第9話 朝露

 塗り付けられた記号の集い、そこに意味はあるのだろうか。リリアンヌはミレイと向かい合う。褐色の肌同士、ミレイの方が濃い色をしているだろうか。幼い顔立ちをした女をまっすぐ見つめたまま空白の数秒を経て、ようやく口を開いた。

「何これ、変な文字」

 ミレイは不敵な笑みを浮かべる。今にも感情を塗り替えてしまいそうな、苛立ちを呼び起こす程に濃い色は不適ではないだろうか。

「愛するふたりが離れられない呪い」

 日本語ではもっと適切な表現があったはず、リリアンヌはそれを奥の方から取り出して言葉に変える。

「それっておまじない」

 不敵な笑みに加えられた影がミレイの心情を語っていた。得意げな貌の片鱗が妖しく色付いていた。

「のろいもおまじないも同じようなもの」

 そう語ると共にメモ用紙を取り出して筆でお呪いと書いてみせた。

「日本語でいうそれらもこれだもの」

 リリアンヌの口はぽかんと開かれまともに言葉が出てこない。日本語とは実に細かくて奇妙な言語なのだと思い知らされた。

「かつて日本ではよく使われていた誰かを好きになってもらう恋のおまじないとか知らないかな」

「知ってる」

 そう、それもまたリリアンヌの中では日本に対する偏見であり幻想と化したもの、国の中の追憶なのだと思い知らされたことだった。

「相手が別の人を好きになるかも知れないのにそれを動かして思いのままにする」

 言われてみれば、そう返す事しか出来ない。人の感情を本来あるべき所から無理やり引き寄せる行いなど呪いと特に代わりはなかった。

「呪いなんて名付けられるけど、特別なものなんかじゃないよ」

 ミレイの人生の中で、たかだか一人の女が歩む人生の中で顔に似合わぬ業でも背負ったかのような口ぶりだったものの、声に相応の重みはなかった。

「言葉に意味をつけることも、そうした言葉を使って躾や教育、感情で相手を動かすことまで全部同じ」

「そこまでは言い過ぎ」

「そうでもないわ、名前に込めた意味、それに縛られた人もいればいつも期待を向けられずに親の言葉のままに落ちこぼれる人だっているよ」

 そんな言葉に耳を傾けてしまっていること、それもまた雰囲気や流れが作り上げた一つの呪いなのだろうか。リリアンヌが訊ねると共にミレイは一度大きく頷いた。

「そうだね、もしかして退屈してるかな」

 リリアンヌの興味の範囲などとうの昔に飛び越えてしまっていたものの、嫌いだとも言い切れない言葉の数々、それを表す感情を見失っていた。

「こうして関係を繋げる呪いだったり感情の形を表す言葉だったり、そのひとつひとつでさえもが呪いよ」

 キリが無い、ミレイの言葉を真に受けては何も出来ない、確かにこの会話の中を飛び交う言葉の全てが呪いとも言えた。

「最後になるけど私からもひとつ、呪いをあげる」

 可愛らしい唇からどのような言葉が飛び出して来るのだろうか、それはリリアンヌの役に立つ言葉であるだろうか。ひと時の沈黙の中、心臓が激しく波を打つ。静電気を思わせる動きはどこまでも深くて重い空洞の想いを作り上げる。

 興味の温度でも計っていたのだろうか。褐色肌の大人びた顔が落ち着かない貌をしていることを見て取って、ミレイの口はしっかりと言葉を操ってみせた。

「アリサちゃんを助けなきゃ絶対に許さない」

 静寂の空気が心の空洞、そこに落とされた言葉は確かに呪いという形をしていた。



  ☆



 暗闇の中、何者かは動き出す。空色の瞳の輝きは薄らと空気の中に滲んで色付いて。

 暗くて見えないそこで、かつて空色の瞳の持ち主が仕事で守ったそこで、空色の敵意を向ける。

 何者かそれすら分からないあの女はきっと知っていたのだ。この花壇で元気いっぱいのチューリップ、今にも歌い出しそうな元気を可愛らしい色に混ぜて灯されたそれらは間違いなくおぞましい実験に使われているものなのだと言うこと。

 あの女が何者でどのような立ち位置で次はいつ現れるのか、一切分からない。

 しかしながら分かってしまうことが一つだけあった。

――あそこで敵対したのは失敗だった

 これから孤独の戦いが始まるかも知れない。敵の中には恐らくアーシャの母も混ざっているだろう。救うべき仲間と対立する可能性を思い描くだけで震えが止まらない。

――アーシャは黙って動くし何より意志が強いからなあ

 かつて魔女との戦いがあったこと、その日を思い出した。

 意気地無しだったリリアンヌ、初めて戦いに巻き込まれた彼女をしっかりと守りながら敵に向かっていったアーシャ、彼女が死の運命に引っ張られそうになったその時ようやく発動したリリアンヌの空色の剣。

 あの日のことは誰に何を言われても忘れることは出来なかった。

――絶対に助けたい

 リリアンヌの決意は固まっていた。

 暗闇に閉ざされた空の下で昼間の明るみの空の瞳、微かに景色が映る程度の頼りない目で家を見つめて突撃する。窓を割り、中へと滑り込んでいく。身体はガラスの破片を纏いながら、鋭く細かな痛みに耐えながら倒れ込むように流れ込んだ。

 滑り込む、何を見ているのか殆ど分からなかった瞳は明かりの方へと流れていっているのだと気が付いて眩しさに思わず細められてしまう。

 割れた窓ガラスの破片はキラキラと輝きまるで床の彩りのよう。

 そこに身が乗ることを恐れたところで既に床の感触はしっかりと身体に根付いていた。

 身体を起こして見渡す光景、白くて安っぽい壁はマンションやアパートと変わりなく置かれた家具たちの質感もまた、全体的に値段の壁に頭を擦りつけたような色を被っていた。

 何もかもが生活感に塗られて薄汚れていてリリアンヌも将来その様な家に住むのかも知れない意と想像を巡らせると共に強烈な嫌悪感が併走を繰り広げる。日本に永住するという可能性を持っている限り仕方のないこと。

 更に見回しても人の姿はない、そう結論づけたその時のことだった。

 いつの間に現れたのか、どこの間から現れたのか、ヒトの形を目にしてリリアンヌはすぐさま口を開いた。

「あなたは一体何者か」

 気が付けば侵入者、それが先日以来を引き受けた異邦人でおまけに今に至っては空色の瞳で睨み付けてきている。それだけでも慌てふためき心情を整えられない様子。

 そんな男に空色の剣を向けて意識を生存の方向へと追いやって訊ねる。

「チューリップの花はアーシャと関係あるのか」

「あ、あああ、アーシャって誰かな、あと剣をどけて」

「答えて」

 強い声色は更に男を気押して震えを呼び起こす。このままこの男と向かい合うために消費される時間が勿体なかった。

「アーシャって誰だよ」

 腰の抜けた声は弱々しく響いてあまりにも情けない有り様を見せていた。

 三白眼の迫力に気が付いていないのだろうか。リリアンヌは己の気迫に自覚を持たないまま重圧を質問の代わりにぶつけていた。

 そんな雰囲気に潰されかけて震え上がる男は何も答えることが出来ないまま。

 二人の時間、緊張と恐怖に支配された空間の中にもうひとつの声が仲間入りを果たして声を挟み込む。

「アリサ・セヴェロディヌスカ、あなたたちの実験材料の〈北の錬金術師〉よ」

 声のする方へと視線は流される。男は新たなる絶望の訪れに、リリアンヌは聞き覚えのある声に対する驚きを、それぞれ異なる感情を表すべく同じように目を見開いていた。

 そこに立つ女の姿は大人のもの、灰色がかった茶色の髪と同じように黒みを持った茶色の瞳に全体的に薄っぺらな骨格で作られたような顔をしていてリリアンヌの中では初めて見るものだった。

「あなたは」

「その輝き、貴女のような若い子が庭の守人のバイトをしていたのね」

 純粋に女を感じさせる顔を各方向に広げる女は少し枯れ気味なのだろうか、かさついた声で訊ねていた。

「ええ、そう」

 リリアンヌが選んだ言葉はあまりにも簡潔であまりにも個性を感じさせないものだった。

「で、男、答えなさい」

「なっ、何をだ」

 身振り手振りが怪しさに充ちたもの。挙動不審は彼が所属する勢力の行いへの後ろめたさを表すには充分すぎる程に的確な状態。

「とぼけないで」

 女の声の響きは大した強さを持たない、響きが悪い、生の気配を控えめに漂わせるだけで活力は見当たらない。しかしながら今の男を黙らせるには充分すぎる効果を発揮していた。

「ひい」

 情けない声をあげていつまでも答えられない。言葉を発しようと口を開くものの声にすらならないようで、上と下の歯が微かな触れ合いを繰り返してはかちかちと不快な音を立て続ける。

「答えられないなら仕方ないわ、コイツを実験材料にするしかないわ」

 この女の愉快な表情に対してリリアンヌが抱く印象など恐怖しか取り残されていなかった。どのような実験を行うつもりなのだろう。なんとなくだが不穏な気配を感じ取るに至るのみのこと。

「じ……実験」

「そうよ、どうすれば感情や事情に関係なく口を開いてくれるかの実験」

 それはあまりにも非人道的な工程を彷彿とさせる。詳しい説明など聞きたくも無かった。

「や、やめてくれ助けてくれ」

 恐怖感は命乞いの言葉ばかりを引き出す。もう少し賢く生きることは出来ないものかとリリアンヌは呆れを顔に出しながら黙っていることしか出来なかった。

「じゃあ話しなさい」

 女がコートのポケットから取り出した凶器を目にして男の目は焦点が合わない程に震えていた。部屋の照明を跳ね返して立派に光るそれはただのナイフ、魔法使いである彼はそこに如何なる危険性を感じたことだろう。

「研究施設だ、総合病院の隣にある建物」

 たかだか言葉一つを引き出すためにかけられた手間を惜しみながら女はリリアンヌの手を引いて窓からそのまま外へと向かっていく。

「私はリリアンヌ、〈西の魔導士〉と呼ばれる者。あなたはいったい何者」

 女は口元に人差し指を当てて、微笑みながら答える。

「鉄輪朝露、つゆちゃんとでも呼んで」

 それから二人が歩み出す先、そこに広がる闇を見つめつつ朝露はため息をついていた。リリアンヌは不思議な気配を纏ったチューリップが未だに咲かない花壇を睨み付けながら闇の中へと一歩、足を踏み出した。



  ☆



 魔法使いたちが紡いできた歴史はそれなり以上の長さを持っているものの、それが一般人の耳に入ったことなどそう多くはない。

 歴史の片隅、文献に書かれることはおろか知られることすら恐れていたのだから仕方がないことなのだろう。妖術の類い、物の怪の者、そういった言葉を浴びせられることは貴族たる陰陽師から様々な現象を引き起こしてきた一般人から科学者と言った偉人たちが示していたのだから。

 呪術信仰、神への崇拝。そうした事柄とは異なり宗教への信心が薄まらない内に歴史の中へと踏み出すことが出来なかったことが原因であろう。

 あまりにも忌避された思想からやがて魔法を扱える貴族ですら魔法界隈の中にいることを恥だと語って姓名を騙ったのだそう。本当の名を告げることなく地名を仮の姓として、中には名まで隠した人物までいるのだという。今では名まで隠す者は殆どいないのだとか姓も戸籍の制度に伴って地名の名乗りが本物になった者も数多くいたのだそう。

 やがて魔法は非現実的なもの、そう語られる時代が訪れて魔法使いたちはより一層姿をくらます一方でマンガやアニメと言った創作物が蔓延ることによって日常会話の中で話をカモフラージュする権利を得た。

 そうした時代の中で魔法側の歴史も科学文明と同様の流れで刻まれていく。当然のことではあったものの今という時間だけは平等に流れてしまうものだった。

「そんな魔法の世界の中でかつて鉄輪真昼という人物が活躍していたの」

 それはあまりにも狭い地域の中で語られること。

「この地で活躍していた女なのだけど彼女のことを敬う者から恐れる者までいた」

 魔法の中でも戦力が物を言う分野に於いてはあまりにも強すぎて殆ど誰も抵抗出来なかったのだという。

「多分だけど真昼に勝てたのは天使くらいじゃないかしら」

 人の身では追いつくことすら出来ない実力は一つの世界の側面に限ってとは言えども平和にも不和の水底に沈めることでも出来てしまう。

 リリアンヌは目の前の女が名乗った響きに対して質問を投じてみせた。

「もしかして、真昼さんの娘か」

 当然の疑問、朝露は微かな笑いを夜闇に広げがら薄らと肌寒い空気を纏って答えた。

「真昼は養子、そこの家の本当の娘の茜の従兄弟の息子の長男の娘」

 あまりにも遠い、魔法使いたちの地名を名字として仮の名を界隈の名として告げる文化も有り得たのだがその線は一瞬にして掻き消されていった。

「鉄輪家の女よ、是非いっぱい頼ってね」

「真昼と関係が遠すぎる、頼れない」

 このような人物、自分からは関係の遠い人物の名を引き出してくる人物が頼りになるとは思えなかった。

「果たしてそうかしら、これから侵入するんだけどもしかしたら役に立つかも」

 そんな言葉を覆い被せて歩く闇の中、リリアンヌは今も尚隣を歩き続ける大人の女があまり強いわけでもないということをひしひしと感じていた。

 先日のリリアンヌの攻撃への対応を思い出して思考を巡らせる。恐らくは戦闘要員としてはある程度。研究機関の護りはきっと手厚いのだと考えるならリリアンヌが守るべき人物ということ。

――アーシャのことも守らなきゃいけないかも知れないのに

 実験の材料だと推測されるアリサは万全の状態で寝ているとも考えがたい。不安は募るばかりだった。

 やがて病院の境界線の向こうへと足を踏み入れて。

 朝露は大きな建物の方へ、病院側へと歩き出す。

「研究施設は向こうだけど」

 意見を紡ぐリリアンヌの唇にそっと指が当てられる。柔らかな唇にまた異なる柔らかさを持つ指、朝露はきっと優しく笑っているのだろう。声の明るい歪みが彼女の心情を鮮明に語っていた。

「いいの、存在誇示のためよ」

 存在を誇示してどうするのだろう、知られないように忍び込むべきなのではないだろうか。

 リリアンヌの中で渦巻く疑問たちは口から飛び出すこともなく煮えたぎってそこに在り続ける。

 やがて病院の中へと、侵入先の入り口付近のカウンター越しに見える人物は当直だろう。それは若々しさを全面に押し出した女、その人物の顔を見つめて清らかな想いを得る。綺麗な顔立ちと言うよりは汚さを一切持ち合わせないだけといった印象を一瞬で閃かせてしまうのだから確実に印象そのままその通りと考えて間違いは無いだろう。

「来たわ」

 朝露が語ると共に女は顔を上げて二人を見つめ、大きなため息をついて伸びをして更に出て来る欠伸を隠すこともなく。

「まるでねこのよう」

 リリアンヌの言葉がどれだけ的確なのか話してみなければ分からない、不透明なものこそが人間、見通すことの出来ぬ濁りに覆われた存在だった。

「ありがとう、ねこなら可愛いから好きよ」

 女は恐らく自身の容姿の不出来に自覚があるのだろう。

「私は誰の印象にも残らない」

 そこにいて、居ないようなもの、もはや幽霊と言っても差し支えのない存在だった。

「でも憶えてくれてる人はいる」

 訂正された、幽霊などと口が裂けても言えない。見た目に反して思想から言動に至るまで明るみの存在感が強過ぎた。

 そんな会話を経て女は朝露がここに来た目的を代わりに告げた。

「ここの研究施設のこと。ようやく終わらせる気になったんだ」

「なったわ、この子が現れたから」

 言葉と共に腕は伸ばされてリリアンヌの肩に置かれる。その重みは果てしなく感じられて仕方がなかった、実際には羽も同然の軽さだったはずなのに。

「これが責任の重さ」

「なにか言ったかしら」

 きょとんとしている朝露の顔、そこから感じられる空気感はどこか可愛らしくあったものの、どうにも愛しさを感じ取ることができない。

「別に、あなたの立場の回し方の華麗なこと」

「そうね、それが私の今の仕事だもの」

 褒めているわけではないのだが、どうしてか伝わらない。

――アーシャともこのくらい距離出来てるのかな

 そう思いつつも首を横に振る。どう足掻いてもここまでの理解の乖離は生じていないという結論にしか至らない。実際にアーシャともう一度口を交わしあって通じ合う愛を確かめたくなってしまう。それ程までに感情の噛み合わない人物もいることだと思い知らされてしまうことも日本で得た経験なのかも知れない。

 もしかすると朝露が触れてきた文化はリリアンヌの扱う言葉の積み重ねとは噛み合わないものかも知れなかった。

「研究施設へ行こう」

 直接語れば流石に伝わるだろう。伝わらないなどとは言わせない。そんな想いを込めて持ち込んだ言葉は見事に朝露の表情を引き締めた。

「じゃあ、いざって時のために準備だけよろしく」

 真面目に働く病院の当直にこれから何をさせるつもりなのだろう。リリアンヌの中では黒々とした予感と哀れみの想いが渦巻いていた。

 病院を出て朝露の無駄に時だけを歩んできたのだと思わせる貌を見つめながら問いかける。

「さっきの、どういうこと」

「さっきのって何かしら」

「いや当直さん」

 はぐらかして遊んでいるだけなのだろうか、それとも記憶力が鶏相当なのだろうか、わざわざ具体的に訊ねてみなければならない。

「必要だったからね、ただそれだけ」

 必要だった、何がだろう。それもまたリリアンヌの口で誘導して引き出してみせる。

「言ってなかったかしら、私は知ってるけど」

「貴女の脳内は一般公開でもされてるのか」

「そんなわけないじゃない」

 もはや感情を隠し通すための言葉、ストレスを覆い隠してぶつけていくだけのこと。心なしか声も固さを増していた、心の中で妙な焦りが走り続けていた。

「早く忍び込もう」

「今から忍び込むに決まってるじゃない」

 一瞬たりとも間を置かないことでその応えは何も考えずに吹き出されたものなのだと思い知らされた。

 闇の中を進み、足音はコンクリートの上に散りばめられた砂利と触れ合って複雑な音色を奏でる。このまま進んだ距離は決して長くなかったはずなのに、どうにも距離を感じて仕方がなかった。

「緊張してるでしょ」

 朝露の問いに、言葉の裏は見えないくせに挙動や態度の細かな変化から感情を見極めてくるその人物に苛立ってしまう。ひとつ大きな苛立ちを憶えてしまうだけで何もかもを否定したくなる気持ちを無理やり抑え込むための言葉を心の中で唱え続ける。

――隣のは味方隣のは味方隣のは味方

 繰り返している内にふとミレイの顔が脳裏を掠めた。あの少女のような顔をした大人は呪いについて語るという追憶を今ここで刻みつけていた。

――言葉は呪い、伝えられないことで自分に返ってくるかも、今こうして言い聞かせてるのもまた

 ようやくミレイの言うことにまで理解の手が伸びたような気がした。つい先程まで朝露との会話での不理解と同じ立場でミレイと話していたのだと思い知らされて歯噛みしてしまう。

「そっか、それは残念な人」

「え、急にどうしたの」

 伝わらなくていい、寧ろ今ばかりは彼女が持っている言葉の装飾への理解の低さに感謝するだけだった。

「着いたわ」

 朝露の言葉と共に見えてきた景色、そこに佇む影の塊。黒々としているのは夜闇に塗られているだけなのだろう。

 朝露が伸ばした手が抵抗のひとつも無しに開いたドア、ぽっかりと開かれた口から吹き出してくる異様な寒気はリリアンヌの外套を剥ぎ取る。

 戦いが待っている、その時を示す独特な寒気に身構えずにはいられない。

「そうね、私も血を浴びたくて仕方がないわ」

「物騒な人」

 同意は出来ない、彼女の声色は心底楽しそうで、大切な人の救出の為に訪れたリリアンヌとは正反対。

 血を彼女に浴びせない為にも手早く侵入してみせよう、侵入というよりも進入と言える様、それを示す錠が掛けられていないドアの向こうへと素早く進む。

「躊躇ないねかっこいいわ」

 情をかける。魔法使いであれば誰もが同類、総員戦闘趣味だと思ってしまうその心を表す愉快な声に心底呆れていた。哀れという言葉の意味を深く学んだ瞬間だった。

「真昼もこうして忍び込んでたのかな」

 中は廊下、どこまでも伸びているように見えるそこの奥でアーシャは研究の養分として消化されそうになっているのだ。冷静さを欠いていた。

 そんな感情が隙を生んだ。

「危ないわ」

 リリアンヌはただひたすら困惑するのみ。朝露が突然伸ばした腕、そこに絡みついてきたのは果たしてどのようなものなのだろう。見えているにもかかわらず見通すことの出来ない。認識を拒んでいる。頭脳か心か、どこかで上手く理解の出来ない黒々とした影が朝露の方へと向かっていったことに感謝の想いを捧げていた。


 煌々と輝く蛇だろうか、否、そこに絡むのは炎の帯、輝きが散って小うるさくありつつも調和の取れた粉となって視界を惹き付けようとする。

 そんな輝きに引き摺られながら視界は激しい揺れに従いながら、朝露は震える空気を力一杯吸い込み言の葉の吹き荒れを巻き起こす。

「影よ、私の血を、命の奔流を吸って巡り魔の力を溶かしたまえ」

 声は狭い廊下を突き破る勢いで揺れをもたらす響きとなる。その手は影をつかみ、引き剥がしていく。影は手の動きに従って黒々とした禍々しさへと昇華されてナイフの姿を取る。途端にそれは炎に刺された。

「影に帰れ」

 言葉に呼応するかのように荒々しい姿を取って帯としての姿を失いゆく炎。そこには従うものか抗ってみせよう、などという心意気が強く感じられた。

 しかしながら幾ら抵抗を試みたところで、自然のままそこに在ろうという作用が働いたとしても、術式から逃れることなど出来ない。

 影は確かな実体をもって炎を解体していく。あまりにも鮮やかな断面はナイフが溶けて流れているのかと錯覚をもたらした。

「なにこれ」

 リリアンヌの目には影が渦巻いていた。視界に未だに入る影が朝露の手に収まる影によって消されていく。果たしてそれはどのような演目に相当するのだろう。如何なる演出の為せる業なのか、どのような芸術なのか。

 影を使った戦いの結末はすぐにでも着いてしまいそうだった。

「これが」

「鎮火せよ、消火消化昇華」

 朝露の言葉の意味は把握できない。日本語への理解をもっと深めていれば、辞書の内容を頭に叩き込んでいれば鎮火という言葉の意味が分かるだろうか。リリアンヌの中では所詮は音の並びに過ぎなかった。そうした言葉の果てに様々な方向から見る不明の霧に囲まれながら、足をよろめかせながら進み続ける。きっとあの影は朝露がどうにかしてくれるだろう、期待というよりも役目の押しつけ、協力のひとつもなし。

 狭い廊下に張り付けられたようにも見えるドアたち。ひとつひとつを引いては開き、一切関係ないと思しき資料たちには目もくれずに次の部屋を目指す。

 突き進んだ廊下の果て、そこに同じように張り付けられたドアを見つめては大きく息を吸う。気持ちを吐き出そうにも上手くいかないままもう一度、更に加えてもう一度。

 幾度重ねても肺の底に溜まった緊張の息苦しさを外へと追いやることは叶わない。

 そんな気持ちを否応なしに持ち込まざるを得ない。心の引っかかりがアーシャを救うための妨げにならないことを祈りながらドアを開いた。

 無機質な白い壁、安っぽいアパートを思わせる造りに鉄が混ざった壁はまさに急ぎで作られた研究施設。そこに設置された安楽椅子に座っているのは最愛の彼女だった。

「アーシャ」

 座っている彼女は瞳を閉じて、まさに安楽の中に住んでいるような表情をしていた。首から提げている金属の木の実、細かな装飾が流れて回り続けているクルミは縁から薄らと青白い輝きを零していた。

 そんな麗しき乙女に見えるさま、しかしながらアーシャの手足や胴体を縛っている帯が見受けられて安楽だけではない、美しさだけでないという人生そのもののような有り様を見せつけていた。そんな光景を収めるリリアンヌの瞳は揺れて震えて止まらない。焦点の定まらない空色は輝きを不規則に撒き散らして不気味な彩りを与えていた。

「アーシャ」

 左肩から透き通る空色の翼を広げて右手に同じ色をした剣を握り締める。薄らと放つ輝きは研究室の風景に空色の歪みを与えていた。

 一度帯を斬ろうと振ってはみたものの、傷をつけることも出来ずにただすり抜けるだけ。

――私の力は助けにならない

 届かない、目の前で囚われている彼女の救いの手としてあと一歩。そんな距離が果てしなく広く感じられてしまう。

――いつまでも私のオレンジの木は

 かつての光景、背伸びしても跳ねても届かないオレンジ。あと少し、もう一息でつかめそうなそれをつかめなかった幼少の記憶に未だに縛られていた。

――この力を振るった時には届いた気がしたのに

 剣を床に突き立てて、リリアンヌは細くて薄い肩をつかんで揺らす。

「アーシャ、アーシャ、起きて」

 生きている、寝息を立てている。しかしそのまぶたは開かれない。

「アーシャ」

 何度も揺らし、ひたすら名前を呼んで。

 繰り返す中でまたひとつ、違った言葉を挟んでいく。

「迎えに来たよ、帰ろう」

 そんな言葉に迎えられてようやく届いたのだろうか、アーシャはまぶたを持ち上げる。

 続いて今の光景を瞳に焼き付けているようで、更に間を開けてようやくしっかりと目を見開き呟いた。

「胸に下がってるクルミ取って」

 言葉に合わせてすぐさま左手で取ったその時、後ろに威圧的な気配を感じてリリアンヌは床に突き立てた剣を取って振り返る。

 勢い任せに向けた剣が指した先に立つ姿は中年の男のものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る