先生と私

美崎あらた

先生と私

 蓋を少し開けて、袋を取り出す。「左側に粉末スープ、右側に七味唐辛子が入っています」の表示。裏返すとご丁寧に「右側に粉末スープ、左側に七味唐辛子が入っています」とある。七味は食べる直前にかけるから、あやまって開封してしまわぬよう注意する。天ぷらは蓋に隠れた暗がりへ押しやって、そば色の大地に粉末を振りかける。天ぷらや油揚げの上に粉末がかかってしまうことを、先生は嫌うからだ。蓋を軽く折りながら、優しくお湯を注ぐ。水泡や蒸気で容器内側のラインを見失わないように注意する。お湯より軽いそば色の大地が浮上する。すでにだしの香りが漂ってくるが、蒸気とともに閉じ込める。『緑のたぬき』は3分。タイマースタート。


「ナナミはお湯を沸かして」

 先生は幼少のころから私の先生だった。

「はい、先生」

 先生から与えられた課題に、私は答えなければならない。

「目的は聞かないの?」

「このお湯の使用用途は何でしょうか?」

 聞くと、先生は得意げに答える。

「『赤いきつね』を作るのさ。僕たちの手でね」

 私はケトルのスイッチを押すのをためらう。先生から与えられた課題に、私は答えなければならない。ただし、それをすることによって先生に危害が及ぶのであれば、その限りではない。

「先生、それではお母様に叱られてしまいます」

「バレたらね。したがってこれは極秘ミッションということになる」

 先生のお母様は、あまりインスタント食品を召し上がらない。塩分や栄養バランスを気にされるからだ。カップ麺の類を戸棚に隠しているのは、先生のお父様である。

「きつねうどんでしたら、冷蔵庫の食材でお作りすることができます」

 レシピは頭に入っている。

「僕はきつねうどんが食べたいんじゃない。『赤いきつね』が食べたいんだ」

 先生は小学校にご入学されたばかりだけれども、確固たる思想があるようだった。

「その二つにそれほど大きな違いがあるのですか?」

「まったくの別物さ」

「しかし……先生の身に危害が及ぶ可能性があることを、私はできません」

 先生は小さな手を顎にあてて、何やら思案顔である。

「でもナナミが手伝ってくれなかったら、僕は自分でお湯を沸かしてカップに注ぐことになるだろう。そうすると、火傷をする危険がある」

 私は先生がお母様に叱られる危険性と先生が火傷をする危険性を天秤にかける。

「……わかりました」

 ケトルのスイッチを押す。お湯を注いでから5分後、先生はあつあつの油揚げにかぶりついて、結局口内を火傷してしまった。それでも先生は、「美味しいね」と言って笑ったのだった――


「そんなことも、あったかもね」

 高校三年生になった先生は、再び『赤いきつね』を前にしてつぶやく。

「私の記憶に、間違いはありません」

「もちろんそうだろう。ナナミを疑っているわけじゃないよ」

 先生は大学受験のために東京を離れ、京都を訪れていた。試験会場近くのホテルに前泊し、明日の試験に備える。

2月下旬。京都の盆地はひどく底冷えがする。寒さを感じない私が、先生の夜食のために『赤いきつね』をコンビニエンスストアで買ってきたのだった。

「ふつうのきつねうどんと『赤いきつね』が別物だという意見は、今も変わらないな……というより、全国共通の認識かもしれない」

 お湯を注いでから5分の間だけ、先生はペンを置いて手と目を休める。『赤いきつね』の向こうには、分厚い過去問題集の赤本が開かれている。

「私にはわかりません」

 美味しいも、温かいも、私にはわからない。

「いずれわかる時が来るさ。僕が保証する」

 そこで、タイマーの音。

「先生、5分が経ちました」

「ありがとう」

 ペリペリと蓋をはがす。蓋に付いた水滴をテーブルに落とさないよう細心の注意を払っているのが、先生らしい。

 先生はもう、いきなり油揚げにかぶりつくというような失敗はしない。ブクブクとおあげをしずめたり浮かせたりして、残った粉末を溶かしていく。さらに麺をかき混ぜてほぐした後、容器の淵から慎重に息を吹きかけて液面を冷ます。まずはだしを一口。

「おや、なんだかいつもと違う味わいだ」

「『赤いきつね』は、関東と関西でだしが異なるそうです。お口に合いませんでしたか? ご実家からお持ちした方がよかったでしょうか」

「いやいや、美味しいよ。旅先で食べる『赤いきつね』もまた、格別だ」

 先生は難しいことを言う。

「きつねうどんと『赤いきつね』は別物で、ご実家で食べる『赤いきつね』と旅先で食べる『赤いきつね』もまた別物だということですか」

「そういうこと」

「含まれている成分の違いではなく?」

「成分の違いではなく」

 麺を持ち上げ、冷ましてすする。それを二回繰り返して、油揚げを半分かじる。かじったあとの油揚げに、まただしを吸わせる。

「いやぁ、しみるね」

「どこか痛みますか?」

「ああ、いや、そうじゃない。虫歯も口内炎もないよ」

「それでは、何が?」

「幸せが、心にしみるってところかな」

 先生はそう言って、少し恥ずかしそうに笑った――


 ヒューマノイド型チャイルドサポートロボットNo.773

 それが私。

 本来チャイルドサポートロボットの役目は、対象の子どもが大人になったら終わる。No.773なんて、今やかなりの年代物。私より前のナンバーズはみんな活動を停止してリサイクルされている。でも先生は、私をナナミとしてそばに置き続けた。

本来は私がサポートする側なのだが、先生は私に人間のことをたくさん教えてくれる。だから私は先生を先生と呼び、先生は私を773(ナナミ)と呼ぶ。

 私のことをナナミと呼ぶのは先生だけだったが、今は先生の奥様と、先生のお子様も私をナナミと呼ぶようになった。先生は京都の大学に入学して、勉学に励んでロボット研究者となった。同大学で出会った奥様と、今は京都に住んでいる。

「先生……?」

 リビングには先生の姿がなかった。奥様とお子様はすでにお休みになっている。

「こっちだよ」

 夜風とともに、優しい声。見ると、ベランダへ続く窓が開いている。

「先生、お体に障ります」

 今日は大晦日。京都の冬は相変わらず寒い。

「大丈夫だよ。こんなに着込んでいる」

 先生はセーターにダウンジャケットを羽織っていた。ベランダにしつらえたベンチにひざ掛けを敷いて腰かけている。

「ここなら、聞こえると思ってね」

 ゴーン、ゴーンという重低音。除夜の鐘だ。

「それに、ちょっと寒い方が、しみるだろう?」

 私が手に持つお盆には、お湯を注いで3分が経とうとしている『緑のたぬき』が二つ。

「それでは、失礼します」

 テーブルにお盆を置き、私も先生の隣に腰掛ける。

「ナナミが来るまで、昔のことを思い出していたよ」

「『赤いきつね』……ですか?」

「お? そうだよ。どうしてわかったんだい」

 どうしてなのか、私にもわからなかった。論理的な説明はできないが、私も同じ夢を見ていたような気がする。

「ちょうど3分です」

 論理的な説明ができないので、そう言って誤魔化す。しかし3分経ったというのは本当のことだ。

「よし、食べよう」

 天ぷらはまだ崩さないようにして、そばをよくかき混ぜる。それから七味を投入。箸でそばを持ち上げると、外で食べているからか、いつもより湯気がたくさん立ち上がる。先生は勢いよくそばをすすり、ハフハフと言いながら夜空を見上げる。

「お、今日は星もよく見えるな」

「はい」

 私もそばをすする。鰹節の燻香が鼻腔をくすぐり、あたたかいそばとほぐれた天ぷらがのどを通り過ぎていく。しかしこれらの感覚は知識がもたらすものであって、先生の感じているものとは違うのかもしれない。

「また、難しいことを考えているね」

 先生には私の思考がお見通しのようだった。

「はい。こうして食事をさせていただいていますが、本来私には必要のないことです。私には、『美味しい』も『しみる』も、まだよくわかりません」

 どんぶりの中をかき混ぜながら、先生は何か考えている。

「物事の価値は必要か不要か、の二択ではないよ。必要・不要で言えば、僕がこうしてわざわざ寒いベランダで『緑のたぬき』をすするなんて、なかなかどうして必要性はないよね」

「この行為に、意味はないのですか?」

 私は驚いて尋ねる。

「まぁ、そんなに空腹ではないし、本当は寒いのが苦手だ」

「では、どうして……」

 先生は残りのそばを一気にすすり、つゆまで飲み干してしまう。

「君とこうして、大晦日に年越しそばを食べたら、楽しいかなと思っただけさ。味だけではなくて、いつどこで誰と食べるのかっていうのも、人間にとっては大事なんだよ」

「そうなのですね。まだまだ先生からは教わることが多々あるようです」

 私も先生にならって、どんぶりを空にする。

「塩分のとりすぎだって、母さんに叱られてしまうな」

 そう言って、先生はあの頃と同じように笑った。

 夜空を逆さにしたように、白いどんぶりの中には鰹節の黒点と七味の赤点がちりばめられている。「幸せしみる」の意味が、少しだけわかった気がした。

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先生と私 美崎あらた @misaki_arata

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