感傷的なシンセシス
籠原スナヲ
第1話 幻想的なハードウェア
※※※※
いつか見た夢の中で、夏の夜、川原ユーヒチは篠宮リョウといっしょに東京都内の住宅街を歩いていた。
二人は別々の大学に通う二年生で、今は同じバンドに属している。
だが、夢の中ではなぜかユーヒチもリョウも高校生に戻っていて、見たことのない制服と学生鞄で歩いていた。ユーヒチはブレザーに身を包み、リョウもプリーツスカートを履いている。
リョウは彼よりも何歩も先のあたりをぶっきらぼうに歩いている。ほとんど、ユーヒチのことなんて気にかけてやるものかという強い意志を感じた。
「ひょっとして、俺はリョウに嫌われてる?」
ユーヒチがそう訊くと、リョウは歩みを止めた。何ていうか、夢の中なら普段は訊けないことを平気で訊けるものだな、と思う。
「ふーん、意外」とリョウは振り返った。「てっきり、自分に対する敵意も分からないくらい鈍感な男だと思ってたけど。流石にそうでもないか。ま、こんなに態度に出されて気づかなかったらただのバカだね」
ユーヒチも立ち止まる。「一応だけど、リョウが俺のことを嫌いな理由って教えてくれたりするの?」
「は?」とリョウは睨んだ。「そんなことを知って何になるの? だいたい、なんで私がそんな親切しなくちゃいけないの? 自分の頭で考えてみたら? 分かったとこでどうにかなるような問題じゃないけど」
「どうにかならない問題って?」
「知らない」
リョウは横を向いたが、その場から去ることもしなかった。
二人は帰り道の住宅路、しばらくそのままだった。とっくに日は暮れて、ぽつぽつと並んだ街灯と、家屋の窓から差し込む家庭の団欒がユーヒチとリョウの足下を照らしていた。夏の虫の声が聞こえる。
「俺は」とユーヒチは口を開いた。「たしかにリョウの言うとおり鈍感で、考えたけど正解は分からなかったよ」
「ふん」
「でも、直せるところなら直したいと思う。歩み寄れる部分があるなら、そうしたいと思ってる。だからリョウに『お前のここが気に入らない』って直接教えて貰えると、俺は助かるよ」
「私は助けたくない」
リョウは奥歯を噛んだ。
「あんたに直せるものなんか、ひとつもない。歩み寄れる部分なんてない。私はこれからもずっとあんたのことが嫌い。別にそれでいいでしょ? ――それとも、自分が誰からでも好かれてないと気が済まないの? それってすごく他人に対して図々しい態度だと思うけど?」
「まさか」とユーヒチは言った。「そこまで自惚れてはいないつもりだよ。ただ……」
「何っ?」
「……いや、たしかに。アヲイの親友には嫌われたくないっていう、これは俺のワガママだったな」
ユーヒチが九条アヲイのことを口にしたとき、リョウの肩は少し震えた。そして、鞄の紐を強く握りしめる。
アヲイとリョウは、十年来の長い親友だった。ユーヒチは、そんな二人の関係にあとからやってきて、アヲイと付き合おうとしている。
「何それっ?」とリョウは凄んだ。「アヲイと仲良くしていたいから、私とも仲良くしていたい? はっ? そういうこと?」
「その表現だと語弊があるけど……」
「ふざけないで!」
ユーヒチの言葉を遮るように、リョウは声を張り上げた。
「土足で上がってこないで! ねえ、割って入ってこないでよ! あんたとアヲイは特別な関係で、私はそこに居候させて貰ってる? だからついでに仲良くしてやろうっていうの? 違う! あんたが後から入ってきて全部メチャクチャにしてるんだよね! それで、歩み寄ってやるよって何様のつもりなの!?」
「俺は――」
「うるさい。私がずっと、どういう気持ちでアヲイといっしょにいたかなんて想像もできないくせに。勝手なことばっかり喋って、良い気にならないで!」
リョウが吐き捨てると、ユーヒチはしばらく黙るしかなかった。
「アヲイを守ってきたのは私。あんたじゃない。これまでも、これからも、ずっと!」
リョウは叫び終えてから、ハッと自分の口を塞ぎ、ユーヒチを見上げた。
住宅路を原付が通り過ぎていった。立ち尽くす二人を一瞥して舌打ちしてから、運転手はスピードを上げて大通りへ向かう。
「そうか」とユーヒチは息を吐いた。「そういうことだったのか」
リョウは、ゆっくりと後ずさった。
――彼女はアヲイのことが好きなのだ。だから、アヲイが自分から近づいていく俺のことが嫌いなのだ、とようやく分かる。
「あ……」
「大丈夫。アヲイには言わない。どんな顔で言えばいいのか、俺には分からない。聞かなかったことにはたぶんできないけど」
そしてユーヒチは少し笑った。これは自虐だ。
「たしかに、俺に直せるものはひとつもないし、歩み寄れる部分も最初からなかった。俺がそこにいるだけでダメだったんだ。ごめん」
「っ!」
リョウが手を振り上げようとした瞬間、ユーヒチのスマートフォンが音を立てた。
液晶には、アヲイの名前が表示されていた。
「出ていいか?」
「いちいち私の許可が必要? 勝手にすれば?」
ユーヒチはひと呼吸置くと、普段の自分の声を思い出しながら通話ボタンを押した。
『おっす』
「どうしたの?」
『部屋に忘れ物あったよ。明日、学校で渡すね』
「そっか。ごめん、ありがとう」
『ふふっ』
「? どした?」
『――何か辛いことがあったけど、心配かけたくないから隠そうとしてる声がする』
「えっ?」
『当たりだろ?』
「……アヲイに隠し事ってできないな、俺って」
『優しいじゃん』
「からかうなよ」
『聞いてほしい? 話したくないならいいけど』
「そ、れは……」
ユーヒチはスマートフォンを持ち直した。リョウはユーヒチから距離を置いて、二人の会話が聞こえないようにしていた。
「――悪い、ちゃんと言葉にできるまで、きっと時間がかかる」
『ん、了解』
「ごめんな」
『今、まだ外なんだ? 家に送り途中?』
「そうだな」
『変なことはしないようにね?』
アヲイの悪戯めいた笑い声が、ユーヒチの耳にくすぐったく触れた。
「しないよ。お前の親友だろ?」
『そうだね――じゃ、また明日。おやすみ』
「おやすみ――だけど、リョウとは話さなくていいのか?」
ユーヒチの質問が届く前に、アヲイは通話を切っていた。
ユーヒチはスマートフォンをズボンに仕舞うと、リョウに近づいた。
「忘れてた」とユーヒチは言った。「リョウを家まで送る途中だったんだ、俺」
「要らない」とリョウは力なく首を振る。「あんたが勝手についてきてるだけだよね? こっちはいい迷惑だけど。今どき女の子を家まで送るとか、前時代的」
「前時代的だよ、俺は。それに、アヲイの頼みなんだから、結局は俺もリョウも仕方ないだろ?」
「アヲイをダシにしないで。ユーヒチが善人ぶりたいだけの癖に」
「そんなこと……」
「ねえ」
リョウはユーヒチの目を見た。その瞳に街路の明かりが跳ね返って映るのを、ユーヒチは綺麗だと思った。
「今日のこと、アヲイに言ったら、許さない」
「言わないよ」
「ふん、どうだか――」
と呟いて、リョウは歩き始めた。「私の弱みを握ったと思って余裕ぶられるの、すごいムカつくから、そういうのもやめてよ。明日からはいつも通りに振る舞って、なかったことにすること。いい?」
「分かってる」
そして二人は、リョウの家に着いた。
「じゃ」
「ああ、また明日。おやすみ――」
ユーヒチが言い終わらないうちに、リョウは音を立てて鉄の門扉を閉じた。
にゃあ、と鳴くのが聞こえて振り向くと、野良のキジトラが塀を歩いていくのが見える。
――そっか。まだこのへんにもいるんだな、猫って。
ユーヒチが家を離れ、一区画を歩いて十字路に出ても、塀の上のキジトラは付かず離れずの場所にいた。その人懐こさは、生まれつきの野生というより、捨てられた飼い猫という感じがする。
「なんだよ。可愛いやつだな」
そうユーヒチが一歩を踏み出すと、ふうっ、と息を吐いて、猫は二歩、三歩と退いた。
「……さっきまでの距離が良かったのか?」
そこでユーヒチは夢から覚めた。
――ユーヒチは、今でもこの夢を覚えている。リョウもアヲイも、今では同じロックバンドの仲間だった。だが、いつこの夢を見たか、その夢を見たあとで自分の気持ちがどんな風に動いたのか、そのことだけ思い出せない。
※※※※
時間は、九条アヲイと川原ユーヒチが初めて出会う、決定的なライブの数日前に巻き戻る。
そのときのアヲイはリョウと、リョウの先輩たちを入れた四人のガールズバンドでボーカルをしていた。
で、二限後のアヲイは、義理の妹である九条ヱチカといっしょに、W大学内のカフェテラスで昼飯を食べているところだった。
ヱチカは、アヲイとリョウのバンドが新しく披露する曲を確認する。
「へえ、悲しい歌詞なんだ?」
数十行の言葉が書かれたA4のコピー用紙をひらひらとさせながら、ヱチカは、コンビニの焼きそばパンを頬張った。
「今度のライブで歌うの、これでいいの? 盛り上がるかなあ」
「美味しそうに食べるね、いつも」
アヲイは笑って歌詞の紙を取り上げる。
春が終わって、葉桜だった。
アヲイは紙コップに口をつける。「こっちに来ていっしょに食べるの、でも、久しぶりじゃない? たしかに学校は近いから戻れるっちゃ戻れるけど」
「その歌って書いたの誰だっけ?」
「ん? リョウ」
「またリョウ先輩かあ。なんかヱチカちゃんの趣味じゃないんだもん、読んでてさ」
「私も今度の昼、焼きそばパンにしてみようかな」
「アヲイねーちゃん書かないの?」
「?」
「だから、歌詞だって。絶対リョウ先輩より良いんと思うんだけどな」
ヱチカは最後の一口を飲み込む。
「あー」
アヲイは目を泳がせたあと、不意に吹き出した。
「ていうか、めちゃくちゃアンチで草」
ヱチカもつられてチョケる。
「焼きそばパンはね、いいものですよ。今度アヲイねーちゃんも食べるとええんやで?」
「今日は、何か相談があってきたの?」
アヲイが核心を突いてみると、ヱチカは少しだけ黙ってから、
「まあ、実はそうなんだよね」と笑う。
焼きそばパンは孤独の友である、と、ずっと昔からヱチカは言っていた。好きな男の人が被って友達を失ったときでさえ、屋上で食べる焼きそばパンだけはヱチカちゃんの味方だった、と。
炭水化物オン炭水化物のご馳走を泣きながら食べていたらしい。
そんな痛みはもう癒えているのだろうか。今のアヲイの目に映るヱチカは、とても幸せそうに感じるが。
「私、ヱチカの相談ならちゃんと聞くよ?」
「あはは。まるで他の子のお話は真剣に聞いてないみたいじゃない?」
「早く教えてよ」
アヲイは微笑んだ。
ヱチカはちょっと緊張したように見える。
――姉妹としての二人の関係は少しだけ複雑だった。アヲイは十歳あたりの頃に両親を事故で失い、ヱチカの実家に引き取られた。そのことについて、ヱチカの父親はともかく母親は納得できないところがあったらしい。
ヱチカの母親は、ヱチカが決してアヲイに劣等感を持たないようにと、ヱチカが興味を持った芸術やスポーツをことごとくアヲイから奪った。どんな分野でも、アヲイがヱチカより上手くやることに気づいていたからだ。――だが、そんな母親の気遣いが、余計にヱチカを惨めにさせているのだとアヲイは分かっていた。
「うん、お願いがあってね」
ヱチカがもじもじとする。それは、そうすれば、色んな人が彼女を可愛がってくれるという条件反射の処世術によるものだ。
「何? 言いなよ」
「や、前のライブでさ――」と、ヱチカはおなかの前で指を絡めた。「好きな人できちゃった。その人に会いたいなって」
ヱチカのお願いは、おおよそこういうものである。
――自分には何度目かの彼氏がいたけれど、やっぱり、他の色んな男の人たちと同じで面白くないしつまらない。
でも、アヲイねーちゃんのギターを聴くためにライブに行ってみたとき、その前の前の前くらいの演奏でベースを弾いていた男の人が、とてもキラキラしていた。
会ってみたい。
「浮気?」とアヲイが訊くと、ヱチカはふるふると首を振った。
「違う! だって、もう別れちゃったし」
「ああ、ごめん」
「別にいいんだよあんな奴!
じゃなくてさあ。アヲイねーちゃんなら演奏する側なんだし、打ち上げみたいなので挨拶できるんだよね。それ、ヱチカちゃん行っちゃダメかなあ?」
「つまり」とアヲイは言った。「関係者っぽく、今度のライブで裏から声をかけて仲良くなりたいって感じ?」
「うん」
「やば」
アヲイはズボンのポケットからハイライトを出すと、「あ」と声を上げた。カフェテラスは禁煙だった。
「喫煙所、遠いや。ちょっと付いてきてよ」
「えええ、もう吸うのやめなよ。肺ガンなって死ぬよ?」
「人間、生きてりゃ死ぬ、って」
椅子から立ち上がって喫煙スペースに歩を進め、アヲイは朗らかに笑いながらタバコを咥えた。「どうせ早いか遅いかじゃんか。ははは」
「もお、なにが」
W大学のTキャンパス喫煙所はたくさんあるが、いちばん広いところは図書館の裏手にあって、そこでは学部生が黙々と毒を呑んでいた。
「いいよ」とアヲイは言ってライターを取り出す。
「えっ」
「ヱチカのこと今度のライブに連れてってあげる。その男の人に会わせてあげるから」
「ほんと?」
安物のライターに火が点き、数ミリ周囲の景色を揺らした。
「ねえ、教えてよ」とアヲイは煙を呑む。「そのひとの名前」
「えっ、ねえ急に言われるとなんか恥ずかしいし」
「ふふ」
「アヲイねーちゃんだから言うんだよ?」
「おう」
アヲイが煙を上向きに吐くと、それは、雲の少ない東京の濁った青空に溶けていく。
「ユーヒチさん」とヱチカは言った。
「ん?」
「その人の、名前、かな? 本名かどうかは分かんないけど。川原ユーヒチさんっていうの、その人」
「――へえ」
「えへへへ」とヱチカは体をくしゃくしゃにする。「本当にかっこいいんだあ。ユーヒチさん。何か、運命みたいなの感じて。もうこの人だってなっちゃった」
「ふうん?」
「アヲイねーちゃん、ありがとね! ほんとありがと!」
――アヲイはこのとき、ユーヒチのことを何も知らないはずだった。それでも彼の名前の響きに不思議な聞き覚えがある。
キーン、という音を立てて頭が痛んだ。
ウソの記憶が痛みながら甦る音だった。
※※※※
ライブの当日、最寄り駅のロータリーでリョウと集合したとき、ひょっこりヱチカが顔をのぞかせると、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。そうしてアヲイがヱチカからの頼みごとを説明すると、
「しょーもない」とリョウはため息をついた。
「いいけど、演奏の邪魔だけはしないこと。出番前も直後も迷惑かけることになるし、それで怒られるのどうせ私なんだから。そこは上手くやってよ」
「うん」とアヲイは頷いた。「いつも、みんなで打ち上げあるじゃん? 今日は参加してみようかなって。そこで会わせたら大丈夫でしょ」
「は?」
リョウは腕を組み、アヲイの呑気な顔を睨む。
「その男の子が打ち上げ来るかどうか調べた?」
「え? あ」
「行き当たりばったりかい」
次にヱチカを見た。
「いないかもしれないけど、どうする?」
「えー」
ヱチカはわざとらしく、驚いたような声を出す。
リョウはベースを背負い直した。「ていうか、その、ユーヒチって奴だっけ? ヱチカは本当に会ったことないんでしょ。ステージで見たってだけで。じゃあ、どんな人なのかもわからない。それで好きになったって、よく分からないけど。要するに見た目が気に入ったってこと?」
「なにそれぇ!」とヱチカはふくれた。「ヱチカちゃん、今、もしかして怒られてる?」
「怒ってるわけじゃないけど、不思議だってこと」
リョウが言い返すなか、ライブ開始までの時間は少しずつ迫っていた。
アヲイは両手を上げる。「そろそろ、歩こうよ」
ロータリーを外れると、近場の河川に向かって降りていく坂道があり、そこに大衆居酒屋が立ち並ぶ。
さびれた性風俗店がチラチラと見え、交差点の踊り場で男たちを持つ寂しげな女を避けて歩きながら、三人はライブハウスへと向かった。
アヲイはふと気になって、
「リョウは知ってる? そのバンドの男の子」
「なんで?」
「リョウはいつも飲み会にも残ってるじゃん。だから知ってるのかなって思って」
「知らない。男に興味ないし」
リョウがそう言って振り返る。アヲイのほうはといえば、不意に雑居ビルの看板が目に止まった。八階に雀荘の表示がある。
「あんな高いところで麻雀できるんだ。すげー」
「あのね」
「――ユーヒチ。ユーヒチかあ」
「なに?」
「どこかで聞いたことある気がする。ユーヒチ、って名前。なんでだろ?」
「…………」
リョウは数歩戻ってアヲイの手を引き、「行くよ」と歩幅を大きくした。
「リョウ?」
「アヲイにユーヒチって名前の心当たりはないよ。だって私たち、小学校からずっといっしょでしょ。でも、そんな男の子がアヲイに絡んだの知らないし。何かの記憶違いか、マンガの話でしょ?」
「――そか」
ずっと後ろのほうから、ヱチカの「ふたりとも早すぎるよ!」という声が聞こえた。
リョウは舌打ちをする。「ヱチカは一応アヲイの家族だから悪く言いたくないけど、ちょっと心配だよ。前の彼氏と別れてから、そんなに経ってないんでしょ? なのにまた新しく好きな人がいるって、どういうこと」
「ヱチカは前からそうだよ」
「最近は特にそうだって話」
「えー」
「なんだかヱチカを見てると、好きになった人にいつまでも告白できない、ウジウジしたオタクくんが可哀想になるね」
「そんなの、人それぞれだよ」
二人がコンクリートの河沿いに着き、あとからヱチカも息切れして付いてくると、リョウの表情に――不快感の底に清々しさが残る、不思議な微笑みが浮かんでいた。川の水の流れが聞こえて、立ち飲み屋の提灯の明かり、それから風にアヲイの短い髪が揺れる風情だけが残る。
※※※※
陳腐な表現かもしれないが――その夜、都内のライブハウスで初めてアヲイを目にした人々は、まるで彼女はこの世の存在ではないような気がしていた。
痩せ細った体で、ぶかぶかの白いメンズTシャツを着た彼女は、ノイズまみれのテレキャスターをかき鳴らしながら、ぼそぼそと囁くように歌っていた。
まず、それが1曲目だった。
ハウスライトの熱が流す彼女の汗は、髪の短さのせいで直接的にうなじと鎖骨を濡らしていく。その場にいた男たち誰もが、かつてライブハウスで彼女に遭遇した他の男と同じように、アヲイの名前を忘れられなくなっていた。
――もともとアヲイが少年のような容姿であることも相まって、まるで性器のない美しい男の子がそこに立っている、そう、多くの者が感じた。そうして当然のように、別のバンドのイケメンを目当てにしてきた女たちが、アヲイのルックスと雰囲気に心を奪われてしまう。
この世の存在ではないと言っても、天空から神々しく降りてきた使徒には見えなかった。むしろ彼女は、5分だけ隣の世界からワープして来たまま、居場所を見つけられず浮いたままの心もとないStrangerだった。ハウスライトの光が強くなればなるほど、その肉体は透けているかのように感じられた。
――後年、センスのない音楽評論家が、当時のアヲイについてこんな表現を残している。オリジナルのないドッペルゲンガー。
※※※※
アヲイにはウソの記憶がある。それは頭痛とともに、アヲイの脳をかすめていく。
「いたいっ……」
アヲイがこめかみを押さえていると、目の前から「大丈夫ですか?」と声がした。「お酒を飲みすぎているようにも見えませんでしたけど」
アヲイは目を開ける。
――ライブは既に終わっていて、簡単な打ち上げの最中だった。
ヱチカは目当ての男と、リョウはイベンターと何か話している。
「ああ、えっと」とアヲイは笑った。「ウソの記憶を見ちゃって」
「ウソの記憶?」
訝しむ男の顔を見て、ま、当然の疑問だな、とアヲイは思った。
「覚えのない思い出っていうか――そういうのってないっすか? たとえば、自分にもっと別物の人生があったみたいな」
そんな風に訊いたが、男は肩をすくめて困るばかりだったので、アヲイはこの話題はやめようと思った。
「それにしても」と男は言った。「珍しいですね。アヲイさんがこういう場に最後まで残ってくれるって。いつもなら風のように帰ってしまうのに」
男は嬉しそうに笑い、手元のビールを煽った。「何か特別な事情でも?」
「別に」とアヲイは首を振る。「親戚の子が演奏者の男の人と仲良くしたいみたいで。それで、途中で帰るのはアレかなって」
「ああ、なるほど――」
男は深く頷いた。「先ほど見かけました。コンプレックスプールのベーシストに、アヲイさんのお隣にいた女の子が話しかけていったところです。はは。なんだか青春の1ページっていう感じで、私のような社会人に眩しいものですが」
男が話す間、アヲイは、目の前にいる彼が何者なのか必死で思い出そうとする。そしてテーブルに置かれた自分の右手近く、名刺があるのに気づいた。
インディーズのレコード会社の従業員であった。名前は岡部。
「アヲイさん」と男は言った。「私はあなたに、なにか光るものを見つけました。気が向いたらでいい、そこに書かれた連絡先に、ぜひ何でも送ってください」
「あー」
アヲイは少し視線をうろつかせる。「分かりました。岡部さん」
「どうしたの?」
男が去ったあと、リョウがドリンクを持ってきた。アヲイが名刺を見せるとしばらく動きを止め、やがて黙ってそれを受け取る。
「何て返事したの」
「急な話だったし、それに――」とアヲイはこめかみを叩いた。「ここの調子が悪くなったから。貰うだけ貰った感じで」
「そう」
リョウはアヲイの頭を優しく撫でた。「じゃ、もうあんまりお酒は飲まないほうがいいかもね。早めに出る? ヱチカは二次会も付いてくみたい。朝まで飲むんだって、あいつら――」
バカみたい、とリョウは言いながらビールとカクテルサワーをテーブルに置き、マルボロを咥えた。「ライター持ってる?」
「へい」
アヲイはわざとうやうやしく火を持っていき、「ホストみてー」と笑った。
「シャレにならん」とリョウも微笑む。「あんた中高で鬼モテしたもんね。女子に」
そうだっけ、とアヲイは首を傾げる。高校時代の些末な出来事はあんまり思い出せなくなっているらしい。――本当の記憶は油断するとすぐに消えてしまうのだ。
「そうだったよ」とリョウは言った。「だらしない王子様」
「ひど」
「本気の子だって何人かいたでしょ。酷いのはそっち」
「煙草、私も吸う」
アヲイは、あーん、と口を開けた。リョウはため息をついて、テーブルのハイライトを抜き取り、アヲイの下唇にゆっくりと添える。
「うぃ」
「火? ――ったく」
ふたりでタバコの先端と先端を合わせると、じゅ、という音がした。
間近で見るリョウの顔は、二~三年前と比べても、ずっと大人みたいになったとアヲイは感じる。ただ感じるというだけで、具体的にどこがどうと言えないのは、忘れてしまっているからだが、それでも「変わったな」という気がした。
「リョウが代わりに覚えてくれてるから、忘れちゃうことが怖くないんだね。私」
「なにそれ」
「ほんとの思い出のこと」
リョウが灰皿を引き寄せた。「また見たんだ? ウソ記憶」
「うん。耳がキーンなった」
「――ねえ。病院で見てもらおうとは思わないの?」
「別に困んないし、それに」
病院は父親と母親を助けなかったから嫌いだ、とは、答えなかった。
遠くでヱチカの声がした。
「じゃあ、そろそろ行きませんか?」とユーヒチに問いかけている。
アヲイは改めて、ヱチカとユーヒチがいる隅のほうに目をやった。
ユーヒチは荷物をまとめている。「ちょっと待ってて。挨拶したい人がいるんだ」
「あ、イベンターさんだったらあっちのほうですよ」
「ありがとう。だけど、別の人だよ」
そして。
ユーヒチがアヲイのほうに顔を向けた。
「え?」
キーン。
いたい。
アヲイが戸惑っていると、ユーヒチはヱチカを連れて彼女の対面に座った。
「なんですか?」とリョウは訝しむ。「別に私たちは行きませんよ。終電もあるし、もうすぐみんな帰るところなんです。それに、アヲイはちょっと疲れているみたいなので、要件なら手短にお願いします」
「ごめん」とユーヒチは言った。「そういうつもりじゃないんだ。ただ――」
「なに?」
「三曲目、あれ新曲だったろ? すごく感動して。それを伝えたかったんだ」
ユーヒチは照れるような表情をする。
三曲目? アヲイの頭は耳鳴りがしたままなので、自分が何を歌っていたか上手く思い出せない。
「えーっ?」とヱチカはユーヒチの腕に触れる。「あれが良かったんですか?」
「詞がいいんだよ」とユーヒチは答えた。「オリジナルだろ? 間違ってたら、ごめん。あれは誰が書いたやつなの?」
そうだ。
ヱチカが嫌っていた新作だ。『かなしい歌詞なんだ』というヱチカの感想は、数日前の記憶だ。
リョウは黙っている。
ユーヒチは彼女が引き寄せたばかりの灰皿を見て、ポケットからピースを出した。
「あんな風に」とユーヒチは言う。「あんな風に、報われないと分かっている感情を、ずっと何年も抱えているって、それがどれだけ辛いことなのか、俺は想像もつかない。だけど、そういう歌詞だろう?」
「はあ?」とリョウは腕を組んだ。「知ったようなこと言うんですね? 感動ありがとうございます。次の創作の励みにもなるので、大変、ありがたいことです。――これでもういいですか? 忙しいので」
「あなたが書いたの?」
「だったら何ですか?」
「いや、てっきり――」と、ユーヒチはアヲイの両の目を見つめた。
アヲイの視界に映るユーヒチは、左の瞳だけ少し色素が薄かった。
――会ったことがある。
えっ。
会ったことがある。この人に。どこで?
教会。
基督教系の児童養護施設に預けられていたアヲイは、今から十年前に、彼に会ったことがある。
記憶の中の聖堂で、幼いアヲイは「私は」と言葉を繋いだ。「私は、父さんも母さんも死んだのに、もう生きてないのに、私だけ生きてたい。死にたくない。――私、たった一人のくせに、まだ、ここから消えたくない。死にたくないの」
「俺もそうだよ」
かつて、ユーヒチはそう答えてくれた。
その言葉がどれだけ嬉しかったことか。
「アヲイ。俺たちはさ、お互いをお互いの死なない理由にして生きていこう?」
そうして彼は彼女と両手を合わせ、指を絡めた。
「どれだけ世界を繰り返しても、必ずアヲイに会いに行く。アヲイを俺のお嫁さんにする」
こういう彼の言葉が嬉しくて、アヲイは涙を流したのだ。
「いつか必ず、私を見つけてね。――ユーヒチ」
※※※※
アヲイの記憶は、十歳の両親の事故死を起点にして、大きく分岐している。
まず、最初に覚えているのは父母の葬式だ。後で親族から教わったことだが、父親はそれなりの実業家で、郊外都市も含めたファストフード店を経営することで少なくない額を稼いでいたらしい。
ただ、それと同時に彼は慈善活動にも熱心に力を入れていて、児童養護施設や大学病院の小児病棟を主に、若い頃に体得していた道化師の技を披露していたらしい。そこにはいつも母親が付きっきりだった――彼に曲芸を仕込んだのは、かつて若い頃サーカスの一員だった彼女なのだ。
親族は、そんな二人が、慈善活動先からの帰り道、高速道路で呆気なく死んでしまったことに驚いていた。
そうして問題は、残された一人娘であるアヲイを施設に捨てるか、誰かが面倒を引き受けるかということだった。
和室の大広間。
「アヲイねーちゃん、遊ぼうよ」
後に義妹となる親戚のヱチカが襖を開けて入ったとき、アヲイは両親の棺の前でじっと体育座りをしていた。
「え? なにしてるの? アヲイねーちゃん」
「父さんと母さんが起きないか、見張ってる」
「えー?」
ヱチカはのけぞって、当時の女の子たちの間で流行っていた仕草――手のひらを両耳の近くで開いたり閉じたりする――を繰り返す。
「起きないよ! アヲイねーちゃんのパパとママもう死んじゃったんだよって、お父さんも言ってたよ?」
「へえ。そう」
「だからぁ、ヱチカと遊ぼうよ!」
「遊ばないよ」
「なんでぇ!」
「出ていけよ」
アヲイはヱチカのことを見ないまま言った。「ここから出ていけ」
「――えっ?」
ぽかんとしたヱチカの体に、起き上がったアヲイが飛び掛かるまで時間はかからなかった。隣の酒席で話し合いを続けていたヱチカの両親がそれに気づくのも、せいぜい五~六分の話だった。
「何やってんだ、お前ら! こんな場所で!」
「あああああ! ああああ!」
ヱチカが鼻血を流しながら泣き喚いて、直後、アヲイは複数の男にうつ伏せで取り押さえられていた。
ただの喧嘩と呼ぶには、それはあまりに一方的だと誰もが判断できた。
アヲイは叫んだ。
「二人を起こせよ! 早く起こせ!」
アヲイは男たちの張り手を食らい、しばらくそのまま横になっていた。
夜中、彼女が耳を澄ませていると、ヱチカの両親の口喧嘩が聞こえた。
「あの子を私たちが引き取るっていうの?」
「アヲイの父親は、オレの親友だよ。誰もやらないならそうしたいんだ」
「さっきヱチカとだって喧嘩してたでしょ」
「あんなのどうせ、ちっちゃい女の子同士のつまらない喧嘩じゃないか」
「私はそうは思えない。あの子は異常よ。母親の血だってロクでもない。皆の反対を押し切って家柄も何もない女と結婚したかと思ったらこれだもの。おかしい」
「よせって。オレは君に失望したくない」
「何よ?」
「オレだって君に無理を強いていることは承知してるつもりだ。でも、オレはあいつに娘を頼むと言われたんだ。自分に何かあったときのために」
「――あなたが育てるわけじゃないもの。気楽よね? 妻の負担よりも男同士の約束を守りたいなら、どうぞご自由に」
棺の隣で布団を敷かれたアヲイの耳に、ヱチカの両親の話し声はよく聴こえた。自分のせいで泣き喚いていたらしいヱチカなら、今はよく眠っているらしい。たぶん自分がいなければ、ヱチカはずっと優しく寝ていられるだろうとアヲイは思った。
「そっか」とアヲイは思った。「父さんと母さんは、私を置いてっちゃったんだ」
そうして彼女の目から涙が溢れ出した。
「じゃあ、どうして生きてるの? 私?
――どうせ皆、死んじゃうのに」
夜の闇が一段と深くなっていた。
この後で、アヲイは結局ヱチカの実家に引き取られたはずだった。なのに、同時に、ヱチカの家に預けられなかった場合の記憶、キリスト教系の児童養護施設で生活していた記憶がアヲイにはある。
そうして、そういうウソの記憶の中で、彼女はユーヒチと恋に落ち、結婚の約束をした。
※※※※
「どうしたの?」
リョウの言葉で我に返ると、アヲイは、自分が声を殺して泣いていたことに気づく。
「あ」
灰皿に掛けたハイライトの火は、とっくに消えていた。
「私は――」とアヲイはユーヒチを見た。ウソの記憶のなかではなく、正しい世界で、すぐ目の前に彼がいることが分かった。
ユーヒチは心配そうに眉をひそめ、アヲイの肩に手を伸ばした。「大丈夫か? どこか悪いんじゃ――?」
「! ちょっと!」
そんなユーヒチの手首を、リョウが掴む。
「触ろうとしないでください。人を呼びますよ!」
「いや、そんなつもりは――」
「――最低」
そう呟くと、リョウは払うように手を離した。
戻されたユーヒチの手を、ヱチカがこれ見よがしに指でさすった。
「かわいそう、ユーヒチさん。痛くないですか?」とヱチカは猫撫で声を出す。「アヲイねーちゃんを心配しただけなのに、あんまりですよね?」
「何?」
リョウの表情に苛立ちが混じる。「言いたいことがあるなら言えば? ヱチカ」
「えー、こわい」とおどけるヱチカの顔にも、角が立つ空気がした。「ヱチカちゃんは、ただ、ユーヒチさんが酷い目に遭うのがイヤなだけなんですけど?」
「待ってくれ」
ユーヒチはヱチカの指を止めた。「俺は平気だよ。それに、たしかに不躾に触れようとしたのは事実だし。申し訳ないと思う」
そして、ユーヒチはベースの入ったバッグを背負って立ち上がる。「リョウさん、だよな? 俺は邪魔みたいだから、もう行くよ。次のライブもよろしく頼む。それとアヲイさんも」
そう言って彼は、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。ヱチカがそのあとを付いていきながら「酷いですよね?」と繰り返した。
「待って!」
アヲイは不意に大声を出した。
ユーヒチとヱチカが振り返る。
――もう私を一人にしないで。ずっとそばにいてよ。
そんな悲鳴が喉まで出かかる。しかし、その意味についてはアヲイ自身も上手く理解できない。
私は、どうしちゃったの?
「あ――」
そんな風に自分の喉を押さえていると、隣のリョウが彼女の腰に手を添える。「アヲイ、どうしたの? どこか痛む?」
「私も」とアヲイは言った。「私も付いて行っていいかな? 二次会」
「えっ」
「話したいし」
視界の隅でヱチカの顔が曇っていくのを、ほとんど気づかないふりをしながらアヲイは続けた。
「だめかな?」
「もちろん構わないけど。きっとみんなも喜ぶと思う。だけど、体調は平気なの? だってさっき――」
「いいわけない!」とリョウが突っぱねた。
「アヲイ、本当にどうしたの。おかしいよ」
アヲイの耳元に口を寄せると、リョウは「ヱチカに男性を紹介するって話なのに、アヲイが付いていくのは変でしょ?」と囁いた。
アヲイは震えながらリョウの裾をつまむ。「じゃあ助けて。上手いこと」
「はあっ――?」
「助けてよ。リョウ」
「――もう」
マルボロの火をぐちぐちと押し消すと、リョウはユーヒチに歩を進めた。
「アヲイの健康は大丈夫です。体質なので」
「そ、そうなのか?」
「気が変わりました。私たちも参加させてください。アヲイが音楽について、あなたたちと詳しく話し合いたいって言ってるんです」
そういうことなら――と、ユーヒチはアヲイを見た。
アヲイの心臓が跳ね上がる。
「おっと――」と彼はスマートフォンを取り出す。「シシスケが良い店を見つけたみたいだ。ガロウもいっしょにいるってさ」
それは、彼のバンド――コンプレックスプールのメンバーの名前だった。
「私たちは、別にどこでも」
「ガロウはアヲイさんの演奏のファンなんだよ。あいつ、きっと嬉しいだろうな」
そんなこと今はどうでも構わない、とアヲイは思った。
「アヲイでいい」
「ん?」
「アヲイさんってユーヒチが呼ぶの、なんか変」
「――分かった。アヲイ」
ユーヒチが目をしばしばさせて、頬をかく。その仕草が父親に少し似ている、と彼女は思った。
「ていうか」とユーヒチは言った。「俺の名前――」
「名前、ずっと知ってたよ」
「え?」
「ユーヒチのこと、ずっと前から知ってた」
「そうなのか?」
「うん――」とアヲイは頷く。「上手く説明できないかもしれないけど」
リョウが割って入る。「同じイベントで演奏してたんだから、当たり前です。こっちだってチェックくらいしてます」
「そっか――」
「自惚れないでください」
「違うよ」とユーヒチは首を振った。「嬉しいんだ。俺もアヲイの声が好きだし、知ってもらえていたのが。ギターもだけど。さっきだって、プロダクションの人に話しかけてもらってたろ? イベンターさんと関係のある」
「ああ――」
「だから、光栄だと思う」
「簡単にすぐに呼び捨てに順応しますね?」
リョウは右の目尻に力を入れる。
「ヱチカちゃんおなかすいたなあ! ねえ、ユーヒチさん。早くいきましょうよ?」
「え? あ、ああ――」
「アヲイねーちゃんとリョウさんもいっしょに来るの、大歓迎だなあ!」
そして、ヱチカはアヲイを見た。
「よく分かんないけど、音楽のこととか、いっぱい聞かせてください!」
※※※※
ユーヒチさんのことは、ヱチカちゃんが先に好きになったんだよ?
と彼女は思った。
アヲイねーちゃん、ユーヒチさんのことは、取っちゃわないよね?
ヱチカは義姉のアヲイについて、今でも小学時代のことを思い出す。
幼稚園の頃からずっといっしょだった幼馴染のモモコが、些細なトラブルのせいで、同級生の女子にいじめられていたときのことだ。そのときは、同じクラスにいたヱチカも遠巻きに眺めるだけで、ほとんど助けることはできなかった。
「だって仕方ないじゃん」と当時のヱチカは思った。「ヱチカちゃんに何ができるの?」
頑張って助けたら、今度はヱチカちゃんも同じようにいじめられるだけじゃん。そう自分に言い聞かせながらヱチカはそっぽを向く。
――モモコが自分を責めないのも辛かった。
落書きだらけの机とボロボロになった教科書を前にしてモモコが泣いていると――その机にはモモコの髪が散らばっている。工作用のハサミで切り刻まれたからだ――、
アヲイが教室のドアを開けて入ってきた。
――アヲイねーちゃん。
何しにきたの?
「そこのお前」とアヲイは近くの男子を呼んだ。
「廊下に出て見張ってて。あと、お前も」
男子たちが教室の外に出て引き戸を閉めると、アヲイはロックをかけてモモコに笑いながら近寄った。
「すげえやられてるじゃん、モモコ」
「アヲイ先輩? あの」
「どいつにやられた?」
アヲイは教室を見回した。「お前ら、出てこうとすんなよ」
モモコは先生を呼ぼうとするが、いつも机で給食を食べているはずの教師は、ちょうどそこにいなかった。
アヲイは笑った。「リョウが呼び出してる。しばらくは戻んないよ」
女子のボス猿が立ち上がり、アヲイを威嚇した。
「あんた何のつもり? 知ってるよ? ボケ両親が事故でオワッて転校してきたんでしょ。ヱチカ、あんたのお姉ちゃんになったんだよね?」
「ヱチカ?」とアヲイは言った。「あ、いたんだ」
「――うん」
「モモコ助けられなくて、しんどかったよね? 今から二人とも何とかしてやるから、待っててな?」
そうしてアヲイはボス猿に顔を戻すと、手近な椅子を掴み、自分より一回り大きいそいつを殴りつけた。
――その後は、鮮血の報復劇。
椅子で頭を殴る。体を蹴り飛ばす。机を投げる。カッターナイフで脅し、モモコと同じように髪を切り落とす。そして素手で顔面を殴る。そういうナマの暴力を、アヲイは主犯のボス猿相手だけではなくて、取り巻きの女の子たち全員に対して振るう。
小学生女子特有の陰湿さを恐れ、いじめを見て見ぬふりしていた男の子たちは、ただその光景を眺めていた。
「お前ら!」とアヲイが怒鳴った。
「次にモモコに手ぇ出してみろよ。全員ブッ殺すぞ!」
モモコがアヲイを見つめていた。
自分を助けてくれるヒーローを見つめる目だった。
――つまり、だから、モモコを助けて彼女の自尊心を守ったのは、ヱチカではなくアヲイなのだった。
アヲイねーちゃんには何も敵わないという劣等感が強く刻まれ、ヱチカはその日の記憶から動けない。
※※※※
ライブハウスを出た後の渋谷。
ユーヒチたちと合流するなり、シシスケとガロウは顔を見合わせた。「すげえ! マジじゃん!」「ダズハントのアヲイがここに?」
ふたりの大げさな反応に、ユーヒチの後ろに立つリョウは肩をすくめた。「もうちょっと落ち着いた反応ってできないの?」
ユーヒチは笑う。「仕方ないよ。実際、有名人だろ?」
「へえ」とアヲイは言った。「私、有名人だったんだ。知らなかった」
六人は朝まで営業している小さな居酒屋の前で、簡単な挨拶と所持金の確認をするところだった。
「何言ってんだよ!」とガロウは抗議した。「女に金を出させるバカがあるか!? お前らが出さねえなら俺が全部出すぞ!」
「あ、そう」とリョウは言う。「それでは、ご相伴に与らせて頂きます。ご厚意を無下にするわけにもいきませんので」
「え!? お、おう!!」とガロウは滝汗を流す←実際は流していない。そういう比喩表現である。
テーブルにつくと、ガロウがズボンのポケットから振動するスマートフォンを出し、
「お、感想来てるぜオレらの演奏」
とガチャ歯を見せるように笑う。
シシスケが眼鏡の位置を直した。「またファンの女性からDMか? ほどほどにしとけ、そういうのは。どうせロクなことにならんからな」
「ちげえって!」とガロウは手を振る。「友達! そう友達だよ! 男女の友情、信じるほうなのオレ!」
「ふふ」とリョウが笑う。「男女の友情は成立するって簡単に言う男の人って、胡散臭くないですか? なんか信用できないな」
ええっ、とガロウが残念そうに叫ぶ。「どうしてそういうこと言うかなあ!」
ユーヒチはそんなリョウを見て、少し安堵していた。
(最初は不機嫌そうに見えたけど、あいつらと楽しく話せてるみたいだな――)
ユーヒチが着いた席のすぐ隣は、フードメニューを開くヱチカに占領されていた。ゆるく巻いたセミロングの茶髪と、ぴえん系のピンクファッション。
そして目の前と言えば、野球帽を外して椅子に架けたアヲイが自分のことをじっと見つめていた。
「信じるの?」とアヲイが訊いてきた。
「え?」
「男女の友情。ユーヒチは」
「ああ、そうだな――」とユーヒチは箸を割る。「あってもいいんじゃないかな」
「はは」とアヲイは頬杖を突く。「じゃあ、ユーヒチも胡散臭い男だな」
「そうかな?」
ユーヒチが戸惑っていると、ヱチカが肩と肩を合わせるように近づく。
「ヱチカちゃんは信じてますよ! 男の子と女の子だって、友達になれますよね?」
お通しが運ばれてきた。
ヱチカが店員におつまみを大量に頼むたびガロウの顔が青ざめていき、リョウが値段の高いお酒を注文した時点で泡を吹きそうになっていた。シシスケとユーヒチは、我慢できずに吹き出す。
「安心しろ」とシシスケは口を手で押さえる。「俺もユーヒチもちゃんと金は出す。何しろ、あのダズハントのアヲイとリョウがいるんだぜ。彼女たちと音楽の話をできるときてる。こりゃ必要経費だ」
「そうだな」とユーヒチも頷くと、
「あ」とアヲイが声を出す。「私はいいよ。自分で飲んだぶんは自分で出す」
「え?」
「なんか――ズルしてるみたいで嫌なんだ」
アヲイはそう言って、一杯目のチューハイをぐびぐびと飲み干した。「私が飲んでも皆は酔っ払わないじゃん。じゃあ、お金を貰うのは変だよ」
――だって、音楽はみんなのことを酔っ払わせるからお金を貰えるんでしょ?
そしてアヲイはジョッキを置く。
「ユーヒチはどう思う?」
「俺か?」
「うん。ユーヒチはこういうときは、ちゃんと奢られてくれる奴のほうが嬉しい? 聞きたいんだ」
そして、またじっと見つめられる。
――ひょっとして、俺は何か試されてるのか?
それは分からなかった。
手元のグラスには、気づくとヱチカがビールを注いであった。
「飲んでくださ~い」とヱチカは言う。「なんか難しいお話みたいで、ヱチカちゃんよく分かんないですけど」
「ああ――」
ユーヒチがヱチカを見ると、彼女はにっこりと綺麗な歯並びの笑顔を見せた。その見た目で、彼女が育ちの良い女の子であることがなんとなく察せられる。つまり、歯列矯正の証だ。
八重歯の目立つアヲイとは対照的だった。
――姉妹でそういう風に違うことがあるのだろうか?
「…………」
「ユーヒチさん?」
「――アヲイが借りをつくりたくないなら、じゃあ、別の機会に奢ってよ」
「えっ?」
きょとん、という表情をアヲイがした。
「お金の出し入れは単純にしておきたいんだ。計算が複雑だと色々困るし。アヲイが奢られるのが嫌なら、それは分かったよ。じゃあ今度返してくれればいいから」
「次の機会?」
アヲイの瞳に、炎が灯るように見えた。「それって、また会えるってこと?」
「また会えるも何も」とユーヒチは答えた。「次のライブも、その次のライブもまだあるだろ? 俺たちって」
「あ、そっか――!」
アヲイが言い終わる前に、リョウが呼び出しベルを鳴らした。「もう、飲みましょうよ。私たち、音楽の話をしに来たんですから。もうちょっとアルコールで頭をバカにしちゃわないと」
「いいね!」とガロウは体を揺らす。「いっぱい飲む女の子って好きなんだよなあ。ちびちびやられても何も面白くねえしな」
リョウはそんなガロウを少し睨みつける。「その、あなたの『女』とか『女の子』って言うそれって、何とかならないの?」
「はぁ?」とガロウは動きを止める。悪気のない表情だった。「だって女は女だろ」
「なにそれ――」
誰にも聞こえないようにリョウが呟くのが、ユーヒチの耳には届いた。
「――好きで女の子に生まれたんじゃない」
※※※※
競い合うような飲み合いでガロウが真っ先に酔い潰れると、リョウとシシスケは目を合わせて軽く笑った。リョウの顔に、ちょっとだけ勝ち誇ったような表情が浮かぶ。
「お酒、弱いんですか?彼って」
「いや、きっとガロウの野郎は、今日は舞い上がってたんだな」
シシスケはいちど眼鏡を外し、拭き直す。「アヲイのギターのファンなんだよ。こいつ。カリスマってやつに魅せられてんだな」
「カリスマぁ?」
アヲイが日本酒を持って会話に乱入してきた。
「わらひがカリフマなんれすかぁ?」
――べろんべろんであった。
顔も赤い。もともと体質的に色素が薄いのだろう。整った、少年のような顔立ちが濃桃色に染まっていた。
リョウがアヲイの体を支える。「ほら、やっぱり飲みすぎ」
シシスケは、くくっ、と体を痙攣させる。「おいユーヒチ。アヲイに飲ませすぎじゃないのか?」
シシスケがユーヒチのほうを見ると、彼は、既に寝落ちているヱチカが自分の肩に頭を載せているのをかばいながら、グラスの中身がこぼれないように身体のバランスを保っているところだった。
「いや、俺は――!」
「あっはっはっは!」
それを見て、アヲイが爆笑した。
「ユーヒチ」とアヲイは言った。
「なんだよ」
「ヱチカに寄りかかられて照れてんだ、ユーヒチ。やーいやーい!」
「なっ――あのなあ」
「昔といっしょだよ! ユーヒチはちっちゃい頃からそうだった!」
泥酔したアヲイがそう叫んだ瞬間、対面にいるリョウの顔が強張ったのをシシスケは見逃さなかった。
ユーヒチはただ、アヲイが言っていることが分からない、という顔色だった。
それはシシスケも同じだった。ユーヒチとアヲイは、今日のライブハウスで初めて言葉を交わしたはずだ。なのに、どうしてアヲイはユーヒチの《ちっちゃい頃》を知っているような言いかたをするのだろう?
ふらふらのアヲイをリョウが座らせる。
「ほんと、酔っ払いすぎ。お水注文するから、しばらく大人しくして、ほんとに」
「はーい!」とアヲイはリョウへと笑いかけ、「怒んなよぉなぁ!」と、リョウの強張った肩と腕へ赤ん坊のように甘えた。
「ちょっと」
「えへへへへへへ」
そんな風にアヲイが抱き着くのを、シシスケは少し訝しんだ。
※※※※ ――Appendix
ガロウは一度も自分の母親についてシシスケに話したことがない。正月と盆に実家に帰ったという話もシシスケは聞かなかった。なんとなく、家族について語ること自体を避けているかのようだった。
そんなガロウの態度に対して、バンド活動中に詳しく問い質す機会もなければ、その必要もなかった。
あるとき、シシスケのアパートで、三人で深夜をテレビをぼんやりと眺めていたときのことだ。お涙頂戴モノのドラマか何かで、ベテラン女優らしき女が、
――我が子を愛さない母親がいるものですか。
と、台詞で言った。
「おい」とガロウが言った。「チャンネル変えてくれ」
シシスケが振り返る。「なにか見たいのか?」
「いや、もう聞きたくねぇ」
「――そうか」
シシスケがリモコンでザッピングを始めると、今まで黙ってピースを吸っていたユーヒチが、「ガロウ。そういえば俺、訊きたいライブDVDがあるんだよ。いっしょに見ないか?」と言った。
「あ?」とガロウの顔が綻ぶ。「おう! じゃそれ見ようぜ! なあ!?」
ガロウの不機嫌を飛ばすような、グランジナンバーが流れ出した。
シシスケが空き缶をゴミ袋にまとめていると、ガロウが頭をボサボサと払う。「さっきはなんか、変な空気になっちって。なんかわりぃな……」
「いいよ」とユーヒチは笑った。「子供を愛さない母親だっているよな? ああいうのは無神経だ」
直後、ロングソファの上で、ガロウがユーヒチに抱き着く音がした。
シシスケは呆れる。「お前ら、下の階があるんだぞ。次暴れたら出てけよ」
「ははっ」とユーヒチが声に出すと、
ガロウも「あっはっはっ!」声を上げた。
「なんつうか、シシスケとユーヒチが男に生まれてくれてすげぇ良かったわ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます