第10話 黄緑色

 静寂が耳に響く。リリアンヌが今背を向けている男はどれだけ背の高い人物なのだろうか、リリアンヌでさえも目前にて顔を上げなければ目を合わせることが叶わない。

 剣を向けられて沈黙の時間を味わう。男にとってそれがどのような意味なのか分かっていることではあるはず。

「観念したらどうか」

 リリアンヌの口は想像以上に滑らかに動いていた。発せられる言葉のひとつひとつはしっかりと空気を伝わって男の耳に届いていないなどとは言わせないだけの伝わりを生んでいた。

 一方で男は口元を緩め、肩を震わせ始める。

「嬢さん、そのような危険なものを振り回して」

 男の目は嘲りの情を含んでいた。

「身の丈に合わせろとは母にでも学んだことだろうか」

 途端のことだった。

 男は見るからに力強さを誇っている足で床を蹴り回転を始めた。

 その足はリリアンヌが伸ばしている右手に直撃し、空色の剣はその手を離れる。輝きの回旋は薄らと輝きを残しながら、綺麗な残像を描きながら吹き飛んでいく。

 リリアンヌは右手に受けた痛みに思わず顔をしかめて手を引っ込めてしまっていた。

「身の丈の扱いやすさでは俺には届かなかったようだな」

 それから更に間延びした沈黙の中、リリアンヌは言葉を見失っていた。これからどのように打開すれば良いのだろうか、思考が解決の地点にまで届かないまま宙に下がってゆらゆらとふらふらと。

 迷い続けている彼女に対して男は言葉を振り絞る。

「大人しく死んでいただこう」

「リリアンヌ」

 前から後ろから、異なる言の葉が舞い込んでくる。

「嬢さんには申し訳ないが生きたまま放すほど野良人間には興味が無くてね」

「翼を剣に、石を当てて」

 アーシャの高く優しい響きを持った声と男のたくましくも枯れた声が飛び交っていく。

「諦めろ」

「諦めないで」

 本音、剥き出しの感情、捲られ開かれた想いのカーテンの向こうから飛び交う即興の劇を執り行う者たちは果たして演者と呼ぶことは出来るだろうか。

「死ぬがいい」

「愛してるから」

 愛、その形、見えないはずの唇の動きが見えた気がした。

 リリアンヌは左手に収まっている埃が差されたような色の濁りに染まった金属のクルミを開き、青白い輝きを周囲に撒き散らす。

 魔界鉱物、アーシャの研究成果。鉱物錬金と呼んでいただろうか。その研究の軌跡と成果はかつて科学側の世界で女性初の偉大なる賞を与えられたあの人物を思わせる。

「死ね」

 男は拳銃を取り出し引き金に指を伸ばす。

 リリアンヌは背中から生えていた翼を失っていた。

 左手には空色の剣が握られていて、いつの間にか右手に収まっていた鉱石の輝きが濁り切ったクルミを照らして弾いて輝きの舞いを見せながら空色と重なる。

 構うことなく男は拳銃の弾を撃ち出す最後の手順を経た。

 引かれると共に押される。乾いた音は目にも止まらぬ速さで目の前の女を容易く貫くはずだった。

 しかし、気が付けば銃弾の数は増え、否、砕かれて宙に散りばめられていた。

「散れ」

 男は目を見開いて口を震わせながら不安定な声を上げていた。

「な……なんだ、なんだその目は」

 見事な威圧を感じて男は演じているかのように分かり切った反応を向ける。

 しかし、次に語られたことはリリアンヌの想像を超えていた。

「なぜ、色が……なぜ変わっている」

 リリアンヌは確認することが出来なかった。鏡もなければ鉄も顔を映すような鏡面を保っていなかった。己の顔を映す何かがあったとしてもそこに目を向けた一瞬の隙に銃弾が運命を断つことだろう。男の目に反射する色は青白い輝きに照らされ染められて上手く色を確認できない。

 全てがこの場で不確実ならば、確実な場所を見付けるまで保留とするまでのことだった。

「待ってくれ、答えろ、それが本当の力なのか」

 男に向ける答えなど既に決まり切っていた。

「あなたを喜ばせるための言葉なんか、持っていない」

 そんな言葉と共に放つ一閃、それはリリアンヌの思う一線を超えることなくただ男に触れて意識を奪い去るだけだった。

 その時に描いた扇を思わせる攻撃は草木を思わせる優しい黄緑をしていた。それこそがあの男が今回の活動から意識の底へと持ち帰った土産、リリアンヌの今の瞳の色だろう。

 リリアンヌの身体はすぐさま後ろへと振り向いて愛しの彼女の顔をその目に納める。

「アーシャ」

 銀色にも見える金髪に灰色の目、見れば見るほど先程の心がつかみとった印象が焼き付いていく。魔法の世界にも研究に関する賞があれば受賞したものだろうか。

 剣を用いて帯を切る。先程と打って変わって易々と断ち切られ、今の剣の効果の及ぶ範囲を思い知らされた。

――生かすも殺すも私次第

 対象を選び抜いて切り裂く事の出来る剣、意思によって幻影にも実体にも変わる不安定な存在だった。

――上から見ているようで気分が悪い

 選別などしたくはない、しかし守りたい人のために能力を動かし続けたい。そんなわがままの中で黄緑色の剣は身を歪めながらただそこにあった。放つ輝きがどこまでも頼りになって、そしてどこまでも憎たらしい存在となっていた。

 そんなリリアンヌの感情など見て取ることも出来ないだろう。当然のようにアーシャは言葉を贈る。

「ありがとう、綺麗な剣だね」

 綺麗なだけじゃなくて、そう続けられて思わず頬を赤くして聞き入っていた。

「役に立つ」

「斬るものそうじゃないもの全て私が選んでる、なんだか嫌だ」

 そう述べるリリアンヌの身体を抱き締めてアーシャは顔を近づけて力ない声を靡かせる。

「さすが私の彼女ちゃん、斬る対象を決められるなんて優しい剣」

 きっと彼女には美しいことこの上ない魔法のように映っているのだろう。灰色の目が捉える事実の中に宿る感情こそが優しかった。

 そこから更に言葉を重ねてやるべき事を、進むべき道の方向を声で指して促していく。

「でねでね、私が倒さなきゃいけないのが向こうの部屋にいるから」

 終わりではない、まだまだ立ち向かうべきものがいる。それは果たして何者なのだろう。

 二人揃ってドアをくぐり、再び廊下へと身を放る。

 探すべく、見付けるべく、歩き続けることたかだか数分、そこに二人は苦手な光景を見ていた。

「これは」

「そうだよね、そうなるよね」

 温かみを含んだ色の床を浸食する黒々とした影の塊がそこにはあった。

 細長い触手のような根が張り巡らせて重なり合ってそれぞれが気ままなリズムで脈を打ち、とてもではないが見ていられるものではないと顔をしかめる。それぞれに見ていた光景とは如何なるものなのだろう。

「うう……ピンク色の、粘膜かな」

「黒々とした影がキモチワルイ」

 互いに見ているものが異なるという事実。もしかすると誰もが正しい姿を認識できないだけなのかも知れなかった。

 リリアンヌはそんな影に一度剣を突き立て睨み付ける。

 途端のこと。

 脈は穏やかだったはず、彼女の目に映るそんな異様なものはピクピクと震えて痙攣のような様を見せている。

 やがて震えは大きく激しく成り行き続いて開かれた道にもまた黒い影が這っていた、張られていた。

 先程道を空けたそれは震えながら空気をも持ち上げて木々のような有り様を見せている。

「気持ち悪いよ」

 そう述べてアーシャはポケットから青白い輝きを放つ瓶を取り出し、蓋を開ける。白い厚手の手袋をはめてそこに詰められた鉱石を、アーシャの功績の証を手に取り触手に向けて翳してみせた。

 輝きを放つ石、その光に魔力を込めて触手を焼き切るように腕を振って、嫌悪を呼び起こす姿の権化を切り裂いた。



 それはリリアンヌがまだ真っ直ぐ突き進んでいたときのこと。

 朝露は異邦人の背中が遠ざかっていく様を左目の端で捉えながら影の剣を更に取って。刺しては引いてゆらゆらと揺らめく炎の帯を裂き続けていた。

 帯は引っ込みながらも朝露の目の前にて存在を誇示する。見失わない程度の速度で案内しているよう。

「そんなに倒して欲しいのかしら」

 分からない、その炎に意思や感情が宿っているなどとは到底思えなかった。

「お望み通り、地獄に突き落としてやるわ」

 そう述べて帯の引っ込むままに進み続けてある部屋へと足を踏み入れる。

 帯が大量に集まる様、浄化の証の炎がどれだけの数浮いていてそれぞれに強弱をつけながら輝いていることか。そんな景色に見とれてしまっていた。

 瞳の潤いが景色のきらめきに反応するかのような輝きを見せていてまさに非日常の中にいるのだと高らかに告げていた。

「狩るわ、終わりにしましょ」

 そのひとことに呼応するかのように帯の揺らめきは激しくなる。それと同時のこと。

 朝露は冬の夜からは程遠い熱を感じていた。

 身体中が熱に覆われて思考も呼吸もままならない。

 見渡す限りそれは広がり視界を覆い尽くして、景色の一つさえ見ることが叶わない。

――外はどうなっているの

 それ以前の問題、朝露本人の状態すら把握できずに今という時を過ごしているという実態。

――リリアンヌ助けて

 乗り込んだからには出来ていたはずの覚悟は緩み、身体からほどけて焼け爛れて。

 このまま朝露の中に生まれた恐怖心が熱した鉄のような鋭さで背中に張り付き感情の全てを奪っていく。

――どうして私がこんな目に

 己の選択、勝手に突き進んで勝手に枯れ果てた運命、既に終着点は見えてしまっていた。

――こうなるならこれはリリアンヌに任せるべきだったわ

 後悔、自分勝手な本性が自身の内で展開され続ける。未だにその様なことを考える余裕があるのだろうか。

 炎の帯たちは黄色を帯びて更には白へと染め上がる。

 神々しさに見とれることもなくただ言葉を振り絞る。

「殺さないで、身代わりを出してあげるから、もっと質の良い生け贄よ」

 生きるためならばどのようなことでも考える、そんな思考を、身勝手な思想を断ち切るように女の声が響いてきた。

「罪な人間、その穢れを祓おう」

 声では判別も着かない、似ているだけかも知れない、そう思ったものの発音や力の込め方で勘づいてしまった。

 その声は、朝露と同じもの。

「炎は浄化の象徴、その頭を焼き払うことこそ相応しい」

 果たしてその能力に感性はあるのだろうか、人間の願望など理解できるものだろうか。

「罪人を清めよう」

 炎の中、抗う術はないのだと悟り、力なくうなだれることしか出来なかった。



 それは床一面に広がる何か。影のように見える人物もいればピンクの艶がかった粘膜の触手のように見える人物もいるのだという。

 浸食するそれは味気ない造りの中に現れた生命の流れ。禍々しさを感じていても生々しさを感じていても、とにかく非日常の中に潜む脅威なのだということだけは易々と感じ取ることが出来た。

「これは……育ったのかな」

 アーシャは考えながら言葉を操っていた。

「餌でも食べたんだろうね、多分」

 上手く纏まらない語彙は中々上手く引き出されることなく簡単な言葉だけがリリアンヌの耳にまで入るのみ。

「このまま更に何かを皿に乗せる可能性がある、それがソレの為せる業、そうか」

 リリアンヌは何となくという言葉を飾るに相応しい程度の理解を振りかざしながら言葉にして風すら吹かない流れすらないそこにどうにか流していく。

 彼女たちがこの邪悪をどうにかしなければならないということ、それだけは確かだった。

 リリアンヌは分かっていたのだから。その邪悪は侵入してすぐさま朝露が立ち向かった相手、勝つことが出来なかったのだろう。生存という希望に満ちた星の輝きを手に入れることが叶わなかったのだろう。

 確かに敵の本拠地、簡単で無感情な部屋の中に自然のきらめきが、至高の星が転がっている気配はなかった。

「あれを倒す、多分あれが計画のために必要な存在」

「させません」

 突然挟み込まれた見知らぬ聞き知らぬ、そんな存在感と声を操り届けられた言葉にリリアンヌは振り向かされる。

「それは、愛する夫と快楽のついでに出て来ただけの娘を取り替える取引をおこなって下さるの」

 どこかアーシャに似た響き、アーシャに大人の色気を加えたような顔立ちと体つき、アーシャはきっとここまでたどり着けなかったのだろう。人々を惑わす雰囲気はリリアンヌの心を一瞬で奪い去ってしまいそう。気を引き締めて美しき顔立ちと向かい合う。

「娘のことを思わない母がいるなんて」

「お母さん」

 アーシャの目は虚ろ。自分が遊びのついでに出て来ただけなのだとはっきりと述べられたというだけのこと、それだけで絶望の深淵の中をどれ程までもどこまでも潜り続ける事が出来た。

「アリサ、所詮は友だちなんかでしょ、そんなのより私の言葉に従いなさい」

 アーシャの目は無感情の象徴へと成り果てていた。感情の色を持たないその目はどう足掻いても彼女の幸せにまでたどり着けそうもない。

 そんな彼女が人としてたどり着くべき場所へと案内すべく、リリアンヌは二振りの黄緑色の剣を取り出した。

「アーシャ、大丈夫だから、その目に私を映して」

 ただ振り向いて、力ない動作の中に感じられるのは微かな温度だけ。そこの底に微かな希望すら感じられない。アーシャの目に輝きを宿すのはリリアンヌの仕事だった。

「大丈夫、目が覚めたら全て悪い夢だったって言える」

 そう述べて左手に握り締めていた黄緑色の剣をアーシャに手渡す。細い指はしっかりと握り締めて、リリアンヌの温度に暖められていた。その目はリリアンヌの温もりの輝きによって照らされていた。

「悪いことだけ、悪いものだけ斬って。いいかな、悪いところだけカットして捨てるの」

 まるで没シーンのような扱いを示す言葉にアーシャは思わず微笑んでしまっていた。

「人生を映画みたいに言わないでよ」

「映画の中の人もそこに人生を持ってる」

 そんなわけない、そんなことは二人ともに理解していた。しかし考えようによっては正しいとも。真実に迷いながら、真実をその手に既に持っていることに気が付かないまま、突き進もうとしていた。

「冗談、でも悪いことは全部食べてお仕舞い、切り捨てて綺麗な花に変えて」

「そうだね、本当は優しいお母さんだもの」

 おかしくなってしまったのはいつのことだろう、思い出に浸りながら、記憶の底を目指しながら目の前を突き進むべく、駆け出し始めた。

 そんな様子を目にしながらリリアンヌは深呼吸を一度、続けて振り返って。右手は剣をより強く握り締める。

「この悪魔にいつまでも怯えてる場合じゃない」

 黄緑色の剣は透き通る輝きを放ち続け、リリアンヌに二つの目標を覚えさせる。

――まず一つは悪魔の撃破

 当然のこと。リリアンヌとアーシャの力の混ぜられた剣ならきっと届くはず、そう信じて相手を睨み付ける。

――もう一つは

 無風の空間に風が巻き起こる。褐色の脚が踏み込み床を蹴ったがために現象は起きた。それ程までに力強かったということ。

――アーシャが幸せを迎え入れるまで絶対意識を保つ

 リリアンヌが貸した剣はリリアンヌが落ちると共にこの世界から姿をくらましてしまう。悪魔の権能や触れたときに訪れる現象が如何なるものだったとしても決して屈してはならないということ。

 かつて母が戦った悪魔の中には夢の中に解決の鍵が隠されていたこともあるようで。

――絶対に負けるものか、能力すら覆してやる

 思考を回している内に悪魔のすぐ傍にまで迫っていた。

 触手に向けて一度大きく剣を振るうだけで相手は大袈裟に触手を振り回し始めた。

 見えてでもいるのだろうか、別の器官でもついていて認識できるのだろうか、更に剣を振る度に道を開く数多の触手たち、それが宙に浮いて揺らめくさまは恐れなのかそれとも人には見通すことの出来ない感情なのだろうか。リリアンヌがゆっくりと歩む時にも襲いかかることなくただただ両端で揺れているだけのこと。

「臆したのか」

 捉えよう、勝手にそう捉えておこう、大きな気持ちを持つことこそが悪魔をも打ち破る手段の一つとも言えるのだから。悪魔に勝つための条件の材料の一つなのだから。

 奥へ奥へ奥へ、確実な足取りで進むリリアンヌを迎え入れるように触手たちは道を開き、輝きすら寄せ付けない不自然な影の波が揺れ続けている。

――そのまま進んでも大丈夫なのだろうか

 そんな不安さえも振り払って無理やり進み続ける。

 やがて深く成り行く部屋、明かりすら拒否するそこ、自分の気に入らないものをいとも容易く出禁にしてしまうわがまま悪魔が呼び出されただけの身分が偉そうに居座っていた。

 影のコントラストは景色すら見えない闇色、そのはずなのに。

「暗闇でもはっきりと見えてる、悪魔め」

 リリアンヌの目に映っているそれは山羊の顔をしていた。それが人の如き身体をしている様は被り物でもしているように見えてしまう。

「ああ、これこそが人の命をも交換と称して弄ぶ罪なる生き物」

 その神性に神聖は見られない、新生のそれは生まれながらにして成人の姿を持っていた。

「アーシャは渡さない」

 それは悪魔の意思ではないのかも知れない、悪魔は何を考えているのか、全ては影の中。

 そんな中でもリリアンヌを地獄へと引きずり込もうと考えていることは分かっていた。

 その悪魔の意志は、快楽が呼んでいるのか身を護るためのことなのか。

 黄緑色の剣を向ける。

 山羊は何かを叫ぶように鳴き声を上げた。

 リリアンヌは足を踏み出して一度大袈裟な斬撃をお見舞いする。

 途端に山羊の触手は剣を受け止めようと張り巡らせ壁となるものの、すぐさま溶ける。目に見える影の塊だったものはたちまち不可視の影に溶けて消え行く。

――効いてる

 これからどのように狩るか、それすら分かっていないもののただもう一度剣を振る。

 それを合図にしてか、突然部屋から薄っぺらな影は消えて明かりが灯る。

 闇を固めて創り上げられた誰しもが信仰の対象から外してしまう山羊の姿がはっきりと映っている。

 触手を振るう姿は鞭を振る女王のようでリリアンヌは顔をしかめてしまう。どこまでも現実味のある嫌悪感はきっとヒトに対しても向けたことのあるものだろう、所詮は感情の使い回しでしかなかった。

 山羊の悪魔を観察、床にまで視界を巡らせることでようやく気が付いたことがあった。

「朝露はどこにやった」

 訊ねられても言葉は分かりません、とでも言うような見事な無言を貫く山羊に向けてもう一度剣を振るう。

 更に触手を犠牲にしてどうにか存在を守り抜く悪魔の姿が次第に哀れに思えて仕方がなかった。

「朝露は、交換は」

 命の交換という彼らの目的は達せられていないことを確認しつつ剣に目をやることで山羊に効いている理由を今更悟った。

 恐らくはアーシャが魔界鉱物と呼んでいる、あの物質の影響を受けているがためだろう。

 剣による輝きは明かりの中でも薄れなかった。ガラスを思わせる透き通った刃に射し込む光は通り抜けて黄緑色の輝きを引き摺って。

 そんな輝きに充ちた剣を再び振るい、更に触手を断ち切って、幾つもの傷を加えて見せては希望への活路と称して攻撃を加えていく。

 目の前の山羊は鳴き声を上げ続けるものの、そこに宿る感情は一切知ることができない。

 やがて触手は全て消え去り、ようやく身体にまで攻撃が届くだろうかと思ったその時のことだった。

 一閃を決めようとしたその剣、大して山羊は頭を下げて角を向ける。

 ふたつは見事なまでの速度で交わりぶつかり合って。

 リリアンヌの目は剣が角によって砕かれる瞬間を目にしてしまった。

――まさか

 剣は二つに分かれ、先の方はリリアンヌの頬を掠めて通り抜けて。

 唖然とする褐色肌の少女に向けて山羊は角を武器として突きを始めた。

 そんな攻撃が近付いてくる。様々な感情が入り乱れて上手く動くことの出来ない自縛の金縛り。

 近付く角、反対側ではガラス質の音が立ち、床に剣の破片が落ちたのだと知る。自縛の呪縛を解いたのは澄んだガラスの音だった。

 途端にリリアンヌは構え、角の一撃を躱す。続けて高速でかかってくる角を剣で受け止めて、その度に少しずつ欠けていく剣に意識を向けながら、吹きすさむ突風に肌を軽く切りつけられながら、何度でも受け止めて。

 そこから一歩、受け止め続けて更に踏み出しもう一歩、猛攻に見えない感情、その全てを無視してしゃがみ込むように腰を引いて、悪魔のみぞおちに剣を刺し込んだ。

 それと共に悪魔は分かりやすい悲鳴を上げる。聞くに堪えないひび割れた声は人の心に暗い気持ちを生み出す才能でもあるのだろうか。

 これで山羊は命を失って全て終わり、油断を掲げながら剣を引き抜いた。

 そんな想いの隙が空白の穴を開けてしまったのだろうか。そんな余白を突いたかのような現象がリリアンヌの脚に絡みついて、奈落の底へ、暗闇の果てへと引きずり込もうと企んでいた。

「どこまで身勝手なんだ」

――私こそ身勝手なのかもしれないけど、助かりたい

 巻き付いてくる闇は全てを想いのままに支配してみせようと意志を見せつけてくる。山羊の顔以外は原型すら残さない闇の靄と化してしまっていた。

 意識をも奪い去ってやろう、心も体も存在そのものをも時の軌跡から消し去っていこうかと意志を暴れ回していく。

「来るな、乙女の身体に触れるな」

 思ってもいない、所詮はただの生き物、そこに特別な価値を感じてなどいない。飽くまでもリリアンヌはニンゲンでしかないのだと分かっていた。

 それでも偽りの壁を張ってでも抗わなければ生き残ることなど叶わないものだろう。

「山羊め、大人しく向こう側の世界に帰って鳴きながら暴れていろ」

 剣を投げつけてみせる。

 黄緑色の放物線を描きながら進み続け、やがて山羊の頭を削るように差し込まれて。

 山羊は懸命にこの世界にしがみつこうとリリアンヌの脚に絡みついた闇から力を吸い上げようとしていたものの、この世界に留まるには足りなかったようで分解されて爆発の如き勢いで散って目の前から消え失せる。

 残された一人、立ち上がる気力さえ残さない異邦の者は今にも意識を失ってしまいそうだった。戦いはとうに終わりを迎え、残るはただの達成感。

 リリアンヌは考える気力の欠片も残さずに床を見下ろす。

 視界に入ったもの、剥き出しの褐色の腕。

 そこに塗り付けられた文字がリリアンヌになけなしの想いを運び込んだ。

――何これ、変な文字

 蘇ってきたのはある日の光景。近かった、太陽は一周すら巡っていないはずだった。しかしながら既に遠い昔のようなぼやけて掠れた追憶の体験。

――愛する二人が離れられない呪い

 リリアンヌの脳裏にひび割れた想いがひっかき傷を作る。

「まだ、倒れるわけには」

 アーシャが勝利をつかむまで意識を落とすわけにはいかなかった。既に倒しているのならばそれで良い、しかしアーシャが交戦中だった場合、ここで倒れてしまえば愛する彼女の武器が失われてしまう。

――なにか、出来れば

 見上げたそこに居座る輝き、日頃からリリアンヌが持っているきらめき。

 床を這いながら突き立てられた剣の破片を目指していく。上を向く断面は初めからその様なデザインなのだと主張するかのように馴染んだ輝きを放つ。空気に微かな輝きで色をつけるそれを見つめる。

 這いずりたどり着いたそこに刺さった破片を引き抜き、想いを言の葉の脈に流し込み、伝えていった。

「どうか、アーシャに救いを」

 そうして破片を放る。どこまでもどこまでも、勢いを落とすことなく突き進むそれはどこを目指しているのだろう。勢いを与えた本人にも理解を応答にしないまま、視界の外へと消えていった。



 二人の女、顔や立ち姿、格好の癖がどこか似通った二人。

「アリサ、従いなさい、お父さんを呼び出すの」

 父がどのような人物なのか、アーシャの記憶の中に残る顔は、ただの図形でしか無かった。

「ごめん、私、死にたくないから」

 剣を構え、一度大きく振る。不自然なほどに重みを感じられないそれは軽々と振るわれるものの、アーシャ本人のつけた勢いは身体に過剰な重みを乗せる。

 そうして崩れた体勢の隙を突いてエレンの手がアーシャの手首を締め付ける。

 扱い慣れない武器は首を絞めるように苦境を呼び寄せてしまった。

「さあ、山羊の所へ行きましょう」

「どうして、私のことなんかどうでもいいのかな」

 そんな言葉が産み落とした沈黙は一秒にも満たない。しかし一瞬が永遠にすら感じられた。

 母の返答、それを読み上げる声はあまりにも淡々としていた。

「私がおなかを痛めて産んだ子だもの、大切よ」

「だったら」

「だったら役に立ちなさい」

 私物程度にしか思われていない。そんな事実を突きつけられて心は得体の知れない路頭に迷ってしまう。

 血の繋がった人物にここまではっきりと生きる価値を否定されてしまうなど思ってもいなかった。

「酷いよね、私って結局誰かの為の道具でしか無いんだね」

「ええ、そうならないことを祈ってたけれど、全てが整ったもの」

 アーシャの目に映る者、その中の誰が大切に思ってくれるのか、何一つ分からなくなっていた。探ってみたところで、隣を歩んでみたところで、全てに使い捨てと蔑まれてしまうかもしれない。

「お願い、お母さんの言うことを聞いてちょうだい」

 無価値、不要、心も意志も何もかもが無くても変わりない、そんな世の中。結局今必要とされているものはアーシャ自身ではなく魔法の材料の肉塊。

「もういい」

 左手で剣を拾い上げて母を闇に葬ってみせようと力を込める。

「そんなにお父さんと一緒が良いなら連れて行ってあげる」

 明確な殺意が固まった。黄緑色の輝きは黄緑色のまま、殺意を寄せ付けない。殺意は明らかにアーシャ本人が持っているものだった。

 剣の澄んだ光に禍々しい感情を織り交ぜて一撃を浴びせようとした瞬間、アーシャの視界は隅から向かってくる光を捉えた。

 その輝きは剣と同じ色をしていてリリアンヌの助けが来たのだと悟らせる。

 身を後ろへと下げ、母を盾に、的へと変えようとしたその瞬間、剣の破片は軌道を変えてアーシャへと向かい行く。

――どうして

 分からない、理解を獲得しようと思考を巡らせるものの、結果が先に訪れた。直撃した刃が示す温度は痛みの錯覚の熱だろうか。

 すぐさま違うことを確認した。

 胸の内に広がる熱は身を蝕むものなどではなくアーシャに温もりを与える優しさだった。

 アーシャの頭の内を駆け巡る声が全てを包み込む。

――行かないで、絶望の果てなんか目指さないで

「リリアンヌ」

 思わずぽつりと呟いていた。

――これからも私と一緒に生きて

「そう……だったね」

 アーシャは大きく息を吸い込み、想いを整える。リリアンヌに同調して、意識を見えない彼女に合わせて剣をしっかりと握り締める。

 エレンはその様を見届けて手首をつかむ力を強めてもう片方の手を握り締めて勢いよく拳を振るう。

 しかしながらそんな力による支配はアーシャに届くことなく弾かれて身体は空中へと放り出された。

「なぜ、どうして、反抗期なんて許さないわ」

「反抗期よりも」

 アーシャの灰色の瞳に込められた感情は前を向く輝きの線が張り巡らされていた。

「犯罪の方がいけないんじゃないかな」

 そうして一度、剣を振るう。無駄に入った力、ぎこちない肩の動き、明らかに素人の動作だった。しかし物理の法則などに構うことなく斬るべきモノを的確に斬ってみせた。

「悪しき心、罪なる思想を、光に透かして清めてみせよ」

 母の姿は黄緑色の輝きに包まれた。光というドレスを纏って瞳を閉じて眠り込む。その様は神聖なる存在のようにも思えてしまった。



  ☆



 夜は明け、朝は暖められ、昼は明るみを潜める。

 夕日はどこまでも遠くまでも延びて赤と透き通る橙の向こうを希望の白へと染め上げる。

 いつも通りに噴水を見つめながら肩を寄せ合う二人の姿がそこにはあった。

 あの戦いの後、二人で支え合って研究室を出る姿を出迎えたのは朝露と話していた当直の女だった。後に朝露の末路を知った彼女がどのような顔をしたことか、想像の範囲でしか見ることは出来なかったものの、少なくとも明るい表情で無いことだけは確かだろう。

 彼女が勤めている病院の中で行われた検査の結果を淡々と述べるリリアンヌの口につい見蕩れてしまうアーシャがそこにいた。

「アーシャの鉱物の影響だけど特に問題ないって」

 リリアンヌの力とアーシャの物質の二つの重なりはどうやら未だに輝きの色彩に影響を与えているようだった。黄緑色の瞳は夕日の赤に微かに透けて潤いと共に弾けていた。

「よかった」

 魔法使いの中には鉱物錬金への理解を深めようと動く集団もいるのだそう。研究が進み、アーシャが持つ魔界鉱物は危険の極み、人の細胞を砕いて傷つけるだけの刺激を持ったエネルギーを常に発しているのだと知らされた。

「無事だったし魔法の話は一旦おしまい」

 アーシャの言葉にリリアンヌは大きく頷き噴水を見つめる。

 噴き上がる水は、純粋な心を持っているのだろう。素直に景色の色と同じ想いを靡かせながらミナモに落ちていった。

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