終ノ幕〜 魔界鉱物
第11話 アリサの帰郷
寒空はどこまでも広がって、しかしながら果てというものはどこかにあって。
アーシャとリリアンヌはアーシャの家にて年度末の大掃除に励んでいた。本来は年末に行われることが多いのだそうだがその時というものを疲れ果てたまま過ごしてしまった二人。リリアンヌの家は清掃を施す必要が出るほどの広さでも無ければ飽くまでも寝室でしかなかったものの、アーシャはそうもいかない。予定の乗り過ごしや乗り遅れという言葉を当てはめて今更取り戻そうと動き始める。
庭の雑草をむしり取ってはアーシャが不満を零している様にリリアンヌは微笑ましさを感じていた。
「どうして勝手に生えてくるの、根絶してあげようかな」
キラキラとした声からは想像も付かせない言葉、それこそがアーシャの本音。
一方でリリアンヌは肌に吸い付くような寒気を感じていた。アーシャは一切寒気を見いだしていないようだがきっとうまれと育ちを遠い地で経たことが原因なのだろう。
これからの季節の中、アーシャは早めに熱に脅かされるかも知れない。実際去年は五月の時点で恥ずかしがりながらも薄着で出歩いていたという過去を知っていた。
「リリアンヌはこういうの嫌いじゃないの」
干からびた顔で訊ねられては潤いに充ちた笑顔で返す他無かった。
「慣れてる。実家が農家だから」
オレンジの栽培、それがどれほど大変なことか、一人で日本という遠い土地に脚を踏み込む時が来るまでは毎日手伝っていたという話を漂わせるだけでアーシャの頬は緩んでリリアンヌに対する視線に温かな感情が留まっていった。
それから一時間の経過があっただろうか。
雑草たちをゴミ袋に纏めて室内の掃除に取りかかろうとドアを開く。中を舞う埃が日に照らされて季節外れの雪となって景色に透けていった。
そんな景色の移り変わりを目にすると共に軽い疲れが背中に乗りかかっていることを実感しながらリリアンヌは肩の力を抜いた。
「少し休もう」
可愛らしいピンクのリボンが描かれたティーカップの中に塗り付けられた水色の花はネモフィラだろうか。
注がれた紅茶は湯気を立てて熱を蔓延らせ、窓という額縁に収められた昼の空に霧を混ぜ込む。
その景色は色合いはアーシャが愛飲する紅茶の味を引き立ててくれるものだろうか。
ジャムを口に含みながら流し込む紅茶の味はきっとふるさとの懐かしさをすぐにでも呼び起こしてくれることだろう。
「リリアンヌも飲もうよ、美味しいよ」
「私は遠慮しておく」
リリアンヌは常温のまま放置していたペットボトルの麦茶を飲んでいた。ドラッグストアで買ったもの。もはや一人で買い物をする時にはコンビニに足を踏み込むことすらなくなってしまっていた。
――あの店はなんでも高いからねえ
もはや学生という身分では格式高いレストランのようにすら思えてしまう。あの店に入ろうと思おうものならばすぐさま財布と睨めっこを繰り広げ気分を変えて別の店を目指すほど。日本という国での生活の自由が如何に金で縛られていることか、思い知らされて止まらない。劣等感は走り続ける。
ティータイムは手軽に、休憩時間の終わりは身軽に、部屋の掃除の続きは軽々と。
そんな理想を掲げていたものの、簡単に叶うことはない。
「アーシャ、洗い物は私がやるから」
「ありがと」
リリアンヌの手伝いを受けてようやくアーシャは立ち上がり、一人でクローゼットを開いて為すべきことと向かい合う。収められている衣類に不要物は何一つ無く、タンスの中に放り込まれている資料たちはしっかりとファイルに綴じられていたがために整理整頓はすぐさま終わってくれそうで安堵のため息がこぼれ落ちる。
そんな彼女がファイルを取り出すと共に積もり溜まった埃たちがお出迎え。咳き込みながら手をひらひらと振って埃たちを懸命にはね除ける。
取り出したファイルたちに綴られた丸みを帯びた文字たちに目をやりながら捨てても構わない物と後に必要になる可能性を孕んだ物を分けて。
作業を進めていた手が不意に止まる。
目に飛び込んで来た文字にある種の思い出を見つめながら目を細めた。
山羊頭の魔神計画と書かれたそれ、数十年も前から進められていた計画から最近立ち上げられてアーシャとリリアンヌの手によって止められた計画まで、歴史だけが積み上げられた計画たちを振り返る。
ページを捲る毎にかつてどのような形で魔法の研究が行われてどのような欲望が湧いていたのか、考え方や時代に応じた可能性の限界を微かに覗く事が出来た。
幾つもの紙を捲り続け、多大なる文字の列を、ある程度慣れているだけの日本の文字という記号の集いを見つめ続けていた。
そうして様々なことを追いかけている内につい最近のことにまで追いつく。
ここまで見つめてアーシャはここまで歴史を紡いできた人々に想いを馳せる。
いつの時代であれどもそれぞれの中に大切な人物がいて当然のように別れが訪れる。
そんな時の流れに導かれるままに進んで運命の明かりに心は清められていく。
しかし、全ての想いが清められるとは限らないと言うこと。振り払うことの出来ない未練もあって、向き合い続けて深みに嵌まり続けた結果、選んでしまった過ちの一つ。前を向くことが出来ない弱い生き物もいる人間だからこそ踏み込んでしまった罪、それこそが死者の復活なのだということ。
アーシャは今もすぐ近くで部屋の掃除を手伝ってくれているリリアンヌのことを想う。もしも彼女が人生というレールから墜落してしまった時が来たとして、正気を保っていられるだろうか。その時が来たら死者の蘇生の研究に時を注ぎ始めるかもしれない。いけないことだと分かっていながらも完全には否定できない彼女の姿がそこにはあった。
「アーシャ、何見てるの」
リリアンヌの声が想像の世界から今この場へと意識を引き戻してくれる。
アーシャは微笑みで返しながらファイルを閉じる。
その時のことだった。
紙の束に挟まれていただけだったのだろうか。一枚の封筒がひらひらと羽のように舞いながら床へと落ちていった。
――なにかな
背筋を走る寒気が予感を告げていた。これはあまり良い報せではないだろう。どうか既に解決されたことでありますように、祈りを捧げながらアーシャは一旦封筒をチノパンのポケットに突っ込んで掃除の続きに取りかかり始めた。
☆
やがて訪れる夕日、一日の終了の予鈴のようなもの。日本には五分前行動と名付けられた余裕を持った行動の習慣があるのだそうだがそれを考えてもあまりにも早すぎる予鈴だった。
空は薄暗く、見上げればそこに深い海のような蒼の広がりを見ることが出来る。
アーシャにとっては美しくて堪らない光景だった。
母国ではそこまで見ている余裕などない。今という時を生きるのに必死で平和とはこういうことだと思い知らされるほどの自然生活。まさかそれ以上の平和が同じ地球の中に潜んでいようなどと想像もしていなかった。
リリアンヌはアーシャのにこやかな笑みの花に心を這わせ、共に進むべく腕を伸ばす。
抱き締めてどこまでも近く、深く柔らかく愛おしい温もりを感じながら頬に手を添えて。
「リリアンヌったら恥ずかしいよ」
「アーシャと離れたくない」
今日、そう名付けられた一日が終わりを告げようとしている。これ以上は一緒に居られないのだ。また明日という時間の訪れがあまりにも寂しくて。
「晩ごはん一緒に食べよっか」
アーシャもまた、リリアンヌと離れることに寂しさを覚えていた。
日本食をよく知らずに日本で過ごす。そんな二人の晩ごはんは多種多様の野菜にベーコンを用意してコッペパンに挟むという手軽な物。
簡単に出来て二人向かい合う時間はますます増えていく。
アーシャは向かい合う褐色の顔を必死に見つめながら質問を放り込んでみせる。
「リリアンヌはあとどのくらい日本にいられるの」
一番気になっていたこと。アーシャの方はと言えば故郷に帰る意味を失っていた。自国ではいつでも自由気ままな孤独という状態に陥ってしまっている。
リリアンヌは顔をクシャクシャにしながら笑い、アーシャに甘い視線を向ける。
「あと二年はここにいる」
つまり、アーシャが大学に上がって一年はいられるのだということ。
研究の成果を発表する場は失われ、研究の成果はやがて批判の的となってしまった。
魔界鉱物は人の肌を容赦なく焼いて削って食い散らかす。
そんな物を周知するわけにはいかないのだという偉い魔法使いの意見には否応なしに従うほかなかった。
「そっか、私はあと五年くらいかな」
三年の空白はどれだけ広いものだろう。心の距離は身体の距離よりも離れて見えてしまうものだろうか、実際の時間と本人の歩んだ時間は別物だろうか。
経験はなくとも想像は付いていた。
「十年分の寂しさが待ってるかも」
恋とはどこまでも人の感覚に歪みを与えるもので、人を大きく変えてしまう想いの一つなのだろう。
リリアンヌはアーシャが作ったパンをしっかりと噛み締め飲み込んで再びアーシャに目を向ける。
「だったら、大学を卒業したらこっちにおいで」
西の国のことだろう。リリアンヌの故郷であり、彼女のことをしっかりと育ててくれた優しい母が住まう国だった。
「そこで十五年分の触れ合いを」
どこまで熱くなってしまうのだろう。今でさえここまで大きな想いに揺れているにもかかわらず、更に大きな愛を求めようものならば。
アーシャの脳裏を掠めた景色、リリアンヌの美しい身体から織り成されるある種の好意の重ね合いを、語ることさえ恥ずかしい行為を思っては顔を赤くするのみ。
「何考えてるの」
リリアンヌの質問は更にアーシャの心を刺激していた。熱く滾る想いが口から零れてしまう。
「意地悪」
首を傾げる彼女には想像も付かないことだろう。まさか今アーシャがリリアンヌに対してあまりにも嫌らしい情を抱いているということ。乙女の姿から滲み出ることさえ恥ずかしいそれはどうにか隠し通された。
やがて食事を終えてリリアンヌは名残惜しそうに立ち去っていく。
残されたアーシャはただ一人、細い指で封筒を開け始めた。すぐさま確認しておきたい、 欲望は好奇心から来るものなのか不安を拭い去りたいがために訪れたものなのか。順調に茶色の紙を破り、口を作っていく。
やがて開かれたそこから現れたもの、一枚の紙を広げて目を通して、アーシャは目を丸くした。
アリサに宛てる
山羊頭の魔神計画は阻止された、確かに平和を手に入れたことでしょう
しかし、まだ何も終わってなどいない
山羊の悪魔の核が故郷に残っている
わざと残したの、失敗したときの替えとして生えてくるから
もしも本当の意味で計画を終わらせたければ北のほうへと帰ってきなさい
あなたの故郷が待っている
偉大なる母のエレオノーレより
読み終えた時にまず覚えた感情は虚無だった。考えることすら拒否してしまっていた。
続いて抱いた思考は果たして行くべきかどうか。敵の、母の罠だということも考えられた。
しかしながらこの計画を終わりにしなければ再び悪用する者が出て来てしまうかも知れない。この世界の居住権を失ってしまった大切な人物に再び会う事が出来る。そんな甘ったるい囁きを常に振り撒いている。そんな希望に満ちあふれた悪夢が生命の象徴たる山羊の姿を持つ悪魔から滲み出ているとでもいうのだろうか。
――今すぐにでも行かなきゃ
そう思いつつも一旦思考を止めて深く息を吸って吹いて、肺に溜まった淀んだ空気を空っぽにして考え直す。
きっとリリアンヌに相談しなければ怒られることだろう。何故怒るのだろう、少し昔のアーシャであれば想像も付かなかったことだったが今では最近積んできた経験が語っていた。
大切な人が心配している、想ってくれている。そこに行き着いてしまった。
そんなことを思い知ってついつい言葉が零れてしまう。
「大切な人との関係って、凄く重たい感情だね」
晴れ渡る夜空は静かで、地上で輝きを灯し空と一体化した地球という名の星空の中。
音を遮るものなどそこには無いはず、そのはずだったものの、鳴らした言葉は不思議と上手く響き渡らなかった。
☆
キジバトが優しく鳴いている。街の中、建物と電線が張り巡らされ人間色が伝染してしまった土地でも鳴かずにはいられないのだろうか。
静かな鳴き声は愛おしくてアーシャの頬はついつい緩んでしまう。
紅茶を淹れて、一気に飲み干して、真っ先にリリアンヌの家を訪れる。一緒に行くのであればきっと早いほうが良い。万が一長期休暇が終わってやるべき事に乗り遅れてしまったならば、そう考えるだけで寒気が増してしまう。大盛りの寒気が特盛りに変わってしまう。
アーシャの方は救いがあることだろう。しかしリリアンヌの方はどうだろう。彼女の大学の制度は分からなかったものの、単位を取り逃してしまう可能性があるのではないだろうか。
もしもアーシャの助けになるために人生の大きな道のりから落ちてしまうことが起きてしまうならそれは何と残酷なことだろう。
アーシャは大好きな人に輝かしい人生を諦めろなどと言えるはずがなかった。
昼を想わせる程に堂々とした明るみの中を歩いて行く。彼女の心はそこまで堂々と胸を張れるほど立派なものではなかった。少しだけ背を丸める様は彼女らしさと呼んでも良い代物なのだろうか。判断に困ってしまう。錬金の研究では幾つでも予測や答えを弾き出すことが出来るはずなのに、アーシャは困っていた。
人の心は難しい、自分の事さえ覚束無い。
何がしたいのか、たまに分からなくなってしまう。
そんなことに頭を抱えては唸る姿をリリアンヌに可愛いと言われたこともあっただろうか。今となってはそうした思い出の全てが歩みを進めるための支えとなっていた。
歩き続けること五分弱、リリアンヌの家は驚くほどの近所に居座っていた。
アパートの二階、その中の階段から程よく距離の開いたそこにリリアンヌの住まう部屋があった。
呼び鈴を押して、彼女が出て来るのを待っていた。
インターホンからザーザーと静かなノイズが流れ始め、共にリリアンヌの声が靡き始める。
「はい」
「アリサだよ、話したいことがあるから入れて」
「はい」
同じ言葉で異なる意味、そんな遊びを交えつつアーシャを迎え入れる。
リリアンヌは相変わらず薄らと黄緑色に輝く瞳をしていた。そんな軽い輝き、爽やかな色に心まで持って行かれそうになってしまう。
「話、聞きたいね」
リリアンヌはどこまでもアーシャに対して親身。恋が燃え上がる心はきっと二人の関係に輝かしさを持たせながら繋がる架け橋。そんな関係の中で話すことは、女の声が飛び交い運ぶものは男子中学生のような内容だった。
山羊頭の魔神計画は終わっていないこと、それを聞いてリリアンヌは目を細める。
「相手の都合いい保険と罠と使命を備えて誘い出すつもり」
「分かってるけど」
行かなければならない、それだけは確かだった。
「確かにこれは止めなきゃいけないこと」
「悪いこと出来ないように取り上げなきゃ」
大人たちの好き勝手によって、子どものような想いによってどれだけの人間が犠牲になってしまうのか、想像すら付かせなかった。
「行こう、春の休みが終わる前に帰って、絶対に私たちの邪魔はさせない」
リリアンヌの煮えたぎる想いは熱く、暖かな気温すら熱に晒されて暑く感じられてしまう。
アーシャよりも確実に厚い身体は全てを包み込んでも折れない強さを持っているように感じられた。
☆
あるアパートの一室にて、あどけなさを残した褐色肌の女が少年の手に頬を差し出す。
「どう、完璧でしょう」
「す、凄い」
少年は少女のようにも見える顔をしたミレイに見蕩れてしまっていた。以前よりも肌の柔らかさが増しただけでなく弾力が生まれているように思えた。
つまるところ、故郷で足りなかった栄養を取れているということに他ならなかった。
「こんなにあなたを惹き付ける為に整えても子は産まれてこないの」
きっと彼女は少年、瑠璃斗への愛の証であり未来への道しるべとして、何よりも一緒に幸せな運命を歩んでくれる小さな子が欲しくて堪らないのだろう。
「一族が人を呪いすぎたから跳ね返りを背負ってるんだっけ」
瑠璃斗は少し前に聞いた話を記憶の中から今この場所へと呼び起こす。きっと彼女は背負う必要の無いはずの責任を背負っている。誰もが後回しとしてきた罰を一人で受けている。それは何と不条理なことだろう。
瑠璃斗の中にて走り続ける考えを述べてみる。
「もしミレイが子を作れないなら俺が創造魔法で」
しかしミレイは首をゆっくりと横に振る。そんな仕草に呆気にとられて口を噤む瑠璃斗に対して口を開いてしっかりと言葉を紡ぐ。
「いいの、そこまでしないで」
疑問で埋め尽くされて何も理解できない。それが瑠璃斗の中にて芽生えてきた現実。恐ろしく加速していく頭の回転は不明しか乗せないメリーゴーランドで、閃きの収入は欠片ほどにも得られないまま時は過ぎ去るだけ。
「あなたが神になったとして、子が犯した罪に責任取れるのかな」
ミレイ個人の意見に過ぎない。これまで知る故人の中にも人工的に子を創り上げた人物など知らない。
「喜びも悲しみも色々あるし私たちの育て方次第の部分は確かにある」
「だったら」
しかしその続きを語るだけの資格はなかった。それが出来るのはきっと全ての未来を見通して操ることの出来る者のみ。瑠璃斗は我が子を世界の中で一つの可能性だけに導いて自分の好きなように動かす独裁の神へと成り果てることなど到底出来なかった。
「全てに対する罪を背負う重み、罪に対して真っ向から受け止める心の強さは持ってるかしら」
たかだか二十年かそこら程度の人生の中で積み上げてきただけの言葉がどうにも重みを増しているように思えて仕方がなかった。反抗は決して許されない。それ程までに分からず屋ではない。
「今の神ですら無責任で身勝手だもの」
言われてみれば様々な境遇に置かれている人々、その全てが神の気まぐれとも思えなかった。何もかもを好き勝手にしたところで万物を見通すには目が幾つあっても足りる気がしない。
「そんな神から産まれてきた私たち、不完全を完璧だと錯覚する人々が背負うことの出来る重みなんて」
あまりにも限られている。続きを述べられるまでも無くおおよそ見えてくる答え。瑠璃斗は命を創り上げる傲慢に振り切ることなど出来ないまま生きることに決めた瞬間だった。
そうして会話が途切れて瑠璃斗はしばらくの間、木の椅子に腰掛けるミレイに身体を預けていた。息づかいや温度の心地よさは眠気を誘う甘い悪魔。罪深い存在は可愛らしさの中に在った。
それからどれだけの時を過ごしただろう。十分や二十分、過ぎ去る時間の一秒までもが愛しくて、過ぎ去ることに快感を覚えていた。過去になり行く一瞬、その連続を好きな人と過ごしているのだと語るだけで輝かしさを増していくのだ。
そんな美しく整えられた時の狭間から割り込んでくる呼び鈴の音。
ミレイは瑠璃斗の手を取り二人立ち上がり、ドアの方へと優しい足取りで向かっていく。
「多分この前の可愛らしい恋人たちね」
「どっちも女の子だよね」
「銀っぽい金色の髪の女の子がカレシなんだってさ」
ドアを開いた向こうに待ち構えていた景色は完全に想像通りのもので、立っている二人の表情まで思った通りでついつい端に笑みを零してしまう。
「私のところに来るのは用事の時だけだもの、当然の顔ね」
「ごめん」
謝るアーシャの顔を見つめて瑠璃斗は言葉を挟む。
「最近この子たち殆ど二人で一緒に過ごしてるんだってさ」
ミレイが占いを用いて見通したことなのだろうか、無邪気に語る少年の隣で気まずさを顔にだして微かに視線を逸らす褐色肌の姿があった。
「そうだよね、ミレイ」
一方でリリアンヌはアーシャの肩に腕を回してを寄せ合ってミレイをしっかりと見つめる。
「そう言うミレイも同じだね」
「もしかしてあのおっきな人も占い師なのか」
ミレイは顔を赤くしながらうつむき気味。ゆっくりと首を横に振りながら想像してるだけと答えていた。
「そっか」
瑠璃斗が明るい声で場を和ませている内に心を持ち直していた。
「ところで二人揃って北の方に行くのね」
「行く」
リリアンヌの勢い付いた返事は聞き間違えようも無かった。頷きながらミレイは彼女たちがこの部屋を訪れた目的を終わりにしてしまった。
「私に手伝えることは特にないから、ごめんなさい」
二人のことは二人に任せておけば良い、それが〈南の呪術師〉の見解だった。
「二人の運命だもの、手を加えすぎるのも良くない」
その答えは二人が幸福の道を歩むことを、運命に希望の祝福を受けていることを意味していた。
「じゃあ、生きて帰って来れるってことかな」
アーシャによる確認はミレイの口から答えを引き出すことは叶わなかったものの、その目の輝きは確実に明るい未来に潤いを戴いたものだと確信を持つ。
「行ってきます」
それだけ告げて、歩み去る。これから飛行機の予約をしなければならない、空いている便は残されているだろうか。昔はこういった時に無理やり席を確保する魔法使いの隠れた権力があったのだそう。
しかし、今はそうも行かない。特に二人は名だけ立派な子どもでしかないのだから。
称号の重みを引き摺りながら空港へと向かって進み続ける。
バスに乗り電車に揺られ、歩き慣れない都会に半端に出ようなどと思うこと無く改札を抜けてすぐさま別の改札をくぐり、すぐさま訪れた電車に乗り込んで。
再び揺られること十分にも満たないだろうか。空港にたどり着いてすぐに予約の手続きを進めていく。
一度家に戻り準備を終えることでようやく一息ついたもので、アーシャは温かな紅茶に口をつける。
「きっとこれから行くところでは観光も出来ないけど大丈夫だろうか」
「うん、出来ればリリアンヌにも色々見て欲しかったけど」
それは叶わない話。恐らくすぐにでも悪魔の核を鎮めて即座に帰路についてそれから待つものは再び始まる学問との向き合い。
魔法使いとして人生を歩むリリアンヌにとっては道楽も同然だったのだがそれでも邪魔をしてはならない、アーシャにはそれが分かっていた。
目的を思い返し、楽しむことの一つさえ許されないことを共に確認しながら無事を祈り合う。
「これから何が待ち受けているのか分からないけど、アーシャはいつもみたいな無理はしないように」
「無理はするものだよ、けど、死ぬようなことはしないから」
リリアンヌがアーシャをカレシと呼ぶ理由が薄らいでいるのだろうか。目に宿る感情の尖りが削れて丸みを帯びているように見えた。
「そっか、アーシャも彼女になったんだ」
そもそも今回はしっかりとリリアンヌに相談を重ねている。この時点でこれまでの行いとは異なっていた。その場でこそりと明かしたり確認無しの行動に進む彼女の姿はなりを潜めていた。
「彼女になったんだって、なにそれ」
目に見える苦笑いを捧げる白い肌と灰色の目に吸い込まれてしまう。この顔が好きで堪らない、リリアンヌの心をどこまでも運んでしまいそうだった。
「別に、私が勝手に思ってただけ」
それはまさにこれから語る必要の無い心情。暇なときにぽつりと零すくらいの言葉がお似合いのものだった。
「じゃあ、寝よっか」
「おやすみなさいだね」
二人それぞれシャワーを浴びて再び顔を合わせたとき、アラームはいつも鳴らされる時間よりも明らかに早い時間に、小さな数字に針を向けられた。
それから特に話すこともないまま布団へと潜り込む。本来話したかったことは幾つもあって、どうでもいいと他者から笑われてしまうようなことでも幾つでも言葉を交わし合いたくて。
しかし生き残らなければそれも永遠の向こう側にまでお預け、二人がどれだけ想い合っても語らうことの出来ない所にまで行ってしまう。それだけは避けていたいのだとしっかりと睡眠を取ってやがて迎えた朝。
アラームによって起こされ手早くパンを食べて茶を流し込んで外へと歩み始める。身体にねっとりと塗り付けられるようにのしかかる気怠さを堪えながらバスを待つ。倒れてしまいそうな程に揺れる身体が踏んでいる地面はこの上なく静かなはずなのに小うるさくて愉快に想えて仕方がなかった。
今は我慢、耐え切れれば、間に合いさえすれば次は飛行機の中で幾らでも眠ることが出来るのだから。
それだけを頭の中に叩き込んで意識を保ちながらバスに乗り込む。
バスが人々を飲み込んで出入り口を塞いで数秒後、想像もしていなかったほどの揺れに襲われてアーシャは気分の悪さを覚えてしまった。
揺られて昨日と同じ道を進んでいる。駅前のバス停から電車に、都会で降りて改札を抜け。何も変わりの無いはずの景色、寧ろ人の流れが失われている分早く移動が出来るはず、そのはずなのに。
揺らめきながら歩く道はどこまでも遠く感じられた。
やがて更なる電車を視界に迎え入れて、飲み込まれて。
たどり着いた空港に備え付けられた座椅子で一息ついてやがて迎えた時間。
番号での呼び出しの声に従うままに歩かされて飛行機に乗り込む。
やがて説明が行われて流れる静寂を経て重たい鉄の塊は空を飛び始めた。
窓いっぱいに広がるものは青空と綿のような雲。
そんな子どもの頃に夢見た景色の流れに愛おしさを覚えながら流れる時間の中、気が付けば意識はどこかへと引っ込んで、それぞれに夢を見ていた。
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