第5話 情緒的なネットワーク


  ※※※※


 川原ユーヒチがタバコの味と楽器の演奏を覚えたのは、中学二年生の夏だった。そして、それを教えたのが神薙ナクスだった。何もかもにムカつきながら授業をサボって屋上に出た彼は彼女に出会った。ユーヒチは実際に彼女と話すまで、彼女の名字が「しんなぎ」と呼ぶことも知らなかった。

 先客である神薙ナクスは空を見上げて左手をかざしていた。

 ユーヒチが「お前もサボり?」と訊くと、ナクスは「もっとだいじなことしてる」とだけ答えた。

「何? 大事なことって」

「まひるのながれぼしにいのると、ねがいがかなう」

「へえ」

 ユーヒチは面白いと思って、ナクスのそばに立った。

「それってさ」と彼は言った。「真昼に星は見えないんだから、流れ星も見えない、人の願いは叶わないっていう教訓みたいな話だろ?」

「みえるよ」とナクスは答える。「ねがいはかなう。ほんとのせかいにとどけば」

「本当の世界って何だよ」

「――いつかわかる。ここじゃないどこか」と彼女は笑った。

「ふうん」とユーヒチは感心して、それから「名前、教えろよ。俺は川原ユーヒチ」と握手の手を差し出した。

「しんなぎなくす」とナクスは言って、ユーヒチの手を握り返す。

 ユーヒチは十四才で、ナクスも十四才だった。そんな夏がどんな人間の人生にもあって、それは何年経っても色褪せることがない。

 これは言いすぎだ。

 ともかく、ユーヒチはナクスとよく遊ぶようになった。学校をフケて近場のショッピングモールをぶらつき、ナクスの吸うピースを貰って最初はむせた。

 ナクスの母親は新しい男と遊んでいて、家にはいつも誰もいなかった。

 ユーヒチはその部屋でナクスのギターを渡され、言われたとおり練習した。「良いギターだろ? これ。ナクスが買ったやつか?」

 Washburn のM10FRQだ。

「オヤジのギター」とナクスは答えた。「ほんとのオヤジのやつ。ユーヒチも、ひいていいよ」

 あとで知ったが、ナクスの父親は、数十年前に一世を風靡したアーティストだった。大親友のロックスターの自殺をきっかけに、薬物にハマって、今は三度目の有罪判決を受けて収監されているらしい。

 母はそんな父に愛想をつかしてナクスごと逃げ出し、かといって真面目に育児をすることもできなくて、他の男たちと恋に落ち続けて、今は五人目とのことだった。

「でもさあ」とナクスは言った。「おとうさんよりかっこいいひと、いないんだ。みんな、ギターも、うたもへたくそだし、ぜんぜんかあさんをしあわせにしないの」

「そっか」とユーヒチが答えると、ナクスは笑顔を晒す。

「わたし、ゆめがあるんだ。いちばんしあわせっておもったときにね、もう、それいじょう、つらくならないように、――」

「何だよ」

「ううん」

 そして、ユーヒチとナクスはセックスをした。やりかたは分からないが、コンドームの付けかたはナクスが知っていた。「ネットみた」とのことだった。

 ナクスはいつも、ユーヒチの両耳を両手で優しく塞ぎながらキスをした。そうすると、ユーヒチには彼女の息遣いと心臓の音だけが聞こえるようになる。

「ユーヒチのちんこ、きもちいいからすき」とナクスは答えた。

 その頃はナクスの成績は下から数えるほうが早くて、埼玉県北の治安最悪中学という点を鑑みても、彼女の生活は色々と終わっていた。

 昼下がり、ふたりで裸のままでいると、つけっぱなしのラジオから愛を歌うバラードが流れた。

「すきとか、あいとか、よくわからない」とナクスは呟いた。

「俺も」とユーヒチは答える。「クラスの奴らとか、恋バナとかばっかりでさ、なんであんな恋愛に夢中になれるか知れない」

「ユーヒチは、わたしのことすき?」

「どうかな。会えないと寂しいし、会えたら話を聞きたいよ」

「ふふ」

 ナクスは笑ってユーヒチの左目――右目とは色素が違っている――を指差した。

「ながれぼし、あった」

「何だそりゃ」

 ユーヒチは笑って、不意に不安定になった自分の気持ちを忘れたいと思って、再びナクスの体にしがみついた。

「ユーヒチい」とナクスは言った。「もっとユーヒチのちんこほしい」

 ユーヒチのちんこ、おっきいほうなの? とナクスは訊いた。

「誰かと比べたことなんかないから、分かんないよ」

「えへへ。わたしもだれかとくらべらんない。ユーヒチのちんこ。ユーヒチのしかしらなくていい」

 そんな風に、ナクスの母親が帰ってくる深夜十一時までの間に、ユーヒチとナクスは何度も抱き合った。

 

 そして高校二年生の夏、ナクスは大通りに飛び出て車に跳ねられて死んだ。

 

 あとは簡単だった。ナクスにもう関心のない彼女の母親が病院に現れると、ナクスの脳死判定に簡単に署名を済ませた。そしてドナーカードの記載に従って、ナクスの体は切り刻まれた。

 手術室に入るまで、ナクスの心臓は動いていた。

 ユーヒチは半狂乱になって「生きてるだろ! 生きてるだろ!」と叫んだ。


 新宿東口の繁華街広場をブラつくようになったユーヒチは、そこで同い年のガロウとつるむようになった。

 そのうち二人は親友になって血酒を交わした。カッターナイフで自分の腕を切って、その血を相手の酒に混ぜていっしょに飲む。

 金のないユーヒチはガロウのノリに流されて二人でナンパを繰り返した。未成年であることがバレて店から閉め出される以外、だいたいは上手くいく感じだった。飲み代は成人である女のほうが出してくれたし、それ以上の金を渡されることもあった。

 ガロウのナンパにはテクニックも何もなかった。ただガロウとユーヒチが酒を飲みながら待っていると、声をかけてくる女が何人もいた。それは、顔の良い未成年男性に発情するタイプの女が何人もいる、というだけのことで、深い意味はなかった。もちろん、繁華街広場に居座る同年代の少女に誘われて遊ぶこともあった。

 あるとき、ユーヒチは十七歳で、三十四歳の音楽雑誌の編集者をしている女に慰められた。ユーヒチはタバコを吸いながら、彼女の話を聞いていた。

 ナクスが死んでからギターは触っていなかった。

「ねえ?」と彼女は言った。「キミが未成年のくせにピースなんか吸うのは、なにか深い人生的な意味があってのことなの?」

「いえ」とユーヒチは答えた。「中学からの恋人が死んだんですけど、彼女が俺の部屋に残したタバコが三カートンくらい残ってて。それを吸い終わるまでが、俺にとっての、彼女の葬式なんです」

 自分でも驚くほどユーヒチは本音を話せた。女は寂しい顔で笑い、彼の肩にゆっくりと頭を預けた。

「ユーヒチくんのそばにいさせてほしいな。そのお葬式が終わるまで」と女は言った。

「いいですよ」とユーヒチは答えた。

 そして約束どおり、ユーヒチはナクスが残したタバコを全て吸い終えると、女にメールした。ガロウの優しさに甘えるのはもうやめようと思っていた。

「今までありがとう」

 ユーヒチが送信すると、女からの返答は少し長めのものだった。

「キミはいつか、その傷を忘れられるほどの出会いをするかもしれない。でも、どうかそのとき、自分自身を責めないであげて。それじゃ。幸せに生きて下さい」

 ユーヒチは黙って着信拒否のボタンを押した。そして、ナクスが死ぬ数日前の言葉を思い出していた。

「わたしは、ユーヒチがいるだけで、ぜんぶたりてるの」と彼女は言った。

 キスの前に、彼の両耳を両手で塞ぐいつもの仕草をしつつナクスは呟く。

「――わたしがいなくなったら、もう、だれのこともすきにならないでね」


  ※※※※


 そして、現在。休憩室。

 リョウは椅子に座るユーヒチのTシャツを乱暴にたくし上げ、脇腹を観察した。トワに蹴られた部位だ。

「酷い痣にはなってないみたい。痛む?」

「演奏に支障はないよ」

「そうやって本当は痩せ我慢してました、みたいなのすごい迷惑だよ。カッコつけ? 古臭い男らしさアピール?」

「本当に大丈夫だって」

「――三曲目、冒頭、ボーカル入りまで」

 リョウは腕を組んでユーヒチを見下ろす。「今それが弾けないなら棄権する」

 ユーヒチはため息をつきベースを構えた。

 モモコは離れた席で二人のやり取りを見ていた。さっきまで気が動転していたのを、ガロウが隣に座ってなだめてくれていたのが今だ。

 モモコに音楽の素養はないが、ユーヒチの演奏に淀みがないのは分かる。

 リョウは眉間にしわを寄せた。「合格」

「ありがとう」とユーヒチが答えると、

「は? あなたに感謝されるいわれはない。だいたいもっと早く来ればよかったんじゃないの」

 そうリョウは悪態をつきながらアヲイを見た。

「アヲイは平気? 肩、掴まれてたでしょ?」

「ばっちり」

 アヲイは腕をぐるぐると回す。

 シシスケは休憩室の壁に背中を預けて立っていた。

「演奏できるのは有り難いが、モモコやヱチカは辛いならここで家に帰そう。目の前で暴力沙汰が起きて冷静なヤツはない。実際、モモコは動揺してる。ガロウ、彼女のことを駅まで送ってやれるか? 演奏まではまだ時間はたっぷりあるはずだ」

 ガロウは頷き、モモコを見た。

「帰れるか?」

「帰りません」

 モモコは答えてヱチカを見た。「心配してくださってありがとうございます。でも、ちょっと時間が経てば大丈夫になると思います。――だって、せっかくのアヲイ先輩たちのステージですから。ぶったりけったりとか見たくらいで台無しにできないです」

「はぁん?」とガロウが声を出す。

「ヱチカちゃんも、モモコちんと同じ~!」とヱチカが手を挙げた。

 リョウが首を振る。

 シシスケは眼鏡の位置を直した。「分かった。そういうことなら俺はもう心配はしない。なんであれ、ここにいてくれるということをバンドの副リーダーとしては尊重したい」

 リョウもそれでいいか? とシシスケは訊いた。

「はいはい、了解」とリョウは答える。

「ま、あんなムカつく男のせいで予定が狂うほうが癪だしね」

 そんな彼女の言葉に、ユーヒチは笑いながらベースをスタンドに置き直した。

 アヲイは体を揺らす。

「ちょっとしたら客入りだよ」

 こうして新進ロックアーティストの祭典、ザ・ウォールはスタートした。

 一人目はソロのシンガーソングライター、朴セツナだ。


  ※※※※


 満員御礼のホール。ステージに、アコースティックギターを抱えた朴セツナがとぼとぼと歩いてくる。モニターには、彼女が目尻に涙をこらえているのと、酷い冷や汗をかいているのが映し出されていた。

 モニターを見ているのは西園カハルである。

 隣の水島タクヤが「意外だよな」と呟いた。

「カハルとセツナは音楽のスタイルもパフォーマンスもだいぶ違う。でも、カハルはどういうわけか気に入ってる」

「恋愛もそうだろ」とカハルは答えた。「似ても似つかない相手を好きになる。でも、似ても似つかないって分かるってことは、底の部分で共通点があるんだよ。だから似てないって分かる」

 恋愛という比喩を不意に出したせいで、カハルは居心地が悪くなった。

 ――たしかに、技巧派・実力派と呼ばれる西園学派のサウンドとは対照的に、朴セツナの歌は、素朴なアコギの音に俗っぽい《メンヘラ女子》的な詞を乗せただけのものだった。

 今日彼女が歌うのも、結局のところそういう曲だった。


 1stミニアルバム『夏休みの宿題はいつも、頭のいいあの子に写してもらってた』

 3曲目『私の彼くんイスラエルとか知ってる』


 彼女の歌が始まった。

 西園カハルは音楽系YouTuberに動画の中でインタビューを受けたときも、朴セツナの名前を挙げたとき驚かれたことを思い出す。

「めちゃくちゃ意外ですよ」と彼は言った。「世間じゃむしろ、カハル様と比べられるのはアヲイと言われてるじゃないですか?」

 ――じゃないですか? などと言われても困る。

「セツナの歌声は」とカハルは答えた。「体全身を使って、振り絞るように出しているのが良いです。それはマニュアル化された発声ではないかもしれないけれど。音楽はマニュアルから逸脱しないとつまらない」

「そうなんですか?」

「鳥や獣だって、鳴くときマニュアルを事前に読んで鳴いてるわけじゃない」

 ただ、自分自身の体の形やサイズに合った声を本能的に振り絞っているのだ。マニュアルは、個体ごとの体の形やサイズを考えているわけじゃない。

 カハルはそう言った。

「いやあ」と彼はたじろぐ。「鳥や獣の鳴き声と、人間の音楽は違うんじゃないですかね?」

「――アタシ、最近は鳥の声にハマってて」

「へ?」

「鳥が鳴くのは、いろいろ理由はあるけど、自分の縄張り――居場所をつくるため。領域。犬の散歩中のマーキングといっしょで、そこには空間に対する描画の意図みたいなものがある。人間がカンバスに線を引くように動物は縄張りを引く。それは、音楽でも似たようなことが言えると思ってて」

「ちょっとちょっと!」と彼はおどけた。「そんな難しい話をされたって分からないですよ!」

「そうか?」とカハルは面食らった。音楽を愛する者であれば、音を愛するとはどういうことか、このくらいは考えていて当然と思っていたからだ。

「ええっと」と彼は言った。「カハルさんは詩の音読もするとか」

「ええ、まあ」

 カハルは頬杖を突いた。「アンリ・メショニックのやつとかですよね。ピエール・スーラージュっていう画家がいるんですけど、それを論じていて知りました」

「よく知りませんけど、その画家が好きで?」

「そうですね」

「詩を読むことは、作詞活動に役立ちます?」と彼は訊いてきた。

「まったく」とカハルはウンザリした声を出した。「詩と歌詞は違います。歌詞は何よりもまず、リズムとメロディに拘束されてそれを最大化するための口腔の運動であるべきなんです」

「あははは」

 彼は笑った。何がおかしいんだ。こいつは本当に音楽のことをマジに考えてるのか。

 カハルは不愉快だった。

 小説の世界でもしばしば、これこそが正解なのだというマニュアルを有難がって、未だに「ストーリー」なんてものに拘る連中がいるが、そういう奴はせいぜい直木賞か芥川賞を獲るのが関の山なので、歴史に名を残すことはできないから最初から存在しなかったのと同じである。

 これは西園カハルの持論であった。

 カハルの不機嫌な表情を大慌てでかき消すように、YouTuberは陽気な声を出して動画を締めくくる。「さあ! 次回はそんなカハル様のライバルと言われております、ダズハントのギターボーカル、アヲイちゃんに登場してもらいましょう!」

 カハルはアヲイをほとんど知らなかったが、そこまで言うなら見てやろうという気持ちにはなった。


 全て期待外れだった。

 ダズハントの音楽は、いくつかは注目できるものもあったが(それはリョウが作詞作曲したものだった)それ以外は全て退屈だった。アヲイの歌う声にしても、セツナのように必死さをこらえているとは思えない。声量の大小ではなくて、ポテンシャルの問題だ、と彼女は思った。

 肝心のギターさえ想定内の技量だった。

 アヲイのインタビューに対する返答も、ずっとトボけたものだった。

 彼女は椅子に座ったまま体を揺らしたり、天井をボーッと見上げたかと思えば、インタビュアの「読んだりする本はあります?」という質問に答えず、「ここ、タバコ吸えないの?」と訊いたりした。

 ――何だよ、コイツ。

 件のYouTuberも、ひきつったような作り笑いだった。

「ではアヲイさん、楽曲への思い入れは?」

「リョウがつくった曲だから、それは、リョウに聞いたほうがいいと思う」

 アヲイはシレッと答えた。

「アヲイさんの感想を知りたいんですよ~」

「リョウのつくった曲だから、歌うのは楽しいよ」

「――だははは。アヲイさん、メッチャ面白い!」

「え? はは」

 インタビュアはカンペをめくった。「そういえばアヲイさんギターめっちゃ上手いですね? やっぱり、そういうのって親から習ったんですか?」

「? いいえ」

「ではいつ?」

「リョウに弾けって言われて。高校生の二年とかそのくらい。そしたら、上手いって言われたんだよね」と彼女はヘラヘラした。

 ――こいつには音楽をやるモチベーションも、何もないのか?

 

 カハルは、画面の中のアヲイを見つめていた。そうしてカハルは、自分にはハッキリとギターを弾くべき理由があると感じた。

 西園カハルの両親はどちらも青春時代に音楽の夢を追った人間で、だからカハルは、幼い頃からふたりの指導を受けて才能を伸ばしてきた。五歳の頃にはロックナンバーの古典を弾けるようになっていた。

 自分だけの理由もある。中上ユタカという、若くして自殺したロックスターのギターが、カハルの胸を掴んで離さなかった。

 アヲイの存在は、そんなカハルに拭い難い違和感と不快感を与えた。

 以後、常にカハルとアヲイは、同い年であることと同性ウケが強いということだけを理由に、常に比べられながら低質な批評をされ続けてきた。

 西園カハルはこう思った。

 ――気に入らない。

 大した腕もないこいつと並べられること自体、我慢ならない。


 カハルは回想をやめてモニターに集中する。朴セツナの不器用な、それでいて美しく強い歌声が彼女を慰めてくれた。


  ※※※※


 朴セツナはもともと決まっていた三曲を歌い終えてステージから引っ込むと、拍手をよそに、休憩室に辿り着くか辿り着かないかのところで意識が落ちた。

 ずっと溜まっていたストレスと睡眠不足だ。

 そんなわけで、マネージャの本並に抱えられ横たえられた彼女はしばらくは眠り続けていた。

 セツナが目を覚ましたのは「メディカル・メロディ・クリニック」と「銀の弾丸の存在証明」がとっくに演奏を終えた一時間後のことだった。

 彼女が体を起こすと、向かいの椅子で本を読んでいた本並が「お疲れ様、セツナ」と笑った。

「本並ぃ――」

「最高のパフォーマンスだったぞ。よくやった」

 セツナは部屋の時計を見て、「あたし、すげー寝ちゃってたじゃん」と呟いた。

「ああ」と本並は答える。「聴けなかった演奏は配信部分を録画してるから、あとでいっしょに見よう。これ、あんまり言っちゃいけないんだけど」

「有能かよ」

「大事なアーティストのためだしな」

 本並はPCを向けた。

 キラークラウンのパフォーマンスも、最後の一曲になっていた。


 2ndアルバム『KILLER CLOWN LEVEL 2』

 ラストトラック『BOY』


 セツナは、キラークラウンのリーダー兼ドラム担当・斉藤ネネネの指先を見ていた。

 おかっぱ頭を揺らしながら、一寸の狂いもなくリズムを刻む彼女の目は、眼鏡の奥にあって、冷静そのものに見えた。

 キラークラウンのサウンドは、基本的には、今ではかなり珍しいオーソドックスなハードロックのそれだ。

 それでも、彼らの演奏には厚みがある、と本並が言ったことがあるのをセツナは覚えていた。

 ――音楽の重厚感は、譜面をそのままなぞれば生まれるものではなく、積み重ねられた練習がその瞬間に現れていなければ感じることができない。――こう言うと精神論のようだが、音楽は精神が感じるのだから正しい。

「ねえ、本並」とセツナは言った。

「なんだ?」と彼は問い返す。

「あたし、ほんとに上手くやれた?」

「やれたし、これからもっと上手くやれるよ」


 ネネネの一心不乱さはどこからくるのだろうとセツナは感じる。彼らの肝はネネネだ。それはまるで、名前のない失恋を振り払うかのように鮮烈だった。


  ※※※※


 ネネネがシシスケと出会ったのは埼玉県南の中高一貫進学校だった。

 隣の席になったシシスケが「ここの軽音楽部は終わってる。受験を半ば諦めた奴らの溜まり場だ」とボヤいているのを聞いたネネネは興味本位で絡んだ。

「ロックは優等生のものじゃないんだし、それは当たり前じゃない?」

 シシスケはネネネのほうを向いた。

「俺はそういう紋切型は好きじゃない。学生の本分を軽んじなければ弾けない音楽なんて、いっそ弾かなければいい」

「すごい真面目君じゃん」

「音楽が生きることのサボりの言い訳に使われることが我慢ならんというだけだ。生きることに真摯なら両方極めるべきだ」

 ネネネは、この理屈っぽい偏屈な男に俄然興味が湧いてしまった。

「じゃあ、成績優秀者の私たちがすごい音楽をやったらカッコいいわけだ」

「俺はドラムができる。君は何をできる?」

「ギター」とネネネは答えた。「あと『君』とか言わなくていい」

「じゃあ、ネネネ」とシシスケは呼んでくれた。

 そうして二人だけで文化祭のために準備をする時間が増えた。

 ネネネはギターの練習時間を増やしながら、成績のレベルを落とさないように気を付けた。それはシシスケの頑固な信念に対する裏切りだという気がした。

 一方のシシスケは涼しい顔で全国模試の上位を取り続けた。

「行きたい大学があるんだ」

「どこ」

「K大。親父がそこを出てる。法学部には俺の尊敬する学者もいる。そこに受かるよ」

 私立難関大のひとつだったが、受かりたい、などと言わないあたりがシシスケらしい。ネネネはそう思った。

「私は、まだどこに行きたいとかって決めてないよ」

「そうか。決めたほうがいい」

「あはは」

 ネネネは目の前のギターを眺めて、次にシシスケが構えるドラムを見つめながら、別の感情が湧いていた。

 私はたぶん、こんな変な喋りかたをしているシシスケを尊敬してる。

 シシスケの叩くドラムに合わせてギターを弾き語りたいんじゃない。私はきっと、シシスケのようなドラマーになりたいんだと思う。

 ――それは、決して恋愛感情ではなかった。

 友達にからかわれても、恥ずかしさや照れの感情は浮かんでこなかった。むしろそんな風に自分の気持ちを矮小化するクラスメイトに腹が立った。

 ネネネは帰り道、現・軽音楽部の部室を覗いてみた。ソシャゲで遊ぶ男子生徒がたむろしているだけだった。ギャハハと笑っていた。――なるほど、シシスケが呆れるわけだと彼女も思う。


 そしてある日を境に、ふっと、ネネネの模試での成績が落ちていった。


 シシスケは事情を聞いたあと、苦しげな顔で「俺が下らない遊びに巻き込んだせいだ」と言った。

「違う!」とネネネは叫ぶ。

「いいや、違わない。俺の独善的な道楽に付き合わせてこんなことになった。大事なのは受験だ。一生を左右するんだぞ。もうネネネとは何も演奏しないことにしたほうがいい」

「私は私より頭がいいシシスケを尊敬してる! そんなシシスケの演奏が好き」

「理由になってない」

 彼はそう言ってスティックを手放し、演奏室から出て行こうとした。

「ダメだよ」とネネネは言った。

「――何?」

「もうシシスケは私の魂に火をつけたんだから。ここから一歩も逃げないでよ」

 シシスケはネネネのことを一瞬だけ見た。そして黙って出ていった。


  ※※※※


 そして、現在。

 ホールで、キラークラウンのリーダー兼ドラム担当である斉藤ネネネはリズムを刻みながら、胸のざわめきを抑えることができない。

 どうだ、シシスケ。

 私は上手くなっただろ?

 この演奏を聴いて、今さらまた組みたいと言われたって許してやらないぞ。

 お前はあのアヲイとやらと、よろしくやっていくことを選んだんだ。

 曲のフィニッシュ、ネネネはスネアを叩きのめしながら歯を食いしばった。

 ――シシスケ! 私はもうお前が知ってる私じゃないんだ!


  ※※※※


 キラークラウンのあと、71フラグメンツのパフォーマンスが終わると、いったん休憩時間になった。

 川原シキ――ユーヒチの妹である――は、ほっと息をつくと、いっしょに来ていた友だちのヒナに「やばいね」と声をかけた。「お兄ちゃん、本当にこいつらと並んで演奏すんの? って感じだよ」

 ヒナはこくこくと頷く。「シキちゃんは、どれが良かった?」

「私? あ~、キラークラウンかも? あと銀弾も好きかなあ」

「わたし、朴セツナすごい好きかも」

「そうなんだ? それは意外かも? でも二曲目の良かった。漫画の上手い男友達の話」

「うん、うん」

 ヒナは小動物のように震える。

「ユーヒチお兄さん、ここで演るんだあ。すごいなあ」

「ほんとにね」

 シキは肩をすくめる。

「あれでも昔はとんでもない不良だったんだよ。ホントこういう場所に立ってるの夢かよって、思うな」

「そうなの?」

「――ちょっと色々あってさあ。まあ、妹の苦労は尽きないってことですよ」

「――あはは」

 ヒナの笑い声を聞きながら、シキはホールの客席を見渡した。「それにしても、今回は聴いているほうにも大物が多いんだね。さすが新進ロックアーティストの祭典」

「え、そう?」

「天井に目をつけて上から見下ろすと分かる。錚々たる面子」

 シキの言葉にヒナは苦笑した。

「そんなのできないよ、普通」

 バスケ部の司令塔は言うことが違うなあ――というヒナの言葉をよそに、シキはひとりひとりを確認する。

 まず見つかったのは、沖田レイン。

 ヴァージンブレイドのボーカルギターで、近年は女優業も手を出しているメジャーアーティスト。性別不確・無性愛を自称しており、メディアでの社会的発言も多い。

 次に見つかったのは、谷崎ハジメ。

 ドラマや映画の主題歌に引っ張りだこの、オラクルオブガゼルのリーダーで、同時に音楽批評家・映画批評家としての顔も持つマルチタレントだ。他のアーティストとのコラボレーションを極端に厭わないのが特徴で、さっきの沖田レインとも一曲なにかやっていたと思う。

 そして、最後部席でファンの女たちをはべらせているのがトワだった。彼女たちの頬にサインペンで自分の名前を書いている。

 トワの出生は謎が多い。父親が誰かも分からないままパニックになった女子高生が、混乱して都内のゴミ捨て場に放棄した赤ん坊がトワだった、という話が今は事実となっている。

 そしてトワには、保護を受けるまでの衰弱のせいで脳に障害がある、という話がまことしやかに囁かれていた。

 いわく、彼は長期的な記憶を持てない。不倫相手の女性の名前も覚えていない。

 そのかわりに、あったかもしれない記憶、もしかしたら実現していたかもしれない過去の夢に脳を汚染されている。

 シキは、そんなトワの音楽があまりに透明であることを不気味に思っていた。

 そして、もうひとつ不安があった。

 ――兄のユーヒチが組んでいる九条アヲイは、昔からいくつか音源を通じて歌声を聴いたことがあるが、そんなトワと同じ響きをしている、ということだった。

 お兄ちゃん、大丈夫だよね? とシキは思う。

 そして休憩時間が終わり、客がホールに戻ると、とうとう本命の西園カハルとその仲間たちがステージに立っていた。


 1stフルアルバム『夭折』

 九曲目の『探究 パート3』


 ――アルバム全体を貫いて奏でられるインストゥルメンタル三部作最終章。それがこの舞台でのプログレッシブロックバンド・西園学派の始まりだった。

 カハルの登場に、会場の女たちは――男たちも――色めきたっていた。

 拍手と歓声。

 カハルはそれが鎮まるまで、じっと待っている、というわけでもなかった。

 マイクに上唇をつけて、「黙れ」と囁くと、さっ、と黄色い悲鳴が消える。

 水島タクヤがゆったりとドラムを叩き始めた。高橋リンドウのベースがそこに追随する。

 ドラムもベースも、それ自体で複雑でありながら、あくまで機械的で循環的なグルーヴを乱さない。

 全ては、カハルのギターソロを際立たせるためだ。

 ――彼女はGibson Les Paul Customをかき鳴らした。

 一本のギターには決まった長さの板、決まった太さの弦しかない。だからこそ、そこから無際限の創造性を引き出すことに意味がある。それがカハルの持論だ。

 なぜなら、一匹一匹の鳥の舌にも、決まった長さと厚さしかないからだ。

 西園学派『探究 パート3』では、機械化されたドラムとベースに乗せて、西園カハルのギターソロが六分強流れ続ける。

 強く歪んだサウンドで、しかし、細かく短い音まで正確無比に、カハルの全ての指が動き続ける。いったん全く別の曲になったかと思うと、また元のフレーズに戻っていく。繰り返し。

 モニターで見ているリョウはすぐ違和感に気づいた。

 変だ。

 ――アルバムに収録されているバージョンとは、流れが違う。

 アルバム版の流れがABCDEだとすると、今回のギターはADCBE…のように、部分的に順序を入れ替えて音が鳴っている。

 発表後の曲も容赦なく改善点を見つけている、ということなのか。

 たぶん違う、とリョウは思った。

 カハルの冷酷な表情がモニターに映し出される。

 彼女は自分の演奏を聴く人間の顔を見ながら、その瞬間瞬間で、いちばん響く流れがどれか刹那に判断しているわけだ。

 そして、その場で淀みなく演奏を変えていく。

「まいった」という言葉が、リョウの口から漏れた。「西園カハルは天才だ」

 ――六分強のインストゥルメンタル『探究 パート3』を弾き終えると、ワンテンポ遅れて拍手が起きる。

 理由は説明できないのだろうが、最前列では、数人の少女が泣いていた。

 そこで初めてカハルは振り向き、リンドウとタクヤの顔を見つめる。

 三人が頷くと、タクヤは両手のスティックを打ち鳴らした。

 

 二曲目は、同じく1stアルバム『夭折』のファーストトラック。

『抹消の下』

 画面の前に立つリョウの隣に、アヲイが佇んだ。

「どう思う?」

 リョウが聴くと、アヲイはひと言、

「すげー」

 と、だけ答えた。


 二曲目『抹消の下』は、変拍子と転調を大量に含む四分弱のロックナンバーで、カハルが怒鳴るような声で歌い続けたあと、最後にタクヤのドラムで終わった。

 休憩室でモモコをなだめ続けていたガロウが立ち上がって、「そろそろ行こうぜ。あいつらが終わったらオレらの出番だぞ」と言った。


 アヲイは黙って頷く。


 画面のカハルは歌い終わったあと、最後の曲への合図を出さないまま立ちすくんでいた。

 客席からは「カハル様!」という女の声が聞こえる。

 カハルは再びマイクに近づいた。

「アタシはここにいたいからここにいる」

 間の抜けた歓声が上がる。

「ここにいたくないならアタシはいない」

 モニターの向こうのアヲイが足を止めた。

 カハルは指を突き出した。

「お前はどうなんだ。なんでここにいる」

 それはファンへのリップサービスに聞こえた。

 実際は違う。

 アヲイは画面越しに西園カハルと目が合った、そのことにリョウとユーヒチは同時に気づいた。――カハルはアヲイに呼びかけているのだと分かった。

 カハルは俯いた。「次が最後だ」


 最後の曲はアルバム未収録の、しかしライブでは定番となっている曲だった。

『存在のRuf』


  ※※※※


 西園学派のメンバーが演奏を終えてハケていく間、感傷的なシンセシスの五人は舞台袖で待っていた。

 スタッフは「各機材の調整はリハのときと同じで大丈夫ですか? 不安なら本番前に何回か音を出して頂いて構いません。規定時間内で」と告げる。

 リョウは「問題ないです。ありがとう」と答えた。

 アヲイはステージをじっと見ていた。

「どうした?」とガロウが訊くと、アヲイは首をふるふると振って、

「今でも分からない。ここにいる理由、とか」

 と彼女は言った。

「カハルはここにいたいからここにいるって言った。でも、私はそうじゃない。なのにここにいる」

「人は人だろ?」とガロウが言ったが、

 アヲイは納得していない様子だった。

 ユーヒチはアヲイの肩に手を置いた。

「思ってること、言ってほしい。みんな聞きたいと思ってる」

「うん、分かった」

 そうアヲイは頷き、

「リョウが誘ってくれなかったら、私はきっとギターを弾いて歌おうなんて思わなかった」

そう言ってリョウの顔を見た。次に、

「ユーヒチたちが誘ってくれたから、いま五人でこの場所に立ってられる。きっと、そうじゃなかったら、どうでもよくなって辞めてたよ」

 と呟いて全員と目を合わせた。リョウ、ユーヒチ、ガロウ、シシスケの目。

「みんながいてほしいって場所に、私はいる。――ここにいていい?」

 とアヲイは言った。

 リョウは答えようとして真っ先に口を開いたが、声が喉から出なかった。

 ――ここにいて。ずっとそばにいてよ。

 そのひと言が出てこない。

 ユーヒチがアヲイの肩から手を離した。「ここにいてくれ。アヲイ」

「ユーヒチ?」

「今まで色んなことがあったけど――」と彼は言葉を繋ぐ。「蹴散らしてやろうぜ」

 アヲイは頷いて野球帽をしめ直す。

「ユーヒチ、最後にひとつだけお願いがあるんだ。聞いてほしい」

「みっつ聞くよ」

「ひとつでいい。――お前は大丈夫だって言って」


「アヲイは大丈夫だ」


 機材の準備が整った。

 そうして本日七つめのアーティスト、感傷的なシンセシスのステージが幕を開けた。


  ※※※※


 アヲイはステージに着いてアンプにギターを繋ぐと、違和感に気づいた。

 ――変だ。

 今までの音が全部この場所に残って見える。朴セツナの歌も、斉藤ネネネのドラムも、西園カハルのギターもその場に残ったまま響いている。

 こんな風に感じたことはなかった。

 時間の関節が外れていると思える。

 アヲイはそこで初めて聴衆を見た。

 ――音楽はただの空気の振動ではなく、それを聴覚で受け取った人たちの心の動きそのものだ。彼らの気持ちがそのまま私に流れ込んできているのか。

 そうかもしれない。

 昔から他人の感情が流れ込むことはあった。でも、どうして急にこんなに感じ取れるようになったのだろう。

 アヲイは帽子を脱いで床に置いた。会場のざわめきが聞こえる。音楽は私がギターを鳴らす前から皆のざわめきが音楽そのものだと彼女は感じる。

 蓮の花が広がって咲くように、アヲイの感覚が広がっていった。

 楽しい。

 隣に西園カハルが立っている。実際には立っていない。アヲイにはそう感じるだけだ。

「お前はなんでここにいる?」と嘘のカハルが訊いてくる。

 なんでだろうね?


 アヲイはピックをFUJIGENのNeo Classic NTL10MAHの弦に当てた。深く深く歪んだサウンドを爆音で鳴らす。それがアヲイの囁くような声と対比になる、というのがダズハントからの流れだった。

 感傷的なシンセシスの一曲目。リョウ作詞作曲『十字架の幾何学』。


  ※※※※


 当たり前だが、アルバム版とは何もかも違う、と斉藤ネネネは思った。

 リョウがシンセサイザーの役割に移って、演奏全体を優しく包むようにハーモニーを当てている。たぶんそのせいだろう、アヲイの声もギターも、以前よりも甘く響くようになっていた。

 それに、ガロウのギターとシシスケのドラムが全体の品質を上げている。

 そして、ともすれば埋もれがちなアヲイの歌を、サイドボーカルでもあるベース担当のユーヒチがオクターブ下から支えるように歌い添えていった。

 ネネネは思わず「嘘でしょ?」と言う。

「前のバンドの解散から一ヶ月も経ってないのに、いつからこれができるようになった?」


  ※※※※


 一曲目が終わる。ここまではリョウにとっても想定の範囲内だ。

 ――練習の成果以上のものは出ている。あとは何も起こらなければいい。

 しかし、

 アヲイは曲が終わったあともギターの音を止めない。性的な快感に打ち震えるように指を動かし、もう楽譜とは関係ない音を鳴らしているのが分かった。

 ――何してるの? アヲイ!

 リョウは一曲目が終わったあと、簡単なMCを入れるつもりでいた。謂れなきネットの誹謗中傷。それに対するコメントは音ではなく社会的な言葉できちんと表明する必要があると思っていたからだ。

 そのことは事前にアヲイにも伝えておいたつもりだ。

 アヲイも頷いていたはずだ。

 ――アヲイは土壇場で台無しにするつもりだ!

 リョウが呆然としていると、アヲイの意図に真っ先に対応したのはユーヒチだった。アヲイの即興から通底音を拾ってベースで支えていく。野放図なギターにグルーヴが生まれた。

 次に察したのはシシスケとガロウで、そこにリズムと新しいメロディを添える。

 アヲイはパッと笑ってユーヒチを見た。「お前なら分かってくれると思ってた」という表情だ。

 いちばん遅れてリョウがシンセサイザーで包む。

 ――なにもかもデタラメだ!

 そんな風にリョウが思っていることが、アヲイにも分かった。

 ごめんね。

 でも、やってみたくなっちゃったんだ。そう彼女は言い訳する。


  ※※※※


 パフォーマンスを終えて休憩室に寝そべっていた西園カハルが、不意に起き上がった。

 いったいどうした? と心配するリンドウの呼びかけに答えないまま、彼女は目を見開いていた。

「ほんとにアヲイの演奏か? これが?」


  ※※※※


 観客が固唾を呑んでいるのが分かる。それはそうだ。やるはずのないことをやっているから、上手くいく保証がない。

 上手くいく保証のない気配の前でオーディエンスは緊張しかできない。

 アヲイは爆音を強めた。既に予定時間を二分ほど過ぎている。不意に思いついたフレーズがあるが、弾きこなせるか?

 アヲイは感じた。

 ――だったら弾けたことがあるウソの記憶を今から思い出せばいいじゃん。

 これまで彼女は、ほとんど一本のウソの記憶しか持っていなかった。それ以上ありもしない夢を思い出して、今この現実を完全に取り戻せなくなることが怖かった。

 だからアヲイが持っているウソ記憶とは、――両親が死んだあと、もしもヱチカの家に引き取られることを拒んでいたらどうなっただろう、みんな幸せでいられたのに、――という仮定に縛られていた。

 無意識に。

 そしてその世界でアヲイはユーヒチと会った。

 ――でも、そこに縛られる必要はないわけだ。実は。

 ウソならいくらでも思い出せる。思い出せるならただのウソじゃない。

 ウソの記憶の中でアヲイにギターを教えてくれた女の子は何て言ってたっけ。

 ――ひるまのながれぼしにいのると、ねがいがかなう。

 そうだね。

 昼間も見える流れ星は、いま、私を見ている皆の目だ。

 インストール完了。

 アヲイは今までの動きではない動きで指を運んで音を鳴らす。リョウが最初に驚いた。

 こんなにデタラメなことばかり思い出して、戻ってこれないかもしれないな、とは思わない。

 アヲイは、ユーヒチを見た。

 この世界で彼と会った。

 ユーヒチが私の止まり木だ。

 ユーヒチが私をこの世界に留めてくれるなら、私はどこまでだって飛んでいけるよ。

 ――もっと思い出す。もっとありもしないことを思い出せ。

 四分を超過したタイミングで、

 彼女は「ガロウ、四、ツー!」と叫んだ。「四、ツーいけ!!」

 ――四小節後にガロウのリードギターで二曲目のイントロにいきなり入れという命令。

 ガロウにはアヲイの言いたいことが分かった。ガロウに分かるということがアヲイには分かった。

 論理的な根拠は全くない。

 シシスケとリョウとユーヒチとアヲイが揃ったタイミングで演奏を止め、

 同時にガロウがエフェクトを変えたリフで次の曲に入った。


 感傷的なシンセシス、二曲目もリョウ作詞作曲『ミショーの絵画』。


  ※※※※


 日本のどこかに一人の男の子がいる。最近は父親とも母親とも上手くいっていないから、夕飯を急いでかきこむと、自分の部屋に籠ってタブレットを点けた。

 YouTubeのオススメ欄に、配信中のアヲイの姿が表示されている。

 普段はロックなんて聴かないが、そのサムネイルをタップしてみた。

 アヲイと彼の目が合う。目が合ったと彼が感じたということをアヲイも感じる。

 ――ここにいてもいい?

 彼女は目線でそう訴えてくる。

 男の子は、なんとなく再生を止められない。

 アヲイは笑って「サンキュー」と思いながら『ミショーの絵画』をいきなり二番冒頭から歌い始めた。即興で浪費した時間をここで短縮して帳尻を合わせる。

 こんな男の子が実在した出来事なのか、アヲイの空想だけの存在なのか。今の彼女は区別する必要がない。

 気持ちがいい。

 ――二番サビ終わりのギターソロで、アヲイはもう少しふざけてみようと思える。

 もし私が西園カハルの曲をもっとちゃんと聴いていたら、どうだったかな。

 記憶の中に音が流れ込んでくる。

 自然に繋げられるものがあったので、アヲイはギターの流れをそのままカハルのものにした。『探究 パート2』のDパートを自分なりにアレンジしてぶつける。ユーヒチたちが何も変えなくていいようにして。

 アヲイは『探究 パート2』を聴いたことがない。

 でももう聴いたことがある。

 ――観客がさらに湧きたった。

 あとで知ったが、それはどうやらアヲイからカハルへのラブコールとか、あるいは挑発とか、そういう文脈で受け止められていたらしい。

 うるせえな。

 アヲイはユーヒチを向いて「ラストない! ユーヒチ、セブン!」

 ラスサビを歌う時間を消して、七小節後に三曲目冒頭のベースソロをやれ、という指令。

 ユーヒチは穏やかに笑った。


 帰ってきた。

 アヲイは、ふわっと浮いた自分の体が彼のベースに抱きとめられるのを感じる。

 ――別の世界のときもそうだったね。あのときユーヒチは私のことを見つけて、泣きじゃくる背中に結婚の約束をしてくれた。

 お互いをお互いの生きる理由にする契約を交わした。

 そうだろう?

 何の理由もないけど、お前じゃなくちゃイヤなんだ。

 ――ユーヒチが忘れたことさえないウソは、私が思い出せるよ。代わりにお前は、私の代わりに本当のことを覚えてて。

 私の代わりに、私を見守っててほしいんだ。

 ユーヒチが最高難度のベースソロを始める。


 感傷的なシンセシスの三曲目のタイトルは『マルセル、愛って何だ?』。


  ※※※※


 モニターを眺める佐倉タカユキは、ミチルの頭を撫でながら爪を噛んだ。

「なんもかんもメチャクチャやのう」

 ミチルがタカユキを見ると、彼は、悪戯が見つかった子供のように照れ隠しで笑ってやる。「ああ、ま、何でもないわ。ちょっとびっくりしてな」

 ミチルは、うん、と頷いた。

 後ろで腕を組んで立っていた兄のユキナガが言った。

「ミチルのバンドがそろそろや。行ってきい」

 ミチルはタカユキとその兄の顔を交互に見てから、すっと部屋を去っていった。


  ※※※※


 三曲目が終わり、アヲイが歪ませたままのギターから手を離して雑音をそのままにすると、ガロウが頭の後ろでGibson Blackout Explorerをかきならす。

 リョウは鍵盤を止めて額の汗を拭った。

 ベースのユーヒチとドラムのシシスケが目を見合わせてシメのリズムを刻むと、アヲイも雑音を止め、

 しばらく経って歓声が起きた。

 アヲイは目の前の声だけではなく、タブレットで配信を覗き見るあの男の子が、ふっとため息をついているのを感じた。

 マイクに上唇を添える。

「私は、どこにもいない」

 観客の拍手が止まった。

「――だから、どこにでもいられる」

 アヲイは一人一人の顔が見えていた。

「ここにいていいって言ってくれるなら、私たちは、いつでもそこにいるよ」

 そして屈むと、野球帽を目深に被って視線を隠した。

 もういちど拍手が響いた。

「――じゃあ、また」

 アヲイが真っ先に、ぶっきらぼうに立ち去ると、リョウが深くお辞儀をする。

 ガロウが手を振って、ユーヒチが親指を立てながら歩いた。

 シシスケが眼鏡の位置を直す。

 ――こうして、感傷的なシンセシスのステージは終わった。


 そして、この日以降、九条アヲイの病状は急速に悪化していくことになった。


  ※※※※


 感傷的なシンセシスの五人がステージから去っていくなか、客席にいたトワは、目を見開いていた。

 彼の腕にしがみつくファンの女たちが「どぉしたの? トワ様ぁ?」と媚びてくる。

 こいつらのことはどうでもいい。

「ははは」

 トワは笑みと頭痛を同時に覚えた。

「やっぱりそうなんだ」

 トワの耳には、ステージの上でアヲイに何が起きたのかハッキリと分かる。

「やっぱりアヲイ、おれと同じなんだ」

 彼がそう言うと、囲いの女たちが「トワ様のほうが素敵ですよぉ~!」と体に縋りついてくる。

 ――なんだろう?

 こいつらにはさっきの音楽が聴こえなかったのか?

 トワは、ただ、いつもどおり寂しいと感じる。

 あの記者の女もそうだ。

 おれを知りたいと言ってくれたのに、おれが誰と不倫したとか下らない質問ばっかりで、おれ自身のことについては全く見てくれなかった。

 なんでみんな、そんなことが気になるんだろう。おれにとっては、どうでもいいことなのに。

 アヲイは違ったな。

 アヲイは、あのときユーヒチとかいう男を蹴り飛ばしたおれ自身に怒ってくれた。ああいうナマの怒りって嫌いじゃない。

 彼は頬に触れる。まだヒリヒリとしていた。

 アヲイがステージの上で鳥の羽ばたくように輪郭が重なって、ぼやけていくのをトワは感じた。たぶん使いかたを覚えたんだろう。

 イカれた脳ミソの楽しい使いかたを。

「くくく」

 トワは笑った。

 ――アヲイはもうすぐおれと同じになる。何もかも思い出せなくなって全てに取り残されていく。この世界の連中は、おれたちみたいな人間にどこまでも冷たい。そのことに気づくだろう。

 ――だからアヲイは、おれの女だ。

 トワはそう思った。


  ※※※※


 感傷的なシンセシスの五人は休憩室に戻った。アヲイはタオルで首筋の汗を拭うと、ふう、とひと息ついてから振り向いてユーヒチに向けて平手を振りかざした。

 ユーヒチは右手を掲げて待っていた。

 ハイタッチだ。

 ガロウが後ろで「すげえわ」と言った。「あれ、いったいどうやったんだ?」

「分かんない」とアヲイは答えた。「でも、ガロウには分かるって分かった。ユーヒチにも」

「はははっ!」

 ガロウは腹を抱えて、「こんなの初めてだぜ? なんつうの? アヲイが思ってること、オレが思ってる中に直接入ってくるみてえに分かった」

「ふふ」

 アヲイは頷いてからユーヒチを見た。

「ユーヒチも分かった?」

「ああ」

 彼は笑う。

 アヲイはその笑顔を無性に嬉しいと思って、ヘラヘラと野球帽をテーブルに置いた。


 リョウはアヲイに歩み寄る。

「それにしても、随分ムチャなことしたんじゃない?」


「え」

「もし失敗したらどうしたの? そうじゃなくてもMCの件はどうしたの?」

 リョウは、自分が安心のあとで、ふつふつと怒りが湧いているのを感じた。

「ごめん、リョウ」とアヲイは答えた。

「ごめんで済まされてもね」と彼女は言い返す。やめなよそんな言葉、と自分に言い聞かせても、止めることができない。

「楽しかったし気持ちよかったよ。でもそれは理由にならないよ」

 リョウは下唇を噛む。

 アヲイが、不意にアワアワした子供みたいにリョウの袖を掴んだ。

「ごめん、リョウ。怒ってる? 許してよ」

 ガロウが笑顔を氷にしたまま固まっている。シシスケは我関せず。

 そしてユーヒチが心配そうに私を見ている。

 さっきまで盛り上がっていたのに私が水を差している。

「ごめんね、感情的になっちゃった。良いステージっていうのは私も同意見だよ。トイレ行ってくる」

 そう言うと、リョウはアヲイのたどたどしい指を振り払った。

 そして休憩室から出て行った。

 ――この気持ちはなんだろう。

 嫉妬だ。

 アヲイの暴走にいち早く対応したのはユーヒチだった。私じゃない。

 モニターから流れるミチル&ローユァン・デジタルハックバンドの歌声を聴きながらリョウはドアを閉め、廊下を歩いた。

 ――アヲイが「ここにいていい?」と訊いたとき、真っ先に答えることができたのはユーヒチだった。私じゃなかった。

 ここにいてほしいって、誰よりも思っているのは私じゃないのか?

 ――アヲイの肩がトワという男に掴まれたとき、真っ先に助けたのは誰だ?

 ユーヒチだ。どれもこれも私じゃない。

 どうして私は何もできないままなんだ。私がアヲイを巻き込んだのに。

 リョウは女子トイレのドアを開けた。とにかく頭を冷やそうと思った。

 ――そこで手を洗っていたのは西園カハルだった。

「おっ」

 振り返った西園カハルは、両唇でハンカチを咥えて袖が濡れないようにしている。そして蛇口を絞めると、ぽんぽんとそのハンカチで手の水滴を拭った。

「――お疲れ様です」とリョウは言った。

 これは定型句だ。

 カハルが「それは定型句だな」と斬り捨てた。「アンタ、感傷的なシンセシスの篠宮リョウだろ?」

「はい」

「良かったよ、演奏」

 カハルはリョウに向き直った。「アヲイに伝えといてくれ。今回は良かった」

「ありがとうございます」とリョウは頭を下げる。「うちのボーカルには、そのように伝えます」

「アタシの曲を途中でやったのもまあ良かったよ。上手く言えないけどな。なんかスカッとした」

 そうしてカハルはリョウの隣を通り過ぎ、廊下に出ていった。リョウは立ち尽くす。

 そこでカハルは振り返った。「ひとつ訊いていいか?」

「? はい」

 リョウは少し構える。

 カハルは真顔だった。

「アンタがあのバンドの曲を全部つくってんだろ? なのに、なんでアンタがいちばんつまんない顔してたんだ?」

 リョウは答えることができない。

 カハルはしばらく待ったあとで、「ま、いいや」と去っていった。


  ※※※※


 ミチル&ローユァン・デジタルハックバンドは、緑色に髪を染めたミチルが踊り歌いながら、バックのローユァンとその仲間たちが電子機器を使い回すことでダンスポップ系の音響を作り出していく。

 ローユァンがシンセサイザーを鳴らし、ターンテーブルをいじって、そして正四角形のボタンだけのオモチャを叩いて遊ぶ。

 モニターでそれを見る鷹橋リンドウは、そんな彼女たちの演目が、客観的に極めて不利な順番に置かれていることを感じていた。

 ザ・ウォールの大本命である西園学派と感傷的なシンセシスが二連続で続いた、その直後だ。

 明らかに、神がかった演奏の余韻が残ったまま自分自身の音楽をやる必要があって、

 ミチルの間奏中のダンスは、普段よりもずっと力の入ったものになる。

 ――負けたくない、という闘志を感じた。

 事実、デジタルハックバンドは聴衆の心を持っていくことに苦戦しながら、それでも食らいついているように見えた。少なくとも過去一回のワンマンのほうがずっとノリは良かったはずだが、

 ミチルの表情に焦りはない。焦らないようにしている。

 鷹橋リンドウが顎を撫でながら考え込んでいると、トイレから西園カハルが帰ってきた。

「辛気くせえ奴に会っちまった」とカハルは言った。

「誰だ?」

「言いたくない」と彼女は答えて、前屈みになりながらモニターを見つめる。「ローユァンさんのとこか?」

「ああ。いま二曲目になったところだ」

「あと何組だっけ?」

「このあとLOVELESS JAM UNITと、サントームで祭は終わりだ」

「はぁん」

 そうカハルは答えてから、少し考えるように黙ったあとで、「そうか、もう終わりなのか」と答えた。

 水島タクヤが椅子を揺らした。「今回は収穫ナシって顔じゃないね?」

「ああ」

 そう言ってカハルはラッキーストライクに火をつける。「面白いのが見れたからよかったよ。明日からまた練習だ」

 だが、タバコを吸いこむ前に、カハルはひとつ大きなあくびをした。

 リンドウは鼻の頭をこする。「眠いなら眠ったほうがいいぞ。今日は朝も早かった。カハルは夜型だ」

「あぁ? ん~」とカハルは言い淀む。「でもあと、みっつバンドが残ってるだろ?」

 全て聴かないと気が済まないか。こういうところだけ彼女は律儀だ。

「録画ならしてある。打ち上げにも出るなら、今は体力を養ったほうがいい。だろ?」

 とリンドウが言うと、カハルは頭をワシワシとやってから「そっかぁ」とボヤいた。

「そうだな。ちょっと寝る。リンドウ足くれ」

 と言ってカハルは靴を脱ぎ長椅子に寝転ぶと、リンドウの太ももを枕にして横になった。

 ミチル&ローユァン・デジタルハックバンドの演奏が続くなかで、カハルはもういちどあくびをすると、さっさと入眠状態だった。

 彼女がこのバンドの演奏を聴こうとしていたのはただの義務感で、実際には退屈していたわけだ。――アヲイたちのバンドのときは体を起こして集中していたのだから、違いは明らかだ。

 リンドウは苦笑しそうになったが、自分の体の震えがカハルの眠りの邪魔になってはまずいから、ただ口角を上げるだけに留めた。

 ――本人に言ったら怒られるだろうが、カハルは、憎しみをぶつけるような形でしか誰かに愛着を示すことができない。

 だから、カハルが気に入らないとか、嫌いとか言ったら、それは好きなのだ。

 音楽そのものも例外じゃない。

 リンドウは、何度もカハルが「人間が音楽なんて芸術形式を思いついたのが理解できない」「ただの音の集まりに秩序を与えて支配するのは純然たる暴力だ」と呟くのを耳にしてきた。

 要するに、そういう女なのだ。

 カハルはずっと音楽が好きで、アヲイのことも気に入っている。

 カハルはミチル&ローユァン・デジタルハックバンドの演奏が終わるときも、ほとんど意に介さず、ただリンドウの左脚に頭に乗せて爆睡をキメていた。

 水島タクヤがコーヒーを飲みながら、「しかし、リンドウよ」と言った。

「お前とカハル、その距離感なのに実際付き合ってないってマジでバグってるよな」

 それに対して、リンドウは表情を変えない。カハルの顔でもモニターでもなく、部屋の、どこでもない場所に視線を向けながら彼は言った。


「カハルの恋人は音楽だよ」


 西園カハルは最強の女だ。その女の音楽を支えることができるなら、下らない片想いはずっと胸に封じていられる。

 そう思うのがリンドウだった。

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