっと成長したら出て来るかしら」

「お母さんが言うクルミって何かな」

 アリサの質問は、高くて優しい声は母の身体を通り抜けては消えていく。取り戻すことも追いかけることも出来ずに無くなっていった。

 母の沈黙の謎が解けないまま、夕飯の時間がやってきた。

 赤いスープにこんがりと焼けた表面が特徴的なグラタンに羊肉とパプリカに串を通して焼いたもの、パンのようなものが出された。

「グラタン大好き」

 アリサの声の響きに父は喜んで語る。

「マッシュポテトやブロッコリーを入れたものでね、自信作だよ」

「まあ、あなたったら、アリサの舌を肥やしすぎたら料理好きじゃないと付き合わないとか言うかも知れないわ」

 そんな言葉受けても尚父は笑って返すだけ。

 料理に真っ直ぐ明るい笑顔を向けながらグラタンを食べ続けるアリサを横目にエレオノーレは羊肉を口に放り込み始める。カリカリとした表面の印象を裏切るしっとりと柔らかな中身。

「いつ食べても美味しい」

「やっぱりふるさとの味には敵わないな」

 どれだけアレンジを凝らしても単純で慣れた味わいには勝てない、注目を集めることが叶わないことに嫉妬を覚えながらも地域に根付いた味は凄いのだと尊敬の想いを抱く。

「これすっごく美味しいよ」

「上手く揚げられたようで良かった」

 小麦を練って生地を入れて揚げたもの、表面はサクサクとしていながらも中はふんわりとしているのが特徴で、中にはリンゴが入っているようだった。

「今日はデザートなのね」

 肉やキャベツを包むことの多いそれだったが今日はデザートとして扱われているようだった。普通にありふれた光景ではあったものの、食べてみるまで分からないがためにエレオノーレは口にする順番を違えていた。

 そんな夜の食事を経た後、エレオノーレはティッシュで口を拭いながらアリサに訊ねる。あの意味の理解できないことを再びアリサの耳に届けていく。

「ねえ、クルミをちょうだい」

「だからクルミってなに」

 アリサの目はゆらゆらと揺れていた。少しだけ潤んだ瞳に母の真意など映るはずも無くただもう一度訊ね返していく。

「ねえ教えてよ」

 母は大きく息を吸ってアリサを睨み付ける。

「持ってるでしょ、鉱物錬金の成果」

「鉱物……錬金」

 アリサの頭ではその疑問に理解の輝きをもたらすことなど叶わない。きっといつの日か分かることなのだろうか、そんなはっきりとした疑問という姿を持って頭の中を渦巻き続けるだけ。

「ほら、頭の中でイメージして」

「イメージ」

「そう」

 母の言うことによればそれは錆び付いて汚れがこびりついてようやくクルミの色に近づきアリサの首に提げられている飾りなのだそう。開けばその中には研究の成果が薄青い光を放っているのだという。

 アリサは懸命にそれを想い続ける。その間立派な焦げ茶の気の身体を持った大きな時計の針は一秒を刻み更にもう一秒、更にもう一秒、時の歩みの数々を示していく。

 その間ただひたすら想像を巡らせ、アリサの頭の中でようやくクルミの飾りが鮮明に姿を現した。

 途端のこと。時計の針は素早く進み、同時に戻り始めた。

 一つの盤の中に進み方は一つのはず。時計の針は三つのはず。それが六つに見えてしまうその在り方は現実の作法も決め事も守らない者の証。

 やがてアリサの身体は大きくなっただろうか。見回すと違和感が消えてしまっていた。しかしながらそれでも何かを思い出せていない感覚、ただ一つの特別な何かは思い出せないまま。

 いつの間に掛けたのだろうか。首に提げていた飾りを手に取って開いてみる。

 微かに開いたそこから薄く青白い輝きが零れて空気の水底に澄んだ光を射し込み笑っているようだった。

「そう、それをお母さんにちょうだい」

 手渡せば良いのだろうか、予感が首を横に振り続けていたがためにアリサは躊躇していた。

「お願い、もうすぐ基礎学校の三年目だし日本の高校に通うまであと三年でしょ」

 だから良い子にしてなどと分かりやすく言って聞かせようとしている。全てを思い通りにしなければ気が済まないのだろうか。そんな母に飾りの中身を渡してしまおうと飾りを開いたその時だった。

「十二歳、少し幼い顔してる」

 それはこれまで出会った事の無いはずの女、しかしながらどこか見覚えのある女の声だった。褐色の肌はアリサの視界に良く馴染んで、黄緑色の輝きを放つ瞳はどこか魔界鉱物に似ていた。

「それ、渡しちゃダメ」

 そう告げて女はエレオノーレを睨み付けていた。

「アーシャに何させるつもりか知らないけど」

 大きく息を吸ってスローテンポな拍を二つほど挟めそうな時を静寂で埋めて再び口を開いた。

「魔界鉱物っていうくらいならあの世とかで探せるんじゃ無いかな」

「地獄に落ちろとでも言うつもり」

 エレオノーレの分かりやすい怒りの表情、目の色の変化は鋭い殺意を剥き出しにしていた。

 一方でリリアンヌは笑い声を作り上げて装って。言葉を返してみせた。

「魔界、じゃないかな」

 きっと誰しもが魔界と呼ぶだけの異界で見つかった鉱物、唯一アーシャが見付けてアーシャが錬成を成功させたアーシャしか詳しいことを知らない鉱物。魔法の力を殆ど失った母が見付けることなど容易ではないだろう。

 リリアンヌがアーシャに手を添えてクルミの中のモノに触れた途端、激しく輝き景色を一色に染め上げていく。

 きっと今も身近なのか遠い者なのか、何者かが声を上げたことだろう。

 しかしながらその言葉は何一つ世界にまで手を伸ばすことを許されなかった。



 目を開いたそこ、どうにも見覚えのある噴水を目にしてアーシャは座っていた。隣にはあの褐色肌の女が座っていた。

「やっとふたりになれた」

「ここはどこかな」

 アーシャは首を振り、辺りを見回して疑問を口にして。その素振りに落ち着きは一切見られなかった。

 褐色肌の女は思いもよらぬ事を答え始めた。

「アーシャが大好きな場所」

「私が、なの」

 訊ね返したところでアーシャの記憶には無いそこ、しかし何故だか心地が良い、安らぎが力強く残り続け、ただただそこにあった。

 女はアーシャの手を取り立ち上がる。アーシャの細くて長い指はリリアンヌの手に乗ることで、ただでさえそこに在るか弱さを増しているように見えて仕方がない。

「帰ろう、大丈夫、私が守るから」

 そんな言葉を耳にしてアーシャはふふっと笑みを声に乗せて零す。

「まるで王子様みたい」

 リリアンヌはきりっとした笑みを向けて語る。

「王子様を迎えに来た姫さ、キミの将来のお嫁さん」

「女の子同士なのに……変なの」

 そんな言葉に対して堂々とした笑みを見せつけながら言葉を返す。

「五年後も同じこと、言えるかな」

 そうして二人は家に向かって歩き出した。



  ☆



 開かれた瞳が捉えた景色は色鮮やかな天井。アーシャが細い手で緩く握っているクルミは鉱物の重みを失い寂しそう。

「おは、やっと目が覚めたんだね」

 リリアンヌはただアーシャの顔を見つめ続けていた。

 アーシャはそんな愛おしい彼女の顔を見つめながら意識をはっきりさせるべく息を大きく吸う。

「私、あの後どうしてたの、鉱物出して悪魔の核に触れて」

「どこか行ったから迎えに行った、あなたのお嫁さんがね」

 アーシャははっとした。目を緩めながら和やかな微笑みで辺りを包み込みながら言葉を流す。

「女の子同士」

「言わせない」

 アーシャの身体を柔らかさが覆い込む。温かな言葉は続けられていった。

「そんなこと思ってもないだろう」

 そんな言葉を挟んだ直後、アーシャとリリアンヌの唇は共に優しく触れ合った。

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鉱物錬金に染まりし黄緑の空 焼魚圭 @salmon777

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