第8話
少しの沈黙の後、彼女は続けた――。
「大人になった彼女は、学生の頃よりさらに自信に満ち溢れてました。銀座の一等地の誰もが知るブランドショップで、黒のタイトスーツを颯爽と着こなして接客する姿は本当に素敵で―――男性だったら、誰でもクラっと来たかもしれませんね
やがて指輪も決まり、受け渡しはサイズ直し後になるので、彼が連絡先を書いて店を後にしました。そこから二人は始まっていったのだと思います」
―――そう言って早紀の瞳が、わずかに翳りを帯びた。
「それから1ヶ月ほど経った頃から、彼の様子が少しおかしくなり始めました。当時は、私がよく仕事帰りに寄って食事を作って、彼の帰りを待っていたりしたんです」
「合鍵を?」
「ええ、ですけど彼から大きな仕事が入ってしばらく残業続きになるから、食事はいい、と――。
そうなんだ……ぐらいにしか思っていませんでしたけど、きっと彼女と会っていたんでしょうね」
「それでも休日は、それまでと変わらずデートをしていました。ブランドショップは土日は稼ぎどきですから。彼女は仕事だったんでしょう。
彼はもう、私といても以前のように楽しそうではなかった。そしてあのブランドショップに行って3ヶ月ほど経った頃、切り出されたんです。全てをなかったことにしてほしいって」
「納得できるものですか」
「いえ――、驚きや怒りや失望といった色々な感情が
「矢並は、どんな様子でした?」
「ホッとしているといった感じでしょうか。訴訟なんかを心配していたのかもしれませんね。きっと聞き分けのいい女でよかった、と思ったんじゃないでしょうか」
そこで水上早紀は、わずかに自虐的に笑った。
「訴訟は考えませんでしたか? 権利は十分にあると思うのですが」
「そうですね。訴訟しようと思えばできたかもしれません。ですけど、そんな事にエネルギーを使う気にはとても――」
そう言って、彼女は言葉を飲み込んだ。
「いっそ、ストーカーでもしてやればよかったかな」
早紀が、少しいたずらっぽく微笑みながら言った。
成海は、その冗談に、歯を見せて笑った。
訴訟が心身を消耗するものだと理解している女性が、ストーカーなど馬鹿げた無益な事にエネルギーを使うはずがない。
「世間的には、状況から考えればストーカー化も十分あり得たでしょうね」
「ストーカー事件……多いですね。ストーカー対処に、何かいい方法はあるんでしょうか」
「やはり、われわれに相談していただくのが一番です。昔に比べれば我々もずいぶん動きやすくなりました。ただ、それでも出来ることは限られ、手遅れになってしまうケースが多々あります。そうですね……、ストーカーの気を自分から反らさせる、自主的に興味をなくしてもらう、エネルギーを注ぐ何か新しい―――」
そこまで言った成海の脳裏に、突如、稲妻のような閃光が駆け抜けた。
「どうされました……?」早紀が、小首をかしげた。
「いえ―――、ストーカー関連の嫌な事件を思い出しまして、すいません。やはり我々に相談していただくのが一番です」と、話を強引に締めくくった。
そうしながら今も成海の脳内で、幾多の考えが高速で駆け巡っている。断片的な材料が交錯し、結びついていく。
水上早紀の目が、ほんの一瞬、わずかに細まり、成海を鋭く観察した。
成海は、それに気づいていながら、気づかぬ振りをした―――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。