チョコレート、好きですか。

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チョコレート、好きですか。

 

「お母さん、チョコレートが大好きだったじゃないの」

 元新聞記者の坂巻は、都内のホテルでパティシエとして働く娘に言われた。

 五年前に、妻の純子は子宮がんで亡くなった。妻は、坂巻や娘の誕生日、お隣や親せきのお祝いだと、よくチョコレートを手作りしていた。

 母親の影響で、娘はいつしか、坂巻には思いも及ばない世界である、パティシエの門を叩いた。パリとブリュッセルで数年、修業し、ホテルではショコラティエとしても一目、おかれている。

 菓子メーカーが、毎年秋に主催するチョコレート検定試験を娘に勧められ、なにを今さら…還暦を過ぎた禿げオヤジが若い女性ら席を並べて。バカバカしいと一笑に付したが、妻の言葉を出されると、弱い。検定の朝、仏壇の遺影に線香をあげ、「頑張るからな」と決意表明をしてしまった。

 試験時間は一時間。問題は百問。質問に対し、四つの選択肢から正答を選び、マークシートにHBの鉛筆で塗り埋めていく。受けた初級は七〇点が合格ライン。合格率は九五パーセントを超える。坂巻は七一点だった。正直、ホッとした。


 あれから一年が経った。娘が突然、合格プレゼントを持って来た。東京とパリの全日空機往復航空券と、一週間のホテル予約。ビジネスは高いので、プレミアム・エコノミーだという。ホテルはインターネットのエクスペリアでパリ東部の緑濃い閑静なサン・マルタン運河に近いところを手配し、すでに支払ったという。娘がバリで修業時代に住んでいた地域だ。坂巻は、父親の都合も聞かないで、と戸惑ったが、娘の一言で余計な言葉を飲み込んだ。

「お母さんとパリに行ったの、もう三十五年前だよね」

 そうだ。社会部の記者として夜討ち朝駆けの忙しい毎日。結婚する直前、なんとか一週間の休暇が取れた。新婚旅行に行けるかどうか、分からなかった。

「サンジェルマン・デ・プレのドゥボーブ・エ・ガレの前で撮った写真、居間に飾ってあるじゃない」

 ああ、そうだ。坂巻は純子に誘われるまま、パリでもっとも古く伝統のあるショコラトリーという専門店で創業二百年を超える、その店に行った。

 フランス国王、ルイ十六世とともにフランス革命で断頭台の露と消えた、悲劇の王妃、マリー・アントワネットの専属薬剤師が開いた。マリー・アントワネットのピストルという商品は、苦い薬を甘いチョコレートで包み、王妃に喜ばれたという逸品だ。

 娘がお膳立てしてくれたなら、妻とのパリ旅行を思い出し、行くのも悪くはないだろう。娘の企画は用意周到で、一カ月後の十月下旬、パリで開幕する「サロン・デュ・ショコラ」に合わせた。世界六十ヵ国から五百もの出展があるチョコレートの一大祭典だ。

 日本からも十数社が顔を出す。期間中の五日間で十万人は集まる。フランス人は大好きらしい。でも、公式テキストによると、世界で一番、食べるのはドイツ人だ。

 フランス語は大学時代、第二外国語でほんの少し、勉強した。出発までの一カ月、頑張ってみるか。娘は笑う。

「英語で十分。パリ市内は、観光で持っているからね。昔のように、フランス語じゃないと、ダメなんて今はないよ」

 坂巻は仏壇に線香をあげた。娘からの合格祝いを報告した。

「美味しいの、たくさん、お土産にする。待っててね」

 遺影の妻は、なんだか、ほほ笑んだように思えた。


 サン・マルタン運河はパリ市民の憩いの場だ。気持ちのいい散歩コースだ。セーヌ河とパリ北東部のヴィレット貯水池を結ぶ全長四・五キロ、一八二五年に開通した。シスレーの風景画や、世界的にヒットした映画「アメリ」の舞台にもなった。若い女性、アメリの恋を描いた作品だ。日本では二○○一年に公開されている。

 メトロ五号線のジャック・ボンセルジャン駅から歩いて数分、娘が予約したホテル、サン・クリストフがあった。三ツ星のどっしりした五階建てだが、客室は四十ほどとこじんまりしている。運河まで指呼の間だ。

 フロントの男性は五十がらみ痩身、長身で、最初、フランス語は話せるかと聞いてきたが、坂巻が「アン・プ」、少しだけと返答すると、すぐに英語に替わった。チェックインを済ませ、四階の四○三号室で旅装を解いた。

 全館禁煙。部屋にバスタブはない。シャワーだけ。これは、帰国後、娘にいわねばなるまい。日本人には浴槽が必須だと。ワイファイのパスワードをフロントで教えられたが、スマートフォンで通話とメールするぐらいの坂巻にはあまり用はない。浴室のドアに英語と仏語で節約は環境保全につながるという注意書きがあった。歯磨きするときに、蛇口は締める。身体をシャボンで洗っているときは、シャワーを止める。つまり、水を流しっ放しにしない。トイレットペーパーは使いすぎない。このホテルのオーナーの基本コンセプトとある。

 坂巻はヘンに納得した。こういう個性は大切だ。信念を持つことは、良心に恥じない記事を書くという新聞記者の矜持につながる。そんなことを考え、パリに来ても、長年の仕事で付いた習性はこういうことかと、苦笑した。パリの観光コースは娘が細かく指示し、ご丁寧にもコンパクトなガイドブックも用意してくれた。

 十月下旬のパリは、灰色の空の下、厚手のコートで襟を立て、そこかしこの犬の糞を避けながら交差点の赤信号もものともせず、市民になりきって歩く。歩きたばこがやたら多いので、完全禁煙の坂巻には、煙たいだろうが、郷に入れば郷に従えとも。娘のアドバイスだった。

 ところが、翌日のパリは、夏日だ。休日とあって朝から運河の清涼な水辺は、家族連れやカップル、老いも若きも大勢の市民でにぎわっていた。小路のカフェやレストランは歩道を占領するテラス席に英語、ドイツ語、スペイン語、中国語、ロシア語、日本語などさまざまな外国語が飛び交い、観光客でいっぱいだ。みんな、ワインやビールのグラスを片手に、わいわいと歓談している。輝くような日差しを浴びている。

 からし色のブルゾン、ブラックの長袖ポロシャツ、グリーンのチノパン姿で、運河沿いをブラブラし、途中、小さなクレープとパニーニの店前で立ち止まった。最寄りのメトロの駅名をとって、クレペリ・ボンセルジャン。四十前後の、多分、インド人と思われる男性が売っている。

 坂巻は空腹を覚え、店頭のメニューを見て、チキンのパニーニを注文した。四ユーロだ。パニーニが焼き上がり、坂巻はそれを頬張る。美味しい。一口、二口。そのとき、間口が二メートルもない、奥に長ひょろい店内から、女性の声がした。

「日本の方ですか」

 坂巻と同じぐらいの背丈、一メートル七十ちょっと、ナチュラル感のある長髪の女性が姿を現した。Aラインが流れるようなベージュのロングコートを着ている。娘と同世代、三十前後だろう。手に、紙に包んだ食べかけのパニーニを持っていた。

「このお店、美味しいでしょう」

「うまいね」

「彼が店を切り盛りしています。インドから来て、ここで三年です。私は日本から来ると、必ず、食べに来ます」

「お仕事ですか」

「ええ、ファッション関係の会社で、イベントの企画と通訳を兼ねています。旅行ですか」

「娘がプレゼントしてくれましてね」

「えっ」

 彼女は目をまん丸くした。

「お嬢さん、お父さん思いですね。素晴らしい!」

「合格祝いなんですよ」

「何に合格されたのですか」

「チョコレート検定というのです。年甲斐もなく、昨年の秋に受けて、いやはや、なんとか受かって。忘れたころに、娘からパリの航空券をもらいましてね。ちょっと、しゃべり過ぎかな」

「いいえ。心が温まります。彼に説明してもいいですか」

 彼女は、店主に目を移した。英語で今のやりとりを話した。

「さすが、日本人の親子は情が深い。インド人も同じですって」

 坂巻は思わず、右手を差し出し、店主に握手を求めた。店主は右手を胸当てが付いた茶色いエプロンで拭い、調理台越しに坂巻の手を握った。

「日仏、ていうか、日印友好ですね」

 彼女は、ほほ笑んだ。澄んだ双眸が、この日のバリの空のように透明感がある。

「わたし、西嶋恵美といいます」

 軽く会釈した。

「こちらこそ、失礼しました。ぼくは、坂巻といいます」

「彼は、ムッシュー・モディです。インドの首相と同じ名前ですよ」

「そりゃあ、すごい」

 店主は、黒い肌にとても白いギョロッとした目で笑顔を返した。

「パリにはどのぐらい滞在されるのですか」

「賞味、五日ですよ」

「目的はありますか」

「娘がパティシエでしてね、東京のホテルで働いています。世界中から美味しいチョコレートが集まるサロン・デュ・ショコラに行けと、命令されました」

「ああ、あのポルト・ドゥ・ベルサイユの見本市で開くショコラのお祭りですね」

「そう、ショコラ、ですね」

「こちらでは有名ですもの」

「娘が、入場券を二日分も購入してね、あすからちょっと、のぞいて来ますよ」

「わたしも機会があれば一度、行ってみたいです。あっ、ごめんなさい、電話が」

 彼女のスマホが鳴った。着信音は、シャンソンで有名な〈パリの空の下、セーヌは流れる〉の曲だ。スマートだ、イカシテいるな、と坂巻は感じた。

「日本から、お偉いさんが来たんですって。急な打ち合わせが入ったわ。坂巻さん、よろしければ、わたしの名刺です」

「ぼくは、名刺を持ち合わせて」

「彼が作る美味しいパニーニの縁ですから、助けが必要な時は、どうぞ、お気軽にご連絡くださいね」

 彼女は、店主に英語で二言、三言~また来るから、商売繁盛してね、という趣旨を伝え、ジャック・ボンセルジャン駅に向かって足早に去った。

 店主は、坂巻に英語でいった。

「わたしの守護天使ですよ」


 ポルト・ドゥ・ベルサイユはパリ中心部、ノートルダム大聖堂があるシテ島からみると、約四㌔離れた南西部にある。いくつかのテーマを同時に出来る大規模なイベント開催施設だ。翌日は、この季節らしい寒い曇り空で、坂巻は濃いオリーブ色の革ジャンに赤いマフラーを首に巻いて、メトロを乗り継ぎ、会場に到着した。午前十時の開場前には、すでに長蛇の列だ。小さな子どもを連れたファミリーが目立つ。

 フランスを中心に世界各国のひと口大で食べるボンボンショコラやタブレットという板チョコ類、さらにケーキ、キャラメル、ヌガー、キャンディー、スパイス、洋酒類、作業道具など合わせて二百ものブースがずらっと並んでいる。試食をしているだけで、口も腹も、そして気分も十分、満たされる。

 色彩の豊かさも坂巻には新鮮だった。基本的に濃い褐色のチョコレート色が頭に浮かぶが、半ドーム形のボンボンショコラのショーケースは、イチゴ色、草色、小麦色、深いオリーブ色がずらっとチョコ・ファンを待ち、山盛りのスパイス売り場は赤いレッドペッパー、黄色いターメリックの対比、野菜畑に模したコーナーには、本物のニンジン、ダイコン、カボチャ、タマネギのように彩る。肉屋のサラミ、魚屋のイワシと見まごう、そっくりなのもある。これは、楽しい。

「坂巻さん!」

 人ごみの向こうから、女性の声がした。振り向くと、西嶋だ。ネイビーブルーに黒いビッグチェック柄のステキなモヘアコートを着ている。一緒にいるのは、坂巻ぐらいの年齢の男と若い男たちだ。四、五人だろうか。

「ひょっとしたら、会えるかと思っていました」

「びっくりしましたよ」

「きのう、社に戻ると、日本から来た幹部を案内することになって。坂巻さんが行くといわれていたので、会えるかなあと思っていました。やっぱりね」

「そうですか。こんな素晴らしい会場に来られて、幹部の方も喜んでいるでしょう」

「ファッションとチョコレートのマリア―ジュです」

「はあ、アパレルのショコラ感覚?」

「日本のウイスキーとチョコレートのマリア―ジュの特別企画を会場でやっているでしょ、その拡張版で新たなファッション・センスを模索するんですって」

「ハロウィーン、クリスマス、バレンタイン、イースターとマーケットはどんどん広がっているけれど、それぞれの業界、新規開拓に取り組んでいるなあ」

「あさっての予定は決まっていますか」

「いや、サクレクール寺院やモンパルナスなんか、適当に観光しようかと」

「それじゃあ、わたしが好きなショコラトリーを案内しますよ。午後でもいいですか」

「それはうれしい。いつでも」

「午後二時、サンジェルマン・デ・プレの教会前で、どうですか」

「ええ、元の仕事柄、大丈夫です」

「お仕事、なんですか」

「元新聞記者ですよ」

「そうですか」

 若い男が割って入った。

「西嶋さん、みなさん、お待ちですよ」

「今行くわ。坂巻さん、それでは、また」

「ありがとう」

 西嶋は、若い男に急かされて離れた。

 人の背丈を超えるほどのエッフェル塔、数メートルはあろうかという巨大なゴリラ。これもチョコレートだ。会場の壁際で、いくつもの家族連れがフランスパンのバゲットのサンドイッチをパクついていた。高級感のあるショコラと、とても庶民的な食事の微妙な違いが、坂巻には面白かった。


 新聞記者なら、どこであろうと、地図を調べて目的地に着く。職業のイロハだ。ましてや、グーグル・マップの時代だ。そんな気持ちで西嶋に応えたが、サンジェルマン・デ・プレは、あのマリー・アントワネットの店がある、純子との思い出の地だ。

 もうひとつ付け加えるなら、少しばかりロマンチストの坂巻の心の片隅に、自分を米国の名優グレゴリー・ペックになぞらえていたかも知れない。永遠のヒロイン、オードリー・ヘプバーンと共演した映画「ローマの休日」で、ペックが新聞記者を演じたように。

 薄曇りの暖かい午後、早めにメトロを乗り継ぎ、サンジェルマン・デ・プレ駅に着いた。五四二年に創建されたという現存する教会としては、パリ最古。ロマネスク様式の高い鐘楼は歴史を感じさせる。観光客はもとより、近くにパリ第五大学があり、若者も多い。

 待ち合わせ時間ピッタリに、西嶋が現れた。ゆったりと羽織ったミディアムグレイのベルテッドコートが優雅だ。

「お待たせしました」

「いやいや、さっき着いたばかり」

「お食事は」

「また、あのパニーニで済ませちゃったよ」

「そうですか」

「西嶋さんは」

「わたしも朝、買ったパン・オ・ショコラとコーヒーで終わり」

「お互い、シンプルだね」

「パリは、夜がけっこう、重いから、わたしは、昼は、いつもあっさり派です。このサン・ジェルマン大通りを東のオデオン駅に向かうと、パトリック・ロジェ、大通りを渡って南に向かうとユーゴ&ビクトールとパティスリー・サダハル・アオキ。どちらも歩いて十五分ぐらい。わたし的には、まずはパトリック・ロジェかな」

「最初に行きたいところがあるが」

「どこ」

「ドゥボーブ・エ・ガレ」

「ああ、マリー・アントワネットのところね」

「いいかな」

「もちろん、もちろんです」

「行きましょう!」

 西嶋は颯爽と歩き出した。大通り沿いを西に向かう。角にカフェのレ・ドゥ・マゴがある。サルトルやボーヴォワール、ピカソ、アンドレ・ブルトンらが常連だった。次の角にはカフェ・ド・フロールが緑の葉の中に看板を掲げている。詩人のアポリネール、近年はファッション・デザイナーのソニア・リキエルが通った。二つ目の角を右に曲がると、教会から歩いて三百メートルほど、お目当ての店に到着した。

 渋いミッドナイトブルーに金色の店名。正面入り口を挟んで、教会の窓のような上面が半円にかたどられた二つのショーウインドー。薄れた記憶を必死に手繰ったが、思い出の写真の範囲を出ない。あの写真、だれに撮ってもらったのだろう。

「入りますか」

「店の前で写真、撮ってくれるかな」

「いいですよ。ここ、何か思い出のところですか」

「うん、亡くなった妻と一度、来ました。もう三十年以上前ですが」

「余計ことを聞いて、ごめんなさい」

「いやあ、そんなにヤワじゃありませんよ。娘に、マリー・アントワネットのピストルを買ってくると約束したので。このデジカメでお願いしますね」

「はい!」

「良かったら、西嶋さんも一緒にいかがですか。あの若者に撮ってもらいましょう」

「ええ、ぜひ!」

 次は日本でも人気があるユーゴ&ヴィクトール。世界最古という一八五二年創業のデパート、ル・ボン・マルシェ・リヴ・ゴーシュの近くにある。トロッとしたキャラメルやフルーツのソースが入ったドーム型のボンボンショコラが有名だ。

 サン・ジェルマン大通りに面したパトリック・ロジェはグリーンと黒を基調にした店構えで時代の先端を行く雰囲気だ。メトロの乗り継ぎだけでは時間が足りず、タクシーも使ってフランス革命の始まった地・バスティーユ広場界隈のアラン・デュカスは通りから奥まった中庭に面してショップ&工房がある。静かな佇まいだ。

 ジャック・ジュナンのカフェを併設した店は、天井が高く広い。シルバー色の薄い金属製のパッケージはとてもスタイリッシュだ。四角いボンボンショコラが石畳のように敷き詰めてある。坂巻と西嶋は、ウーロン茶、アーモンド、ショウガ味をつまんだ。一粒、一粒のデザインは現代アートの表情を見せ、風味は新世界に誘う。至福の時間。髪をミニョンにし、端正な若いフランス人女性店員から、賞味期限は二週間と念を押された。

 もう一軒。本日の最後は、フランソワ・プラリュだ。マチスやピカソ、シャガールら世界屈指の国立近代美術館が入っているポンピドゥー芸術センターの前にある。

 パプアニューギニア、タンザニア、コロンビア、インドネシアなど産地が異なる十種類のカカオで作った正方形の板チョコセット、ピラミッド・デ・トロピックに目が止まる。それぞれが国別にオレンジ、青、黄、緑、紫・・・と十色でラッピングされ、見ているだけでもトロピカルな気分になる。出来たての菓子パン、ブリオッシュの試食も出来た。

 西嶋のスマホから〈パリの空の下、セーヌは流れる〉の着信音だ。

「わかった。どこなの、そのレストラン、わたしは初めて。うん、調べて行く」

「仕事ですか?」

「ごめんなさい。あの日本から来た幹部とこちらの取引先が急に会食することになって通訳ですぐに来いと。坂巻さんと食事したかったのに」

「仕事優先です。間に合いますか」

「大丈夫です。坂巻さん、あすはディナー、どうですか」

「もちろんです。西嶋さんがよろしければ」

「じゃあ、あす午後七時でいいですか」

「はい。場所は」

「ふふ、ヒ・ミ・ツ」

 西嶋は唇に人差し指を当てた。目が笑っている。

「このフランソワ・プラリュの店の前で。分かりやすいでしょう」

「はい」

「楽しみにしてね」

 坂巻はタクシーを見送った。グレゴリー・ペックならスクーターで目的地に送り届けるだろうが、あいにく現実は映画ではない。両手に土産のチョコレートがずしりと重い。坂巻は、六十を超えて、今さらと思ったが、西嶋に愛おしさを感じ始めた。彼女の表情に妙に懐かしさを感じる。これもパリとショコラのマジックのなせるワザかと思いつつも、自然とニヤついている自分がおかしかった。


 豚足!

 夢とロマンのショコラの世界から、真逆とは口が裂けてもいわない。ただ、ディナーに西嶋が選んだ店、その意味通り、オ・ピエ・ド・コションは知る人ぞ知る人気店だ。

 豚足のグリルは、大きさが長さ二十㌢、直径七、八㌢はあろうか。濃いキツネ色にこん焼けて、白い大皿に鎮座している。フランス語でガルニチュールという付けあわせは、メニューにフライドポテトとあったが、坂巻は、これが苦手だ。西嶋も同じで、店に伝えると、気持ちよくブロッコリー、インゲン、ニンジンの温野菜に替わった。前菜にスコッチ風のスモークサーモンを頼んだ。それに、ボルドーの白ワイン。ちょっと、値が張った。白ワインは、坂巻の好みだ。

「びっくりしたよ」

「でも、豚足が好きで良かった。ちょっとリスキーかなと。ホッとしました」

「大好きだ。今住んでいる東京の中野で馴染みの焼肉屋にうまい豚足があって、そのままでもいいが、焼くとコラーゲンがとろけて、ホッペが落ちそう」

「きょうは、ナイフとフォークで食べますか」

「なして? フィンガーボールもちゃんとあるし、これは手でがっつくしかない」

「あら、坂巻さん、北海道ですか」

「えっ」

「なして、という言葉、北海道弁でしょう」

「よく知っているね。そう、北海道の釧路です」

「ホントですか!」

 西嶋は、思わず声を高めた。

「母も釧路ですよ!」

「それは驚きだ。どちらですか。今も釧路ですか」

「いえ、杉並の浜田山です。釧路に浦見町ってありますか…母は中学生まで、釧路の公務員住宅にいたそうです。確か、通っていたのは東中学校とか。詳しくは知りません。坂巻さんは」

 坂巻は動揺した。表情には見せまいと必死に心の高ぶりを抑えた。フラッシュバックだ。中学生時代の淡い初恋。相手は、同級生の西嶋由紀子。雪の降りしきる夜、浦見町の公務員住宅五階の明るい窓を、電信柱の陰からずっと見上げていた。

 一周四百メートルのグラウンドでランニングする彼女。揺れるポニーテール。彼女はクラスでは静かに読書をしているタイプだった。片思いだと思い、告白は出来なかった。

 ただ、今でも覚えている。彼女が、ぼくに突然、尋ねた言葉。

「チョコレート、好きですか」

「嫌いだよ」

 ぼくは、まったく正反対の気持ちで、ぶっきら棒に答えた。それが、彼女と交わした唯一の会話らしい会話だ。

 だれにもいえず、もどかしい初恋に封印し、四十数年が経つ。目の前に、多分、いや、この話の状況では間違いなく、西嶋由紀子の娘がいる。道理で、娘に、母の面影を重ねていたのか。

「…ぼくは、南大通です。釧路川の幣舞橋の近くです」

「そうですか。なんだか、不思議な縁。そうか…だから、坂巻さんとお会いしたとき、親近感があったのね」

「お母さん、今、どうしているのですか」

「浜田山で小さなケーキ屋さんです。坂巻さんの娘さと絶対、相性がいいですね。母は、スイーツがムチャクチャ、好きな人です。個人的なことを話してもいいですか。 坂巻さんの楽しい旅のお邪魔にならなければいいのですが」

「ぼくで良ければ…」

「わたし、シングルマザーで、こちらに来ているときは、子ども二人を母に預けています。頼りっ放し」

「いいじゃないですか」

「父は、いません。アルコール依存症の父に愛想をつかして、母はずっと前に離婚しました。当時、高校生だったわたしも賛成しました。…食事のときに、ふさわしい話題ではありませんね。ごめんなさい」

「そうですか。大変でしたね」

 心の中で、〈お母さんは、独りですか…〉とつぶやいた。

「豚足、美味しい!」

 西嶋の白い、長い指がルージュをひいた口元に、コンガリ色の肉片を巧みに運んでいた。


 坂巻は帰国した。

 娘は、視線が定まっていないよ、と辛らつな声を浴びせた。パリで、アバンチュールでもあったのと、死語になっているような語彙を投げつけた。ルーブル、オルセーといった有名な美術館、エッフェル塔、凱旋門、ノートルダム大聖堂の観光スポット、シャンゼリゼ辺りもちゃんと、歩いて来たのでしょうね、と報告を求めた。マリー・アントワネットどころか、数々のボンボンショコラの土産をほとんど自分と友人、職場の同僚で独占したにも関わらず。

 じき、クリスマスだ。坂巻は意を決し、キッチンに立った。ホームメイドのボンボンショコラ作りだ。板チョコを何枚も買い、溶かして小さなハート型を試してみよう。一緒に生クリームを混ぜたガナッシュやフリーズドライのフランボワーズもいい。

 坂巻は、妻の仏前に供えた。

「純子さん…ぼくだけ楽しんでごめんなさい。あの子に、検定を受けるようにあおられ、ここまで来たけれど、正直、楽しいよ。お供えしたドゥ―ボーブ・エ・ガレは美味しかったかい。比べものにならないが、ぼくが精根込めて作ったのも食べてね。…純子さん、浜田山に行ってもいいかい。中学時代の初恋の人がケーキ屋さんだってさ。不思議だなあ、あの子と同業だ。これも運命のいたずらだろうか。…怒らないでね。今は独りらしい。ぼくの初めての作品を食べてもらっていいかい。そうか、許してくれるか。ありがとう」

 正直、自分勝手な男だと思った。遺影に語りかけて、免罪符を得ようとしている。たかだか、ずっと、ずっと昔の初恋の人に会いに行くだけじゃないか。いや、会えるかどうか、わからない。渡す勇気もなく、店の前で、踵を返すかも知れない。黙って店に入れば、間違いなく、ケーキを買う、甘党の禿げオヤジとしか、彼女には見えないだろう。

 でも、人生百年だ。互いに元気に生きていることを確かめるだけでも、それが声にならず、心の中だけだとしてもいいじゃないか。


 凍えるような師走入りの午後、東京に初雪が降りそうだ。小さな紫色の看板に、金文字のアルファベットで描いた〈シェ・ニシジマ〉。大きなガラス窓越しに、クリスマスツリーのイルミネーションが輝いていた。

                            了                                

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