第2話 物質的なソフトウェア


  ※※※※


 ライブ翌日の昼過ぎ。

 ユーヒチはシシスケの家で目を覚ました。家主はベッドで爆睡している。ベランダでは既に起きていたガロウがアメリカンスピリットの煙を吐いていた。三次会の名残で、酒の空き缶・空き瓶と灰皿が至るところに置かれている。

 ポケットのスマートフォンを取り出すと、連絡先を交換したヱチカから、メッセージが届いていた。

《昨日はありがとうございました! もしお姉ちゃんがご迷惑をおかけしていたら、本当にごめんなさい。私も眠っちゃいました。だめだめですね。もっといっぱいお喋りしたかったんですけど。こんど音楽のお話も、いっぱい聞かせて下さいねっ!》

 ユーヒチは画面をスクロールする。

《そういえば、いつでも取れる練習スタジオが少ないって話、してましたよね? 私、言ったかもしれないですけど、目白に無料で使えるお部屋を知ってます! お役に立てたら嬉しいです! 返信、待ってますね!》

 そこでヱチカからのメッセージは終わっていた。

 ユーヒチは次のように返信した。

《昨日はありがとう。アヲイさんのことなら、俺は気にしてない。ステージから見たとおりの、ちょっと独特な感じで楽しかったよ。

 スタジオが少ないってこと、覚えてくれてたの? ありがとう。今度、ぜひ下見に行かせてほしいかな。きっとシシスケもガロウも喜ぶよ》

 ユーヒチはスマートフォンをしまうと、ベランダに出てピースを咥えた。

「おはよ、ガロウ」

「! うぃっす!」

 ガロウはスっと煙を吸った。「ヱチカちゃんから連絡来てたのか?」

「ああ」

 ライターを取り出し、ユーヒチも火をつける。「もしかしたら、スタジオの問題なら解決するかもな」

「へえ」

「まあ、分かんないけどさ。今度会ってみるよ。厚意を無駄にするわけにはいかないしな」

「なあ、ユーヒチ」

 ガロウはゆっくりベランダの柵に骨ばった左腕を載せた。「アヲイからの連絡はどうなってんだ?」

「ああ」

 ユーヒチはズボンから、ルーズリーフの紙切れを取り出した。「結局これを渡されただけだよ」

 そこには、練馬区の住所――どうやらアパートの部屋らしい――が記されていた。


 昨日の明け方のことを、ユーヒチは思い出した。

 六人は朝まで飲み明かし、結局、始発の時間を過ぎてから解散になった。うとうとしているヱチカを連れてリョウとアヲイが駅に向かい、三人はシシスケの家に歩き始めた。

 だが――。

「待って!」

 移動を開始してから数分と立たず、アヲイが駆け足でユーヒチたちと合流した。

 ガロウが「どしたの? 忘れもん?」と訊くと、彼女は首をふるふると振った。

「ユーヒチに言いたいことがあって」

「俺に?」

「次のライブまで会えないと思ったら、なんか、すごくいやだったから」

 シシスケとガロウが気を利かせて先に行くと、アヲイはポケットから一枚の紙切れを取り出した。

「私も。連絡先」

 そこに、練馬区の住所と郵便番号が書かれていた。

 ユーヒチは受け取りつつ「メールとか、ツイッターとかやってないのか?」と訊いてみたが、アヲイの答えは「よく分からない」だった。

 ――リョウにも、心配だからやるなって言われてる。そういうの。

 アヲイの背中の向こうで、電車の走る音が聞こえた。そして、いよいよ昇り切った太陽が雲間から覗き、彼女の表情を照らした。

 ユーヒチはその顔の美しさを、懐かしいと感じた。だが、その日初めてまともに話したのに、なぜそう思ったのかは分からない。


 そんないきさつをガロウに説明しながら、ユーヒチはルーズリーフの文字を眺めていた。特徴的な書きかたで、全部の文字で最後の一画が右上に跳ねている。あまり女の子っぽい筆跡ではないのが、アヲイらしいと思った。

 ――アヲイらしい?

 俺がアヲイの何を知ってるっていうんだ?

 ユーヒチは紙切れをズボンにしまい、渋谷の住宅街、自分もタバコに火を付けた。

 ガロウは二本目に手を伸ばす。「葉書でも書くか、それとも直接家に行くのか?」

「会いに行こうと思う。それこそ今日」

「おいおい」

 ガロウはニヤっとする。「いつになく積極的じゃないですか、ユーヒチくん」

「確かめたいことがあるんだ」

「なんでもいいけどよ」

 とガロウは真顔に戻った。

「お前、美人の姉と妹に挟まれて三角関係、みたいなことにならねぇようにな」

 ――女のトラブルならオレの専売特許だろ、ユーヒチには似合わねえよ。とガロウは言った。


  ※※※※


 ユーヒチは身支度を整えてシシスケの家を出ると、いったん自分のアパートに戻り、実家の妹に通話アプリから電話をかけた。

「珍しいね。お兄ちゃんから話しかけてくるなんて」

「ごめんな、いきなり」

「こんど友達と新宿に遊びにいくんだけどさ、そこで会えたら会おうよ。で、なんか奢って」

「友達の人数によるけどな」

「要件は?」

 妹のシキに訊かれ、ユーヒチはスマートフォンを持ち直した。

「昔、俺に『アヲイ』って名前の知り合いがいたか?」

「――それって、まさかダズハントのアヲイのこと言ってる?」

「昨日ライブだったろ?

 そこで会って話した」

「え、めちゃくちゃ羨ましいんだが」

 そういえばシキもアヲイのファンだったな、とユーヒチが苦笑すると、違う、私はどっちかっていうとリョウ派だ、と言い返された。

「はあ」とシキがため息をつく。「試験勉強がなければ私も行きたかったよ。お兄ちゃんのライブ」

「留年せずに済みそうか?」

「ナメんな!」

「はは」

「――まあ、ともかく」

 ひととおりユーヒチの話を聞いたシキは要約した。お兄ちゃんはそこで、アヲイさんに、まるで昔の知り合いみたいなことを言われたわけだね。で、心当たりがないから可愛い妹にお電話してきたと?

「可愛いは余計だろ」

「がーん」

「嘘だよ。シキは可愛い」

「わーい。――マジレスすると、お兄ちゃんにアヲイって知人はいないはずだよ」

「やっぱり、そうだよな」

「正確には、アヲイって名前の知り合いってだけなら何人もいるかもしれないよ。でも、お兄ちゃんと付き合いが深くて、しかも将来ダズハントのアヲイになるような女の子って話になると、そんなのいなかったってことは自分でも分かってるでしょ?」

「シキの言うとおりだな」

 ユーヒチは眉間を親指で撫でた。

「やっぱり、本人に直接会ってみるしかないか」

「え?」

「住所を渡されたよ。他の連絡先がないらしい。電話番号がないっていうのは考えにくいし、メールだって大学から配布されてると思うんだけどな」

「――お兄ちゃん?」

 シキの声色が、少しだけ低くなった。

「アヲイさんの言葉だけど、あんまり本気にしないほうがいいかもね」

「ん?」

「『昔どこかで会いませんでした?』なんて、ぶっちゃけ、ナンパでよくある口上にも思えてきたよ」

「――いや、あれはそういう風でもなかった」

「ともかくね」とシキは語気を強める。「なんか心配だよ。それだけ」

「――わかった」

「お兄ちゃんね、自覚ないかもしれないけど、けっこうモテるんだから。預かったラブレターの数も思い出せないくらいだよ?」

「アヲイに関しては、それはないよ」とユーヒチは答えた。「もうすぐレコード会社と契約してデビューするかもしれないし、もともと住む世界が違うだろ?」

「う~ん」

 お兄ちゃんのそういうところが心配なんだよ、妙に自己評価が低いというかさあ、とシキがぶつぶつ言っているのを、とりあえずユーヒチは聞かないことにした。

「サンキュ。あとは自分でなんとかしてみる」

「ま、了解。煙草はほどほどにね。あとお酒」

「善処する」

「ねえ、お兄ちゃん」

「――ん?」

「個人的には、だけど、もしもお兄ちゃんを好きっていう子が本当にいるなら、私は別にいいと思うよ。だってさ――」


 ――そろそろ、お兄ちゃんもナクスさんのことを忘れていい頃だと思うし。


 そんな妹の言葉を聞く前に、ユーヒチは耳からスマートフォンを離し、指を動かして通話を切った。

 奈楠。

 奈楠。

 ユーヒチは服の上から心臓を押さえ、暴走しそうになる呼吸を落ち着かせた。

 真夏の交差点。

 大量の血溜り。

 いくつもの針を刺された細い腕。

 戻らない意識。

 脳死の同意書にサインした、クソッタレの母親。

 刻まれる肉体。

 ――ナクスは高校二年の夏に死んでからも、ずっと、ユーヒチの心の底を支配していた。

 なあ、ナクス。

 お前がいない世界で、今日も俺は生きてるよ。でも、どうしたらいい?

 ――ユーヒチが正常な思考を取り戻すまでに、おおよそ六分かかった。


  ※※※※


 有楽町線の氷川台駅を出て徒歩十分、そこにアヲイのアパートはある。人気はなかった。近所で工事でもしているのだろうか、コンクリートをドリルが砕くような音が立て続けに響いている。

 アヲイの部屋は104号室である。郵便受けには広告のチラシや封筒が大量に放置されていた。

 ユーヒチは玄関のチャイムを鳴らした。

 だが、しばらく待っても、誰も出ない。

 ドアノブに触れてみると、鍵がかかっていないことに気づく。チェーンすら降りていなかった。

「――いや、不用心すぎるんじゃないか?」

 自分の行動の大胆さを冷静に自覚しながら、ユーヒチはドアを開け、靴を脱いだ。

 アヲイの部屋は、女の子のひとり暮らしの部屋とはとても思えないほど――それは、ユーヒチが考える女の子という意味でだが――殺風景なものだった。

 簡素なパイプベッドが一台。電子レンジと電気ポットと小さな冷蔵庫。大量のゴミ袋。閉じっぱなしのカーテン近くの突っ張り棒に架けられた、洋服と下着。

 木製の本棚には、大学関係の書類と哲学系の書籍・雑誌が積まれている。

 ユーヒチはその一冊を手に取り――フランス人の本である――パラパラとページをめくった。そこにはこう書かれていた。

「もはや神秘的なものは存在しない。それは、問題が存在しないからではなく、もはや理由が存在しないからである」

 どういう意味だ? とユーヒチが考え込んでいると、背後から、

「ああ、ユーヒチ来てたんだ?」

 という、アヲイの声が聞こえた。

 振り返ると、

 アヲイは濡れたバスタオルで短い頭髪を拭きながら、素っ裸でそこに立っていた。

「は?」

「ごめん。工事の音で気付かなかった。ここは毎日そうなんだ」

 そのおかげで、ここ、家賃がメチャクチャ安いんだけどさ――というアヲイの無邪気な言葉を聞きながら、ユーヒチはいったん本を閉じると目をつぶり、パイプベッドに座った。

「とりあえず、何か服を着てくれよ」

「え?」

「あと、勝手に部屋に入ってすまん」

「はは」

 アヲイは、別にそんなの、ユーヒチならいいのに、と笑った。

 突っ張り棒に架けられた下着と洋服を手に取り、彼女が身に着けている間、ユーヒチは、自分の軽率な行動を後悔していた。

 俺はいったい、こんなところで何をやってるんだ。

「もう、目を開けていいよ?」とアヲイは言った。「ひゅーひゅー、紳士じゃ~ん?」

 ユーヒチは視界を開き、眼前のアヲイを見つめた。

「なあ、アヲイ」

「ん?」

「俺はいったい、いつどこで、アヲイに会った?」

 アヲイは既に、ぼだぼだのシャツとジーンズを身に纏った、いつもの姿になっていた。

「――私、けっこう飲み会で喋りすぎてた感じ?」

「だいぶ酔ってたみたいだな」

 ユーヒチが笑うと、アヲイもつられて少し笑った。

「やべえ」

「やべえって、お前なあ――」

 レコード会社から既に声をかけられている、しかも、既に都内のアマチュアで知らない奴はいない、そんなギターボーカルの無防備さに、ユーヒチは感情を掻き回されていた。

「ユーヒチと私は、この世界で会ったわけじゃないよ」とアヲイは微笑みながら言った。

「え?」

「ユーヒチは、私のウソ記憶の中で、ずーっと会ってたんだよ」


 ユーヒチは少し目線を泳がせたあと、再び、本棚にある大学関連の書類に目をやった。それはW大学の講義目録だった。

「アヲイも、W大生なのか」

「『も』って、どうして?」

「いや、俺もそうだからさ」

「えっ」

「哲学、ってことは文学部だよな。キャンパスが違うから今まで会わなかったんだ」

「ええっ、同じ大学だったの!?」

 アヲイが前のめりに詰め寄ってきた。まだ濡れている髪の先から雫が落ちて、ユーヒチのズボンを濡らしていった。

 アヲイは、じっとユーヒチの目を見る。「ユーヒチはどこ学部?」

「政治経済だよ。経済学科」

「へー。ユーヒチっぽいね」

「何だよ、俺っぽいって?」

「何となくね」とアヲイが笑顔になり、鋭い犬歯が唇の中から覗いた。「ユーヒチは、現実的な話が好きだから」

「それも、アヲイのウソの記憶の中で?」

「そだね」

「――アヲイの、その、ウソの記憶ってやつの中で俺はどういう人間だったのか知りたい。だから、今、こうしてここにいる」

「へえ――」

 アヲイは床にぺたんと座った。ベッドに腰かけて両足を開くユーヒチの、太ももと太ももの間で悪戯な笑みを浮かべる。

「私は」とアヲイは言った。「父さんと母さんが事故で死んだあと、キリスト教系の児童養護施設に預けられたんだ。そこで同い年のユーヒチと友達になったの、最初は」


 アヲイが話してくれた記憶とは、おおよそ以下のようなものである。

 ――アヲイとユーヒチは児童養護施設にて、どちらも問題児だった。アヲイは癇癪を起こしてすぐ暴れるし、ユーヒチも施設の行儀を欝々しくボイコットしていた。そんな二人は、少しずつお互いのことを仲間と思うようになっていった。

 遠足の日、アヲイは、皆から外れて遊園地をさまよってみた。どこかで、本当は生きている両親が自分を見つけてくれると思ったからだ。

 遊園地のアナウンスは、「迷子のお知らせです。十歳前後の女の子。センターでお預かりしています。お気づき次第、お迎え頂けますようお願いいたします」と呼びかけている。

 ――私も迷子だよ。父さん、母さん。迷ってる。早く見つけにきて。

 そしてアヲイは遊園地のセントラルエリアで、メリーゴーランド前に立ち止まっていた。くるくると回る木馬に跨った健康な子供たちが、柵の外にいる家族たちに写真を取られていた。

 ループ。

 アヲイは泣き出しそうになるのを必死にこらえていた。

 そこに迎えに来たのは、アヲイの死んだ両親ではなく、生きたユーヒチだった。

「何やってんだ! アヲイ!」

「? ユーヒチ?」

「お前バカだなあ。簡単にはぐれて。俺いなかったらどうするつもりだったんだ」

「ごめん」

「さっさと帰ろうぜ?」

 ユーヒチはアヲイの手を取ったが、アヲイはその場を動けなかった。

「アヲイ?」

「怖いんだ」と彼女は言った。「ここでくるくるしてる子たちって、みんな、父さんと母さんに見守ってもらってるの。私は違う。じゃあ、結局、どうすればいいんだよ?」

「――」

「どこでもいい、ここにいていいよって、誰かに言われたいだけなのに」

 両眼からボロボロと涙が出てくるのを、アヲイは止められなかった。


 ユーヒチはその手を引っ張り、両肩を抱きしめた。親子連れが、心配めいた冷たい顔を浮かべながら通り過ぎていった。

 ――俺がここにいていいよって言うから、泣くなよ。と彼は言った。

 嬉しい、と当時のアヲイは思った。そしてこれは全て存在しない記憶だった。


  ※※※※


 玄関のチャイムが鳴った。

 ユーヒチの意識は、現実に引き戻された。

 ――アヲイが話したのは、壮大な法螺話に聞こえた。その物語では、二人は同じ養護施設で幼少期を過ごし、幼い結婚の約束をすると、やがて離ればなれになった。

「だから」とアヲイは言う。「やっと会えたと思った」

 身に覚えのない絆と、交わした記憶のない約束で、目の前の女が涙ぐんでいるのを、ユーヒチは冷静に眺めていた。

 自分が動揺していないことを、少しだけ不思議に思った。ただ、彼女は泣いている姿も綺麗なのだと、不謹慎にそう感じた。

「俺は」とユーヒチは言った。「アヲイが嘘をついているようには見えない」

「うん」

「でも、どうやって受け止めたらいいのか――」

「待ってて」とアヲイが話題を変える。「誰か来たみたいだから、行ってくる」

「え、ああ」

 アヲイの身長はユーヒチよりも15cmほど低い。今までは、ステージに立つ姿を見上げてばかりだった。彼女が案外ごく普通の女の子の背丈であることに、まだ慣れない、という気持ちがユーヒチの胸に残った。

 アヲイが「ほーい」とドアを開けると、

 外にリョウが立っていた。

 リョウは入り口にあるユーヒチのスニーカーを見て、そして部屋の中にいる彼を睨むと、

「なんでコイツがここにいるの?」と言った。

「俺は――」

「は? あなたじゃなくて、私はアヲイに訊いてるんだけど?」

「あ、いや」

「まったく」

 リョウはため息をつき、直後、汚らしい虫ケラを見るような目つきをユーヒチに投げてから、アヲイに顔を戻した。

「アヲイが呼んだの?」

「そうだよ」

「どんな話をしたかは詮索したくないけど、それ、電話とかメールがダメな理由があった?」

「え?」

 リョウの質問に、アヲイがとぼけた声を出した。

「だってリョウが、男の人に簡単にメアドとかアプリのアカウントを教えるな、って言ったじゃん? 住所しか教えるものがなくって、私」

「はあっ?」

 リョウが驚くと同時に、ユーヒチも「は?」と声に出して言ってしまう。

 なんだその理由。

 ユーヒチは改めて部屋を見回した。PCもスマホもそこにあった。

「…………」

 リョウはしばらく呆然としたあと首を振り、まあいいや、その話はまたあとでね、と切り替えた。

 その対応には、手慣れている感じがあった。

「じゃあ、その男にはご退席してもらって、ちょっと二人で話せる? 大事な要件があるんだけど。事前の連絡はしたつもり」

 そう言って、リョウは再びユーヒチに目を向けた。

《さっさと出ていけ》と顔に書かれている。

 充電ケーブルに繋がれたアヲイのスマホには、たぶん、その連絡とやらが正しく送られているのだろうとユーヒチは思った。

 アヲイが全く気づかなかったってだけで――。

 ユーヒチは「分かった、俺のほうは日を改める」と言うつもりだったが、

「やだ」

 というアヲイの声に、全ての動きが止まった。

「リョウの話は聞く。でも、ユーヒチはせっかく来てくれたんだから、もうちょっと一緒にいたいな。ユーヒチにも聞いてもらうのってダメなの? 三人でさ」

 リョウの表情に、はっきりとした苛立ちが浮かぶ。「それはだめ。アヲイ、何考えてんの?」

「え」

「そいつには帰ってもらって」

「やだ」

 アヲイは頑固な顔で言うと、リョウの手を引いて戸を閉めた。

「ユーヒチといっしょにいる」

「――――」

「…………」

 そうしてリョウの目をじっと見つめたあと、アヲイが静かに、

「サエとジュンがバンド辞めたんだ?」

 と、リョウが話そうとしていることを言い当てた。

 ――え。

 リョウの顔を見ると、それはどうやら図星らしい。とユーヒチは判断できた。

 ――どうして分かった?

 戸惑う暇もなく、リョウは頷いた。

「アヲイのその体質、ほんと苦手だ」


  ※※※※


 脱退を言い出したのはサエだった。

 その一方的な宣言は、昨日のライブを終えてユーヒチたちとの飲み会も終わった直後の早朝、リョウのスマートフォンに届いていた。

 そこでは大学三年生のサエとジュンが、就職活動に専念するためにバンドをやめる旨がぶっきらぼうに記されていた。

 リョウとサエの言い合いは続いた。

《サエ先輩、四人で続けるならバンドを休止する道もあります。どうしてそんなこといきなり言い出すんですか?》

《別にいいでしょ。それに前もって言ってたら、リョウちゃんってば、絶対に今回のライブをアタシたちの卒業ライブ扱いみたいにしてたじゃん?》

 そういうのがウザいから言いたくなかったんだよ――とサエは書いていた。

《そんな》とリョウは送信する。《バンドを立ち上げたのはサエ先輩じゃないですか。先輩がいないならこのバンドは続けられないですよ》

《でも今はもうこのバンド、アヲイ様々のものになってるっしょ?w》

 サエの言葉は冷ややかだった。

《リョウ。あんたが連れてきたアヲイ様が天才様でみんなも大好きっていうなら、それはそれでいいんだよ。だからもうアタシらを巻き込まないでよね。ウザいんだよ全部さあ》

 リョウはその言葉に返信を書けなかった。サエの、アヲイ人気に対する嫉妬の根深さに気づけなかった自分を呪った。

 

 ――ダズハントというバンドは、最初は高校の軽音楽部で始まった四人組のガールズバンドだった。

 ボーカルのサエとドラムのジュンとベースのミドリ、そしてギターのカナコが立ち上げた、オンナノコとしてのありふれた主張を歌い上げるつまらないパンクバンドで、入部したリョウもとくに注目していなかった。

 やがてベースのミドリが彼氏をつくって脱退する。

 彼氏に「音楽活動と俺のどっちが大事なんだよ?」と詰められてアッサリやめたミドリを、サエもジュンも苦々しく思っていた。

 こうしてベースとキーボードを弾けるリョウが代わりに入り、ついでにリョウに作詞作曲の能力があるということが注目を集めるようになった。

 さらに、ギターのカナコがライブ直前にナンパ男に抱かれて流されるまま脱退すると、ダズハントはいよいよ窮地に陥った。

 リョウは仕方なしに、幼馴染のアヲイを代わりとして勧誘した。

「この子だったら、私の曲を一日で弾けるようになります」とリョウは言った。

 連れてこられた、まるで性分化以前の、美少年のような雰囲気があるアヲイの顔色を見ながら、サエは鼻で笑った。

「まあいいけど、この子、音楽の経験はあるの?」

「先輩」

 リョウは肩をすくめた。「アヲイには『経験』なんて言葉は何の意味もないですよ。やらせてみれば分かります」

 アヲイはその日、初めてギターを触る。FujigenのNeo Classic NTL10MAHだ。

 そうして、結局、その日のうちに何もかも弾けるようになっていた。

「は?」とサエは声を上げた。「嘘っしょ。どこかで練習してたんでしょ!?」

「え?」

 アヲイは戸惑いながら、自分のこめかみを叩いた。「覚えてない。でも、いっぱい弾いてきた気がする」と天井を見上げた。


 その日から、ダズハントというバンドは一変した。注目されるのはボーカルのサエではなく、脇で傍若無人にギターを振り回すアヲイになっていた。下世話な話だが、アヲイの顔の良さに、サエの容姿は全く敵わなかった。

 ――アヲイを正式なメンバーとして引き入れる頃には、バンド名も正式にダズハントとなる。

 リョウがやがてアヲイボーカル用の曲を多産し、彼女をグループの中心に押し上げていったのは、無意識かクリエイターとしての純な欲望なのか、分からない。

 ただ、結果として、ガールズパワーを力強く謳う第一期ダズハントよりも、アヲイの無気力な歌声はアマチュア音楽ファンに映えるものだった。

 女の子の精神的な自立や、現代日本社会の男性中心主義に対してヤンチャな反発を歌うという当初のコンセプトはとっくの昔に失われた。

 アヲイはただ虚空を見つめながら、ぼそぼそと、この世界のどこでも叶わない愛について、祈りのように歌ってはギターをかき鳴らした。

 リョウの歌詞で、である。

 そうして決定打が起きた。

 ――サエの彼氏がアヲイに惚れてしまった。それは、芸術上の略奪愛だった。


  ※※※※


《リョウ、あんただってアヲイを使ってアタシのバンド上手く乗っ取れて、裏では笑ってたんでしょ? 良かったじゃん》

《先輩だって、アヲイをメインにすることには賛成だったじゃないですか。予想どおり運よく彼女も名が売れてきたんですよ。今がチャンスなんです》

 リョウはそんな風に書きながら、自分の言葉があまりにも空しいものだと分かった。

 ――サエ先輩は頭では納得しながら、ずっと腹の底でムカついていたのだ。アヲイが中心であることに。

 自分自身でも自分の言葉でもなく、アヲイの姿に皆が注目しているという事実に。

 ライブハウスにいる男たち、あるいは少女たちの熱っぽい眼差しに。

 そしてサエから次のメッセージが届いた、直後、アカウントごとブロックされた。

《リョウ、あんたはアヲイを守るふりしながらアヲイを利用してるだけだよ。でも、次に切り捨てられるのがあんたじゃない保証なんてどこにもないでしょ》


 リョウが話し終えると、アヲイは黙ってハイライトに口をつけた。

 ユーヒチがライターを差し伸べると、んっ、と首を伸ばして火を灯す。そして、フッと声を漏らし、

「こてんぱんに言われてんじゃん、リョウ」

「ん」

「辛かったね」

 テーブル向かいに座るリョウの頭を優しくくしゃくしゃと撫でた。

 リョウは顎を引いて、何度かまばたきした。たぶん、涙が出てくるのを我慢したのだろう、とユーヒチには思えた。

「――それで」とリョウは仕切り直した。「問題は、次のライブまでの人員が足りないことなの。メンバー募集ならSNSにも掲示板にも流すつもりだけど、来てくれるかは分からない。やばいよ」

「大ピンチじゃん」とアヲイは煙を吐いた。

「ユーヒチはどうすればいいと思う?」

 話題を振られたユーヒチは、直後にリョウの鋭い視線を浴びた。彼はベッドを降り、同じテーブルについて煙草を取り出す。

「まず、リョウのメンバー募集については、たぶん誰も集まらないと俺は思う」

「は?」

「さっき調べたけど、先手を打たれてるよ」

 そう言ってスマートフォンの画面を見せた。都内のロックバンドがメンバー募集に使う、SNSや掲示板の類が表示されている。

 そこでは、アヲイに関する誹謗中傷とデマが大量に流されていた。

 アヲイとリョウの表情が凍った。

「ごめん」とユーヒチが言った。

「このデマを信じるヤツは、そんなにいないと思う。唐突すぎるし、不自然だから。でも、このバンドでトラブルが起きたってことだけは伝わる。そんなところで自分の楽器を弾くヤツはいないよ」

 だから、もうダズハントに新メンバーは来ないだろう、とユーヒチは答えた。

 リョウは目を見開いて端末を奪う。

「なに――これ――」


 ――アヲイは顔だけでろくに音程も取れない、ギターも我流で話にならないという音楽面の悪口。アヲイはハウスのオーナーや芸能関係者に媚びて、ほとんど股を開いて都合のいいポジションを獲得している、という性的なデマ。ファンにも強引に貢がせて女王様気取りである、という金銭上のウソが並んでいた。


「こんなの」とリョウは言った。顔は真っ青になっている。「こんなの、アヲイは見ちゃだめだ」

 アヲイはユーヒチを見た。「要約して?」

「デタラメをどこかの誰かが書きまくってるって感じだな」とユーヒチは返答した。「このタイミングを考えれば、犯人は、そのサエさんか周辺人物しかいない」

「へえ」とアヲイの顔が暗くなった。

「あいつ、ナメやがって……」

「アヲイ!」とリョウは諫める。「証拠は何もないんだよ。この件は私がなんとかするから、アヲイは事が収まるまでは大人しくしててほしい。もともと私のせいみたいなものなんだから」

「あ?」

 アヲイは火を消した。「証拠?」

「あ、いや――」

「証拠がないとやり返しちゃいけないのか? リョウはいつから警察になったんだ」

「違う、アヲイ」

「ふざけんなよ。ゴチャゴチャ下らねえこと書かれて何で我慢しなきゃいけないの。サエの住所、リョウは知ってるでしょ? 教えてよ」

「アヲイ、――」

「ブッ飛ばしてやる」


 両者の会話がヒートアップしたのを見計らって、ユーヒチは咳払いをした。

「二人とも、ちょっといいか」

 そう言うと、アヲイの熱がスッと引いた。

 彼女の激情的な性格を初めて目の当たりにしたユーヒチは、しかし、自分が驚いていないことに驚いていた。まるでどこかで既に知っていたかのようだった。

「誹謗中傷を書き込んだ奴らについては、ちゃんと専門家に任せるのがいちばんだと思う。こういうのは当事者同士でやると拗れるし、場合によっては相手の思うツボじゃないか。個人的な知り合いで、シシスケの家族が法律関係に明るいから、まずはその辺りを頼ってみたい。――アヲイもそれでいいか?」

「え――」

 アヲイは、ポカンとした顔のまま頷いた。

「あと、アヲイ」とユーヒチは続ける。

「何?」

「後先考えずに怒りすぎるなよ。それでムカつきが収まったって、妹のヱチカや家族はどうなる。悪い奴をブン殴ってスッキリしたら終わりか? そんなんじゃネットに悪口を書いた奴らの狙いどおりだろ」

 我ながら、これは綺麗事めいているなとユーヒチは思った。

 だが、

「ごめん。ユーヒチがやるなって言うなら、しないよ」

 とアヲイはしおらしく答えた。

「ああ、いや、なんていうか――」と、ユーヒチは話を続けた。「アヲイが辛い気持ちだったり、哀しい気持ちだったりするのは、分かるつもりだけど」

「ん」

「でも――」とユーヒチはアヲイを見る。「辛かったり哀しかったりするのは、俺たち周りの人間にも背負わせてほしい。――キレちゃう前に、だけど」

「ん」

 アヲイはユーヒチを見た。

「なんか、ごめん。すげえ頭に血が上ってたみたい」

「おう」

 ユーヒチは笑顔をつくり、自分の火も消した。

 リョウが「で?」と声を出した。

「結局ダズハントは、もうアヲイと私しかいない。それは変わらないんじゃないの?」

「ああ――それなんだけど」

 ユーヒチは少しだけ悩み、結局、腹をくくって言うことにした。


「俺たちのバンドと組まないか? 少なくとも一回だけそれでピンチを回避できる。どうだろう?」


  ※※※※


 同時刻。

 ガロウはN女子大最寄りの駅前、アルコールの飲める喫茶店に座っていた。

 目の前には、黒髪を行儀よく伸ばした、背丈の低い童顔の女が座っている。ファンを名乗るこの女に呼び出されて足を運んだはずだったが、どうやら、なにかの罠にハメられたということが彼女の表情から伺えた。

 ――オレとヤりたいわけじゃねえんだな、この女。

 ガロウはそう理解し、ウェイトレスが運んできたビールに口をつけた。

 面倒くせえことになったな。

「山本ガロウさんですよね」

 と女は言った。

「私、三島モモコって言います。騙すような真似をしてごめんなさい。でも、こうするしか方法がないので」

「そんなにオレに会いたかった?」

 ガロウが笑いかけても、モモコという女は真顔のままだった。

 ――何なんだよ。

「あの、ガロウさん。いつもこうやって女の子と会って遊んでるんですか」

「あ?」

「遊ばれた女の子たちの気持ち、ちょっとでも考えたことがありますか?」

 モモコが質問してきた。

「そりゃ、まあ、あるよ」とガロウは答えた。「ふたりで気持ちよく楽しい思いができたら最高だろ。いつだってウィンウィン。女の子を何よりも尊重するフェミニストって思ってくれよ?」

 彼が言葉を重ねるたび、目の前のモモコは歯を食いしばって怒りに耐えていることが分かった。

 ――なんだ、こいつ?

 ガロウはずっと、居心地が悪い。

「そうでしょうか?」とモモコは言った。「あなたの恋人になれるって信じながら、結果として弄ばれた女の子だってたくさんいると思います」

 セックスフレンドなんて上っ面の架空の概念です、そんなの、片方の恋心を利用して性的な快楽を得てるだけですよ、とモモコは言った。

「へえ」と、ガロウは目を泳がせた。

「仮にそうだとして、じゃ、何なんだよ。アンタには関係ないんじゃない? 別にオレが女の子の恋愛感情を利用するクソ野郎だとしても、まだアンタを食い物にしちゃいないんだからな」

 そして、テーブルに灰皿がないことに気づいてウェイトレスを呼んだ。

「関係は」とモモコは言った。「ありますよ」

「あん?」

「一週間前にあなたが連絡を絶ったという、チユキさんって女の子を覚えてますか?」

 モモコが彼女の名前を出すと、ガロウとしては黙るしかなかった。

「チユキさんはずっとあなたの恋人になりたかったんです。彼女に言いたいことは?」

「ない」

 ガロウは答えた。


 そして、チユキの言葉を思い出していた。「どうして私は、ガロウくんの彼女になれないの?」

「彼氏とか彼女とか下らねえよ、バカみてえだろ」とガロウは答えた。「お前さあ、何でそんなつまらないことに拘ってんだよ。だって、オレが彼女つくる気がないっていうのは先に言ってたろ?」

 チユキはS女子大の女で、ライブ後の出待ちで拾った下らない女の一人だった。

「ガロウさんのギター、感動しました!」

「ああそう」

「私、ガロウさんの彼女になりたいです」

 はいはい、全部テンプレだな、とガロウは思った。

 その日のうちにノリに負けてアパートに踏み込まれてしまって、しょうがないから勢いに任せて抱いてみた。

 まあ、良い体だった。どこにでもある女の体だ。

 事後、彼女はうるうるとした目でガロウを見た。「私、ガロウさんに会うために生まれてきたんですね?」

 ――やめろ。アホみてえだ。

 ガロウは返事をしなかった。

 それから呼び出すつもりはなかった。ナンパで拾った女だって、出待ちの女だって、どうせ長続きしない。その後腐れのなさが良かった。

 なのに、チユキは何度もガロウとコンタクトを取って、うんざりしている彼のチンコを口かマンコかのどっちかで咥えてきた。

「つらいだろ、もうやめようぜ?」とガロウが訊くと、チユキはいつも細い首を横に振る。

「ガロウさんのこと、好きだから、つらくはないです」

 彼女は答えた。

 その言い草が、余計にガロウの癇に障った。特に、チユキがときどき怯えるような、媚びるような目つきで自分のことを見てくるのがガロウには嫌だった。

 ――どうして、女って生き物は、どいつもこいつもオレの母親と同じような目つきをするんだ?

 そうガロウは思った。


 モモコはコーヒーを飲み干した。

「チユキちゃんに話は全て聞きましたからね。まず、彼女に謝ってください。ガロウさんは酷いです。変な期待をさせて、結局は性的に弄んだだけでした!」

「あん?」

「それから!」とモモコは声を張り上げた。たぶん、目の前の男に怖がらないように耐えているのだ。

「もう二度とこんな不真面目な遊びはしないって、約束してください!」

「なんだそりゃ」

 ガロウはバカバカしくなり、話を聞く気も失せていた。

 ――このモモコは、チユキの友人で、そのチユキがオレに遊ばれたことが気に入らないだけなんだ。ハァッ。バカみてえだな。じゃ、お前がちゃんと見張ってろよ。

「なあ、モモコちゃんさ」

「なっ、なんですか!?」

「こんなの何の意味もないって分かんない?」

「は?」

「オレがここで反省したって、全部ウソだったらどうすんだよ。今この場で頭下げてみせたところで、明日から同じように遊ぶんだってこと分からないか?」

 そう言って、アメスピに火を点けた。

 じっとモモコの目を見ると、モモコは少し虚を突かれたような顔をしていた。

 さっきまで目の前のガロウを怖がっていた雰囲気が、綺麗に消え去っていた。

「ガロウさんは――」とモモコは言った。「もしも嘘をついてこの場をやり過ごしたいだけなら、わざわざそんなこと私に訊く必要なかったですよね?」

「何が言いたいんだ」

「ガロウさんは酷い男の人だけど、卑劣な嘘つきじゃないってことです」

 そっか、そっか、とモモコは勝手に納得するように頷いていた。

 何なんだこの女。

「――オレは卑劣な嘘つきだよ?」

「違います」

「はあっ?」

「目を見れば分かりますよ。人が嘘をつくかどうかくらい」

 モモコは真っすぐな目でガロウを見ていた。

 ――母親と同じ目つきをしない女を、このとき、ガロウは初めて知った。

「モモコちゃん」

「なんですか?」

「やめといたほうがいいぜ」とガロウは言った。「そういうお人好しっていうかさ、妙な正義感でモモコちゃんはイヤな思いをするだろ、絶対」

「え、え――?」

「ムカつくんだよ、そういうの」とガロウは顔をしかめ、煙を吐いた。

「オレを更生でもさせたいのか? バカじゃねえの」

「なにが」

「それでチユキにも謝らせたいんだろ? すげえなあ。そんな奴、初めてだよ。じゃあ連絡先交換しようぜ。それでオレのこと見張ってみろよ」

 ガロウは、このとき本音で感心している自分自身に気づいていた。

「分かりました」とモモコは言って、スマートフォンをバッグから取り出した。

 ツンとした、清潔な表情だと思った。

 ――なんで、こんな奴に振り回されなくちゃいけないんだ?

 ガロウはそう感じた。


 そのとき、ユーヒチから連絡が入った。

「ちょっと失礼」

 ガロウはそう言って、アプリに届いたメッセージを見た。

《事後承諾でごめんな。簡潔に言う。

 アヲイのバンドが崩壊した。元メンバーがネットを荒らしていて、追加人員もできない状況だ。このままだとアヲイは潰される。

 ――俺たちと組まないか、と提案した。

 シシスケ、ガロウ。俺に乗ってくれるなら返信してくれ。

 乗ってくれなくても仕方がないと思う、そのときは俺ひとりで何とかする》

 ――と、ユーヒチは書いていた。

「ああああ!?」

 ガロウが大声を出して立ち上がると、モモコは、びくっと肩を震わせた。

「な、なんですか!? いきなり!」

「やべえよ、やべえ!」

 ガロウは無邪気な夏の子供たちのように笑った。

「ダズハントのアヲイとオレら、合流だぜ! すげえ! ユーヒチてめえバカ! 最高だこの野郎!」

 ガロウが浮かれているところ、モモコはモモコで、彼の言葉に驚いていた。

「アヲイ――アヲイ先輩のことですか?」

「なんだよ、あのアヲイと知り合いか?」

「知り合いなんてものじゃないですよ!」

 ――アヲイ先輩と、リョウ先輩と、ヱチカちゃんと私、ずっとずっと小学校の頃から仲良しだった、幼馴染なんですから!

 そうモモコは言った。


  ※※※※


「なるほど、おおかたの事情は把握した」

 シシスケはオンライン会議で、アヲイとリョウ、そしてユーヒチの提案を聞き終えた。

「ダズハントを助けることができるなら、協力する。こちらとしても損はないしな。ガロウもそれでいいか」

「当たり前だろ。歓迎」

 ガロウの返事がヘッドホンに響いた。

「アヲイはこんなとこで潰されていいギタリストじゃねえ。そんくらいオレだって分かる」

「了解」

 シシスケは頷く。

「ユーヒチ、お前の提案に乗ろう。細かい編成については全員で顔を突き合わせて話し合いたい。アヲイとリョウの意見もそこで詳しく聞くことにするが」

「おう、ありがとうな」

 ユーヒチが顔を綻ばせた瞬間、

「ちょっといい?」と、同席していたリョウが画面の端から現れた。

「これって、いっときだけの共闘? それとも、本当にこれからずっと同じバンドでやっていく感じ? それについてだけ、早いうちに認識を合わせておきたいんだけど」

「リョウはどっちがいい?」

「悪いけど」とリョウは目をそらした。「今回はあくまで応急処置をお願いしてる。もともと私らと、シシスケさんのバンドはやりたいことも違うと思うし。そこが噛み合ってないのに長い間いっしょはできない。違いますか?」

「シシスケでいい」

「じゃ、シシスケ」

「リョウの疑問はもっともだな」と、シシスケは眼鏡を持ち上げた。

「ユーヒチ、お前そのあたりは何も考えてないな?」

「ごめんな、勢いだ」

「まったく」

 シシスケはテーブルのジンジャーエールを開けた。「本命のアヲイがどう思ってるか知りたいところだな」

「私?」

 アヲイが、ぐっと顔を寄せた。

「ああ」とシシスケは言葉を繋ぐ。「あけすけに言っちまうが、要は、合併後のダズハントを引っ張るのも結局アヲイになる。だから、アヲイの意見がいちばん大事なんだよ」

「ん~」

 アヲイは顔をしかめる。そんな幼い仕草を見ていると、とても都内で名の売れたアマチュアのロックンローラーには思えなかった。

 アヲイはユーヒチのほうを見て、小声でひっそり「どうしよう」と言っている。

 それがPCカメラ越しのシシスケにも分かった。

 ――ユーヒチの野郎は、とんでもない暴れ馬に惚れられてるみたいだな。そうシシスケは思った。

 ユーヒチは「アヲイが思ってること、素直に言ってくれればいいよ」と答えた。

「素直に?」

「あとは皆でなんとかするから、どうしたいのかだけ言ってほしい」

「――うん」

 アヲイが納得してカメラに向き直るとき、隣にいるリョウが苦虫を噛み潰したような表情でいることを、シシスケだけが気づく。

 アヲイは言った。「音を聴けば分かるよ」

「ん?」

「だからさ、みんなの音」

 みんなで音を合わせれば、ずっとやっていけるか、そうじゃないか、分かる。

 そうアヲイは答えた。

 ガロウは口笛を吹く。「至言じゃねえかよ。そりゃそうだ、やってみなくちゃ分かんねえしな」

 アヲイはその言葉に、深く頷いた。

「それとは別にして、――私はユーヒチたちとはずっといっしょにいたいな」

「ん?」

「なんか同じステージって、良いじゃん?」

 アヲイは笑った。


 シシスケはジンジャーエールに口をつけた。「まずはスタジオの予約を入れるところから始めるか」

「それなんだけど」とユーヒチは手を挙げる。「空きの部屋を無料で提供してくれる子がいる。これはガロウには言ったんだけど」

 初耳だな、と思っていると、ガロウも「ヱチカちゃんだろ? 渡りに船って奴だな」と同意していた。

 そのとき、

「ヱチカちゃん!?」という女の子の大声が耳にうるさく響いた。

「誰だ?」

「あ、すみません!」と、小柄の女がガロウの隣から顔を出した。「ずっと黙ってようと思って見てたんですけど」

 私、三島モモコって言います、なにとぞよろしくお願いいたします――と、その女は名乗ったあと、

「アヲイ先輩! リョウ先輩! 私のこと覚えてますかっ?」

 その声に二人が本気で驚いているのを見て、なるほど、事実知り合いなのだとシシスケは分かった。

 なぜそんな女がガロウの部屋にいるのかは知らないが。

「ヱチカちゃんもこのバンドと関係あったなんて! 世界は狭いですね!」

「モモコ」とリョウは言った。「なんでモモコが男の人の部屋にいるの? ――まあ、いいか。詳しい事情はあとで聞くからね」

「りょ、リョウ先輩!」とモモコは慌てた様子で声を張り上げた。「やましいことは何もですよ!」

「ふうん」

「私はガロウさんの更生係なんですから!」

「更生?」とアヲイが訊くと、

「更生です!」と繰り返した。


 ――更生係?

 シシスケが画面を見ると、ガロウは、とにかく憂鬱な表情で下のほうを向いていた。

 こいつ何かやらかしたな。

 バカが。

 シシスケには、それが少しだけ笑えた。


  ※※※※


 ヱチカはスマートフォンを握りしめて、ベッドに横になっていた。

 彼女が教えた防音設備のスタジオとは、要するに、目白にあるヱチカの実家のことだった。九条家屋敷三階のピアノ演奏室。

「わあ――」とヱチカは静かに胸を躍らせた。「ユーヒチさんがヱチカちゃんのおうちに来ちゃう、あは」

 そしてヱチカは、育ちの姉であるアヲイのことを少し思い出した。

 ――アヲイねーちゃんも、ユーヒチさんのこと、気になってるのかなあ。やっぱり。

 でも、関係ない。

 アヲイねーちゃんは自分のバンドで忙しいもん。でもヱチカちゃんなら、このお部屋でずっとユーヒチさんといっしょにいられるもんね。

「アヲイねーちゃんは勉強もスポーツも、パパの褒め言葉も全部取ってきたんだもん」

 とヱチカは思った。

「だから――男の子くらいヱチカちゃんが取らないと嘘だよね?」

 そうして、優しい、押しに弱そうなユーヒチの整った顔を思い浮かべると、ヱチカの卑しいドキドキはどうしても止まらなかった。

「アヲイねーちゃんが、本当にユーヒチさんを好きになっちゃったらいいのに」

 そしたら全部を奪って、ヱチカちゃんはやっと自分のこと全部好きになれるの。

 そんな風に彼女は思う。

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