第4話 流動的なストラクチャ


 新進気鋭のロックアーティストの祭典『ザ・ウォール』の出演者が発表されたのは、完全に夏の空気になってからだった。


1.朴セツナ / ブイステップミュージック

2.Medical Melody Clinic(M.M.C) / キタミ音楽製作所

3.銀の弾丸の存在証明 / ロジギアユニヴァーサル

4.キラークラウン / ヤスハル楽器

5.71フラグメンツ / ロジギアユニヴァーサル

6.西園学派 / ユモトエンターテインメント

7.名称未定(旧ダズハント+コンプレックスプール) / ヘイストレコード

8.ミチル&ローユァン・デジタルハックバンド / ヤスハル楽器

9.LOVELESS JAM UNIT / キタミ音楽製作所

0.サントーム / ヘイストレコード


  ※※※※


 ユモトエンターテインメントは、港区赤坂から徒歩十分のビルにある。マネージャの吉田が第四ラボを覗くと、自前のスムージーを飲みながらマウスホイールを転がす中年の男性が――佐々木という名前だ――振り向いた。

「お疲れ様です。出社って珍しいですね?」

「カハルが来てるって聞いてね。今どこ?」

「今度の『ザ・ウォール』についてでしょ? 第七会議室か、じゃなきゃフリールームでしょうね」

「ありがとう」

 吉田が第七に向かって歩くと、ちょうど向かいに西園カハルが見えた。

 インナーだけを染めた艶のある長髪。サイケ調のメイク。細身のシルエットにぴったりと合うような黒ベースのファッション。

 ジャラジャラと音が鳴る、威圧的なアクセサリー。

 プログレッシブロックバンド、西園学派のワンマンリーダーで、作詞・作曲・編曲を全て担当するギターボーカル。それが彼女だった。

「吉田さんか」

 カハルは吉田を見た。

「こういう退屈な会議にいちいち顔出させるの、やめてもらっていいか? どうせ出演する結論は決まってますよね」

「私が全ての決定権を持ってるって思われても、それは困るわ」

「だとしても、アタシを拾ったのはアンタだろ」

「他のメンバーは?」

 鷹橋リンドウと水島タクヤの顔が見えない。

「あいつらは練習中です。まだ次の新曲をモノにできてない」

「――そうね。ウォールでのパフォーマンスは完璧にしておきたいし」

「勘違いしないで下さい。こっちはワンマンだってちゃんとやれてる。ウォールを意識してるわけじゃない」

 ザ・ウォール。

 複数の芸能事務所/レコード会社/レーベルが合同で主催している、都内最大の新人ロックアーティストライブフェス。

 それは、その年に注目されている新進の若者たちを残酷に格付けしてしまう儀式であると同時に、都内の有力レーベルが互いの影響力を確認し合う、冷たい代理戦争の現場でもある。

 そうして、ユモトエンターテインメントの主戦力が西園学派であり、そのリーダーである西園カハルだった。

 吉田は腕を組んだ。「知ってる? あの九条アヲイのバンドも今度のザ・ウォールに出てくるらしいって話」

 カハルの目が見開いた。「あぁ?」

「ちょっと前にメンバーが抜けて壊滅したって聞いてたけどね、いまザ・ウォールのオフィシャルサイトを見たらエントリーされてる。SNSなんかで、いよいよカハルVSアヲイが実現する、なんて煽ってる無責任な音楽ライターもいるくらい」

「――ハハ!」

 カハルは獰猛に笑う。「あの女、結局ノコノコやってくんのか!」

「カハル――」

「ムカつくんだよ。誰が頼んだわけでもないのに、並べて、比べて、晒して、何か評価した気になってる批評家のカスどもが」

「――ちょっとだけやる気は出た?」

「吉田さんは、それだけ言いに来たのか?」

「ええ。あなたの闘争心に火をつけられるかなと思ってね」

 吉田はそう言うと、カハルの顔を見て、今回の行動が間違いではないと分かった。

 ――西園カハルは、我の強さこそネックだが、全国で通用する才能と実力なら既に持っている。そんな彼女の躍進に欠けているものはただひとつ。判りやすいストーリー、つまり絵になるようなライバルの存在だった。

 それを埋めてくれる「かませ犬」こそアヲイなのだ、と吉田は見ていた。

 カハルはニヤニヤと笑う。「アタシとアヲイは別に闘争なんかしねえよ」

 結局、最強なのは西園カハルだってことをちゃんと観客どもに思い知らせてやるってだけです。そう彼女は言った。


  ※※※※


 同時刻。

 品川の貸しビルにオフィスを構えるヘイストレコード。そこから徒歩五分ほどの賃貸マンションに佐倉兄弟の住居はあった。

 弟・佐倉タカユキはオフィスチェアに背中を預け、川原ユーヒチと通話していた。「それじゃあ、コンプレックスプールが丸ごとダズハントと合流したっていうのは本当のことなんか?」

「そうなります」

「ふうん」とタカユキはラークに火を点ける。

 アマチュアのガールズバンドであるダズハントは、ヘイストレコードから契約を持ち掛けられた直後、サエとジュンの脱退により壊滅した。その後、コンプレックスプールの男三人と合流する形で契約は維持された――そんな話の流れだ。

「壊滅直後に再編成かあ。――なんや持ってるなあ」

「正直、運が良かったのか悪かったのか、という感じです。お互いにとってですけど」

「そりゃそうやろ。両方の足りないところを丁度よく埋められたとボクは思っとるよ。要らんもんもキレイさっぱり捨てられたし」

「要らないって、そんな言いかたは――」

「アハハ! ユーヒチくんは真面目やね」とタカユキは笑った。「サエちゃんとジュンちゃんはどう見たって下手糞のお荷物やろ。あんな不出来な演奏じゃあ、リョウちゃん可哀想やって」

 佐倉タカユキ。

 ヘイストレコード契約バンド「サントーム」のベーシスト。作曲担当。作詞担当兼ボーカルギターの佐倉ユキナガとは実の兄弟。

「まあ、聴いてて思っとったよ。リョウちゃんの胸には色んなアイデアがあって、あとはそれを実現するプレイヤーの問題やなと。でもパッションばっかで全体を構築するのは今一つや」

 それに比べて、シシスケくんのほうは理屈と知識はあるけど、なんやこう、秘めたる熱いもんが一歩欠けてると思うてたんよな。――リョウちゃんは、なんつうか、世間様に対する憎しみや切なさがあるのが表現者としてはおもろいな。そういうのがよ。

 そうタカユキは語った。

「ボクとしては、だから面白いよ。そんな二人が組むのは」

「――自己表現ってことですか?」

「音楽を自己表現の手段にするんはカスやろ。バッハに謝らんかい」

 タカユキは笑う。

「しかし、それでいきなり再編した思ったら今度はザ・ウォールに出演かぁ。しかも契約したてホヤホヤのバンドがよ。何か話が出来すぎてる気がするなあ」

「何か引っかかるんですか?」

「いやあ」

 タカユキは、かつて掲示板とアプリに流れたアヲイの誹謗中傷をアーカイブ化して眺めていた。

 おうおうエグい言われようやんけ。

「あのなあ、都合よくサエがキレて、都合よくネットに悪口を書かれてメンバー募集できんくなって、都合よく合流するしかなくなった。そんな好意的な見方を世間様がしてくれる思うか?」

「――え?」

 ユーヒチが真面目に反応するのが面白い。

 タカユキはふざけて挑発しているだけだ。

「――普通は逆やと思うよ。コンプレックスプールと合流するために、アヲイとリョウは古巣のメンバーを追放した。それに対して激怒したサエちゃんかジュンちゃんがアヲイの悪事をネット上で暴露した。――こっちの方が自然な解釈ちゃうか?」

「そ、れは」

「ボクがそう思うとるわけやないよ。何も知らん連中はそう考えてもおかしくない、これは理屈やね」

 ユーヒチの返事が聞こえない。タカユキは笑いを堪えながら音量を上げる。

「もしもし?」

「――大丈夫です」

「そうかい。まあ、これからキミは栄光あるアヲイ姫のナイト様やわ。これからどんな色眼鏡で見られるか、忠告だけはしよう思うてな」

「佐倉さん」

「――あ?」

 ユーヒチの声色が変わった。「きっと、問題ありません。いまアヲイが受けている誤解については、誹謗中傷の犯人を見つけることで止められると思います」

 タカユキは煙を吐く中で、彼は続ける。

「それでも曲解したい人は、すればいい。アヲイのギターと、俺たちの演奏で、無理やりにでも分かってもらうだけです」


 そうして通話は終わった。

「きっしょいのお」と、タカユキは腹を抱える。

「ユーヒチくん無自覚系か? とっくにアヲイにゾッコン惚れまくっとるやんけ!」

 何やの、前世でお嫁さんにでもしてたんかい!

 タカユキは椅子の上であぐらをかいてくるくると回転しながら天井を見上げた。

 ――カハル様とアヲイちゃんのロック王子姫対決。

 これは金になる、おもろいカードだと彼は思った。そこでサントームの名前もきっちり憶えてもらわんと。


  ※※※※


 ザ・ウォール当日。

 マネージャの本並が運転するレクサスの後部座席で、朴セツナはスマートフォンをぽちぽちといじっていた。

 ――ソロアーティストである彼女は、ライブ直前のストレスに耐えることができず、前日に度数の高いストロングゼロを暴飲しまくり、ツイッターで問題発言を繰り返したあげく爆睡。

 覚醒した直後に青ざめながら投稿を全削除したが、有象無象によって既に魚拓は取られていた。メンヘラアイドル系のアーティストとしては当然ご愛嬌の出来事、なのかもしれないが、もちろん当事者である朴セツナにそのような客観視は存在しなかった。

「あたし、もうおしまいだ」

 そんな風にメソメソと泣きじゃくるのも、結局のところ毎度のことであった。

 本並は「ま、心配するな」と言った。

「セツナがそういう子だってことは、みんな分かってくれるよ。それよりも今は、目の前のライブに集中しよう」

「ハイ」

 朴セツナは、ただ優しい言葉だけを投げかけてくれる本並に対して、さらに惨めな気持ちが増すだけだった。

「あたし、何でいつもこうなんだ!」

「セツナ?」

「分かってるんだよ、そんなの、自分でも――今回の合同ライブフェスじゃ、あたしがいちばんザコ丸出しで、どうせみんな西園カハルとか九条アヲイとかを目当てに動画リンク押すんだよ。しょうもねえよ!」

 車が赤信号に捕まった。

 本並がバックミラー越しに、心配の眼差しで朴セツナを見つめた。

「俺は、セツナにしか出せない音があるって信じてる」

「ないよそんなの」

「あるさ。自分で気付いてないだけだ」

 横断歩道を通行人が渡っていく。

「あたし本並にも迷惑かけてる」とセツナは呟く。「都内のライブ会場なら自分の足で行けよって。わざわざ車なんか出させてる、大物気取りかよ?」

「そうだな」と本並は少し笑う。「本当にセツナが大物になってくれたら、それはすごく有難いことだって俺は思うよ」

 新橋にオフィスを構えるブイステップミュージック。それが朴セツナの契約企業だ。高校を中退し、病みに病んだ十代の終わりにアコースティックギターで配信を続けていた演奏が目に止まり以降、彼女はマネージャの本並に面倒を見られている。

 最初は喜んだ。しかし現実は、自分よりも遥かに才能のある人たちと戦わなければ生き残れないような、そんな修羅の世界に放り込まれたのと同じだった。

 もちろん朴セツナのファンは増えていった。

 だがそれは彼女の破綻した性格に萌えるオタがいるというだけで、つまり、音楽そのものを評価されたとは言いにくい。

 セツナはエゴサを繰り返し、頭に血がのぼったときは一般人相手に返信で言い返し、それがまた炎上して知名度を増やす結果になっていた。

 マネージャの本並は敢えてそれを止めなかった。「セツナがそうやってネットで鬱憤を晴らすなら、それでもいいさ。どうせネットはネットだからな。世界そのものってわけじゃない」

 生活が終わっているセツナの独り暮らしを見かね、本並は何度も彼女の家を訪れ、健康に悪くない手料理を振る舞い、泣きじゃくる彼女をスタジオまで車で運び、ファンレターを保存して読み上げ――そんな風に過保護に育てられてきたアーティストが朴セツナという女だったと言える。

「なんで、こんなあたしなんかに優しいの?」

 セツナがそう訊くと本並は決まって答えた。

「俺がセツナを見つけたし、セツナには絶対才能があるからだよ」

 ――ほんとに?

 セツナはスマートフォンを閉じた。

 ――ほんとにあたしのこと、あの西園カハルや九条アヲイに立ち向かえるような存在だと思ってる?


  ※※※※


 会場に着く。

 セツナは震えながら足を地面に降ろした。

「う――ゲロ吐きそう」

「本当に辛いなら、いったんトイレに寄ろう。薬も用意してある。入り口は関係者用の裏ドアだ」

「ううっ」

 目をつぶった彼女は、本並に手を引かれホールの廊下に入った。

 普段の演奏場よりもずっと広い。

「個室は用意してもらってる。ここからは一人で大丈夫か?」

「や」

 セツナは本並にしがみついた。「怖い――いっしょにいてほしいよ――」

「――分かった」と本並は答えると、セツナの頭髪をわしわしと撫でた。「客席では俺もちゃんと見てる。いつもどおりにやればいい。上手くいったら寿司でも食おうぜ」

 彼女はセットリストを思い出す。自分はトップバッターだ。

 無理だ。

 今すぐ逃げ出したい。

 どうせ笑い者になるくらいなら、やって後悔するよりやらずに燻ってしまうほうがマシじゃないか。

 セツナが苦しんでいる、その時、

 別口のドアが開いて廊下に風が通り過ぎる。

 否応なしにそちらを振り向くと、

 西園カハルが入ってきた。バンドメンバーの鷹橋リンドウと水島タクヤを後ろに引き連れている。

 西園カハルは黒ずくめのタイトなファッションで、インナーだけ黄金色の長髪をなびかせながら、サングラスで目線は見えない。

 鷹橋リンドウは186cmの高身長に、氷河期の獣のような体格と強面で彼女の後ろをのそのそとついて歩く。水島タクヤは逆に身長165cm程度、小柄な体をヒョコヒョコと動かしながら幼い表情を浮かべている。

 三人組が揃った妙な威圧感にセツナは圧倒されていた。

「あ、うあ――」

 セツナはもう、自分の足腰に全く力が入らないことに気づいた。

 ――勝てない、雰囲気が全く違っている。たとえただの錯覚としても、セツナはそう思って指先の震えが止まらなかった。

 ドアを閉めるリンドウに対して、カハルは「三曲目のラスト前のベースソロ、まともに出来るようになってるんだろうな?」と念を押していた。

「問題はない。カハル、お前の足を引っ張ることはない」

「アタシの邪魔しないのは当たり前だろうが。プラスのパフォーマンスができるようになってから喋れ」

「ああ――それも分かってる」

 リンドウの返事もおざなりにしながら、西園カハルはラウンドタイプのサングラスを外した。

 そして、眼の前の朴セツナの存在に気づく。

「おっ、なんかいる」

「ひいっ!」

 セツナは直立不動になると、その場からただの一歩も動けなくなる。

 ――カハル、生カハル様だ!

「ブイステップミュージックの朴セツナか」とカハルは呟く。「ユモトエンターテインメントの西園学派・西園カハルだ。今日はよろしく」

「あ、わ、はわわ、こちらこそ、よろしくです!」

「そんな緊張しなくたって」とカハルは少し笑う。「今度の新曲も聞いた。独創的で、感動しました」

「そ、そわ、そ、そうなんですか!?」

「はい」

 カハルはにっこり笑ってから「そういえば、ダズハントの人らは来てないのか? いるなら挨拶しようと思ってたんだけどな」と周囲を見回した。

 目が怖い。

 瞳はずっと神経質な雷気を走らせているかのようだった。

 セツナは、その視線で、なんとなくカハルのアヲイに対する感情を悟った。

 ――出演者用の休憩室が集まるこのフロアには、たしかに、まだアヲイとその仲間たちの姿はない。

 本並が二人の間に割って入る。「ダズハントという名前は既になくなっています。今は別のバンドと合流して改名しているはずです」

 カハルは彼を見た。

「それはアタシの知りたい情報じゃないし、アンタはいったい誰なんだ?」

「セツナのマネージャの、本並と申します」

「アタシは、今、セツナと話してる」

 カハルは本並を睨んだあと、「ま、いいけど」と視線を戻した。

 さっきまでの攻撃性が嘘のように、カハルの表情は誠実になる。

「トップバッター、楽しみにしてます」

「え? は、はい」

 カハルが良い人なのか悪い人なのか、セツナには、もう全く分からなくなった。


  ※※※※


 電車に揺られながら、三島モモコは各バンドの演奏順を確認していた。

 こんな感じだ。


1.朴セツナ / ブイステップミュージック

2.Medical Melody Clinic(M.M.C) / キタミ音楽製作所

3.銀の弾丸の存在証明 / ロジギアユニヴァーサル

4.キラークラウン /ヤスハル楽器

5.71フラグメンツ / ロジギアユニヴァーサル

6.西園学派 / ユモトエンターテインメント

7.名称未定(旧ダズハント+コンプレックスプール) / ヘイストレコード

8.ミチル&ローユァン・デジタルハックバンド / ヤスハル楽器

9.LOVELESS JAM UNIT / キタミ音楽製作所

0.サントーム / ヘイストレコード


 隣に座る九条ヱチカが覗き込み、「ユーヒチさんたちってけっこう後半なんだ?」と言った。

「そうみたいだね」

 モモコは相槌を打ち、電車がフェスライブ会場最寄りの半蔵門駅に着くと、いそいそと立ち上がった。「うう、こっちまで緊張してきたような」

「あはっ」とヱチカが顔を綻ばせながら付いてくる。

 事前に受け取った連絡どおりの出口に向かい、長いエスカレータに乗る。こういうとき、同行者を先に乗せる癖があるのがモモコという女の子だった。

 ヱチカが大事そうに本を抱えているのが後ろから見えて、「それ、どうしたの?」と訊くと、「えー? ロックの歴史」という予想外の答えが返ってくる。

「ヱチカちゃん、こういうのまだよく分かんないけど、ユーヒチさんと楽しくお喋りしたいから勉強しちゃおうかなって」

「――ベタベタだなあ」

 モモコは少し呆れたが、そういうところで恥ずかしがらないのがヱチカの良さだ。

 ヱチカは本の内容を一節そらんじる。

「『西洋哲学の歴史とはプラトン哲学に対する長い注釈である、とホワイトヘッドは言ったが、それをもじって言えば、ロックの歴史とは畢竟、ビートルズの音楽に対する長い注釈に他ならない』!」

「おお~!」

「えへへ!」

「――そのユーヒチって人は、良い人なの?」

「うん! なんかね~、すっごく優しいの!」

「そうなんだ――」

 モモコは少しだけ不安になる。

 だって、そのユーヒチさんの友達の、ガロウって男の人は――。


 エスカレータを降り、街に出ると、ユーヒチ、ガロウ、シシスケの三人は既に待っていた。

 ガロウはヱチカの顔を見て嬉しそうに「おう!」と手を挙げたが、直後にモモコの顔を見て「げっ――」と露骨に嫌そうな顔をする。

 何その反応。

 モモコが軽く詰め寄ると、ガロウは小声で「なんでいるんだよ――?」と言った。

「なんでって、ヱチカちゃんに誘われたんですよ。友達だから問題ないですよね」

「アンタさあ、別に何でもいいけど、余計なこと言って場を引っ掻き回すなよな」

「えっ、が、ガロウさんがそれ言うんですか――!?」

 ガロウは舌打ちして、顔を上げ、シシスケとユーヒチのほうを向いた。

「リョウとアヲイがまだなら、飲み物買ってくるわ。モモコちゃんが喉渇いたみてえだから」

 そして大股に横断歩道を渡っていく。

 彼女が慌てて付いていくと、

 ガロウは「アンタがやってることは全部余計だよ」と吐き捨てた。

「なっ」

「この前なんかまたチユキが来たんだぜ? 最悪だ」

「――そんなのガロウさんのせいじゃないですか!」

 モモコは言い返しながら、ガロウが、モモコの話しやすいように猫背になっていることが分かった。

「は?」

 とガロウは振り返る。

 モモコはそんな彼の威嚇に、屈するべきではないと感じた。

「ガロウさんが悪いことをしたなら、その結果はガロウさんが負うべきです」

「オレが改心してるように見えるか? オレが良い奴じゃないって分かってるなら、アンタら良い奴らが自衛してくれないとおかしいだろ」

「はあ?」

「アンタがオレのところに来たからチユキが来て、余計に傷ついたんだろ?」

 ――またこの理屈だ。

 ガロウがコンビニに入ろうとしたとき、モモコは後ろから「本当に悪い人は、そういう風には言わないものなんです」と呼びかけた。

 ガロウは振り返った。「は?」

「本当に悪い人は『オレは悪人だ』なんて認めないんじゃないですか?」

「――じゃあ勝手にそう思ってろよ、アンタは」

 モモコはカッとなった。

「『アンタ』じゃないです。私には『モモコ』っていう名前があるんですから」

「そうかい。良い名前だな。親に感謝しなくちゃよ」

「ガロウさんだって良い名前ですよ! ちゃんとお母さんに感謝してますか?」

 モモコがそう言うと、ガロウの目つきが変わる。

「あ?」

「え、え――?」

 モモコは、その声色を聞いて、自分が何かガロウの踏んではいけない地雷を踏んでしまったと感じる。

 ガロウは低い声で唸った。

「――なんでオレが母親に感謝すんだよ」


  ※※※※


 三流音楽雑誌の木っ端ライターである戸川ヨーコは、ひとりのメジャーアーティストのマンション前に張り込んでいた。

 そのアーティストはtoiという名前だ。既婚者である有名女優と不倫騒動を起こして、無期限の謹慎処分を食らっている男である。

 ザ・ウォール当日、そのトワが部屋を出てきた。

 ――こんな日にどんな用事? 新人バンドの小競り合いみたいなライブがある以外、何もないはず――。

 ヨーコは訝しみながら車を出て、トワに近づく。

 身長190cmを超える筋肉質の男は、ウェイブのかかった髪をゆらゆらと揺らしながら、Tシャツにジーパンの出で立ちで歩いていた。

「――トワさんですよね?」

 ヨーコが話しかけると、トワはゆっくりと振り向いた。

 彫りの深い顔に、奈落の底のような瞳をしている男だった。

「あんた、誰?」

「ストロベリープレスの戸川ヨーコと申します。一連の騒動について何のコメントも出していないトワさんの言葉をぜひお聞きしたいと」

「――へえ、おれに興味があるの?」

 トワはヨーコから受け取った名刺をポケットに仕舞い、その場に立ち止まってくれる。

「はい、お話を伺えればと思っています」

「ふうん」

 トワは丁寧に髭剃りを終えた顎を撫でて、やがて、こう言った。

「二週間前に出た銀弾のミニアルバム。三曲目。すごく良かった。あなたにも聴いてみてほしい」

「――え?」

「あと、このあいだ映画の主題歌になったオラクルオブガゼルの新曲、ちょっと肩に力が入りすぎてて、おれの好みじゃなかった。ハジメのボーカルは緩やかに伸びてるときが一番綺麗なのに。――あなたはどう思う?」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 ヨーコは戸惑いを隠せない。

 トワが不倫騒動をそっちのけに何を言っているのか、彼女には全く分からなかった。

「あなたと女優・橋本アスカさんとの関係は、報道のとおりなんですか? それを答えてくださいよ」

「え?」とトワは言った。「誰だ、その女」

「――は?」

「あなたはおれに興味があるんでしょ?」とトワは静かに呟く。「音楽の話ができると思ったんだけど、そうじゃないの?」

 ヨーコは後ずさりする。

「もしかして誤魔化してますか?」とヨーコは言った。「忘れたふりをしても、既に橋本アスカさんはあなたとの関係を認めています。世間は未だに大騒ぎしています。それをどう思いますか」

「別に――」とトワは言った。「それより、あそこに停めてあるのってあなたの車?」

「? はい」

「いいね、便利じゃん」

 トワはそう微笑んで、ヨーコの社用車に向かって歩き始めた。

「いや、ちょっと何してるんですか!」

「行きたいところがあるんだ。おれさ、免許ないから運転して」

 とトワは言った。

「はあ? はぐらかさないでください!」

「おれ、本気でお願いしてるんだけど。言うこと聞いてくれないのか?」

 ヨーコの前に、トワは立ちはだかる。

「――!」

「なに?」

「橋本アスカさんの家庭はメチャクチャになりました。現在、離婚調停の裁判だって行われています。なのに、あなたは数か月か数年隠れていれば、表舞台に戻ってこられるとでも思ってるんですか。ちゃんと答えてください」

「あなたが何を言いたいか、全然分からないよ」

「はあ?」

「おれには行きたいところがあるんだ。手伝ってよ」

 トワは、急に甘えるような瞳になった。

「お願いだよ」

「――じゃあ、言うことを聞いたら私の質問に答えてくれますか?」

 ヨーコは車のドアロックを外した。「なら、同行中にインタビュー、という形でもいいですか」

 目の前の男が不気味だ。

 同じ日本語を話しているはずなのに、通じない。そんなことがあるのか。不倫相手を覚えていない? 音楽の話をしたい?

 ――何を言ってるの?

 トワは幼い子供のように歯を見せて笑う。「あなたの質問に答えれば、連れて行ってくれるの?」

「いいですよ?」

「じゃあ、これ。あなたが持っておいて」

 震えを懸命に抑えるヨーコに、トワは紙切れと写真を手渡した。

 本日行われる新進ロックアーティストの祭典『ザ・ウォール』会場までの地図と、ひとりの少年――いや、少女だった――の顔写真だった。

「なんですか、これ?」

「そこに行くと会えるって聞いたんだ」

 トワはそう答えると、静かに助手席のドアを開けた。

「九条アヲイって言うんだよ、その女」

「アヲイ?」

 ヨーコはその名を思い出す。たしか、アマチュアのくせにそこらへんのプロよりも荒稼ぎをしているギターボーカルがいるという噂の、彼女だ。

「声も良い」とトワは腕枕を組んだ。「暇だし、面白そうだから、おれのお嫁さんにしたいと思って」

「いやっ、えっ?」

 ヨーコが驚きながら運転席に座ると、トワは進路方向を指さした。

「出発進行しよう。――えっと、誰だっけ?」


  ※※※※


 会場1Fの喫煙室で、キラークラウンのリーダー兼ドラム担当・斉藤ネネネはウィンストンを吸っていた。

 指定の集合時間は午前十時。そこから各アーティストにステージ上で音調整の時間が与えられる。昼休憩を挟み、客入りは十四時の開演が十五時。

 ネネネたちは、少しでも緊張を和らげるために早めに到着していた。

 ドアが開き、肩にかかる頭髪を真っ白に染めた女の子が入ってくる。蛍光色の洋服が目に痛い。

 ――今回の本命のひとり、朴セツナだ。

「もう無理――もうダメだ、お終いだ」とセツナは言いながら、ポーチの中のメビウスを一本咥えた。だが、ライターが見当たらないのか、ずっとガサゴソとまさぐっている。

 ネネネは「あの」と声をかけた。

「ひゃいっ!? な、の、なんですか!?」

 怯えるセツナに対して、ネネネは手元の百円ライターを差し出した。

「これ、良かったらどうぞ」

「あっ、ひ、あ、どうもです――へへへっ」

 セツナは気持ちの悪い笑顔を浮かべ、両手でそれを受け取ると、火を灯す。

 そして、息いっぱいに煙を吸い込むと、ようやく落ち着いたという表情になった。

「朴セツナさんですよね」

「えっ」

「本日はよろしくお願いします。私、キラークラウンの斉藤ネネネです」

「うぉっ、マジすか!?」

 セツナは指にタバコを挟む。「こないだの新曲のMVめっちゃエモかったっすよ」

「え、聴いてくださってたんですか。嬉しい」

「聴きますよぉ! 今日来るバンドぜんぶばっこり聴いてから来てますからあたし! ふふふ」

「本命の朴セツナさんに注目頂けて、たぶんメンバーが知ったらすごい喜びますよ」

「あ、あ、あたしが本命? いやあ――」と、セツナは頭髪をぼさぼさと指で回す。

 ネネネはそんなセツナを見ながら、同時に、喫煙室にいるスタッフたちの囁きに耳を澄ましていた。


「おまえ見たか? アヲイについてのアレ」

「あれヤバいな」

「なんかおかしいとは思ってたんだよ俺も。結局は『女』を売って稼いでたってことだろ?」

「ああいうの見るとやる気なくすよな、正直な話」

「まっ、俺はカハル様一筋だからノーダメだけど」

「お前あんな気ぃ強そうなのが良いのかよ。ナシナシ」

「――でも意外だよ。アヲイってどっちかっていうと同性ウケっていうのか、ボーイッシュ王子様(笑)キャラでチケ捌いてる印象だったしさ」

「そりゃあ――」とスタッフの一人は笑った。「結局アヲイもオンナノコってことだろ」

 ――こちらに聞こえないと思っているのだろうか?

 ネネネは二本目に手を伸ばした。

 スタッフの一人がさらに続ける。

「そしたら今度はイケメンバンドの連中も上手くたらしこんで、古巣のメンバーをポイ捨てだろ? アヲイちゃんさあ、流石に引くよ。そこまでして注目されたいもんかね?」

 ほとんど吐き捨てるような口調。

「小娘の承認欲求はキリがねえから厄介だな」


 不愉快もいいところだった。

 ネネネはいちど咥えた一本目を箱に戻し、セツナに大きめの声で「すみません、お先に失礼します」と告げた。

「え、あの、ライター」とセツナは慌てていたが、

「他にもあるので、火。それは使っててください」と言ってドアを開けた。

 ――今の会話でよく分かった。

 九条アヲイの評判は、最悪だ。

 ホールに戻ると、複数のバンドがたむろしていた。その中央で、西園カハルは体育座り、両手を合掌のように合わせながらステージをじっと見つめていた。

 おそらく、自分の演奏をイメージしているのだろう。その眼差しは真剣だった。

 ――あんな男たちに気安く推されていい姿ではない、とネネネは思った。

 ネットに垂れ流されたアヲイへの誹謗中傷は、思いのほか根深く関係者にも突き刺さっていた。人は信じたいものを信じる。それは仕方がない。

 同時に、ある種の対比としてだが、カハルのストイックな姿勢はさらに株を上げることとなった。

 しかし、その手の流れをカハルが喜んでいるようにも見えない。

 ――好きな人を好きと言い、好きな音楽を好きと言いたいだけなのに、私たちの世界は憎悪に満ちすぎている。

 ネネネがアヲイに関する誹謗中傷を信じない理由はひとつだけだ。もし彼女が噂通りの人間なら、シシスケが彼女についていくわけがない。

 私の知っているシシスケは決して打算で動かない。

 ネネネの視界で、カハルはゆっくりと立ち上がった。周囲を見渡している。

 ――何?

 そのとき、ホールのドアが開いた。ネネネも、その場にいる皆も、一斉に振り返る。

 旧ダズハントとコンプレックスプールの面々がゆっくりと入ってきた。

 新しいバンド名は、たしか、

『感傷的なシンセシス』。

 そのギターボーカルの九条アヲイだ、とネネネは思った。


 初めて見る印象は、イメージよりは随分と背が低い、というものだった。

 アヲイはたしかに、同性ウケの強いアーティストだ。しかしその身長は164cmしかない。むしろ百合営業的には、隣に佇む篠宮リョウのほうが疑似男性的なスタイルの持ち主だ。

 動画で見る印象とのギャップにまずネネネは戸惑った。

 アヲイはホール全体を見てから、目深に被っていた野球帽を脱いだ。短い髪が会場のクーラーで揺れる。だぼだぼの白いTシャツに痩せ細った体躯で、アヲイは少年のような瞳を揺らしていた。

「ここで歌うんだ」

 そう彼女が言うと、リョウは栗色の長髪を後ろ手で結びながら、「そうだよ」と答える。

「このライブフェスはアヲイが主役だ。練習どおり、思う存分やっていいから」

 そう彼女は言った。

 ネネネは他の面子にも視線を送る。

 ガロウはウルフヘアの金髪をいじりながら、ひとりひとり他バンドの人間を観察しているように見える。コンプレックスプール時代から繊細なギタープレイには定評のある男だ。若干チンピラ系の風貌と、女癖の微妙な悪さは有名だが、演奏にケチをつける者はほとんどいない。強いて言えば、外連味のなさがネネネには不満だった。

 ユーヒチは足を止めると、ホール全体の広さを測量するような、妙に落ち着いた目線で佇んでいる。短く切り揃えられた黒髪と、端正な顔立ち。そして特徴的なのは、左右非対称な瞳の色。彼のベースは演奏全体を支えることに徹底した安定感のあるプレイで、自己主張というものをほとんど抑制している。それが却って、ユーヒチの音楽に独特の個性を与えていた。

 彼の右腕に自分の体を絡めながら歩いている茶髪の女の子は、あとで知ったが、アヲイの義理の妹らしい。そうして彼は、同時にアヲイからも妙に熱っぽい気配を受け止めていた。

 ――大昔からの恋人の死を長く引きずっているという噂があったが、もう吹っ切れたのだろうか?

 シシスケは眼鏡の位置を直し、メンバー全体に気を配っている。ガロウともユーヒチとも異なる、理屈っぽくて意志の硬そうな雰囲気は高校時代から変わっていない、とネネネは思った。

 そのドラムの正確さは知る人ぞ知るところだが、彼はむしろ、コンプレックスプール時代からの作曲・アレンジメントの能力で名が高い。結局、ガロウやユーヒチの演奏が評価されたのは、彼らの技術を最大限引き出すような譜面をシシスケが書いてきたからだ。

 が、ネネネはそれ以上シシスケのことは意識しまいと努める。もう私はシシスケとは関係ないのだ。


 誰も動けない中で、西園カハルはアヲイに向かって歩を進めていた。アヲイも彼女に気づき、天井に送っていた目線を戻す。

 部屋全体の温度が一気に上がるような感じがした。

 カハルは「初めまして」と言った。「ずっと前からアンタのことは知ってた。ずっと会ってみたかった」

 アヲイは「?」という、とぼけた顔のままだった。

「外野が」とカハルは言葉を繋ぐ。「勝手にライバル同士だの、二大なんたらだの言うのも、いい加減ウンザリしてたんだ」

「へえ?」とアヲイは言う。

「今回でケリつけようぜ?」とカハルは言う。

 アヲイはぼんやりした表情で、「いいよ?」と答えた。


  ※※※※


 客入りまでの間に、各バンド・アーティストは交代でステージに立ち、音の調整を行い、スタッフたちと細かに打ち合わせる。その間、長くホールで見守る者もいれば休憩室に籠る者もいた。


  ※※※※


 昼飯時。

 アヲイたちは会場の外に出るため、地下の迷宮めいた廊下を歩いていた。

「ユーヒチさん、ごはんどこで食べますか?」とヱチカが訊いているのを、モモコは横目に見ていた。

 ユーヒチは考えてから「この通路を真っすぐ出たところに、トーストの美味しい喫茶店があるってパンフに書いてある。そこで済ますよ」と答える。

 ガロウはシシスケと目配せをしながら、最初の十字路で左に曲がった。「オレら、こっちの先にあるラーメン屋で食ってくるわ」

 そうして、次の分岐路でリョウはモモコとアヲイを見る。「ここを右に出ると安めのイタリアンがあるでしょ。そこで食べない?」

 アヲイは「え――」という顔をしてから、次にユーヒチのほうを見た。

 ――アヲイとヱチカは、本当の姉妹ではないから容姿は似ていないが、それでも十年近くいっしょに暮らした歳月が二人の空気を姉妹にしている。

 九条の家の奇妙にピリピリとした感じを別々の仕方で受け取っていた。


 ――まだアヲイが九条の家にいたとき、モモコはヱチカに二人の生活について訊いたことがある。印象に残ったのは、夕食時の風景だった。ヱチカが料理を味わいながら両親と会話を続けているのに対して、アヲイは、いそいそと食べ終わるとすぐに子供部屋へと逃げ込んだ。

 そして、ヱチカにしたところで、実際には母親の機嫌を伺うためにダイニングテーブルに縛り付けられていただけだった。

「たぶんね」とヱチカは言った。「アヲイねーちゃんは、さっさとこんな家から出て行きたいんだよ」

 ――それはきっと、何もできないヱチカちゃんのせいなんだけど、と彼女は付け加えた。

 モモコはそれを思い出していた。

 どうして今、思い出すんだろう。


 リョウは「ライブ中のMCで話したいことがあるの。来て」とアヲイを引っ張った。

 ユーヒチとヱチカの邪魔をするなという意味だろう。そうしてリョウとアヲイとモモコの三人は、駐車場を経由して外に出る別の道に入った。

 ――ヱチカは今回のライブの大本命であるアヲイの妹で、だから客入り前から会場にいることができる。モモコも、ヱチカの友人ということで許された。

 それはヱチカがユーヒチの隣にいたいからで、ユーヒチのことが好きだからだということだけはモモコも頭では分かる。

 だけど、何かが変だと思った。←具体的にどうとは言えないのだが……。

 モヤモヤとした気持ちを抱えながら、モモコがリョウといっしょに人気のない駐車場に足を踏み入れたとき、

 一台の車が停まり、一人の男が助手席から降りてくるのが見えた。そして、車はすぐにその場を去っていく。

 その男はシンガーソングライターのトワだった。

 音楽に疎いモモコでさえ、トワがどういう人間か知っていた。

 全国に展開する最大手のレーベル・マイヤーズミュージックでメジャーデビューを決めたあと、彼はたった数年間の月日と数枚のアルバムでトップアーティストの仲間入りを果たした。

 だが、モモコが彼の名を知っている理由はそれではない。

 大晦日の公共放送で歌を歌った直後、既婚者の大物女優との下劣な不倫を報道され、ここ半年間は表舞台から消えていたのだ。

 トワは三人に近づいてきた。


  ※※※※


 ヱチカといっしょにいたユーヒチは歩みを止めて、耳に神経を集中させた。

 ――アヲイたちの足音が消えるのが少し早すぎる。――移動をしていない?

 理由はないが、イヤな予感がする。


  ※※※※


「ねえ、そこの君」とトワは言った。モモコを指して言っているのだと分かる。

 リョウは「なんですか?」と詰め寄った。「大物芸能人様がこんなところに何の用なのか知りませんけど」

「おれは君には話しかけてない」

「は?」

「そっちの可愛い女の子に訊いてるんだ」

 そう答えた。

「何を――?」

 モモコが身構えると、トワは虚ろな目つきで、

「へえ、モモコちゃんって名前なんだ。君は」

 と言った。

「えっ」

「分かるんだ、おれ。人が思ってること。ちょっとだけだけど」

 そう答えると、トワは駐車場の奥の方、三人がいま来たばかりの道に視線を送る。

「九条アヲイって女の子はどこにいるの。おれ、友達になれると思うんだけど」

「――私?」

 リョウの背中から、ひょっこりとアヲイが顔を出す。

「アヲイはそこにいたんだ?」

「え、うん」

 アヲイはきょとんとしている。「友達になりたいの?」

 そんな彼女を、トワは興味深そうに見つめていた。絶滅危惧種の保護動物が、交配のために連れてこられた同種族と顔を合わせたときみたいに、彼女を観察し続けた。

 まるで、――おれと同じ生き物と初めて出会った、と言わんばかりに。

「おれのこと分かる? アヲイ」

「え、知らない。テレビ見ない」

「――はははは」

 トワが笑うと、なぜか、モモコはゾッとした。

 やばい。

 何がどうとは言えない、けど、この男の人はやばい。常識とか、そういうものが全部通じないと思う。

「アヲイ」とトワは言った。「数年前の友人を全く思い出せなかったことはないか」

「え?」

「自分がどこで生まれてどうやって育ったのか」

 トワは呟きを重ねる。「何ひとつ思い出せない寂しい夜はあるか」

「なにが」

「――なのに、誰も覚えていない、事実でもない、夢のような記憶だけがずっと鮮明に残っている。おれを縛り付けてくれるのはそれだけ」

 トワは天井を見上げた。その仕草がアヲイに似ているとモモコは感じた。

 リョウが後ずさりする。

 トワは視線をアヲイに戻した。「こんなつまらないライブはキャンセルしよう。どうせこの世は誰も何も分かってくれないんだ。今からおれの家に行こうよ」

 アヲイは、真っすぐな目でトワを見ている。その感情はモモコには分からない。

「行かない。ライブはするよ」

「なんで?」

「ユーヒチが楽しみにしてるから。このライブ。だからやめないよ」

 そうアヲイは答えた。

 ――え?

 モモコはアヲイの顔を見た。なに、その理由?

 トワの顔色が曇る。

「――ユーヒチ? 誰だ?」

「うちのベーシスト」

「――そんな男がなんだっていうの」

 トワの声が低くなる。筋肉質の腕がアヲイに伸びた。

 彼の片腕が、がっちりとアヲイの肩を掴んだ。

「おれが来いって言ったら、来るんだよ。女は」


 モモコが悲鳴のように声を上げそうになった、そのときだった。

「――何してるんですか」と、

 駆け付けたユーヒチがトワの腕を掴んで、ゆっくり引き離した。

 遅れてヱチカがここに走ってくるのも見える。

「誰だ?」とトワはユーヒチを見る。

「俺は川原ユーヒチです」

「お前の名前は知ってる。なんでおれを止めるのか訊いてるんだ」

「その手を離して下さい」

「アヲイがお前の女だから止めたいのか?」

 トワの腕を掴むユーヒチの手を、重ねてトワが掴む。

「お前、アヲイの男か?」

「――だったらどうした」

 ユーヒチがそう答えた途端、トワは腕力でユーヒチの手を捻り上げる。

「がっ」

「――ベーシストの腕は高いんだろ?」

 トワは笑って、体勢を崩したユーヒチの脇腹に蹴りを入れた。

 その力でユーヒチの体は吹き飛び、床に崩れ落ちる。

「ユーヒチさん!」とヱチカが悲鳴を上げ、真っ先に寄り添った。

 モモコは自分の目尻から涙が出てくるのを感じる。

 ユーヒチは起き上がりながら、「よせ」と言った。「よせ、アヲイ」


 ――なんでそんなことを咄嗟にユーヒチが言ったのかは分からない。

 ただ、たしかに、アヲイの顔つきが変わっていた。

 モモコはその表情に見覚えがあった。

 小学校の教室。

 モモコをいじめていた生徒たち。

 密閉。

 給食時間。

 血塗れの報復。

 ――アヲイがあの頃の目に戻っていることを、たぶんモモコだけではなく、リョウもヱチカも瞬時に悟った。ずっと皆で抑えて、なだめていたはずのアヲイの獣性が沸き立っている、と感じられる。

 ――だめ! とモモコが叫ぶ前に、

 アヲイは野球帽を脱いでトワに投げ飛ばす。帽子のツバがトワの目頭に当たり、一瞬、彼の動きが止まった。

 その隙に、アヲイはジャンプする。両腕でトワの頭を捕まえ、膝で蹴りを当てるためだった。

 骨ばった膝がトワの鼻っ柱にぶつかる。

「あっ」

 トワが痛みよりも驚きだろう声を上げた。

 そして屈んだ彼の顔に、アヲイは二発、三発と膝を当てていく。パッパッパッ、というリズム。

「――ってぇ」

 トワが衝撃に慣れたのだろう、咄嗟に右手の平を出して膝を止めると、アヲイはもう片方の脚を回して彼のこめかみに当てた。

 トワが数メートル横によろめく。両足は開いたままおぼつかなかった。

 アヲイはそこに金蹴りを入れようとする、トワは左腕でその足を止める、だがそれはフェイクで、彼女は右手の指を突き立てたまま顔面に押し付けた。

「あがっ!」

 おそらく瞳を狙ったのだろう、が、少しズレてそれは彼の頬を切り裂くだけだった。

「ああああ」

 トワが強引に腕を振り回す。

 それがアヲイの左肩にかする。ダメージはないが、よけるために距離を置く彼女の攻撃もいったん休んだ。

「てめえ」とアヲイは言った。「ユーヒチに何した?」

「はっ?」

「ペチャクチャつまんねえこと抜かしやがって。殺す」

「ははは」

 トワは鼻筋を指で戻しながら声を出した。一筋の鼻血が流れるのを、彼は指でペロリと舐め取る。

「逆に女に殴られるっていうのは、生まれて初めてかもなあ」

 とトワは言った。

 ――本当に楽しそうな笑顔だった。

「やっぱり面白いよ、アヲイ。やめやめ。悪かったよ」

「あ?」

「ユーヒチくんだっけ? そいつにも謝るからさ、おれと仲良くしろ」

「死ね」

「おれが謝ったら許せよ」

 とトワは笑い、ユーヒチを見た。「乱暴してごめん、ユーヒチくん」

 ヱチカの肩を借りながらユーヒチは立ち上がる。

「アヲイ、もうやめるんだ」

「なんで? ユーヒチが酷い目に遭った」

「その俺がやめてほしいって言ってる!」

 ユーヒチが怒鳴ると、

 ふっとアヲイの目が元に戻った。

「ん、分かった」とアヲイは言った。「ユーヒチがやめろって言うならやめるよ」

 ――モモコは腰が砕けてその場に座り込む。

 すん、とその場が静かになった。

 やっと事態を察しスタッフが駐車場に駆けつけたが、トワが自分の怪我について「転んだだけ」と言うと、場の空気に呑まれ、それ以上は誰も何も言えなかった。

 トワはスマートフォンを開き、「なんだ――のやつ、もう――」と、ボソボソ呟いてから建物の中に去っていく。最後にこう言った。

「アヲイ。

 そんなにやりたいなら、ステージ楽しみにしてるぜ」


  ※※※※


 駐車場での一悶着は、ことを穏便に済ませたいスタッフたちによって厳重注意で済んだものの、騒ぎの余波がホールの出演者たちに届かないということはありえなかった。

 ミチル&ローユァン・デジタルハックバンドのダンスボーカル・ミチルの視界で、西園カハルの耳がぴくりと揺れる。

 ――何?

 と思っていると、サントームのベーシスト・佐倉タカユキがスマートフォンを確認後に舌打ちした。

「アホか、あいつら」

「どした?」

「トワとかいう色ボケがここ来て、アヲイとモメたいう知らせが届いとるわ」

「ナンパ?」

「口説きひとつでスタッフ動員されるかい。下手すりゃ流血やぞ」

 あいつら祭がどうなってもええんか、バカが! タカユキは苛立ちを隠さなかった。

「――他に巻き込まれたのは誰?」

「――アヲイのお仲間だけらしい。そこは不幸中の幸いかもしらん。昼飯時がズレとった」

「警察が入るなら準備も何も意味ないね。ぜんぶ中止になるんじゃないの?」

 ミチルは呟く。

 それに対して、途中から話を聞いていたらしい、佐倉ユキナガ――タカユキの兄だ――が反応する。

「あかんか?」

「や、トワが大人しく引き下がった。場も収まったしアヲイの側に怪我人もおらん。兄ぃが心配するようなことはないよ」

「――なんぼ天才でも暴れる奴は勘弁やわ。トワもアヲイも頭のネジが外れとんちゃうか?」

 スタッフの間に呆れるような空気が流れ始める。

 ただでさえアヲイの風評は、ネットの誹謗中傷で地に堕ちている。

《女を売りにして立場を得たあと、古巣のメンバーを追い出して新たに男たちをたらしこんだあげく、今度はスキャンダルまみれの芸能人と喧嘩》

 それが彼女のイメージになっていた。

 西園カハルが荷物をまとめ、男性スタッフの一人に挨拶した。

「すみません、今から私も休憩で席を外します」

「ああ、お疲れ様です」とスタッフは汗を拭う。「――申し訳ございません。こんなトラブルまで起きちゃって。せっかくカハルさんに来て頂いているのに、情けないです」

「アンタのせいじゃないだろ?」

 カハルはそう答えて、

 ゆっくりサングラスをかける。動画配信のスタッフにも頭を下げ、彼女は立ち去った。

 全員が彼女に惚けた会釈を返す。


 タカユキはこめかみを押さえた。

「なにがアヲイVSカハルで盛り上がる、や、ボケ」

 それは自虐だった。


「とっくに勝負ついとるわ。ここにはカハルの味方しかおらん」

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