第8話 呪い
なにひとつ意味がつかめない。全て何もかもが暗闇の中に落ちてしまって拾い上げることすら叶わない。暗闇は星の瞬きは風の声は笑い続けるだけ、綺麗なまま、誰も彼もがこの舞台の主役に選ばれないまま、役柄を持つ人物など誰も相応しくないのだと拒絶されたまま。
リリアンヌの中ではひとつの疑問が延々と渦巻き続けていた。
先程の女が言っていたこと。一人の少女が危ないのだということ。リリアンヌは間違いなく危険で暗い世界の実験の内容も知らされないまま、事情も知らない関係者へと成り果てていた。
そんな彼女でも今出来ることなど帰って眠ることのみ。今回の件だけで全てが片付いたとは限らない以上、報酬をすぐさまいただくわけにはいかなかった。
そんな都合の悪い事実を思いながら大きな欠伸をして帰路につく。
次の日のことを思い巡らせながら進む。大学の講義を受けて帰りには再びアーシャと顔を合わせる。例の呪術師が語ることが本当であればまだ会える。
例の呪術師が語ることが本当であれば。
「もしかしたら……危ない実験に付き合わされるのはアーシャかも知れない」
もしもそうであれば非常に嫌悪感の強い状況に立たされていた。好きな人を危険な目に遭わせるために働いていたのだと根拠の薄い妄想を繰り広げるだけで湯気の如き嫌悪感が肺腑を充たす。
きっとこれから先大変なことになるだろう。ミレイの占いが当たるなら、動かなければ間違いなく結末は別れ。
豊かなる自然の中に不自然を作り上げ、人と人との繋がりを大切にしてきた種族の血が騒ぎ始める。
「絶対にアーシャを酷い目には遭わせない」
誓いを立てて自宅のドアを開く。
あの声は静寂の闇の中へと潜り込んではやがて掻き消されてしまった。
☆
鳥が鳴く。太陽におはようと告げるように、空に馴染む音色を風と一緒に奏でていた。
でーでぽっぽぽーでーでぽっぽぽー
日本を訪れて以来幾度となく耳にしたその声はようやく聞き慣れてきて心地よさを与えては流れ続ける。柔らかな空の微笑みを浴びるべく身体を起こしてカーテンに手を掛けて。
出来上がった隙間から射し込む日差しはリリアンヌの心を掻き混ぜていく。
いざ開いてみたその手を照らす空の色を見つめて落胆を覚えてしまった。
先程までの眩しさが霞んで見えてしまう、きっとあれは室内の影から覗いたからこそ感じられた輝き。
これからその空の下を歩くのだ。リリアンヌは落胆を覚えながら洗面台へと向かった。
顔を洗う。濃い褐色の顔に収まる瞳は薄らと輝きを放つ空色。常に晴れ空を塗り付けたようなその目から滲み出る輝きは周りに透けて景色を微かに歪めていた。
そんな輝きは魔法を扱う素質を持つ者しか目にすることが出来ない、それ以外の人々の目には冬の樹皮のような乾いた灰色に映るのだという。
リリアンヌ本人ですら見たことのない色、それを自らが持っているのだということ。自分のことすら全てを把握できない、どれだけ理解しようにも今の自分が物わかりの道を塞いでしまう。
――これじゃあ知りようもないかな
生きるために全くもって必要のない重みを背負いながらドアを開き、外の世界へと身を乗り出した。
続いて歩き続けて五分と少し。時間を溶かしてたどり着いたバス停にて学び舎へと手早く進むための手段を待つこと溶かした時間は七分を超える。
その間アーシャのことを想い続ける。彼女は彼女で今はきっと高校の授業を受けていることだろう。
ついこの前はがきに綴った想いの文字を追いかけていく。
アーシャは元気にしてる?
私はいつでも元気
元気がなかったとしてもアーシャを見つめるだけで元気になれるよ
一緒に色々と見てるだけで思うことがいっぱいあって、いつでも私を豊かにしてくれる
一緒に歩いた時の不揃いな足音も空を見つめるアーシャの目も
全部私からすれば大切なことだよ
かつては遠く離れた地にて生きていたふたり。いつの日にかアーシャがリリアンヌの故郷を訪れて知り合いとなり、それ以来手紙をやり取りしていた。かつては互いに縁の糸を結び合い続ける手段であったものの、今となっては日本語の練習や本音の伝え合いの役割を果たしていて他人に見られては恥ずかしいことこの上ない、そんな感想を抱かせてしまう。
好きの想いから悩みまで、様々なことを小さな紙に綴って送り合う。
言葉にしてどれだけ伝えたところで伝えきれないことがあって、触れ合ってみても分からない温度感があって。
そんな距離を詰めてしまうもの、それが二人の文通に込められた意味だった。
ミレイに訊ねたらこれもまた呪いだと言われてしまうのだろうか、どうしようもなく抜け出すことの出来ないもの。きっと彼女は知った上で言っているのだろう。
――そんな態度取られてもね
苦手とは言わない、人としては関わりやすい。しかしながらどうにもミレイの言葉の中に苦手な情の切れ端が紛れ込んでいた。
ミレイと手紙のやり取りをしてみたら見え隠れしている苦手な部分が露わとなってしまうのだろうか。
考え事をしている内に過ぎ去る気がしなかったはずの退屈に塗れた時が過ぎ去ってしまったのか、目の前にバスが止まり、横に付いている口が開かれる。人々を飲み込んで今に今に走り去ろう、そう告げるかのように身体を揺らしながら唸るように排気ガスの息を吐く。
リリアンヌはその姿を見つめながらバスに乗り込む。
賃金は後払い制なのだろう。入り口に備え付けられた整理券を手にして奥へと進む。人々で埋め尽くされた空間の中に空席などあるはずもなく、つり革を握って立つだけ。いつも通りのことだった。
もっとバスの始点に近い場所から乗れば座ることも叶うことだろう。しかしながらわざわざ目的地から遠ざかった上に多めの金を払ってまで座るほど裕福な生活を送っているわけでもない。
リリアンヌはただ我慢を決め込み目的の電車が通る駅まで運ばれていくだけ。
そこまでの時間は十分程度だっただろうか。到着すると共に人々は次々に降りていく。流れが出来上がっていく様はまさに生活を公共交通機関に支配されているといっても過言ではない。予定、学問や労働、そういったことを抱えている人物が大多数であろう。組まれた予定は別段好きでもなければ生きがいというわけでもない。あくまでも生きるために必要だから行うだけ。まさに社会という仕組みに支配されていた。
飽くまでも感情と知能を持つ人物たちが同じ種族に飼われているだけ、飼い主もまた同じ種族に飼い慣らされていて、かなりの人数が何に仕えているのか分からないという状態。
リリアンヌもまたそうした人物の一人に過ぎなかった。
魔法の界隈に足を踏み込めば自由かも知れない、そう思いながらいざ進んで見れば待っているものは社会と同じルールや平和と名付けられた秩序の枠組み。
そうした物事を見つめ続けた空色の瞳を細めながら、母のことを、母の言葉を思い出す。
母はどこまでも自由を愛しその手で撫で続け、抱き締めていた。いつでも語ることは自由に生きてきたらリリアンヌを育てるところにまでたどり着いたということ。
彼女の語る自由など何処にあっただろう。
――母さん、自由なんてどこにもなかったよ
纏められた思考が語ること、ありもしない自由を追い求めることがいかに愚かな冒険であることか、これまで叔母のアンナが読み聞かせてくれた本に綴られた夢や希望が語っていた。
☆
今日の大学の講義の内の二つは無事に終わりを迎えた。教師が人々に退出を促してただ従い続ける。そんな様子を見つめ、人々がいなくなるまで待った後にただひとり歩き出す。本来人混みは苦手だった。母国の混み具合に慣れては他に慣れないからか。昼ご飯を求めて歩き続ける。
学内の食道に足を運んだことは無いものの、美味しいと評判の場所は値段からして使う事はないだろう、安いところもまた、味が異様に不評であり、使うだけの理由を見いだすことが出来ない。
近くのコンビニへと向かい、サラダとパンを手に取り会計を済ませる。健康志向でかつ出費を抑えようと考えるのならばここで取ることの出来る最善の手段。
そんな最善を取り、理想とは程遠い生活を送り続ける。
まさに虚しさの塊でしかない。
残りの講義も与えられてはそのまま飲み干すように過ごして放課後へと移る。
学校を出て電車に乗り込めばまるで待ち合わせでもしていたかのように当然の集団が共に乗り込む。
電車の中に収まる人々はあまりにも多すぎる、首都の満員電車の映像が身近なものに感じられてしまう程の混み合いにため息は自然とこぼれ落ちていった。
進み行く電車、揺れる地が心地よい想像の場を実らせる。
この群衆はこれからどこへと向かいどのように時間を潰していくのだろう。恋人がいるかも知れない、アルバイトやパートが待っているのかもしれない、家族と過ごす時間が待っているのかも知れない。
リリアンヌの両親は故郷、叔母もまた故郷。夏期休暇に入ればリリアンヌが帰省して冬期休暇が訪れたときにはヴァレンシアとアンナのふたりが来日してリリアンヌが借りている部屋に上がり込むという恒例行事。父は恐らく反抗期及び親離れの時期の娘の部屋になど踏み入るつもりは毛頭ないようで、リリアンヌが初めて日本に渡ったとき以来一切この地に姿を現さない。
日本が嫌いかと訊いたことがあった。しかし首を横に振っては「娘のプライベートに踏み入っていいのは女たる母と叔母だけだ」と語ってみせるのみ。きっとリリアンヌが大人になればほぼ他人のような視線が向けられるのだろう。故郷にいた頃一度だけ見たことがあった。仕事上の関わりだったのだろうか。あまりにも冷たい視線は微塵たりとも感情を宿していなかった。
もしもリリアンヌがそのような目を向けられることになるのだとしたら、そう考えるだけでどこか寂しくありながらも嬉しさの方が勝ってしまう。妙に自己の領域に踏み込んでくる親の話を人々から聞いている以上、リリアンヌにとってはいい父であるとしか言えなかった。
電車は相変わらず揺れている。
幾つの駅に止まり、幾つの駅を通り過ぎていったことだろう。これから紡がれる人生の道のりから切り離されたうつつの夢、偽りの揺りかご。
ゆらゆらと揺れ続けては疲れた身体を現実から振り落としてみせようとするその姿は迷惑という言葉に収まる機械。軽く嫌な目を向けてリリアンヌはため息をつくのみ。
この電車の中に収まる人々の数は中々に恐ろしいもので、すし詰め状態と呼ばれているのだそう。隙間なく詰め込まれたそこで人の身体に不用意に触れようものならば間違いなく悪しき空気が漂うことだろう。リリアンヌは触れられる立場でありつつも触れられることはないという確信を持っていた。
外国人、外人、そんな言葉で括られているだけで安全の範囲の中。ある程度の距離感は日本と異邦の距離を細やかながらに再現しているように見えた。
これから一度都会に止まる。リリアンヌの知らない社会の深海、闇の海。人の手によって創り上げられた不自由と幸福と言い聞かされた不幸が根付く場所。
若者たちが続々と降りていく中で入れ替わるようにくたびれた社会人が乗り込んでくる。生きるために生きている、そんな表情をした生きがいのない人々。仕事に人生の手綱を握られて働くことと命を明日へと繋ぎ続けること以外何も出来ない人物までもがそこにいる世界。
きっと彼らの中の幾割かは死するその時まで生きがいなど無いままだろう。
生きることに価値すら感じられない、気力を失った眼、疲れに濁りきった肌。誰も救いの手を差し伸べるつもりにすらなれない薄汚れた醜い彼らは最期の時まで孤独に閉じ込められて生き抜いていくつもりなのだろうか。
リリアンヌの中に生まれた気持ちはどうにも沈み込んでしまった色彩。くすんで生き生きとした輝きを失ってしまったもの。
――魔法の世界も今は変わりないかな
気が付いていた。
文明が人間色の発展を続けて秩序と平和に塗りつぶされた果ては殆どが同じ色をしているのだということ。
日本人の真面目な姿勢、称賛に値する態度が産んだ見えざる悲劇。目に見えたその時、人々の気に留まったその時には既に手遅れなのだということ。
魔法の世界もまた既にそう。リリアンヌが初めて触れたその時の輝きは日本という土地からはとうの昔に失せてしまっていた。
電車は感情も無くただ人々を運び続ける。取り決められた場所で止まっては人を降ろして待っていた人々を乗せて再び走り出す。そうしたことを何度か続けている内にリリアンヌの目的地が近付いてきた。
見慣れた景色が流れてきて楽しみの時は近付いてきたのかと、今か今かと心を迫らせる。
やがて動きを止めて人が外へと流れ出し始める。
その際リリアンヌの道を無自覚に塞ごうとする太くて背の低い男たち、脂ぎった人々に向けて「ソーリー」とひと言述べるだけで不思議なほどに大袈裟な空間が開かれる。
一歩外へと踏み出すだけでこもった空気感の息苦しさから解き放たれて清々しい想いに浸っていた。
一度大きく息を吸っては人混みの澱みの溜まった肺の底から空気を吐き出して男たちが出て行く姿を見届けた後で改札へと向かう。
階段を上るとき、一歩一歩進む時、例えジーパンであっても男たちの眼はリリアンヌの後ろ姿に釘付けとなる。
誰でもいい、疲れた時には女を見ていたい。
そんな品の無い想いが駅の空気を汚しているのだと、潔白な男たちにまで嫌な眼を向けなければならないのだと落胆を抱き続ける。
ここまで来てリリアンヌはミレイの占いによって差し出された言葉を思い出した。
確かにこの有り様や現実の色に心を穢されてしまえば社会の事実などお構いなしにリリアンヌの人生の方向は決まってしまうだろう。
確かに〈西の魔導士〉は滅びる定めにあった。
改札を抜けて進み始め、近くのコンビニに備え付けられたポストにはがきを投函してすぐ近くの公園へと向かう。手紙のやり取りはポストを通して。裸の想いが綴られた文を読まれてしまうのはあまりにも恥ずかしい、そんな想いが自然と生み出した習慣だった。
アーシャもまた恥じらいを持っているのか同じようにポストに投函していた。
これからすぐ傍の公園にてすぐ近くの時間と言う名の括りの中で顔を合わせるというにもかかわらず、手渡しは行われない。
昨日と同じ石を切り出して作った灰色の滑らかな質感の噴水が印象的な公園。
そこで待ち合わせている少女の姿は目に映らず。
リリアンヌは暇を片手で持て余しながらアーシャからもらった手紙を、過去の想いの積み重ねたちを広げながその道のりに浸っていた。
「ミレイの言葉、本当なんだろうか」
あと一度か二度は会える。危機はその時間の向こうに身を潜めている。牙を剥く瞬間を待ちながら鋭い牙と眼を輝かせながら飛び込む準備を整え身構えているといった段階にいることだろうか。
何度読んだのか分からない、色褪せたレコードテープのようにぼやけた過去の映像、一緒に過ごした日々があまりにも鮮明で瞳に与える刺激の強いこと。
セピア色の淡い演出などかからない、いつまでも綺麗なままの追憶の中でアーシャは紅茶を飲んでいた。マーマレードジャムを口に含みながら赤く鮮やかな茶を飲む姿が愛おしい。白い時期の輝きは記憶の中に沈められたものとは思えない艶を放っていた。
そんな思い出に浸ること数分、それまでにリリアンヌは何日もの過去の歩行を経たことだろうか。
最愛の少女はようやく現れた。クセに乱された髪を揺らしながら走る姿、必死にリリアンヌの傍へと駆け寄るその走り様はどこかかわいらしくてつい微笑んでしまう。
手紙たちを鞄に仕舞ってアーシャが目の前に来たその瞬間、抱き締めながら迎え入れる。
このふたりには待ち合わせ時間という厳密な日本ルールは持ち込まれていなかった。
ふたり無事に会えたことにリリアンヌは安堵のため息をつきながらアーシャと隣り合って歩き始める。
そうして広がる景色は唯一の色で塗られていて、人の心を景色さえ塗り絵に変えてしまうのだとひとり想い言葉は仕舞っておく。
――流石にアーシャでも笑いそう
変わったことは口に出してはならない、それが許されるのは同じく変わったことを想いながら言葉を流し込む母と散々聞かされた叔母の二人くらいなものだろう。
「アーシャ、会いたかった」
別の言葉を選んで伝えて素直な気持ちを差し伸べて。
隣を歩く彼女もまた、同じように会いたかったと返しては近くのコンビニへと足を運ぶ。
リリアンヌは備え付けのポストに目を向ける。
閉じ込められた本音がすぐ傍を歩くあの子に向けて揺れていた。伝えたいこと、愛の想いをぶつけたくて、日本の社会の中では未だ奇異の目を向けられる関係をひたすら維持し続けているのはポストに閉じ込められた想いの為せる業。
「どうしたの」
「何でもない」
「分かった、手紙だね」
全ては見抜かれてしまっていた。ポストに注がれていた視線を逸らしコンビニの中へと入ってチョコレートを手に取る。
恥ずかしさは心を沸騰させる湯沸かし器なのだろうか。冬の空に似合わない汗が流れていた。分厚い衣服、クリーム色のセーターで誤魔化していたものの、アーシャが気付かないかどうか、分かることなど到底叶わない。
――人の気持ちが手に取るように分かったらこんな想いしなくて良いのに
そこまで考えて、リリアンヌの想いに歪みが生じる。大切な手紙のやり取り、その習慣は人の頭では他人の気持ちまで読み解くことが出来ないからこそ今も続いている。少なくともこの二人の間ではそう。楽しいだけが理由では無かった。
アーシャはあんパンを買っていた。チョコとあんパン、中の餡がどこか似ているように思えてしまう。
「小豆を煮たり潰してお菓子にするなんて日本くらいでしか出ない調理方法だよね」
「珍しい、確かにね」
アーシャが好き好んでいただくあんパン。それはきっと過去に埋もれてしまった日本らしさの残骸のひとつなのだろう。儚く美しい破壊。職人技の消失は非常に多く、消えてしまって久しい。かつての日本らしさは日本人の身体だけでなく心からも消え去ってしまっていた。
そんな雅な味わいの残響だったはずの餡もまた、砂糖を多く入れて時代と共に変わり果ててしまったもの。それはもはや文化の継承とは程遠い存在なのだと後に講義の中で知ることとなる。
食べながら歩き、ペットボトルの緑茶を飲みながらいつもと変わらない景色を歩いて行く。
アーシャはいつものようにひとつひとつの景色をその眼に納めて歩き続ける。それといって面白みのない日々の話から電車に乗ることへの恐怖まで語っては日本はまだまだ平和などと不穏なことを互いに口にしていた。
やがてアーシャは目の前に大人の姿を見た。
二十代終わりから三十代半ばであろうか。リリアンヌから見れば妙に若く思えてしまう女、成熟度合いが足りないように思えてしまう。
「アリサ、探したのよ」
「ちょっと寄り道してただけだよ母さん」
アーシャの母だったそう。アーシャの方を見つめるめは優しく、リリアンヌに向ける視線には感情が宿っていない。
そんな目を細めて微笑みを作るのだからおぞましいことこの上なかった。気温以上の寒気を肌で感じた瞬間だった。
「あなたは何者か」
言葉が出てこない。リリアンヌはあの女の笑顔の裏に隠れている得体の知れない邪気に気圧されてしまっていた。
口を噤むリリアンヌに構うことなく言葉を紡ぐ女、瞳に宿る感性はアーシャと正反対にあるもののように思えた。
「答えられないほど邪な人物なのかしら」
邪な人物はどちらだろう。訊ねてみたくはなったもののそう簡単にはいかない、ここで雰囲気をつかんでいることを悟られてしまえば更に深掘りされてしまうことだろう。
「どうして黙るのかしら」
二人の間に流れる空気はあまりにも濁っていて吸ってみるだけでどこまでも強い毒となる。
そんな会話が続けられている状況の中、アーシャは黙っていることが出来なかった。
「私の友だちだよ母さん、そんな怖い顔しないで」
「あら、そうだったのごめんなさいね」
微笑みながら誤魔化して、既に手遅れな関係の修復を強引に図っていた。
「はい、アーシャの友だちです」
リリアンヌもまた、乾いた笑いで誤魔化してアーシャを安心させようと動く。
もしかすると単純に魔法使いの気配を感じて身構えていただけなのかも知れない。
しかし、魔法使いなのだと気が付いてしまっているようなら。
――今のままだと危ないかも
相手がどのような人物であれど敵対するときは本気でぶつかり合わなければならないこともある。どこまでも巡り合わせに従わなければならない世界、それこそが魔法の世界なのだから。
「そう言えばあなた、昔の知り合いに似てるような」
「気のせいです」
断言した。あの有名な四方の魔女、親もアーシャの親もそう。きっとその関わりのことだろう。
リリアンヌにとってはヴァレンシアとアンナは似た顔をしていて欲しかったと嘆く人物。似ているなどと言われたところで最もはっきりと否定してしまうこと。
目の前の大人はより一層強い笑みでリリアンヌを包みながら返事を投げる。
「そうかしら、そうだったかも知れないわ」
そんな二人の様子を目に納めながら会話から弾き出されていたアーシャがリリアンヌに歩み寄る。
「ゴメンね、これからしばらく会えなくなるの、用事があるから」
そう告げて褐色の手に肌とは異なる感触を、リリアンヌが散々触れて慣れているあの紙の感触を与えた。
手渡された手紙を見つめ、リリアンヌは笑顔で告げた。
「そう、それなら仕方ないね、また近いうちに」
「うん」
二人の間の明るみの影、リリアンヌの表情の裏で大きな疑問が渦巻いていた。
――いつもならポスト投函なのに
しかし疑問はそっと仕舞っておく。目の前の大人に全てを悟られないように。子どもだけの世界に足を踏み入ることを許さない。故に訊ねることが許されない。
「もう充分でしょアリサ」
「はい、行くよ母さん」
母に引かれるままに立ち去って、リリアンヌをひとりその場に残す。
そうして残された明るみの残響だけがリリアンヌの心臓の鼓動を保ち続けていた。
☆
そこはつい最近訪ねた人物が住まう家、この前は特に気にしなかったものの、段ボールが積まれ、辺り一面に占いのための道具と思しき大小様々なガラスの破片や如何なる種のものか見当も付かない骨の破片が散らばっていた。
「これがあの子からの手紙なのね」
「そう、でもこれ」
向かい合っているのは幼さを残した顔をした褐色肌の少女。ミレイは手紙の内容を読み上げる。
「ごめんなさい、嘘をついてごめんなさい、今度なんてありもしないのに」
リリアンヌは既に気が付いていたものの、嘘の当事者でないミレイからすれば頭の上にぐちゃぐちゃな記号を浮かべるだけのことだろう。
「リリアンヌは心あた……」
言葉は止められた。
リリアンヌの表情はどこまでも曇りきっていて、もはや言葉を続けるまでもなく心当たりを感じさせた。
ミレイは埃や土で薄汚れた紙を広げる。
コーヒーの染み付きで上手く見えないそこに振り子をかざして揺らしては細かな骨や石を並べながら撒いて、更に揺らし続ける。
その動きからどのような未来を見て取ったのか、ミレイは別の部屋へと駆け出した。
そんな様子をリリアンヌはただただ見ていることしか出来ず、進んだ後に訪れるであろう未来の果ての形を知ることが出来ない。魔法にも様々な分野があり、隣の世界はもはや意味不明の塊といっても差し支えがなかった。
やがてミレイがスキップを思わせる足取りで戻ってきた。
「部屋の掃除をしないから」
ミレイは辺りを見回しながら言葉を返した。
「これ全部占いの一環だから、無精じゃないから」
言い訳じみた言葉に乗せられた勢い、普段の余裕を見せてくれない声には説得力の欠片も無かった。
そんな彼女が取り出したものはリリアンヌの頭では映像越しの世界のもの、竹の棒の先から動物の毛を束ねたものが生えているような見た目のもの、日本の筆と呼ばれるものだった。
リリアンヌが通っていた高校では授業に取り入れられず、大学に上がっても尚見かける機会を得られないそれを目にしたこの瞬間、彼女の中の幻想が現実へと変わり果てる。
ミレイは墨汁を硯に垂らして筆を浸け、リリアンヌに腕を差し出すよう告げる。
「どうせすぐにでも動き始めるんだから」
リリアンヌは言われるがまま。
素直な行動に感謝の想いを込めながらミレイの筆は褐色の腕の上を這いずり回る。
仄かに冷たくてくすぐったい感触は一度たりとも味わったことのないもの。あまりのくすぐったさについ腕を引っ込めようとしてしまうものの、ミレイはそれを許さない。
「ひとつで充分だから我慢して」
鳥肌が立っては脳を這いずるような心地悪さが暴れ回る。妙な経験、要らなかったはずの体験。
アーシャを救ったら彼女にこのことを愚痴のような形で伝えてやろうと心に決めていた。
「はい、できあがり」
リリアンヌの腕には意味を理解することはおろか、文字であるのかそれすら判別できない模様の集いが創り上げられていた。
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