第3話 修辞的なマセマティカ
※※※※
オンライン会議でひととおりの話がまとまり、通話を切ったあとで、アヲイは「試しにやってみる? この三人で、なんか」とユーヒチと誘った。
同時に、彼女のおなかが、ぐう――と鳴った。
「まずは、何か食おう」とユーヒチは苦笑する。
そうして殺伐とした台所周りを見て、とても料理できる環境ではないと悟ったのか、
「弁当でも買ってくるよ」と言った。
「えー」とアヲイは顔をしかめる。「なら、いっしょに行くよ。ていうか、近くに超うまい飲み屋があるんだけど、そこにしようよ」
「ああ。――リョウもそうするか?」
と言って、
ユーヒチがリョウを見た。
――憎い。この男が気に入らない。
リョウの胸に、はっきりとその感情が浮かんだ。
飲み屋ではアヲイがハイネケンを追加で頼み、「祝杯だ」と盛り上がった。
「ユーヒチ。この店の良いとこだけど、全部の席が喫煙席なんだよ」
「都内だと今どき珍しいな?」
「それにテレビの趣味も良い」
つけっぱなしのテレビは、店主のお気に入りらしい映画が流れていた。
ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』だ。
「たしかに」とユーヒチはマルゲリータピザを食べる。「変わった店かもな」
アヲイはぼそっと、
「『天使は全てを認識することができる。だけど、何ひとつ経験はできない』」
と言った。
「何だ? それ」
「ゼミの先輩が発表で言ってたの」
「へえ――」
アヲイもピザを皿に取り寄せた。
「この前さ、リョウと配信してたら、投げ銭で五万円とか投げてきたヤツがいて」
「話題になってたな」
「『アヲイは天使だ』って言ってた」と答えて、アヲイはビールを喉に流し込む。
「私って何も経験できないと思う?」
リョウは箸を止めて彼女を見た。アヲイは、ひたすらにまっすぐな目でユーヒチに問いかけている。
ユーヒチはしばらく手を止めていたが、やがて、
「――よく分かんないけどさ」と言った。「アヲイは人間の女の子だよ」
飲み屋の帰り道、案の定しこたま酒を買い込んで宴となった部屋で、アヲイはひたすらリョウとユーヒチにじゃれついた。
「配信しようぜ! 配信!」
アヲイが笑って、リョウがPCをスタンバイすると、ユーヒチとしても、その場にあるアコースティックギターを一本借りて構えるしかない。
コメント欄は開幕早々大荒れになった。
『あの中傷コメはいったいどうしたの』
『誰だ、その男』
『サエちゃんとケンカしたって本当?』
『なんでコンプレックスプールのユーヒチがそこにいんだよ』
『リョウ様なにか喋って~汗』
アヲイは流れるコメントを見ながらクククッと閉じこもるように笑い、自分もFujigenのNeo Classic NTL10MAHを構える。
「解散しました」
とアヲイは囁いて、アンプに繋いだままコードを鳴らした。
毎日騒音があるお陰で家賃が安いこのパートでは、住人はほぼいない、逆に楽器を弾くこともできる。
リョウが「夜だし、気持ち音は抑えといてよ」と小言を言う。
ユーヒチが音量を調節する中で、アヲイは再び無遠慮に弦を鳴らした。
「解散したんだ」とアヲイは言う。「よく分かんないけど、そうなってさ、えっと、次からは新しいバンドで頑張れると思うから」
彼女の話し声を聞きながら、ユーヒチとリョウは、アヲイが今回の件で深く傷ついているのを改めて実感した。
少し震えている。
誰かが悪いわけではないのだろう、とユーヒチは思ったし、
私が悪いんだ、とリョウは思った。
アヲイがいつものように曲を弾き語ると、コメントの流れは少しずつ変わっていた。昨日今日の騒動に対する詰問ではなく、今までどおりの、アヲイの歌声に対する賞賛と投げ銭に。
アヲイがそれに対してノレない顔をしているのがユーヒチには分かった。
配信を終えた直後、
「どこ生きてたって、私は邪魔者かよ」
とアヲイは呟いた。
「――ふざけんなよ」
※※※※
夢の中で、真っ赤な夕焼け。リョウは田舎駅のホームにいた。ベンチに座っている。
どうやら、電車を待っているらしい。
駅名標には『快楽』と書かれていた。
「どこなの、ここ――?」
気付くと、向かいのホームのベンチに、アヲイが腰かけているのが見えた。
スマートフォンをいじっている。
――アヲイってば、そっちだと行き先が逆になっちゃうじゃん。教えてあげないと。
リョウは立ち上がり、アヲイに呼びかけようとした。
「アヲイ!」
だが、喉がからからに渇いて、思うように声を出すことができない。――アヲイはリョウの存在に気づかないままである。
「アヲイ!」
言葉は届かない。
まばたきをした。
アヲイの側のホームには、アヲイ以外にも、たくさんの人間が立って電車を待っていた。
若者のカップル。
杖をつく老夫婦。
ベビーカーを押す男女。
はにかみながら手を繋ぐ少年と少女。
「アヲイ! そっちは違うの――!」
アヲイが顔を上げた。
だが、リョウに気づいたのではなく、近寄ってきたユーヒチを認識して、頬を赤らめ、笑みを浮かべていただけだ。
――私じゃない誰かに、アヲイが笑っている。
「アヲイ! こっちだってば!」
大きな音を立てて、リョウの立つホームに特別快速が到着した。
彼女とアヲイの間隙を遮って、何も見えない。
無機質なアナウンスが流れる。
車両のドアが開く。
誰も乗っていない。
リョウが足を踏み入れると、ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。
窓から反対側のホームが見えて、アヲイとユーヒチが向かい合い、何かを話しているのが分かった。
「嫌だ――」
リョウは窓に寄り、バン! と拳で叩いた。
もちろん、二人は気づかない。
電車がスピードを上げていくなか、リョウはそれでもアヲイから離れないように、進行方向とは逆に向かって走ろうとする。
だが、両足は簡単にもつれ、リョウはその場に転んでしまった。
「ア――」
うつ伏せに倒れ、呻く。
――何やってるの、私。
不意に、
『気持ち悪いね?』
という声が聞こえた。
体を起こすと、
席にひとりの女の子が座って、自分を見下ろしていた。
――小学生時代の私だ、と、リョウはすぐに分かった。
『気持ち悪い』と、少女は繰り返した。
『私の心臓、とってもねばねばしてる』
「なにが」
『アヲイちゃんを独り占めしたい癖に、どうしてステージに立たせたの?』
「え――」
『ずっとアヲイちゃんといっしょにいたかったのにな』
「やめて」
少女はくすくすと笑った。
『自分が書いたラブソングをいっぱい歌わせたら、いつか私の気持ちにだって気づいてくれる――そう思ったの?』
「もう喋らないで!」
『いやらしい妄想まみれ。私が純粋だったことなんて一度もないんだよ?』
リョウはカッとなって、幼い自分自身の胸ぐらを掴んだ。
「人を好きになって何が悪いの? 矛盾することがそんなにいけないの?」
『不気味』
「はあ?」
『届かない手紙ばっかり書いて、とっても不気味なリョウちゃん。
――報いを受けるときが来たよ?』
電車がトンネルに入ると、全てが真っ黒になった。
※※※※
リョウはアヲイの部屋で目を覚ました。まだアラームが鳴るような時刻ではない。窓の外がゆっくりと白んでいくのが見える。
フローリングの床にマットとタオルケットを敷いて、横になっていた体が少し痛い、と思った。
アヲイはといえば、自分のベッドで体を丸めるように眠っている。
――なんで、私はここにいるの。
頭が少しずつ覚醒していく。
リョウは朝焼けの中で、アヲイとユーヒチが笑いながら話すイメージに胸を引き裂かれながら、眠ったままのアヲイに軽くキスをした。
アヲイは起きない。
薄い唇はアルコールのせいで少し乾いていて、でも柔らかかった。
「――すき」
とリョウは呟いた。
好きだよ、アヲイ。アヲイのことを一目見た、十年前からずっと。こじらせにこじらせ続けたこの気持ちを、今さら言える気もしない。
死ぬまで気づいてくれなくてもいいの。ずっと友達のままでいい。
アヲイのことを好きでいられるってだけで、私はもうとっくに幸せだから、他には何も要らないよ。
――嘘つき。
頭の中で声がする。
――ユーヒチのことが大嫌いなくせに、どうしてそんな嘘をつくの?
自分自身の本音だ。
「うるさい」
リョウは呻きながら自分の太ももをつねると、その痛みで誤魔化した。
同時刻。
ユーヒチは早朝のコンビニに赴き、アヲイとリョウのための朝食を買い込んでいた。まだ二人とも眠っているだろうな、と彼は思う。
――まさか、こんなことになるとはな。
※※※※
数日後。
リョウはアポを取ってからヱチカの家に赴いた。目白駅から徒歩数分の場所にある古い豪邸で、ヱチカは玄関の戸を開けながらリョウを睨んだ。
「リョウ先輩。これ、一体どういうことですか?」
「ごめんね。私も予想外だった」
「ユーヒチさんが、なんでアヲイねーちゃんと同じバンドに?」
「成り行きだよ。他にベストな解決策もなかったし、仕方なかった」
「――ヱチカちゃんは」と彼女は語気を強めた。こういうところですぐに余裕をなくすのは昔から変わらないな。「ユーヒチさんの助けになると思ってお部屋を紹介したんですけど?」
「だったら別にいいでしょ?」
「はぁ?」
「ユーヒチって男はアヲイを助けたいと思ってる。あんたの姉を。そんなユーヒチを、ヱチカ、あんたが助けてあげられるんだから、まあ別にいいでしょ」
「――リョウ先輩は、人の気持ちとか全然分からないんですね?」
「分からないよ」
リョウは答えた。
――私は、アヲイのことだけ分かっていればいい。
アヲイのことだけ、分かればいいはずだったのに。
リョウはマルボロを咥えた。「他のメンバーには、集合時間を一時間だけ遅れて教えてある。その時間でちょっとヱチカと喋りたかったの」
「そうでしたか」とヱチカは冷たかった。「ヱチカちゃんは今のリョウ先輩とはあんまり喋りたくないですけどね?」
「アヲイがさ」とリョウは言って、火を点ける。「なんか暴走して、ヱチカとユーヒチの関係を邪魔しちゃってるのは謝る。私もぜんぜん意味分かんないし、制御できない。だけどさ、昔からあんたの姉はそういう存在でしょ」
「............」
「どっちにしたって、スタジオを用意してユーヒチと接点持ててよかったじゃない。そこは上手くやりなよって、それだけ言いたかったんだ」
ヱチカはそっぽを向きながら、「なにそれ」とだけ言った。
「ヱチカちゃん、難しいことは分かんないし」
「あんたは昔から賢いよ。アヲイよりずっと」
「なにそれ!」
ヱチカは急にケラケラと笑った。「アヲイねーちゃんにヱチカちゃんが敵うわけないじゃん! なんにも自慢になるのないじゃん!」
「ピアノが上手いよ」
「ママがアヲイねーちゃんに弾くの止めさせたんだよ! 上手すぎてヱチカちゃんが落ち込むからって! アヲイねーちゃんは何でもできるんだもん!」
そのピアノだって止められる前から飽きてたんだよ、アヲイねーちゃんは、何でもできるから全部つまらないんだよ、とヱチカは吐き捨てた。
「そうかもね」とリョウは言う。「――そんな姉に、狙った男まで取られちゃうの?」
「なにが」
「だって、だって好きなんでしょ?」
リョウがダメ押しすると、ヱチカが、ふっと冷めて氷のような目つきになったのが分かった。
背筋がゾッとする。
こういうところで、アヲイとヱチカはどうしようもなく姉妹なのだ。
「リョウ先輩ってば」とヱチカは言った。「それを言うならさぁ、リョウ先輩だって、アヲイねーちゃんを取られちゃうかもだよ? ユーヒチさんに?」
「何の話」
やめて。
「え、バレてないと思った? ウケるう」
「なにが」
「――レズなんでしょ? リョウ先輩は」
沸騰。
リョウの頭が、瞬間、怒りで沸騰した。
「うるさいっ!」
リョウはヱチカを玄関の戸に追い詰めて、右拳を扉に叩きつける。
ドン、という鈍い音が響いた。
「こわい」とヱチカは笑う。挑発の笑顔だ。演技のせいだろう、普段の声より高い。
「こわい、リョウ先輩、ちょっとひどいよ。どうしてそんな乱暴なことするのお?」
「ヱチカ――」
リョウは自分自身の衝動に戸惑いながら、ゆっくりと体を離した。
ヱチカは澄ました顔に戻ると、背中についた埃を払う。
「リョウ先輩がアヲイねーちゃんをギターなんかに誘うからじゃん?」
「は?」
「そんなことしなきゃ良かったのに。そしたら、アヲイねーちゃんはユーヒチさんに会うこともなかったんだよ?」
「それは――」
リョウは言い淀んだ。
夢の言葉を思い出す。
『自分が書いたラブソングをいっぱい歌わせたら、いつか私の気持ちにだって気づいてくれる――そう思ったの?』
しかし、それは結局のところ夢の中の言葉で、現実のものではない。
アヲイを連れ出した理由を、そんなに簡単に言葉にできるとも思えなかった。
ただ、ステージの光を浴びて佇むアヲイを見たとき、何か取り返しのつかないことをした、という感覚だけがあった。
黙ったままのリョウに飽きて、ヱチカは、すいっ、と彼女の腕から逃れた。
「ま、いいけど」とヱチカは言った。「言葉にできないものをできないままにして、困るのは先輩だし?」
――言われなくても、ヱチカちゃんはユーヒチさんが好きになってくれるように頑張るだけだもんね?
そうヱチカは答えた。
※※※※
「すげえな」とガロウは言った。「必要な機材は全部あるみてえだ」
ヱチカの実家に集合した新生ダズハントの面々は、防音設備のピアノ演奏室に通され、そこがバンドスタジオとして充分遜色ない場所であることを知った。
「ふふ」とヱチカは笑う。「もともとパパがロック好きなんですよ」
パパの趣味用の部屋にヱチカちゃんのピアノが置いてあるだけなので、つまり、もともとがライブスタジオなんです、というようなことをヱチカは言った。
「まいったな」とシシスケも舌を巻く。「俺はヱチカのご両親には足を向けて眠れんぞ」
それを聴いてヱチカは笑う。
「えー、シシスケさん大げさですよぉ」
リョウはピアノの鍵盤蓋を開けて、二、三の白鍵を指で叩く。
「調律はちゃんとしてるみたいだね?」
「そうなんだよねえ。パパが毎年ちゃんと調律師さん呼んでて」
「――そうなんだ?」
「ヱチカちゃんはもう弾かないのにね」
そう言って、彼女は少し寂しそうに笑った。
そのやりとりを聴いていたらしい、ユーヒチが驚いた眼でリョウを見た。
「もしかして、リョウも弾けるのか?」
「――作曲はもともと鍵盤でやってる」
そうリョウは答え、ショルダーケースからシンセサイザーを取り出した。
備え付けのデスクに置いて、アンプと繋げる。
「でも、キーボードとピアノは厳密には全然違う楽器だから。
それに専門的な教育とか受けたわけじゃないし、超絶技巧のクラシックを何曲もノーミスでやれって言われたら無理だけどね」
「それだって凄いことだろ? 尊敬するよ」
「あっ、そ」
そうリョウは言った。「そんなわけで、ベースのパートはあなたに任せることになるんだけど。どうしようもない演奏をしたら許さないから、ちゃんと実力を見せて」
「ああ――」とユーヒチは頷き、ベース用バッグのファスナーを開けた。Rickenbackerの4003を出すと、ストラップを肩にかける。
「期待には、応えるつもりだよ」
ユーヒチと彼女のやりとりに対して、アヲイは反応しない。部屋全体の空気を味わうように黙って天井を見上げている。
リョウは息を吐いた。「正直、どんな仕上がりになるかは分からない。新曲の練習もしておきたい。お願いごとをする身なのに図々しいかもだけど、ガロウとシシスケにも、全力でついてきてほしい」
「当たり前だろ」とガロウが言った。「こっちはただでさえアヲイと弾けるんだぜ? 初っ端からガチで行くぞ」
それについて、シシスケも「同感だ」と答えた。
ピアノ演奏室には不釣り合いなドラムセットに腰を下ろし、椅子の高さを調整する。
「ユーヒチ、いずれにしろ俺たちを引き合わせたのはお前だ。気負うなよ、しかし結果は出す」
「そうだな」
ユーヒチは納得したように頷く。
そのときヱチカが両手を叩いた。「じゃ、ヱチカちゃんは居間で皆さんのお茶菓子を用意しときますね。休憩の時間になったら言ってください」
そしてドアを開けて消えていく。
リョウはユーヒチを睨み、「ねえ」と声をかけた。「あとでヱチカにちゃんとお礼しておいてね?」
「それは分かってる」
「ただの女の子があなたにこんな親切をしてる意味、よく考えてって意味で言ってるんだけど、本当に分かってるの?」
そう言ってリョウは念を押す。ユーヒチの袖を引き、アヲイには聞こえない距離で、彼の言葉を聴いて安心したい自分を自覚していた。
ユーヒチは少しだけ、困惑の色を顔に浮かべた。
ガロウがGibson Explorer Blackoutを構え、アヲイと音を合わせているのがリョウの目には見える。
「オレさあ、ダズハントの曲ファンなんだよ」と彼は言った。「ぜんぶ弾けるから曲だけ言ってくれ」
「頼もしいじゃん」とアヲイは笑った。
ガロウはピックを指に挟む。「しかし、なんか悪いよなあ」
「? なんで」
「なんでって、ここは元々ダズハントの拠点だろ? そこにオレらが成り行きで邪魔してんだからさあ」
「え」とアヲイは腕を止めた。
「違うよ? 私、ここじゃ弾いたことない」
「――なんでだよ? ヱチカちゃんはアヲイの妹だろ。要は同じ実家だろ? ダズハントがこの部屋使ったことないって何なんだよ」
ガロウが無遠慮に言うのを聞きながら、ユーヒチが少しずつ事態を飲み込んでいくのを、リョウは目の前で確認していた。
――ヱチカもリョウも同じ目白の家で育った。
なら、最寄り駅が同じのW大学とG院女子大とで、アヲイだけ家を出て独り暮らしをする理由はない。
つまるところ、アヲイは実家から逃げ出したのだ。
そして、
アヲイは義母にピアノを辞めさせられてから、何年間もずっと、この防音室に入ることすらずっと許されなかったのだ。
ヱチカも今日この日まで、偶然アヲイを招き入れてしまうまで、その禁忌を守ってきたということになる。
「ああ」とアヲイは言った。「――まあ色々あったんだ。それはいいじゃんか」
「ふうん」とガロウは生返事をしたあと、「じゃあ『ミショー』から合わせようぜ。定番のやつ」とだけ言った。
ユーヒチはそれを聞きながら、絶句していた。
――この男はアヲイの苦しみを何も知らない、とリョウは思う。
「言っとくけど――」とリョウは言う。「ヱチカを頼ろうって提案したのは、あなたでしょ?」
アヲイのこともヱチカのことも、よく知らないまま土足で踏み入って、私よりずっと罪深いのは、あんたでしょ。
――そんな風に思いながら、リョウはユーヒチを上目遣いに見つめた。
※※※※
数時間後。
ヱチカが再び防音室のドアを開けると、バンドのメンバーは熱気の中で演奏を繰り返していた。
――わあ。
曲目が終わると、ドラムを叩くシシスケも、ベースを弾くユーヒチも、ギターを奏でるガロウも、そしてアヲイも紅潮している。
「やべえ」とガロウは言って、床に横になった。「すげえ楽しい」
リョウが鍵盤から手を離す。「悪くはないね。即席のアレンジも上手くいってる。もっかい頭から行く? 私は構わないけど」
「ああ」とシシスケは額の汗を拭った。「もうちょっとこの感覚はもう少し掴んだほうがいいだろ」
ヱチカの目線はユーヒチを捉えた。
彼は涼しい顔でアヲイを見つめている。
アヲイはただ、歌い終わったあとの余韻に浸って天井を見上げていた。
――なにそれ。
ヱチカは小声で「みなさーん」と呼びかける。最初に気づいたユーヒチが振り返った。
右手の二本指を口唇に運んで、ヱチカはタバコをスパスパと吸うジェスチャーをする。――そろそろ休憩しませんか? という意味で。
「ああ」とユーヒチがベースを降ろした。「でも、ここ禁煙だろう?」
「バルコニーで吸えますよ。灰皿あって」
「そうか――」
ユーヒチはピースを取り出し、ガロウたちのほうを振り向いた。他に喫煙したい奴がいないか確認したいように見える。
ガロウは「オレはあとで行くわ。疲れた」と言う。
その他の面子も同じような返事だった。
――もしかして、ヱチカちゃんとユーヒチさんを2人きりにしようとしてくれてる?
――まさかねぇ。
そうだったら嬉しいな、という解釈を頭の中で積み上げては数秒後に否定する。それはヱチカの思考の癖のひとつである。
そうしてバルコニーは二人きりだった。
目白の邸宅街の日差しを浴びながら、ユーヒチはタバコを咥える。
「火、おつけしましょうか?」
「ははっ、大丈夫」
ユーヒチは笑った。
「今回のことは本当に助かったよ。ありがとう」
「いいんですよぉ」
ヱチカも笑顔をつくる。
「ヱチカちゃんだってアヲイねーちゃんのこと、助けたかったので」
「――そっか」とユーヒチは言った。「お姉さん想いなんだな」
「はい、ヱチカちゃんはお姉ちゃん子なので!」
そう答えてガッツポーズをつくるヱチカは、今の自分がちゃんと『良い子』に見えるかどうか、それだけを気にしていた。
――大丈夫かな、ちゃんとやれてるかな。
ユーヒチはライターを灯した。
「助かったのは、こっちも同じだよ」
「え?」
「シシスケはプライドが高いから認めないかもしれないけど、正直、うちのバンドも頭打ちだった。何か変化がほしかったんだ」
「ユーヒチさんたちは、今でも素敵ですよ」
「ありがとう。だけど、だから、俺たちも助けられた側だよって言いたかった」
「ふふふ」
ヱチカは、男の人と話しているときの、この感じが好きだと改めて思う。女の子だからという理由で、ぬくぬくと優しくしてもらえている。君はここにいていいんだよと言ってくれているような、幸せな錯覚を得られるのが男性との会話だ。
錯覚は錯覚だが。
「ヱチカちゃんは、ユーヒチさんたちが羨ましいです」
「どうして?」
「やりたいことがあって、夢――夢かどうかは分からないですけど――目標に向かって頑張ってるのが凄いなって。ヱチカちゃんは、そういうのないし。だから、応援したいんです」
「ありがとう」とユーヒチは言った。「まあ、きっとそんな大層なものでもないんだけどな、俺たちのほうも」
「そうなんですか?」
「自分が真っ当な大人になれるかどうか分からない。それがどうしようもなく怖くて、とりあえずやれることをやっておきたい、ってだけなんじゃないか?」
少なくとも、俺はそうだと思う。とユーヒチは答えた。
彼の両目が左右で少し違う色をしていることに、ヱチカはこのとき初めて気が付いた。
「不思議な目ですね」
「ああ、これ?」とユーヒチは笑う。「ちっさい頃に交通事故に遭って、片方だけ色が濁ってるんだよな」
「綺麗だなあって思っちゃいました。こういうのって不謹慎、ですか?」
「俺は気にしないよ。わりと嬉しい」
「あははははは」
バルコニーにユーヒチの煙が漂う。
「タバコ、おいしいですか?」
「ん?」
「アヲイねーちゃんも吸うんですよねえ。ヱチカちゃんも吸ってみようかなあ」
「体には悪いよ」
「人間どうせいつか死ぬから同じだって、アヲイねーちゃん言ってましたよ」とヱチカは言った。
「そうなのか?」
「体に悪いだけなら、二人とも吸わないでしょ?」
「んー」
――二人だけ知ってるの、ちょっとズルいもん。
ヱチカは悪戯心が沸いて、ユーヒチに近づくと、口をあーんと開けた。
ユーヒチは吸い終わったタバコを水瓶に落とす。
「けっこう重い奴だから、あんまり吸い込みすぎないようにな」
「は~い」
新しいタバコをヱチカの下唇に添えて、丁寧に火をつけた。
ヱチカは、すっと煙を肺に取り入れた。
直後。
「――えほっ、けっほ、う、かはっ――」
体が煙を受け入れず、何度も咳き込んでしまった。
「ほら。――大丈夫か?」
ユーヒチがヱチカの背中に手を添え、水とか持ってこようか、というようなことを言っている、それがヱチカの混乱した意識にも響いた。
――これで、アヲイねーちゃんができることも、ひとつできるようになったのかな。
ヱチカは少し脳の中でだけ笑えた。タバコの毒が回って気持ちが悪いのに、ユーヒチさんが私に施してくれたことが嬉しい。
アヲイがユーヒチを気に入っているからか。
心配そうな顔のユーヒチに、ヱチカは目を合わせる。
「――ユーヒチさん」
「なんだ?」
ユーヒチの問いかけに答える前には、呼吸も落ち着いていた。
「今度、デートしてくれませんか?」
※※※※
何度か演奏を繰り返したあとの昼下がり、九条宅から歩いて数分のカフェレストラン。六人はロングテーブルについて注文のメニューを開いていた。
こんな席順だ。↓
シシスケ ヱチカ ユーヒチ
リョウ アヲイ ガロウ
「なんだか」とリョウは店内を見回した。「ここももう懐かしいね」
ガロウはコップの水を飲み干す。「そうなのか?」
「うん。前にモモコが言ってたでしょ? 私もアヲイもヱチカも、昔はよくいっしょに遊んでたんだよ。だからこういう場所も知ってる。――今はアヲイも私も独り暮らしになっちゃったけど」
「ふうん――」
「大学生になったんだから、自立しなくちゃね。少なくともその準備はさ」
リョウは言いながら、これは上手いカバーストーリーだと思った。
《私たちは精神的な向上心があるから敢えて家を出てバイトもしています》
これはなかなか説得力があるのではないだろうか。
真実とは全く違うが。
――アヲイは家を追い出されるように逃げてきた。
――私は?
私は、自分の恋愛感情を家族に理解してもらえないのが耐えられなかった。
この世界は、異性同士が一対一で愛し合うことを当たり前の前提としてつくられていて、私の心はそこには含まれていない。両親も私のことを理解できない。リョウにとってはそれが辛かった。
ヱチカが「ここのお店、ナポリタンがめちゃウマなんですよ!」と宣伝すると、シシスケが「じゃ、俺はそれを頂こう」と言う。
リョウとガロウが同時に声を上げた。「同じく」「じゃオレもそれで~」
窓際のテーブル席には、午後、鈍い太陽の光が落ちている。
アヲイが「私はオムライス」と言う。
ユーヒチがアヲイを見た。「そっちが美味いのか?」
「なんとなく?」とアヲイは答える。「美味しいのかなあって思って」
ヱチカは「アヲイねーちゃんって、ここのお店に皆で来たら、オムライスばっかり頼んでたよねえ。オムライス原理主義者」と指差す。
リョウはそんな他愛もない会話を聞きながら、ユーヒチを見つめた。
アヲイは「そうだっけ? ――ヱチカが言うなら、そうなんだけど」と返事した。
「アヲイねーちゃん、何言ってるの」とヱチカはおかしそうに笑った。「さっき自分で頼んだのに、好きだったこと忘れちゃったの?」
「はは、わるい」
「もお」
二人の遣り取りを見ているリョウは、
アヲイの記憶が、もう小学生時代をほとんど満足に思い出せていないことに気づいた。
――いつかアヲイは全てを忘れてしまうかもしれない。そうリョウは思った。
ただ、許せないのは、そういうアヲイが現実とは何の関わりもない、ありもしないパラレルワールドのような記憶だけは鮮明に覚えているということだった。
ユーヒチはサンドイッチを注文した。
初老のウェイトレスが去ったあと、ヱチカが「そういえば」と声を上げた。
「ふたつのバンドが――えっと、ずっとくっついてるか今回だけかって話は、結局どうなるんですか?」
リョウはすぐには答えられない。
――練習はどうだった?
期待以上だった。
ユーヒチのベースは、分かっていたことだが、自分と遜色ない。
ガロウのギターとシシスケのドラムは、旧ダズハントのサエやジュンと比べると、単純に何ステップも技術が上だった。バンドメンバーの演奏スキルを鑑みて諦めるしかなかった編曲も、これから可能になる。
それに、嬉しい誤算もあった。
アヲイが他のメンバーとコミュニケーションを取れるようになったことだ。
これまでは、アヲイは練習なしの1テイクで全てを終わらせて去っていき、ライブ前の話し合いでも、何も言わなかったし言われなかった。
サエもジュンも、アヲイとの関わりを避けていた。
息を潜め、鬼の子供を遠ざける村の因習みたいに。
――新曲の練習中、ガロウが「アヲイ、さっきの入りがミリ秒遅れてるぞ」と言うと、
アヲイは目を丸くして「そうだった?」と訊いた。
ガロウは頷く。「まあ、一発でここまで仕上がるのはマジですげえわ。やっぱ、ダズハントのアヲイは天才だぜ。修正にかける時間が多くて助かる」
――修正にかける時間が多くて助かる。
リョウはそんなことをアヲイに頼んだことはなかった。勝手に、アヲイのスキルは今が最高だと思っていたのだ。
普通のバンドが普通にやるような音の高め合いを、アヲイは初めて経験していた。
そういうアヲイは、楽しそうに見えた。
かつて、リョウはアヲイに訊いてみたことがある。「誘った私が言うのもなんだけどさ、バンドは楽しいの?」
アヲイはそのとき、こう答えていた。「よく分からないけど、リョウといっしょだから良いよ?」
そして、現在。
シシスケが鞄から数冊のノートを取り出し、リョウの前に置いた。
「これは何?」
「作曲ノートだ。俺たちのバンドの」
「――は?!」
リョウは一冊を手に取って、パラパラとページをめくる。既存楽曲のインプット。トレンドの分析。アウトプットのためのいくつかの理論。作品の草稿群。
「なんで、こんな――」
「リョウがダズハントの作詞作曲を担当していた。だったらナレッジとノウハウは共有しておくべきだと思った。今後のためにもな」
「!」
「今回の音合わせでよく分かった。変化が必要なのは俺たちのほうだった。――新しいダズハントに入れてくれ」
そして、シシスケはリョウに深々と頭を下げた。
「ちょ、ちょっと待ってよ――」
リョウは他の面子を見た。
ユーヒチはコップをテーブルに置いた。「俺も、シシスケと同じ気持ちだよ。今後もいっしょにやらせてほしい」
「なっ」
ガロウはスマホをいじったままである。「オレはシシスケとユーヒチがいて、ギター弾けるなら何でもいいぜ。賛成一票」
ヱチカがアヲイを見つめる。
「アヲイねーちゃんはどう思うの?」
「ん――」
アヲイは野球帽を指でいじっていたが、やがて、それを椅子に置いた。
「新しい名前、考えなくちゃね」
「バンドの?」
「ダズハの屋号はもともとサエ先輩のものだから、こっちが勝手に名乗り続けるのも、何か変だと思う」
だから、今日から新しい五人のための名前にしよう。
そうアヲイは言った。
※※※※
音合わせを繰り返したあと、夕方、六人はヱチカの家の前で解散した。
ヱチカは「皆さん、いつでも来てくださいね。ここ、もう皆さんのための特別の部屋にしちゃいますから!」と言った。そして去り際にユーヒチに何か耳打ちをすると、ばいばい~!と手を振った。
アヲイは、そんなヱチカの楽しそうな姿が嬉しかった。
目白駅からは、メンバーの行き先が分かれる。
渋谷住みのシシスケ、国分寺住みのガロウ、阿佐ヶ谷住みのリョウは、山手線の内回りに乗る。ユーヒチとアヲイだけが外回りだった。
ガロウが「また明日な」と手を振って、反対側のホームに歩いていく。シシスケはアヲイと握手をして、「今後とも」と言った。
そうしてリョウは、ユーヒチのことを、不機嫌な視線で見つめたあと足早にエスカレータに乗った。
アヲイとユーヒチが二人ぼっちだった。
「俺たちも帰るか」
「おう」
アヲイは野球帽を被り直して階段を上がり、車両に乗った。
「今日は、色んなことがあって疲れちった」
「だよな」
ユーヒチが笑う。
そんなユーヒチの顔を見ていると、やはり、自分とユーヒチが別の世界で結ばれていたというウソの記憶を、アヲイは止められない。
「ヱチカと何を話してたの?」
「他愛ないことだよ」
「――デートの約束とかしたんだ」
アヲイの口を突いて出た言葉は、思ったよりもユーヒチを驚かせた。
「知ってたのか?」
「いや。――なんとなく分かった」
アヲイは野球帽を改めて目深にした。
アヲイは、他人の心を少しだけ読むことができる。それはたぶん、特殊な能力でも何でもない。ただ、小さい頃信用できる大人もいなかったから、結果として身についた術だった。
彼女には、どこにも安息の場所がなかった。
「ヱチカが」とユーヒチは言った。「あの子が俺をどう思ってるか、分からないでいられるほど鈍感ってわけじゃない」
「うん」
「でも今は、このバンドをどうするかのほうが大事だろ。だから待っていてほしいって言ったよ」
ユーヒチがそう答えるのを、本心で言っていると判断できるのもアヲイの心だった。
山手線はすぐに池袋駅に着いた。アヲイは、ここで降りて有楽町線の和光市駅行きに乗り換える必要がある。
ユーヒチは「アヲイ。また今度な」と言った。
「あ、うん――」
彼女は促されるままにホームに立ち、じっとユーヒチを見つめる。何か言いたいのだろうか? そう思ったのだろう、ユーヒチが車両のドアの付近まで歩み寄った。
ドアが閉まる直前。
アヲイはほとんど衝動的にユーヒチの手首を掴み、車両から降ろしていた。
「は――!?」
ユーヒチの驚いた顔、戸惑っている顔。それは、彼女の目にはほんの少しだけかわいいと思えた。
電車のドアが閉まり、去っていく。
アヲイはユーヒチから左手を離し、その掌をぱくぱくと動かしながら見つめた。
「え、なんだろう――」
アヲイは自分の行動を説明できない。目の前のユーヒチは、ただ、困っていた。
「アヲイ。俺の最寄り駅はひとつ先で、ここで降りる必要はないよ」
「知ってる」
「知ってるって、お前なあ――」
「もっといっしょにいたいんだと思う、私」
アヲイは素朴に、単純に、正直に本心を言った。
嘘を知らない残酷な子供たちがそうであるように、アヲイは真理しか言えない。
「もっといっしょにいようよ? ユーヒチ」
アヲイは、そう尋ねた。
※※※※
ガロウが帰宅すると、玄関の前にひとりの女が佇んでいるのが見えた。
うんざりする。
どうも女って存在は、とにかくオレをうんざりさせるように神様が意地悪でこしらえたらしい。そんな風にさえガロウは感じる。
――チユキだ。
「ご、ごめんなさい。勝手に待ってしまって――」などと彼女は言い淀んだ。
「何の用だよ」
「あ、謝りたくて――」
「はあ? だから何の用だか言えよ」
「モモコちゃんがご迷惑をかけてしまって――」
ああ、それか、とガロウは思った。
――数日前、ガロウがヤリ捨てた佐藤チユキの友人である三島モモコがわざわざ説教しにきた。その件について、今度はチユキが謝りにきたわけだ。
「気にしてねえよ」
とガロウは言った。「心配してもらってんだろ? いい友達がいるんだな」
「ガロウさんに迷惑だけはかけたくなかったです。だから、そのことを謝りたくて」
「そーかよ」
ガロウはチユキの体を見た。
ウンザリして、捨てた体だ。
玄関のドアを開けて「用はそれだけか?」と訊いた。
チユキは泣きそうな顔をしている。
――だから、そういう目をやめろって言ってんだよ。ガロウはそう思った。
「私、もう本当にガロウさんとはお終いなんですか?」
「あ?」
「こんなに、こんなにガロウさんのことを好きなのに。なんで――」
チユキは両腕で自分を抱きしめるようにしながら、身体を屈める。
「アンタが好きなのは、結局アンタ自身だよ」とガロウは答えた。「オレのことは、本当はどうでもいいんだろ」
「そんなことないです」
「そんなことあんだよ。なあっ、もっとマトモな男と付き合ったらどうなんだよ?」
「ガロウさん以外のことなんて考えられません」
「は?」
「アヲイさんって人たちと組んだんですよね? 新しいバンド」
ガロウはチユキの顔を見る。
「だから?」
「どんなご関係なんですか?」
そう言ってチユキが見つめてくるのが、結局、母親と同じ目つきだ。
「アヲイともリョウとも、何もねえよバカが!」と、ガロウは答えた。
――くだらねえ。男の体で頭がいっぱいのお前といっしょにしてんじゃねえよ。
そしてドアを閉め、ガロウはチユキを追い出した。
「次も来たら警察呼ぶぞ。――アンタさ、今度はもっとちゃんとした男を選べよ。
――うぜえんだよ」
※※※※
アヲイはユーヒチを連れて池袋の小さなダーツバーに足を運んでいた。
「ここさ、遊べるしお酒も美味しい」
「えっと、俺、ダーツなんてやったことないんだけど――」
ユーヒチが困惑しているのが、なんだかアヲイには面白かった。
「じゃあ、今日は私が圧勝するぜ?」
戸を開けると、ボードの前は既に男たちで埋まっている。
ユーヒチは肩をすくめて、「最初は飲みながら、遊び場が空くのを待つしかないって感じなのか」
と訊く。
アヲイはまるでその言葉を聞かないようにして、いちばん奥のボード、男たちが試合をしている場所に踏み込んだ。
「貸して」
「――あ? なんだボウズ」
「ははは」
アヲイが笑って野球帽を脱ぐと、もう一人の男が「バカ! 女だ!」と言って最初の男を小突いた。
ユーヒチが呆然とする中、アヲイはテーブルの上の矢を一本摘んだ。
「15のダブル」
アヲイはぼそっと呟くと、ほとんどボードを見ないまま投げ捨てた。
そのとおりの場所に命中。
歓声が響いた。
ユーヒチがアヲイのそばに駆けつける間に、男たちはアヲイにドリンクを渡し、「もう一回やれよ! もう一回!」と盛り上がっている。
「ははは」
アヲイは渡されたモスコミュールを飲み干すと、
「ユーヒチ」
と呼んだ。
彼も矢を掴む(このとき、男たちから「何だよ、彼氏いんのかよ」という嘆きが聞こえてくるのを、耳には入れないことにした)。
「じゃあド真ん中だ」
ユーヒチはそう言って、矢を投げる。
――だが、それは、ボードでもどこでもない壁にぶつかって落ちてしまった。
「――難しいんだな、これ」
ユーヒチが苦笑いすると、隣でアヲイも男たちも大声で笑った。
※※※※ ――Appendix
三年前のことである。
松田一彦は、池袋の裏街ではヒコ姐と言われていた。クィアバーの経営と、レズビアン専門のキャスト派遣店の運営でその名を知られている。
そんな彼が、道端で酔い潰れている、男の子だか女の子だか分からないようなティーンエージャーを見かけた。
「ちょっとアンタ、大丈夫?」
スカジャンにTシャツとジーンズというラフな格好。自分のハサミで切りそろえたような雑に過ぎる短髪。
――それが十七歳のアヲイだった。
アヲイは誰かに殴られたのか転んだのか、体中に痣をつくっていて、口の端からは少量の血を流していた。
「もう――これヤバいじゃないの!」
ヒコ姐が手を貸すと、アヲイはそれを乱暴に払った。
「うるせえ。私に触んな」
「はあ!?」
「こんなの何ともないよ」
と言ってアヲイは立ち上がり、すぐにうずくまった。
「痛い、痛っ、あっ――」
「ほら、言わんこっちゃない!」
ヒコ姐は少しため息をついてから、アヲイを強引に自分の店に連れ込む。
店の中では、ウイスキーを飲みながらヒコ姐の帰りを待っていた女客と、この店を待ち合わせ場所にしているキャストが数名いた。
「ヒコちゃん!? その子、どうしたの?」
「奥の部屋で寝かしてやるから、手伝って」
客やキャストいっしょになり、彼は自分のベッドにアヲイを寝かせた。
客は「この子、女の子じゃね? なんで深夜のこんな場所にいんの?」とヒコ姐を見る。
「さあね」とヒコ姐は答えた。「おおかた、売春でヘマして胴元かポン引きに渇を入れられたんじゃないの。ああ、今は売春じゃなくてパパ活っていうんだっけ」
傷だらけのアヲイが客とヒコ姐を睨む。「誰が売女だこの野郎――。てめえらぶっ殺すぞ――」
ヒコ姐はそんなアヲイに平手を食らわす。
客が「ママ!」と慌てるのも意に介さず、ヒコ姐はアヲイの胸ぐらを掴む。
「アンタ、世界で自分がいちばん不幸だって思ってるんじゃないでしょうね。ふざけんなよ、クソガキが」
アヲイは口内の血反吐をペッと吐くと、「なんだよこのオカマ。まさか説教してくれんの?」と笑った。
ヒコ姐は、もう一度さらに力強く平手を食らわせる。
「――手当して、メシ食わせて元の体調に戻してやる。そしたら二度とこの街にツラ見せんな。アンタみたいな、自分で自分のこと可哀想がってるヤツがいちばん嫌いなの。分かった?」
そうしてベッドルームから去ろうとすると、
アヲイが声を上げて泣き喚くのが聞こえた。
「ごめん、みんな、ごめん。ああああ――!」
なに、この子。
まるで痩せ細った野良犬だ、とヒコ姐は思いながら、アヲイの前に冷凍チャーハンを出した。
「とりあえず、なんか食べないと」
「指図すんな」
「なんであんな場所で寝転がってたの。チンピラに拾われて乱暴でもされたらどうするつもりだったの」
「別にいいよ」
アヲイはスプーンを握った。
――生まれて初めて酒を飲んだら前後不覚になった、というのがアヲイの言い分だった。
「アルコールは自滅の道具じゃない」とヒコ姐は窘める。「そういう飲みかたは今回限りにしなさい」
「いいんだよ。もともと、脳ミソはイカれてんだから」
「――病気?」
「リョウにもモモコにも、ヱチカにも迷惑ばっかかけてる」
アヲイは炒飯を口に運んだ。
「――みんな、本当は私なんかいないほうがいいんだ」
「はいはい。そういう『悲劇的で劇的な〈私〉』みたいなのウザいからやめてね」
ヒコ姐は水を注ぐ。「自分で自分を抱きしめてあげられなくちゃ本当に惨めよ」
すると、アヲイはスプーンを止めて、
「ユーヒチが私を抱きしめてくれるなら、私は私の両腕なんかなくたっていい」
と言った。
「ユーヒチ? 誰なの」
ヒコ姐がアヲイを見ると、彼女も視線を返した。
「私、いま『ユーヒチ』なんか言った? 誰だよ」
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