第6話 不手際のアルゴリズム
新進ロックアーティストの祭典『ザ・ウォール』の配信動画視聴者による人気投票結果は、以下のとおりである。
1位 西園学派 83204票
2位 感傷的なシンセシス 51422票
3位 朴セツナ 31781票
4位 キラークラウン 19641票
5位 サントーム 12139票
6位 ミチル&ローユァン・デジタルハックバンド 7502票
7位 銀の弾丸の存在証明 4636票
8位 LOVELESS JAM UNIT 2865票
9位 71フラグメンツ 1771票
10位 Medical Melody Clinic(M.M.C) 1094票
※※※※
――お酒をいっぱい飲むぞ~~~~!!!!
そう朴セツナは思った。
打ち上げ会場はホール3Fの会議室Bだった。長机を大部屋の真ん中に集めて、食べ物と飲み物が多めに置かれている。
喫煙室は廊下を出て向かって左。
神か?
おそらくそうなのだろうと彼女は思う。
部屋の壁に置かれた椅子に腰かけて缶ビールを呷っていると、マネージャの本並が何本か抱えて、「ほら、セツナ!」と持ってきてくれる。
「いいの!?」
「良いに決まってるだろ? 今日はセツナは頑張ったんだからな」
「――うひひ」
セツナが気持ち悪い笑顔を漏らすと、本並も楽しそうに笑った。
動画配信サイトの投票システムでは、朴セツナのパフォーマンスは全体三位だった。しかも平均得票数越えだ。
上等な成績だ、と、本並も嬉しそうにしていた。スーツは崩さなかったが。
その顔を見て、セツナは胸がどきどきする。――やっぱ本並かっけぇよな、という気持ちになった。
かつて本並はインディーズバンドのメインボーカルとして活躍し、引退後、自分を擁していたブイステップミュージックの社員になった。
ファンは多かったらしい。
そんな本並のアーティストに対する気持ちの強さと、それを普段は出さない涼しい表情がセツナの性癖には刺さっていた。
――好きだなあ。
本並は彼女にビール缶を渡し終えて立ち上がると、
「ちょっと挨拶に回ってくるよ。セツナも、仲良くしたい奴がいたら話しとけ」
と言って去っていった。
「あっ――」
セツナは手を伸ばしかけるが、もう本並は自分のほうを見ていない。ちゃんと仕事をしているのだ。皆がだらしなくなっている、今も。
あたしがアーティストとして好き勝手やれるのは、その後ろに本並みたいな真っ当な社会人がいるからだ、と彼女は思う。
だいたいアーティストって言葉はなんだ? 楽器を弾いて音を鳴らして歌うだけで芸術家を気取るなんて傲慢なのでは、とも思う。
セツナは俯いて新しい缶ビールのプルタブを開けた。
というか、本並はあたしのコミュ障ぶりをナメてるんだよな。仲良くしたい奴が仮にいるとして、そいつらに話しかけられるメンタルじゃないのは知っていてほしい。
――セツナは首を横に振る。
そうじゃないな。あたしは間違えている。
あたしは、あたしがいま仲良くしたい奴は本並なんだと本当は伝えたいのだ。
伝えられるわけがないが!
新しいビール缶に唇をつけながらセツナがスマートフォンをチェックしていると、その目の前に人間の影が落ちる。
へ?
セツナが顔を上げると、感傷的なシンセシスの九条アヲイがそこに立っていた。じっと朴セツナの顔を見つめたままそこに佇んでいる。
は?
軽く混乱する。
「な、なに?」
「ああ、いや」とアヲイは声を出した。「あっちでさ、セツナが良かったから話したいって言ってる奴がいるんだよ。おいで」
「え、えっ?」
セツナがアヲイの背中越しに大部屋の向かい側を見てみると、西園学派のボーカル・西園カハルがワインボトルをラッパ飲みしながら待っていた。
――虎と龍の戦いという慣用句があるけれど、そこに巻き込まれたネズミがいるとしたら、今のあたしみたいな気持ちなんだろうか。
セツナはアヲイに連れられて、アヲイとカハルが傍若無人な暴飲暴食を続ける最悪の酒席に招かれていた。カハルはワインを独占して一人で飲んでいる。アヲイも飲む量が変だ。
カハルが真っ赤な顔面で「セツナが来た!」と叫ぶ。美人の大声は怖い。
アヲイが「ちょ、そのワイン貸して」と言ってカハルからボトルを奪い、全て飲んでしまった。
何してんの!?
カハルが「んだよアヲイ、二位のくせに!」と笑って彼女の髪をくしゃくしゃとかき乱した。アヲイは構わず飲み干す。
セツナには状況が飲み込めない。というか、この人たちって仲が悪かったんじゃないの?
カハルが「セツナの歌もアヲイのギターも良かった。うん、参加して良かった」と、情緒的なことを言った直後に「リンドウ! 酒!」と、メンバーを呼びつける。
彼は肩をすくめながら、テーブルのほうに向かった、
と、そのとき、近くにいたシンセシスの篠宮リョウと彼が顔を合わせ、
――お互い大変ですね。
みたいなアイコンタクトを交わしているのが、セツナにだけ分かった。
セツナは縮こまった。
アヲイが「大丈夫? セツナのぶんのお酒も取ってきてあげるよ」とセツナの顔を覗き込む。
「あっえ、あっ!?」
カハルが「おいおい。セツナはアタシが呼んだんだからよ、アタシの酒を飲んでくれないと困るぜ」と言ってセツナの肩に腕を回す。
――ちょ、あ!
セツナは視界がぐるぐるしてくるのを感じる。こいつら無自覚か。今の彼女にとっては、期せずして、両側に顔の良いふっとんだ女がいるという状況だった。
そのとき、会議室のドアが開いた。
「はっはっはっ!」
という低い女の笑い声が聞こえる。
床に敷かれたタイルカーペットを、ハイヒールが踏みしめる鈍い音だった。
「うんうん、此度の来客がこの場では実に楽しくやってくれているようで僕も何よりだ!」
と言いながら赤い長髪を揺らして彼女は歩く。
セツナは顔を上げる。
その声の主の、切れ長の両瞳と鋭い容貌に彼女は覚えがあった。
――業界最大手のレコード会社・マイヤーズミュージックに所属するメジャーアーティスト、沖田レインだった。
セツナは心臓が止まる。
彼女の視界の隅では、たぶん本並もその場から一歩も踏み出せていなかった。
レインは周囲を見回すと、
「わーい、フライドポテト!」
と言ってテーブルの軽食をつまみ食いして、もぐもぐ飲み込んでから、「えっと」と言葉を繋いだ。
「西園学派のリーダー・西園カハルと、感傷的なシンセシスのリーダー・九条アヲイに話があってきたんだ。彼女たちは今どこにいる?」
と不気味なまでの快活な表情でそう言った。
「アタシに用か?」
とカハルが言った。くるり、とレインが首を回して彼女と両目を合わせる。
「そこにいたのか! いや済まない。準備が遅くなってしまった」
「準備?」
「うちの音楽事業部本部長からの、直々の勧誘状がここにあるんだ」
レインは右手に持った紙切れを高々と掲げた。
「部長が僕に言うんだよ! 今回のライブで気に入った奴がいたら我が社に勧誘してこいって! あっは! 面白いだろ?」
レインの説明を聞いても、カハルは反応しない。
レインは「ところがね!」と笑う。「どうしてか部長は僕に勧誘状を一部しかくれなかったんだよ!」
だから――とレインは言葉を繋ぎながら、もう一枚の紙切れを取り出した。
「地下のコンビニでコピーしてくるのに時間がかかったんだ。いやあ本当にすまない!」
「はあ? コピー?」
「うん!」
沖田レインは西園カハルと、そして九条アヲイを交互に見つめた。
「誘いたい子が二人いるのは想定外だったんだ」
そうして彼女は、カハルとアヲイの両方に勧誘状を手渡した。
「僕の所属するマイヤーズミュージックで曲を出そう。いっしょに日本のロックの歴史を変えようじゃないか!」
カハルはしばらく黙ったままだったが、やがて、
「アタシは商売の奴隷人になる気はないぜ。だいたいアンタの部長様が誘ってるっていうなら、伝えろ。まずはてめえが直々に来いってな」
と言った。
その言葉にセツナは慄く。
おい! 相手が誰なのか分かってんのか!? 国内の音楽を全部牛耳ってる大企業だぞバカが!
沖田レインはハハハと笑った。「なるほど、上長と話し合いたいんだな! よろしい、その議論の場所は設けておくよ!」
――カハルは頷いた。
レインは「だけど」と付け加える。「商売の奴隷人と君は言った。しかし、その心配はないと保証する。うちはまあ基本的にアーティストの自由を尊重する社風さ」
「保証の根拠は?」
「僕のバンドの音楽を聴いてくれたまえ! あんなに好きにやらせてもらってるのさ! 何でもいい主義ってわけ!」
「――アンタの音楽が、自由か?」
カハルがそう訊き返すと場の空気がさらに凍りついた。
その発言は挑発的に過ぎると誰もが思った。
しかし、レインは意に介さない。
「そうだよ」とレインは答えた。
カハルは八秒間ずっとレインと目を合わせたあと、不意に「分かりました。メンバーとあとマネージャと相談した上で、受け取っときます」と答えた。
そして紙切れをポケットに仕舞う。
沖田レインは彼女の振る舞いに満足してから、九条アヲイのほうを眺めた。「それで、君はどうだい」
「えっ」
アヲイはキョトンとした顔のまま、しばらくの間は黙っていた。
そして次に「ユーヒチ」と言った。「どうすればいいと思う?」
感傷的なシンセシスのベーシスト・川原ユーヒチは長いテーブルの対角線上に立っていた。アヲイは彼に意見を仰ごうとしている。
それは、セツナには不思議だった。
沖田レインはアヲイとユーヒチの対角線を遮るように立ちはだかった。
「僕は君の意見を聞きたいんだ」
「え?」
アヲイはずっとトボけた顔をしている。「私はリーダーじゃないよ。全体の総意はリョウに訊いてください」
「いいや」とレインは首を振った。「肩書上のリーダーが誰かって話じゃない」
たとえ建前ではリョウがリーダーだとしても、バンド全体の空気を決めるメンバーが君なら、それは君が本当のリーダーってことなんだよ、アヲイさん。そんな風にレインは言った。
「だから、僕が勧誘状を贈った相手は君なんだ」と彼女は言った。
アヲイは「あー」と言って納得したように見えたが、
再び「ユーヒチに意見を聞いていいですか?」という地点に戻ってしまう。
レインの表情には、わずかに苛立ちが浮かぶ。
「分からないなあ。――君の意志を訊いているのに、なんでユーヒチくんの言葉が関係あるんだい? 君は、彼の言いなりなのか。まさかユーヒチくんが『死ね』って言ったら死ぬのかい?」
「え、うん。死ぬ」とアヲイは答えた。「――言わないと思うけど」
その回答にセツナだけではなく、カハルも驚いているのがセツナには分かった。
※※※※
打ち上げは二時間ほどで終わった。緊張のあまりベロベロになった朴セツナは、本並のレクサスに乗り込んで消えていく。
西園カハルのほうは酒を飲みすぎて寝落ちてしまっていた。鷹橋リンドウは溜め息をつくと、彼女を背負う。「今日は本当にありがとうございます。全員のおかげで良いライブになりました」
そうして、西園カハルは爆睡したままリンドウの背に揺られて街に消えていった。それは、動画配信やブログの中で音楽について高尚な理論を言い散らす彼女からは想像できない姿だった。
――人間には色んな姿があり、その全てを知ることは誰にもできないと思われる。
シシスケは「いやはや」と言って、感傷的なシンセシスの面々を見た。「これからは忙しくなるかもしれないな」
「そうだね」とリョウは頷いた。「こんなことになるなんて、思ってなかった」
彼女がそう語ると、ガロウは軽く笑う。「オレはライブのときからこうなるって思ってたぜ。アヲイには何かあるんだ、やっぱりな」
そんな風に楽しそうだ。
そしてユーヒチは、自分にしがみつくアヲイに呼びかける。
「大丈夫か?」
「ん? あー」
「だいぶ酔ってる。どこかに入って休もう」
「お? おー」
それに対してガロウが「さっきのヤツみてえに背負っちまえ!」と茶化す。
ヱチカの顔が曇るのがモモコには分かった。
各バンドが解散していくなか、感傷的なシンセシスのメンバーも駅に向かって歩いた。
モモコはガロウに呼びかける。
「このあとまた女遊びとかするんじゃないですよね?」
「はあ?」とガロウが言った。
「そんな暇ないだろ。さっさと家に帰って練習だ練習」
「そうなんですか?」
「アンタ何見てたんだ?」
ガロウはギターケースを背負い直す。「あんな演奏できたんだぜ。すぐにでも一人で楽器に触りてえよ」
「――ふ、ふーん! 感心ですね!」
モモコがそう答えると、ガロウは笑顔のまま振り向いてくる。
「モモコもさ! 何か楽器やれよ! 頭いいんだからすぐに覚えられるだろ?」
「えっ、無理ですよ!」
モモコはガロウと話しながら、普通に会話が弾んでしまっているのを感じる。
「無理なもんかよ!」とガロウは言う。「オレみてえなバカでもできるんだからよお、モモコだって何か弾けるって!」
「えっ、ギターとかですか?」
「ハハハハ」とガロウが笑う。「ギターやるんならオレが教えてやるって!」
「ほんとですか!?」
モモコは喜びながら、あれっ、と思う。
――私、ガロウさんと楽しく喋っていていいんだっけ?
何かがおかしかった。
アヲイ先輩のライブを見て舞い上がった自分は、何か大切なことを忘れたままでいる気がする。
私は最初の頃、ガロウさんのことなんて嫌いだったはずなのに。
ガロウさんの痛みに触れた。「母親」という言葉に過剰に反応する姿を見た。
ガロウさんの優しさを知った。昼休憩時に、気が動転していた私にずっと寄り添っていたのはガロウさんだったと思う。
――そして、今、ガロウは無邪気な子供みたいに、音楽の歓びをモモコと共有しているように見えた。
あれっ?
これで、いいんだっけ?
モモコは戸惑いながら、それでも、楽しそうにはしゃぐガロウを非難する気にはなれない。
そんな二人のお喋りも、リョウとシシスケとユーヒチは微笑ましく眺めていた。
駅に辿り着くまでの大通りの中で、そんなモモコの表情を、会場前でずっと待ち伏せているチユキが遠くから眺めていた。
「――なんで? モモコちゃん」
チユキがそう呟くのを、この世界にいる誰もが聞いていなかった。
※※※※
全員が地下鉄でパラパラと解散する頃には、とうとうアヲイは泥酔して歩けなくなっていた。ユーヒチは初めのうち彼女の肩を抱いていたが、最終的には、体全体を抱きかかえて歩くしかほかになかった。
「まあしょうがないし、俺の家で寝かしとく」
ユーヒチはそう言って、アヲイの荷物であるギターとエフェクターをリョウに預けた。「これは運びきれないから、あとでアヲイに渡しておいて」
「いいけど」とリョウは渋る。「周囲の目線とかメディアには注意しておいて。こんな短期間で今度はバンドのベーシストにお持ち帰りとか洒落にならない」
ユーヒチは笑った。「うん、それは分かってる」
渋谷駅でシシスケが降り、新宿駅でガロウとリョウが降り、目白駅で降りようとしたヱチカが「ユーヒチさん」と呼びかけた。彼は顔を上げる。
「デート、楽しみにしてますね」とヱチカは言った。
――そうだ、俺はヱチカと出かける約束がある。それはそれだけのことだ。何ひとつ疚しいことはない。
「ああ、分かってる」とユーヒチは言う。「ヱチカのお姉さんはちゃんと安全な場所で寝かせておくよ」
大塚駅で降りたユーヒチはアヲイを抱えて歩きながら、彼女の体が本当に軽いことに驚いていた。
いや、身長164の痩身の女性であれば、せいぜいこの程度の体重だろう、という予想を裏切ってきたわけではない。
ユーヒチの感覚はもっと具体的なものだ。――俺に抱きかかえられたナクスはもっと重かった、という。
それは中高時代の彼と、今の彼との間にある体力の差も関係していたと思うが、それはそうとして、ユーヒチはアヲイの身体をまずナクスとの違いによって感じた。
大塚駅で降り、坂道を十分は歩いた先にユーヒチのアパートはある。彼はドアを開けて明かりを点けると、ベッドの上に彼女を横たえた。
「んー」と、真っ赤な顔でアヲイが呻く
「大丈夫か?」とユーヒチは問いかけた。「水を飲むなら置いとくよ」
「いい」
アヲイはそう答えてご機嫌に寝返りをうった。が、結局ユーヒチはミネラルウォーターのペットボトル数本を用意し、ついでに風呂桶に古新聞を敷き詰めてベッドの隣に置いておく。
そうして自分が飲み直すために、ブラックニッカの氷割りをテーブルに置いて、PCの電源を点けた。
――かつてアヲイが言っていた、あるキリスト教系の児童養護施設の名前をとりあえず検索してみる。アヲイの架空の記憶の中では彼女とユーヒチはそこで出会い、結婚の約束をした。
そういう場所だ。
だが、いくつかのページを読んで、やはり実感が湧かないという気分になると、ユーヒチはウィンドウごとそれを閉じた。
宗教的な言葉のいくつかに彼の逆鱗に触れるものがあることを今さら思い出す。
――ユーヒチがまだ荒れていた頃、シシスケの家に泊まった日に、本棚を好きに漁っていいと言われた。
シシスケの両親が敬虔なクリスチャンだからか、あるいはシシスケ自身が宗教に興味があるのか、その手の本が聖書を含めてたくさん並んでいた。
ユーヒチはいくつかめくって読んでみたが、だんだんとムカついてきてやめにした。
「この世界を全知全能の神が創造したなら、なんでナクスは今いないんだ」
そんなバカバカしい気分になってユーヒチは本を棚に戻した。
シシスケは「気に入らなかったか?」と訊いてくる。
ユーヒチは「きっと俺は神が嫌いだ」とだけ答えた。
そして現在、ユーヒチがYouTubeを開いて酒を飲み直していると、後ろから、
「まだ起きてるの?」というアヲイの声が聞こえた。
「ああ、うん」
そう答えて振り返ると、彼女は体を半端に起こして、睫毛の長い瞼をしぱしぱと叩きながら、乱れて額の見える短髪をそのままにして、そこにいた。
「いっしょに寝ようよ」とアヲイは笑った。
ユーヒチは首を振る。「俺は床にマットを敷くから、アヲイはゆったり眠ってくれていいよ」
その言葉を聞いても、アヲイはうつらうつらと首をもたげたままで反応を返さない。
「訊いていい?」とユーヒチは言った。以前、アヲイのアパートを訪れたとき、本棚にあった哲学書の言葉を彼は思い出していた。
「どうして神秘的なものは存在しないんだ? 問いが存在しないのではなく、理由が存在しないっていうのは、どういう意味なんだ」
ユーヒチがそう訊くと、アヲイは、ぽふっ、というベッドの音を立てて仰向きに寝転んだ。彼女はただ天井を見つめている。
「アヲイ?」
ユーヒチが問い重ねると、アヲイは話し始めた。
「私たち人間が因果律にアクセスできないのは、私たちの理性に限界があるからではなく、単に、因果律自体が存在しないからだよ」
「え?」
「存在しないものにはアクセスできない。それは、私たちのアクセス能力の不備じゃない」
――因果律にアクセスできないのは、人間のアクセス能力の不備ではない?
ユーヒチには、説明されればされるほど、彼女の言っていることが理解できなかった。
「けほ」とアヲイは咳き込む。「大丈夫か?」とユーヒチは駆け寄った。アヲイは意に介さず話を続けようとする。
「なぜ世界は存在するのか?」
アヲイは言う。
「この問いかけは、カントが言うような取扱不可能なものではないし、ウィトゲンシュタインが言うような、語りえないものでもない。世界は何の根拠もなく存在していて――だから――何の根拠もなくその姿を変えることができる」
問いではなく理由が存在しないというのは、そういう意味だよ、と、アヲイは説明した。
「俺には、アヲイが言っていることは、よく分からないかもしれない」
「――ははは」
アヲイはユーヒチの言葉に対してひととおり笑うと、ぼそぼそ、と、何も聞き取れないような囁きで返した。
「――何? どうした?」
ユーヒチが彼女の声に耳を傾けようとして、その唇に顔を近づける。
その油断を突くようにして、アヲイはユーヒチの後頭部を手で抑え、自分に引き寄せると強引にキスした。
アヲイはユーヒチの唇に唇を合わせ、「あっ」という動揺とともに開いた彼の口腔に舌を入れると、彼の、神経過敏な、歯茎と舌に自分の神経を差し込む。
――ユーヒチ、隙だらけだ。と彼女は彼の口内を舐めながら思う。
彼が離れようとする腕と背中を両手でそれぞれ握ったり抑えたりして、結局は、既に横になっている自分の体の上で、まるで事後的に犯罪者に仕立て上げるかのように、四つん這いのポーズにさせた。
唇を離すと、ユーヒチが自分を見下ろすのがアヲイの目には見える。
「ユーヒチ」とアヲイは言った。もどかしくなって、服をゆっくりと脱ぎ始める。そして彼はもう抵抗していなかった。
※※※※
渋谷。深夜四時。会員証が必要なクラブに沖田レインは足を運んだ。その1Fでは、トワが女たちを五人ほど侍らせて酒を飲んでいる。
会場にいたファンの女とは別の、特別にトワが囲っている女たちだ。
「やあ! レインだよ。元気にしてるかい?」
レインが話しかけると、トワは奈落の底の瞳で彼女を見つめた。
――彼女という代名詞は不適切かもしれない。
レインの心には性別がない。身体は間違いなく女のそれだったが、レインの精神は、いつも自分の肉体とのズレを抱えながら二十八年間ほど生きてきた。
そして、それと関係するかは分からないが、レインには性的欲望というものがなかった。それは一般的に、彼女には恋愛感情がないということを意味した。
トワは、くしゃくしゃの髪をかき上げて「レインか」と呟いた。
彼を取り巻く女たちが「ほんとだ」とか「どうしたんですか?」とか反応している。レインはトワに群がる彼女たちの欲望を理解できない。
――レインはこんなときに、自分が何かに取り残されているのを感じる。
「はっは! いやいや!」
彼女は笑い声をつくった。「今日は楽しい出会いがあったからね! ぜひ旧知の仲であるトワと話したいと思ったんだよ!」
トワは「へえ――」と言ってから、女たちに「先におれの部屋に行ってて。部屋の鍵と車はあげるから」と言った。
「えーっ!」と女たちは言う。「トワ様といっしょにいたい~!」
――なんだこいつらは? レインは顔をしかめる。
トワが笑う。「そう怒るなレイン。こいつら、おれの大事で可愛いやつらなんだ」
「そうかい」
「――ああ」
トワが椅子から立ち上がり、女たちを見渡す。「おれが行けと言ったら、行くんだ。おれの女でいたいならそうしてよ」と甘えるような声を出す。
レインが目をそらしていると、女たちの一人が「じゃあアレやってくれたら言うこと聞く!」と声を出す。それに対して、他の女たちも頷いた。
トワが「アレしたら、言うこと聞いてくれるの?」と奈落の瞳を輝かせる。
「聞くきく!」
「じゃあ、首出せ」
トワの言葉に従って、女たちは首筋を差し出す。
そうして彼は、一人ひとりの首の根っこのあたりに噛みつき、うっすらと血の跡を残していった。
トワの犬歯は、自身の唾液と女たちの血が混ざったもので汚れていく。最後の一人を噛み終えると彼は水を飲み干す。
痛くないわけがない。女たちは首筋を押さえながら、苦痛に顔をしかめる子もいるが、その頬は紅潮している。レインは耐えられず、その場に残っていた酒をひとつ選んで口に含んだ。
「やれやれ」
女たちが去っていったあと、レインは大げさに肩をすくめてみせる。
「その調子だと、謹慎中の生真面目で誠実な反省なんてものとは無縁のようだね? 君は」
「――反省? おれが? 何の?」
トワはキョトンとしている。たぶん、本当に自覚がないのだろう。レインは苦笑しかできない。
「それにしても、車は大丈夫なのかい? みんなお酒を飲んでいたから運転はできないぜ」
「入口のとこに、一人だけ待たせてる女がいる。そいつが運転手だよ」
トワは悪びれもせず答えた。
「おや、そうか」
――それじゃあ、その子だけ君に噛んでもらえなかったわけだ。可哀想にね。とレインは言った。
「大丈夫」
そうトワは笑う。
「あとで、もっと酷い目に遭わせてあげるんだ。そうすると喜ぶんだよ」
VIPルームに入ると、レインはセブンスターに火を点けてゆっくりと煙を吸い込んだ。
「君が言っていたアヲイという女の子に、僕も会ってきたよ。たしかに、まあまあ面白い子だね」
「そうでしょ?」
トワは小皿のナッツを齧る。
「アヲイは――あの女はおれと同じだ。今日は、それが分かったんだよ」
「なあ、トワ」
レインはジントニックを飲む。「もう音楽の世界には帰ってこないつもりか?」
「何の話?」
「部長から伝言があって君と話しにきたんだ。もうすぐ相手夫婦の離婚が成立する。君に対する要求は、不思議なことに、全然ないそうだ。そうなれば、君の謹慎は解ける。復帰できるんだよ」
「――旦那さんとは、いちどだけ話した」
「初耳だな」
レインはトワの表情を伺う。彼は、
「同じ女を気に入ったわけだから、仲良くなれるかと思ったんだよ。そしたら、追い返されたな」
と答えた。本気で落ち込んでいるように見えた。
「――あっはっはっは! そうかい!」
レインは声を出して笑った。
この調子で、きっと相手側は、トワと関わるのも嫌になってしまったのだろう、とレインは察する。
彼女は部長からのメッセージをテーブルに置いた。
「彼が君について言っていたよ。『どうしようもなく惹かれる才能の持ち主がいて、そいつに音楽しか生きる道がないなら、私は手を差し伸べる』――ってね」
トワは紙を手に取る。
レインは灰皿にタバコを押しつけた。
「トワ、君はひとりじゃない。帰ってきたまえよ。さっきの女たちだって喜ぶさ」
「おれが独りじゃないなら、どうして、いつもこんなに寂しいんだ?」
彼は紙をくしゃくしゃに丸め、「でも復帰はするよ。伝えといて」と、ぶっきらぼうに言った。
そしてハイライトを咥えて、不意にレインを見つめたまま、
「あんたは誰だ?」と訊いた。
レインは苦笑する。
「僕は沖田レイン。君とは旧知の間柄で、同じ音楽芸能事務所に所属するアーティストの仲間さ」
彼女が淀みなく自己紹介すると、トワの目が再び光を取り戻す。
「――ああ、そうだ、レインか」
「君が好きなアヲイって女の子と会ってきたよ。その話は覚えてるかい?」
「――アヲイはおれと同じだ。もうすぐおれと同じになる」
「? どういうことかな」
「アヲイはまだ独りじゃない。でも、いずれそうなるんだ」
レインは自分の指をいじる。「君はひとりじゃないよ。さっき、そう言っただろ?」
「さっき?」
「復帰の話をしたじゃないか」
「誰が復帰するの?」
「――君だよ。トワ、君が音楽に復帰するんだ」
「あんた誰だ」
トワがそう言うと、レインはいよいよ笑いを堪えられなくなった。
「あはははは! 僕は沖田レインだよ! 君とは旧知の仲! 同じ音楽芸能事務所に所属する仲間さ!」
まったく。
トワは僕を覚えていない。だから、その場その場で反応を繋ぎ合わせているだけなのだと、僕には分かる。――レインは目を細めた。
僕は本当に君の親友だったんだぜ?
僕が自分の性器に悩んでいたとき、自殺を止めてくれたのは君じゃないのか、トワ。
「ふふふ」とレインは腹を抱える。
トワの顔に、もういちど表情が戻った。「なんだ、レインか。久しぶり」
※※※※
ライブを終えてから、リョウは、少なくとも数日は我慢していた。それでも結局は耐えきれずに、前回と同じ女の子を指名していた。
女性同性愛者用の風俗で、60分1万5千円。そこに指名料が2千円追加されて、各種オプションが付けば値段はさらに跳ね上がる。
バカなことをしていると思う。
――また、やってしまった。
注文を終えた直後、リョウはいつもベタベタした後悔と罪悪感、そして被虐心に包まれる。そんなとき、彼女は自分のことを世界でいちばん気持ち悪い生き物だと思った。
最初のうちは、こんな方法で性的な欲望を解消することに気が咎めていた。息も不自然に乱れた。
――ちょうど大学の一般教養講義で、売買春の性的搾取構造について准教授が語っていたことも記憶に新しかった。
「女が性を売り、男がそれを買うというのは、単なる自由な市場の働きで済ませられない側面があります。それは男女間の経済的不均衡を暗黙のうちに利用した、現代の性奴隷制度なのです」
このとき、リョウはよっぽど手を挙げて准教授に質問しようかと思った。
「ならば、女が女を買うのはセーフですか?」と。
ただの欺瞞だが。
リョウがホテルの部屋で待機していると、インターホンが鳴った。
ドアを開ける。
彼女がいつも指名してしまう「マキ」がそこに立っていた。
リョウは、マキの顔を見るたびに、べったりとした不快感が喉の奥をもたげる。
――マキの容姿は、アヲイと瓜ふたつだった。だから指名するという自分の醜さを直面するのが嫌だ。
「やっほー」とマキが軽く笑った。「あたしを呼ぶのに随分と時間かかったんじゃない?」
リョウは「はい」と頷くしかない。
靴を脱いで部屋に上がりながら、マキは「この前、何て言ったか覚えてる?」とからかってくる。
「いえ――」
「『もうこんなことはやめる』って言ったんだよ! きゃはははは! やめられてないじゃん! けっきょく寂しくなっちゃったんだ?」
マキの無遠慮な正論がリョウの胸をグサグサと刺した。
「ごめんなさい」とリョウは言った。「どうしても、耐えられないことがあって、それで――」
そんな言い訳を、マキは遮る。「リョウちゃんって顔もカッコいいし~、背も高いし、そういう場所でレズナンすればいくらでも相手が見つかりそうなのにね? なんでそうしないの。ヘンだよ?」
「そ、れは――」
「知ってるよ」
マキが呟くように言うと、その声がほんの少しアヲイに似ていることに、リョウは縋りつきたいような気持ちになる。
人の声の性質は頭蓋骨の構造、つまり顔の造形と関係がある。
マキはニヤニヤと笑った。アヲイとほとんど同じ顔だったが、表情の使いかたはマキのものでしかなかった。
「そんなところに出向いてオンナノコを漁っても、そこに『あの子』はいないんだもんね? ――アヲイちゃんって名前だったっけ?」
マキはクスクスと笑う。リョウは、彼女と目線を合わせることができなかった。
こんな嘲笑めいた言葉遣いを受けてもまだ胸を騒がせている自分は、本当にこの世界の汚物だと思った。
「じゃ、前払い制度だから先に貰っちゃうね? 財布出して?」
マキに言われたとおり、リョウは財布から一万円札を三枚出す。
「ん?」とマキは反応する。「リョウちゃん? ちょっと多いんじゃない?」
「あ、あの――」とリョウは言い淀んだ。「また、アレしてほしくって――」
「――あはははは!」
マキは笑い転げる。
最初にこのプレイを提案したときも、同じように笑われた。
「だ、ダメ? じゃあ、もう一枚出すから――」とリョウは財布に指を突っ込んだ。
マキは「まじウケるんだけど。じゃ貰っとくね」と、さらに一万円をリョウから奪う。
既に、バイトで暮らす大学生としては破格の出費だ。
こんなことをしていたら、いつか破滅する。
しかも、リョウは感傷的なシンセシスのメンバーとして、既に最大手のレコード会社に誘いがかかっている身だ。こんな行為にはリスクしかないって分かってる。
今回を最後にして、やめなくちゃいけない。今度こそやめよう。
リョウの残り少ない理性が警告を鳴らした。
マキはベッドに寝転んだ。
「ほら~、前みたいに『アヲイ』って呼びながら甘えていいよ?」
そう彼女が言うと、リョウの理性はあっさりと敗北するしかない。
※※※※
楽器店に足を運ぶと、ギターの種類の多さにモモコは圧倒されていた。「こんなにたくさんあるんですねえ!」と彼女は本当に声に出して言う。
ガロウは苦笑した。
「試し弾きもできるからな。これだ! って直観で思ったの選ぶといいぜ」
「そんなこと言われても、多すぎですよ」
「そうだなあ」とガロウは顎をさする。「モモコが弾くわけだからな、まあ、サイズ的なものは控えめのほうがいいな」
「わっ、私がチビって言いたいんですか!?」
「――そりゃ裏読みがすぎるんじゃないの?」
ガロウはモモコの手を取って、ほら、と言いながら指をほぐすようにピンッと伸ばす。
「えっ」
「これだと、指板が厚かったら向こう側に届かない。腕の長さを考えたらショートスケールのほうがいいな。その線で選んでみようぜ」
「あ、え?」
モモコからすれば、親しくなったばかりの男の人に、自分の手指を好き放題にいじられているも同然だった。
ガロウは全く気にしていない。
「店長は?」
奥から出てきたアロハシャツの中年男性は「おっ、ガロウくん!」と笑顔になる。「今日はまた別の女の子を連れてるんだねえ」
「いやいや」とガロウは呆れる。「それアニメの台詞でしょ。なんだっけ? あと、コイツはそういうのじゃないですって」
「そうなんだ?」
「コイツ、えっとモモコって言うんだけどさ」
ガロウはモモコをちらりと見てから顔を戻した。「ギターやりたいんだってさ。いいの選んでよ」
モモコの「ガロウさんの言うこと、気にしないでくださいね! 私は女の子向けブランドとかそういうのイヤですから!」という言葉を聞き流しながら店長が選んだものを吟味していく時間だけ二人の間に流れていた。
ガロウが「色とかさ」と言った。「形とかそういう部分でビビッときたやつ試そうぜ?」
「そんなことでいいんですか?」とモモコが訊くと、
「毎回自分の体にくっつけて弾くんだからよ」とガロウは言う。「最初の相棒なんだよ。いま選ぶの」
そういうガロウの、ギターへの熱意に、モモコは自分がノせられているのを感じていた。
――楽しいと思ってしまう。でも、私はそれでいいんだっけ?
そうしてモモコの目を初めて止めたのは、FenderのDUO-SONICだった。
店長が「じゃ、椅子に座って色々触ってごらん! 立って演ってみたいならストラップはそこ」と言って引っ込んでいく。モモコはここまでの流れで、だいぶ疲れ果てたという気がした。
ガロウは「ほら、音出してみろ」と笑う。
「そんなこと言われても、分かんないですよ?」
ガロウは「しゃあねえなあ」とモモコの後ろに回り、片膝を付いた。「ほら、左手貸せ」
「は、はい」
彼が彼女の手首を押さえ、正しいポジションに導く。
「いちばん左の板の、奥から二番目の弦を人差し指で押さえろ」
と、ガロウがモモコの指を動かす。
「はい」
「で、次に中指で、左から二番目の板の、手前から三番目の弦を押さえる」
「はい」
ガロウの顔はモモコの顔の横に並ぶ。吐息が近い。
「最後に薬指で三番目の板の手前から二番目」
「はい」
「右手にピック持って、それで全部はじいてみろ」
「分かりました」
モモコは弦を鳴らした。
ジャーン、という、間の抜けた音が響く。
ガロウが拍手した。「それCコードっつーんだよ。ちゃんと鳴ったなあ!」
「そ、そうなんですね」
モモコは嬉しくなった。ちゃんと鳴った。
ガロウが「いやあ、オレ、もうそのギターで良いと思うわ。ちょっと自分でも気に入ってるだろ?」
「ま、まあ少しは」
「な!」
ガロウはモモコのギターのネックを掴み、モモコの代わりにそれを持つ。笑っている。
「あとは色々機材も必要だから、それも選ばなきゃな」
「え!」
モモコは戸惑う。「ギターだけじゃないんですか?」
「そりゃな」とガロウは答えた。「アンプもエフェクターも色々あるだろ。そりゃあ?」
「えっ」とモモコは言いながら、カバンの中の財布を気にした。「高いですよね、やっぱり?」
「何言ってんの?」
ガロウはキョトンとしている。「オレが誘ったんだからオレが買ってやるに決まってんだろ」
「は?」
「金はライブの売り上げで余ってんだからいいんだよ。それより最初の楽器代ケチるほうがダメだ」
ガロウの言い分はこうだ。最初だから、初心者だからという理由で安い楽器で済ませようとすると、その安い音と弾き難さに失望するし、そうでなくても、上達しにくい。
「初めの出費こそ大盤振る舞いすべきなんだよ」とガロウは言った。
「でも悪いですよ! 私が勝手にやってみたいっていうだけなのに」
「じゃあ後で返してくれりゃいいよ」
「――え、は?」
モモコは、ガロウという男性が分からなくなった。最初の印象ではもっと冷たくて、酷くて、女の子のことを何とも思っていない人だと思っていた。
「――私がお金、返さないまま逃げちゃうとか思わないんですか」
「逃げるのか?」
「逃げません!」
「だろ? モモコはクソ真面目っぽいもんな、絶対に逃げねえ」
そう言ってガロウは笑った。「そんなことより早くギター上手くなれよ!」
会計を済ませて、商品の送り先をモモコがひとつずつ書いてサインしていく。
店長が「あのね」と低い声でモモコに呼びかけた。「差し出がましいようだけれども」
「なんですか?」
「ガロウがあんなに無邪気なのは初めて見たよ」と店長が答えた。「いやね、ひとりのときは別として、彼、女の子といっしょのときはもっとピリピリしてたから」
「――はい」
「キミといるときはそうじゃないんだっていうのが、嬉しかったよ」
そうして店長はサインを受け取った。
店を出たガロウが「じゃ、荷物が届き次第ちゃんとやれよ? 分かんなかったら教えてやるから。ズームでいいか?」
「あ、はい」
モモコは頷いた。何か、こんなんじゃまるで――と、そこまで感じてから脳が強制的に思考をストップした。
分からない。罠のような流れに任されたとしか思えなかった。
そのとき、スマートフォンが振動した。ガロウが「どした?」と訊く。モモコは、生返事をしながらホーム画面の通知を見た。
――すごく楽しそうだね。モモコちゃん。
それは、チユキからのメッセージだった。モモコの頭が真っ白になる。
そうだ。
チユキちゃんは本当に酷い目に遭っていたんだ。
なのに。
なんで私はチユキちゃんを酷い目に遭わせた人と楽しそうにしているの? ――平気でいられるの?
モモコの手からスマートフォンが滑り落ちる。それが床に落ちて液晶を砕く前に、ガロウが前屈みになりキャッチした。
そんな動作の間でも、モモコは遠くのほうでもっと別のものを見つめていた。
向かいにチユキが立っていた。
いや、本当はそこにはいない。ただ、モモコの錯覚にはそう見えただけだ。
――ひどいよ。
そんな表情を彼女はしている。
※※※※
お兄ちゃんがモテる理由は、顔の良さを除いて考えれば簡単な話で、異性に何も期待しないし、要求しないからだ。だから、心の穴を埋めてほしい女の子たちがお兄ちゃんのもとに群がって、お兄ちゃんの体を食い散らかしては去っていくだけだ。
ある日から、そんな風に川原シキは思うようになった。
高校の昼食休憩で、友達のヒナがスマホを持ってシキのところにやってくる。
「シキちゃんのお兄さんのバンド、ネットニュースになってる」
「ほー、マジですか」
シキが画面を覗き込むと、たしかに感傷的なシンセシスのメジャーデビュー確定がロック専門のニュースサイトに載っている。
「すごいなあ」とヒナはため息をつく。
「すごいのはボーカルのアヲイでしょ。実際、アヲイのルックスが人気の秘訣だったわけだし」
そうシキが冷やかすと、
「曲だって凄かったよ」とヒナは口を尖らせた。
いや、まあ、そうだよ。
でも、バンドが売れるかどうかは、曲の良さとはあまり関係がない。
感傷的なシンセシスは、というか、その前身であるダズハントからして、そのセールスポイントはアヲイの見た目である。
このことは最初からヒネた批評家どもに推されている西園学派とは事情が違う。
曲の良さは売れてから歴史に登録されて、ずっと後で判断されるというだけだ。
――シキは醒めていた。
「でも、たしかに、うん」とヒナは頷いた。
「何?」
「みんなカッコいいもん。シキちゃんのお兄さんも、すごく!」
「はは」
シキは苦笑する。「お兄ちゃん、たぶん今、彼女いないよ? 立候補しちゃう?」
「え、えっ!?」
ヒナは動揺したような仕草になる。おいおい、とシキは面白くなってしまう。
――まだ実家にユーヒチも住んでいた頃、彼はある時期からほとんど夜遊び型の朝帰り生活になっていた。その時期のユーヒチは不良を極めていて、受験勉強はともかく、ほとんど学校には通っていなかった。
「お兄ちゃん」とシキは兄に抗議した。「うるさいんだよ。朝がちゃがちゃしてさ」
「ああ――ごめん」と兄は笑った。
「大学に入ったら一人暮らしするよ。そしたらシキも落ち着いて勉強できるよな?」
「そういうことを言ってるんじゃねーよ!」
シキが怒鳴ると、ユーヒチは黙った。
「お兄ちゃん、いつまでナクスさんのこと引きずってるの? そりゃ、良い人だったけどさ。でももう死んだんだから仕方ないじゃん!」
「シキ?」
「お兄ちゃんはいつも下らないバカみたいな女とセックスしてる! そんなの自傷行為といっしょでしょ! そいつらがお兄ちゃんに何してくれんの? 何もしてくれない!」
シキは怒鳴り続けて、ふっと落ち着き、目の前の兄を見つめる余裕ができた。
ユーヒチはじっとシキを見つめたあと、
「ごめんな、迷惑かけてばっかで。部屋に入るか?」と誘った。
シキは涙を流しながら、ユーヒチのベッドに腰かけた。
もしこのとき、セルフネグレクトという言葉を知っていたら、シキはその言葉も真っ先に口にしていただろう。
「お兄ちゃん、平気なの?」
そう訊くと、ユーヒチは渇いた声で笑った。
「なんでだ?」
そうユーヒチは言った。
「もうナクスがいないのに、なんで俺が平気でいなくちゃいけないんだよ?」
シキは、ひとりの妹としてただ、兄に幸せになってほしいだけだった。
しかし、兄自身が自分の幸せを望んでいないなら、どうすればいいのだろう。
※※※※
映画が始まる前に全てが真っ暗になるのは、死の瞬間に似ているのかもしれない、とヱチカは思う。
「ちょっと早く来すぎちゃいましたね~!」と笑いながらヱチカは指定席に座り、隣に腰かけたユーヒチも、
「たしかに」と微笑んだように見えた。「映画泥棒のやつとか予告とか長いよな」
「ヱチカちゃん、けっこうアレ好きです!」と彼女は笑った。
本当だった。
見たい映画の前に、いくつかの注意喚起と、それから愚にもつかないテレビ局主導の映画の予告が流れる。
何もかも退屈で、割高のポップコーンを口に運ぶしかないような時間が、ヱチカは映画鑑賞の醍醐味だとさえ思っていた。
――だって、ヱチカちゃんの人生は、きっとそういう駄目な映画のほうだもん。賞を貰ったり映画通に褒められたりするのは、アヲイねーちゃんの人生だもん。
そんなわけでヱチカは、大してイケメンでもない男性アイドルがイケメン役をやるような薄っぺらい恋愛映画の予告編も好きなのだ。
ヱチカはユーヒチの耳に唇を寄せる。「そういえば、おねーちゃん、あの夜は大丈夫でした? ご迷惑じゃなかったですか?」
「ぜんぜん大丈夫だよ」とユーヒチは笑う。「朝になるまでぐっすり眠ってた。きっとライブで疲れてるのに飲みすぎたんだろうね」
「そうですかぁ。よかった!」とヱチカは言う。「あと、デートの約束を覚えてくれてて、ヱチカちゃん嬉しいですよ!」
「え? ははは」とユーヒチは微笑んだ。
予告編は、まだ流れない。
ヱチカが、これから見る映画のことを考えながら、不意にユーヒチに訊いた。
作品のジャンルとしてはホラー映画だったからだ。
「ユーヒチさんって、幽霊、信じます?」
「んー、どうかなあ」
「前世とかもうひとつの世界とか――!」
「はは、なんだか突拍子もない感じだな」
「ヱチカちゃんは、けっこう信じちゃうんですよ。幽霊は科学的には証明されていないですけど、だけど、それって科学って言うお話の中では幽霊を捉えきれないってだけで。そんなの、これまで色んな幽霊のお話が生まれたことの理由にはなってないんですよね。だから、幽霊いるんだなあって、思います」
「んー」とユーヒチは頬杖を突く。「たしかに、そう言われてみると、いるかもしれない」
「ですよね!」
「俺としては幽霊を信じることができないけど、本当は信じたいんだ」
ユーヒチはそう答えた。
信じることができない? 本当は信じたい?
――ヱチカは急に、彼の言いたいことが分からなくなった。
※※※※
同時刻。
西園カハルと九条アヲイはマイヤーズミュージック本社の撮影スタジオで、男装用の黒スーツと黒ネクタイを身を纏っていた。服装はYシャツの色だけが違っている。アヲイはスカイブルーで、カハルはエメラルドグリーンだ。
――音楽のためなら仕方ない、と思っていた仕事のあまりの下らなさにカハルは後悔していた。
カメラマンの言葉を思い出す。
「カハルちゃんのほうは、あんまり余計な表情は付けなくていいよ。今のままで。この仕事あんまり気に入ってないんだろ。その機嫌のままで終わってくれ」
で、アヲイちゃんは――と彼は言い添えた。「もうちょっと目をキリっとしてて。あと、口をだらしなくしないように」
写真入りの雑誌インタビューで、カハルとアヲイはペアで取材を受ける体になっている。午前はそのための撮影だ。
雑誌掲載時のタイトルは『ガールズロックの新時代!』だそうだ。
サブイボが立つぜ、とカハルは思った。とにかく昼食のことを考えながらやり過ごすしかない。インタビューも憂鬱だ。
二人で背中合わせになった立ち姿を撮られた。カハル一人のパターンでは、椅子に座って足を組んだ構図を撮られた。
このとき撮影者は、被写体であるカハルを目下からナメるために床に寝転んだ。
マジでバカみたいだな、と彼女が思うと、それが目つきに影響したらしい、彼はシャッターを連打していた。
アヲイは逆に床にあぐらをかいて、頬杖をつく姿を撮られていた。
カメラマンが「アヲイちゃん、また表情緩んでる」と注意すると、
「だって、楽しい」とヘラヘラ笑った。
「楽しい、じゃあないんだよ! ちょっとはリスナーの需要を考慮して!」
「えー」とアヲイは戸惑っている。「需要って何?」
「じゃあ、今、いちばん自分が男の人に怖がられるとしたらさ、どんなことするの? それをやってみてよ!」
彼はそう訊いた。
「そういうことでいいの?」とアヲイは目を見開いた。
「それでいいよ。アヲイちゃんやカハルちゃんのカッコいいところって、要はそれでしょう。ぼくを怖がらせてみて!」
「わかった」
アヲイはいったん舞台から離れて、先ほどまで使われていた椅子を持ってきた。
彼は「えっ?」という声を出して、己のカメラから目を離してしまう。
アヲイは「撮ってて」と笑ってから、真顔に戻り、その木製の椅子を振り上げて床に打ち付けた。
バキッ! という破壊音がした。
スタッフが「いや、何してんの――?」と駆け寄るのをカメラマンが右手で静止すると、シャッター音が鳴るなかでアヲイは何度も椅子を打ち付ける。
バキッ! バキッ! バキッ! という間抜けな音がスタジオに響きながら、椅子は原型を留めないほどに壊れてしまった。
カハルは、それをじっと見ていた。
最後に、棒切れ一本になったそれを右手に持ちながら、アヲイはカメラマンに向かってにっこり笑った。「これでいいすか?」
「OK!」
彼は撮影を終えてニカッと笑った。そうしてスタジオを去りながら、他のスタッフに話しかける。「なんだよ、彼女、キャラ商売ってもんが分かってるじゃないか!」
撮影を終えたカハルは、ネクタイを緩めながら「ダルすぎるな」と呟く。
「お昼ごはんどうする?」とアヲイが訊いてきた。「いっしょに食べる?」
「アタシらは別に友達じゃないだろ」
「えー」
「だいたい、こっちはリンドウがつくってきた弁当だってあるし、一人でいい」
「おー」とアヲイは声を出した。「愛妻弁当じゃん」
「は?」とカハルは少し呆れる。「あいつは別にそんなんじゃない」
「そうなの?」
「お節介なんだよ。栄養バランスがどうとか。そのうち睡眠の質とか言ってアタシのベッドまで買うんじゃねえかと思ってる」
「いいなあ、羨ましい」
楽しそうにしているアヲイを見て、カハルは「じゃ、お前もあのユーヒチってやつにつくってもらえよ」と言った。
「いいね」とアヲイは笑う。「ユーヒチの手料理かあ」
アヲイは37階の社内スタジオから、エレベーターを降りて共有レストラン階に降り立った。途中、気圧差で何度も耳がキーンとするので、ときどき唾を飲む。
そこからはさらに全社用エレベーターに乗り換えなければならない。アヲイは「ダンジョンみてえ」と思った。
アヲイはエレベーターの扉の前で待っていると、すぐ隣に、少し背の高い作業服の人間が立った。
ちょっとアヲイが遠慮して距離を置くと、その人は、また足を運んで彼女のすぐ隣に並んでくる。
――なんだろう?
アヲイがそう思っていると、相手はぐっと彼女に顔を向けてきた。
「ねえ」
話しかけてきた。女の声だった。
彼女は「おおよそ強者というのものって、自分自身の能力や影響力の大きさを自覚して、その他大勢の弱者に対して慎ましく配慮して、正しく道を譲るべきだろうとは思わない?」と言った。
「え?」
アヲイは少し迷って、
「まあ、そうかもしれない」と答えた。
「いま適当に答えただろ」
そう女は詰めてきた。
「わたしが面倒くさい他人に見えたから、この場を適当にやり過ごそうと思って、心にもないことを言ったんじゃないの? ねえ?」
「え、そんな――別に?」
「じゃあわたしが何て言ったかちゃんと復唱しろよ」
アヲイは相手の目を見た。「強者は自分の力を自覚して大勢の弱者に配慮すべき――でしょ?」
「はははははははは!」
女は笑った。
アヲイとしては、ただ、何だろうこの状況、とだけ思っていた。
女は顔を離した。「わたしのこと覚えてる?」
「え?」
「わたしと会ったことがある記憶があるの?」
「ごめん、知らないか、覚えてない」
アヲイがそう答えると、
「わたしはダズハントのジュンだよ」
そう答えて彼女は作業帽を脱いだ。
ダズハントのメンバーをアヲイは思い出していた。
サエ、ジュン、ミドリ、カナコ。
ミドリとカナコは男に言われてバンドをやめた。そしてサエとジュンは、アヲイがユーヒチと会ったライブを最後に姿を消してしまった。その日からずっと続いてきたアヲイへの誹謗中傷はサエが犯人だと言われる。
2Fエレベーターホールの近くには、長いエスカレーターと長い階段があった。
アヲイはジュンに気圧されて後ずさりしながら、少しずつ階段に寄って行った。
「サエの家に警察から連絡が来たよ」とジュンが言った。「ネット上の書き込みについてお話を伺いたいとかなんとか言ってさ、あいつら」
「へえ」とアヲイが相槌を打つと、
「それが大学でバレてもう大変なんだよ。サエから友達がひとりずついなくなって、今そばにいるのは事情を知ってるわたしだけだよ」
「そうなんだ」
「サエちゃんが何したっていうの? ちょっとネットに悪口書いたくらいでこんな目に遭わなきゃいけないわけ?」
アヲイはジュンの目を見ながら、「私はあの悪口で傷ついたよ、すごく」と正直に伝えてみたが、
「おまえの傷つきなんかどうでもいいよ。恵まれた家で育って顔も良くって才能もあるおまえは、むしろ、もっと傷つかないと釣り合いが取れないんだよ」
という風に、ジュンの殺気がさらに際立つだけだった。
アヲイの足が、下り階段の最上段にかかる。
ジュンは言う。「だいたい、加害者っていうならおまえのほうでしょ。バンド乗っ取って、サエちゃんのプライドを傷つけて。ヱチカちゃんの家の話も聞いたよ? おまえなんかさ、他人が築き上げたものの上にふんぞり返って全部グチャグチャにするだけじゃん」
アヲイはヱチカの名前を出されて、冷静ではいられなくなる。
彼女が家を出たのは、アヲイとヱチカがいつも比べられて、母親がヱチカを折檻することに耐えられなかったからだった。私がこの家にいるからいけないんだとアヲイは思った。実際、アヲイが去ったあとでも、ヱチカはピアノを弾かない。
サエもジュンも、ずっと似たような気持だったのだ。
どこにいてもアヲイは邪魔者だった。
たとえ、今、アヲイが居場所を見つけて楽しい思いをしていても、かつて彼女を邪魔者扱いして憎んでいた人たちの悪意とか恨みは消えない。
その代表が、いま、目の前にいるダズハントのジュンだった。
「別にわたしだけじゃなくて」とジュンが言った。「おまえさえこの世にいなければ、どんなに良かったかって思ってる子たちは、この世にたくさんいるんだよ。――ねえアヲイ、そういう子たちの気持ちを踏みにじってまでおまえが生きてる理由って何?」
ジュンがアヲイに近づく。
――ユーヒチ! 助けて!
昔のアヲイなら、ここで真っ先に反撃できた。
今のアヲイは数秒だけ、ユーヒチがここにいるとしてもいないとしても、彼のことを頼ればいいという気持ちが生まれてしまっている。
そして、それが命取りとなった。
ジュンがアヲイの体に体当たりする。アヲイの足がよろめいて、不意に、空中を掴んだ。
アヲイの真後ろは下り階段である。彼女の足を支えるものは何もなかった。
「あ」
事の深刻さに最初に気づいたのはジュンのほうだった。ほとんど、我に返った、という顔をしている。
アヲイは、宙に浮かびながら必死に考えていた。このまま安全に受け身を取る方法があるのか。いや、そんな方法はない。
知らない。
いや、きっと覚えてないだけだ。なら思い出せばいい。そうだ、思い出せば
複数の悲鳴の中で、アヲイの身体は階段を転げ落ちて、踊り場に倒れていた。
※※※※
映画がエンドロールを迎えた。ユーヒチは、肘掛けに置いた自分の右手の上に、ヱチカの手のひらが載せられていることに途中から気づいた。
――ヱチカは良い子だ、とユーヒチはたしかに思う。それは彼女が、努めて意識的に良い子であろうとしているからだということが彼には分かっていた。
「どうして、ふりほどかないの? そのみぎて」
そんなことには意味はないだろ。
「それにしても――たのしいえいがだったね?」
どんなところが?
「ゆーれいが、でてくるところ」
ユーヒチはヱチカとは反対側の、左隣から響いてくる声に頭の中だけで返事をしていた。
そして、首を曲げてそちらを見る。
神薙ナクスがそこに座っていた。スクリーンを眺めながらゆったりと微笑んでいるのは、間違いなく、高校時代までユーヒチといっしょに生きていた彼女だ。
「ナクスか」
とユーヒチは訊いた。
彼女が自分の前に現れるのは、これで七回目だった。その間、ユーヒチが発している声は誰にも聞こえない。
「ユーヒチが」とナクスは言った。「ユーヒチがだれにすかれたって、べつにいいけどね」
「うん」
「ユーヒチは、わたしいがいは、だれもすきになれないでしょ。まだ」
「そうかもしれない」と彼は答えた。「どうして今、ここにいるの?」
そう訊くと、彼女は、ユーヒチの空いた左手をがっちりと握る。
「きをつけなきゃ、だめだよ」
そんな風にナクスは警告した。
「ユーヒチ、いま、キルゾーンにふみこんでるから」
「キルゾーン――」
「いま、とってもしあわせ?」
ナクスがにっこりと笑った。ユーヒチは、ただ、こういうとき、全てを捨てて彼女を抱きしめられればどんなにいいかと思ってしまう。
――俺にはナクスしかいなかったのに、なんで、ナクスは死んだんだろう。
いや、違うな。
死んでしまうならせめて、いっしょに死のうと誘ってほしかったんだ。それは彼がナクスに思っている最後の未練だった。
ユーヒチが答えられないでいると、彼女は、顔をぐっと近づけた。
「しあわせだったら、いいけど」
「何?」
ユーヒチが訊くと、ナクスは口を開けた。
「これから、どんどんひどいめにあうよ」
シアターのライトが点り、ポップコーンにまみれた汚い床まで照らされる。上映が終わった。
ユーヒチがまばたきをすると、ナクスは既に座席から消えている。
彼が彼女から与えられたもの。楽器の歓び。煙草の美味しさ。セックス。なのに彼が彼女に与えることができたものはひとつもない、と、彼は思う。
「ユーヒチさん?」
右隣から、ヱチカの声が聞こえた。
ユーヒチは彼女に振り向くまでの間に、いつもどおりの笑顔を繕った。
「どうしたの?」
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