第3話 『始まりの一冊』


 店を出てると、辺りは薄暗くなっていた。赤みを帯びた空もいつの間にやら黒へと変わり、街頭と店々から洩れる光だけが通りを照らす。そこまで『回想亭』に長居した訳ではないが、どうやらちょうど日の暮れる瞬間を店の中で過ごしたらしい。


「眠い。兄さんボクはとても眠い」


「知るか。エナドリでも飲んどけ」


「いやいやボクはコーヒー派だよ……じゃなくて。可憐で甘えん坊な妹は、兄さんに膝枕をして貰いたいなぁなんて思う訳さ」


「寝たいだけだろ。黙って歩け」


「つれないねぇ」


 八紐はわざとらしくトロンと妖艶な瞳で志黒を見るが、志黒は一切気にしない。たとえ妹だろうと己の仕事を増やそうと企む輩に、慈悲を与えるつもりなどなかった。ふあぁと小さな欠伸を見せる八紐と並び、志黒は静かに歩を進める。


「ここまで来ると人気ひとけもねぇな」


「そろそろ侵入禁止区域だからね、当然だろう。……それともなんだい、静かな夜道は怖いよぅとでも言いたかったのかな?」


「……先行く」


「あ、ちょ、待ちたまえよ……っ。い、いや本当に待って、謝るから置いていかないでくれ」


 慌てた八紐は、爆速で進む志黒を追いかける。志黒は八紐を後ろ目で見つつ、決して近寄らせないペースを保ちながら廃古本屋へと歩いていった。


 そうして数分。八紐は志黒に三秒遅れて廃古本屋に到着する。ガラス扉を開こうとする志黒の横に、息を切らした八紐が立った。八紐は兄が扉を開けるのを待ち、兄に続いてそのまま中へ入ろうとする――


「兄さん?」


――が、しかし。何故か志黒はガラス扉を開いたまま固まり、店の中を見つめていた。珍しく真面目な顔をした志黒に、八紐は首を傾げて問いかける。


「……入らないのかい?」


 志黒は八紐に、肩を叩かれハッとした。違和感だ。志黒は昼には無かった不気味な空気を、この廃古本屋から感じたのだ。


「店の中に、何か?」


「……いや、別に変わったものはねぇよ。多分俺の記憶違いだ」


「……?」


 頭の出来に自信はない。だから志黒は「記憶違い」と割り切る。


「一応、話して欲しい。兄さんの直感は、兄さんが思うほど鈍くない」


 だが八紐は問う。兄の言う「記憶違い」は大抵の場合、記憶違いでは終わらないと八紐は経験で知っていたからだ。


「兄さん」


「……分かったよ、うるせぇな」


 すぅと小さく息を吐き。気づいた変化を口にする。


「『ビーズテッド』」


「え?」


 それは定食屋で聞いたタイトル。最高クラスの呪いを誇る、世界有数の危険シナリオだ。己の横顔を見つめる八紐に、顎で机の一角を示す。


「――あんな場所に置いてあったか?『ビーズテッド』のラノベ」


「……っ」


 記憶が正しければ、机の上になど何も置いていなかった、はずだ。しかし小一時間前の何気ない記憶なんてものは酷く曖昧で、初めからあったと言われれば頷いてしまう気もした。


 ここは侵入禁止地帯である。知らぬ誰かが本を動かす可能性は低いし、本がひとりでに移動する可能性なんてそれ以上に低い。だからこそ、自分の記憶力に自信の無い志黒は「記憶違いだ」と判断したのだが――


「あぁ、兄さんに言われて初めて気づいたよ。……だが断言する。あんなところに本など絶対に無かった。人並み外れて優秀な記憶力を持つボクが、100%と言い切ろうじゃないか」


――その八紐の宣言によって、二人の答えは固まった。


「……マジかよ。誰だ?」


「さぁね。とりあえず捕縛案件なのは間違いない」


 店内に犯人が残っている可能性を危惧しつつ、二人は慎重に中へと進む。だが物音はしない。気配も無し。それどころか、誰かが侵入した痕跡すら見当たらなかった。


「訳が分からねぇ。『ビーステッド』を移動させて、そのまま何もせず帰ったとでも言うつもりか?」


「ボクにも分からない……けど、まずはその『ビーステッド』から調べるべきだろうね。証拠が残ってるとしたら、間違いなくそこだ」


「……そうだな」


 志黒は頷き、『ビーステッド』へと近づいていく。とうに電気など止まったこの暗い室内では、目に映る情報が頼りない。二人は周囲を警戒したまま、コツコツと足音を立て、何も見逃さぬよう慎重に進んだ。


「――――」


 そして、目の前に立つ。その『ビーステッド』には、何故か威圧感があった。ちらりと脳裏を過ぎるのは救援要請。ベテランの連中に助けを求め、対応して貰うのは選択肢として間違いではない……が。


「……はっ。『ラノベが勝手に動いたので助けてください』、なんて意味分かんねぇこと言えるかよ」


 せめてもう少し情報が必要だった。まともに説明すら出来ない状態で、情けなく救援など頼めるか。


「開くぞ、『ビーステッド』」


「……あぁ」


 確認するのは、最後のページ。第何版の第何刷なのか。そして製造番号がいくつなのか。志黒は意味もなく慎重な手つきで、『ビーステッド』に触れた。


 『ビーステッド』の第一巻は、この世に100万部以上存在する。その『始まりの一冊』がこの場で見つかる確率など、文字通り万に一つも有り得ない。


「……」


 だからこそ、緊張している現状自体がそもそもおかしいのだ。山ほどある第一巻の中から探し出すのではなく、ただ一冊を確認するだけの作業。普通に考えれば、十秒もかからずに終わるはずの作業。何を怯える必要がある。


 スローに流れる世界の中で、捲られるページが答えを示す。


――『初版第一刷』


 心臓が大きく跳ねるのが分かった。だが落ち着け、製造番号はまだ見えない。冷静に、呼吸を整え、荒ぶる瞳孔を抑えつける。

 ふと、手を握られる感覚に気づく。眼球だけを動かし横を見ると、動揺に揺れる八紐が大きく目を見開いていた。


「……逃げよう、兄さん」


――『製造No.0000001』


 『始まりの一冊』。呪われた書物。


「――――ッ」


 志黒は反射的に八紐を抱え、店の外へ向かって駆け出した。ガラス扉を開きっぱなしにした数十秒前の己に感謝しつつ、全速力で外を目指す。


「クッソ、が……ッ」


 しかし、もう手遅れだった。元より月明かりも無い暗闇だったのが、一層の闇に包まれていると気づいた。


 呪いの現実ノンフィクションへの侵食。即ち、食事が始まった。


 黒いモヤが視界を覆う。『ビーステッド』の呪刻深度から推測するに、そのモヤの範囲は凡そ半径30m。そして喰われるまでの猶予は、約一秒。つまり逃走は不可能である。


「……っ」


 見極めろ。最善策を。間違えれば妹は死ぬぞ。加速する思考の中で、0%を1%に変える為の選択肢を探す。あるのかも分からない正解に手を伸ばす。そして、決めた答えは。


「――没入はいるぞ、八紐!!」


「……ッ、了解」


 喰われる前に、飛び込む。解呪の手順を、食事中の書物に押し付ける決断を下した。


 二人の適正はE。対して『ビーステッド』の難易度はS。解呪なんて出来るのか、なんて疑問は無視だ。たとえこの世の誰も成功していなかろうと、やらなきゃ死ぬならやるしかない。


 二人は『ビーステッド』の表紙の上で手を重ね、八紐は詠唱を口にした。


「――“我ら、貴顕の闇を祓う者”」


 同時、二人の手が表紙の中へと沈み込む。それは喰われるのではなく、侵入……言い換えれば、自殺。徹底した準備の元で行う解呪を、何の用意もなく開始するという意味を、志黒も八紐も理解していた。


 だが、それでも。


「後悔させてやるよ、『ビーステッド』……ッ!」


 志黒は獣のように笑う。牙を剥き、獰猛に口角を上げてみせた。それは諦めとは程遠い、暴力的な意志の塊だった。


 そして、その後。

 誰も居なくなった店の中には一瞬の風だけが残り、耳鳴りがするほどの静寂が満ちる。黒のモヤも、全て『ビーステッド』に吸い込まれるように消えていった。





 『ビーステッド』――「薬学と魔法の世界」。心抉る薄暗いストーリーで多くの人を魅了した、不朽の名作。


 そしてさらに、情報を一つ付け加えるなら。

 無数の死亡を前提とした、絶望的な『死にゲー』である。

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そのライトノベルは人を喰う 孔明ノワナ @comay

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