リア充なんて一生無理だと思ってた

蕃茉莉

 立ち食い蕎麦屋の自動ドアが開いたとたん、眼鏡が曇った。

「らっしゃい!」

 威勢のいい声に迎えられながら眼鏡をふいて券売機にむかい、僕はたぬきと生卵のチケットを買った。

「うどんで」

 カウンターにチケットを置いてセルフの水を汲みトレーに置く。所在なく茹で上がりを待ちながらふと横を見ると、赤いセーターの上に厚手の白いジャケットを着た女性が、カウンターでそばをすすっていた。そばには、大きな油揚げが乗っている。

「赤いきつね」

 思わず声が口から出たのは、冷え切った空気の中から温かい店に入り、気が抜けていたからだ。女性がそばをすすりながら顔を上げてこちらを見た。しまった。

「すっ、すみません」

 見ず知らずの女性に、なんということを。

「お待たせしました!」

 トレーに、揚げ玉と生卵の乗ったうどんが出された。

「緑のたぬき」

 うどんを見た女性が、にこりともせず言った。今日のネクタイが緑色だったことに気が付いて、僕は思わず噴き出した。

「うどんですけどね」

「私も、そばだけど」

 女性の口元がすこしゆるんだ。

「すみません。失礼なことを言いまして」

「どういたしまして」

 女性は、ふたたびどんぶりに向かい、白いジャケットに一点の染みもつけることなくそばを食べきると、

「ごちそうさま」

 食器下げ口にトレーを置いて、さっそうと立ち去った。

 くたびれたスーツを着たサラリーマンや、汚れたジャンパーを着たおっさんが入れ替わり立ち代わり入っては出ていく、駅前の蕎麦屋。今日はクリスマスイブだというのに。今年はサエコと過ごせると思っていたのに。立ち食いうどんが夕食だなんて、先月にはまったく思っていなかった。


 サエコと別れたのは三週間前。その日は一緒に食事をする約束だったのに、僕はスマホを忘れ、おまけに夕方訪れた最後の取引先で大クレームを受けて二時間拘束された。帰社後もその件で部長に叱責されたものだから、レストランにたどり着いたのは待ち合わせの約束から三時間もたってからだった。

部長の小言を振り切るように会社を飛び出し、走りに走ってレストランにかけこんだが、サエコは帰ったあとだった。

「ずいぶんしばらくお待ちでしたよ」

 息を切らして大汗をかいている僕に、ウェイターが冷たい声で告げた。

 考えてみたら、僕はサエコの情報をすべてスマホの中におさめていた。だから公衆電話から連絡しようにも連絡先がわからない。そのことにこの日初めて気がつき、どれほど後悔したことか。後悔して後悔して、不安で不安で、申し訳なくて申し訳なくて。レストランからまた走って駅に行き、乗った電車の中の時間の長かったこと。駅からまた全速力で家に着き、テーブルの上に置きっぱなしだったスマホを見た。数十回の着信とLINE。あわててサエコに連絡したが、当然ながらサエコはひどく冷たかった。

「状況はわからなくもないけど、連絡くらいできなかったの」

「ごめん。スマホを家に忘れて」

「私の電話番号、どこにも控えてないんだ」

「ごめん」

「そういう、軽い関係ってことだよね」

「そうじゃない」

「もういい」

 LINEと電話をブロックされて、サエコとの恋は終わった。そういえば、僕はサエコの住所も知らない。ゲームのチャットサイトで会って、話をするうち住まいの駅が近いとわかり、リアルで会って本名を知った。LINEを交換して、付き合うようになった早々にこの不始末。趣味も一緒だし、顔立ちも好みで、僕はこの先ずっとサエコと時を過ごしていきたいと本気で思っていたのだけれど。でも仕方ない。あまりにも間が悪い。自分が悪い。そう思っても、なかなか気持ちはふっきれなかった。


 ふっきれないまま、年が明けた。

 僕の会社は1月が新年度で、人事異動もこの時期が一番多い。気持ちが晴れない僕にとって唯一嬉しかったのは、気の合わない部長が別の支店に転勤になったことだ。かわりに来る部長の名前は、「相良月子」と人事異動名簿に書いてあった。女性の上司は初めてだ。

 仕事始めの日、部長の席で長身の女性が段ボールを開けていた。

「おはようございます」

 挨拶をすると、女性は顔を上げ、こちらを見るなり、おや、と言った。

「緑のたぬき」

「あっあの時の」

 赤いきつねだ。

 上司はにやにや笑っている。

「まさかこんなところで会うとはね。これからよろしく」

「いっいえ、こちらこそ、よろしくお願いします」

 とんだ失態を覚えられていたうえに挨拶の先を越されて、僕は寒いのに冷や汗をかいた。


 二週間後の週末。部署の歓迎会が開かれた。相良部長のほかに二人ほど異動があったので、13人のちいさな技術カスタマー部は一気に空気が変わったように感じる。それまでの部長は営業畑から異動してきたせいか、どうも話が通じないことが多かったのだが、相良部長はもともと開発部にいた人で、製品情報に詳しかったから、頼りになる感じがした。

「そういえば、緑のたぬき」

「もう勘弁してくださいよ」

 だいぶ酒が回ってきたころ、部長に話しかけられて僕は首をすくめた。

「つい口から出ちゃったんですよ」

「いいじゃん。面白かったよ」

 部長は笑いながら、ウェイターが運んできたハイボールを受け取った。

「気になってたんだけどさ、なんでクリスマスイブにしょぼい顔で立ち食い蕎麦屋になんかいたの」

「それは部長も一緒じゃないですか」

「あたしは、外回りの途中でおなか減ったから」

「よく行くんですか、ああいうところ」

「うん。早いし、美味しいからね」

「たしかに」

 話すうち、僕はいつの間にか間抜けな失恋の話を部長にしていた。

「ほんとにタイミング悪くて」

「ほんとだね。しかも言いがかりみたいなクレーム」

「前の部長には僕の応対が悪いってえらく叱られましたよ」

「叱られやすい顔してるのは確かだね」

「ひどいなぁ」

 お開きになって、みんなで外に出ると、きん、と冷えた空気の中を雪が舞っていた。

「わあ、雪だ」

「寒いはずだね」

 滅多に雪の降らないこの地域では、散らつく雪はロマンチックだ。

「じゃあ、今日はおつかれさまでした」

 帰ろうとすると、部長が僕の名前を呼んだ。

「明後日の日曜日、空いてない?」

「大変残念ながら、特に予定はないです」

「合わせたい人がいるんだ」

「僕に」

「そう」

 僕はよほど怪訝な顔をしたらしい。相良部長はにやにや笑いながら、

「暇ならおいでよ。取って食ったりはしないからさ」

と怖いことを言った。

「わかりました」


 日曜日、指定された喫茶店に行くと、上司の隣に、忘れようとしても忘れられないひとが座っていた。

「サエコ」

 僕は呆然と立ちすくむ。サエコは硬い表情でうつむいている。

「妹の、サエコ」

 なんと上司の妹だったとは。姓が違うからわからなかった。

「妹はね、ずっと後悔してたんだって」

 サエコの表情がますます硬くなった。

「レストランで待ちぼうけ食らった恥ずかしさで、怒り心頭になっちゃったけど、ほんとはずっと会いたかったんだってさ」

「本当に?」

 まるで夢を見ているような心地で、僕はぼうぜんと聞き返した。うつむいたサエコのまつ毛から、ぽとりと涙がテーブルに落ちた。

「じゃ、あとは二人で話してね」

 部長は、にこりと笑って僕に座るよう促し、颯爽と席を立った。


 二年後、僕は本社に異動になった。転居が必要になったことをきっかけに、僕とサエコは入籍した。

 一緒に起きて、それぞれの仕事に行き、帰ると一緒にごはんを食べてゲームをする。それは、これ以上ない幸せな生活だった。

 一緒に暮らして初めてのクリスマス、どうやって過ごそうかと尋ねたら、家がいい、とサエコは笑った。

「もうレストランはこりごり」

 ならせめてごちそうを作ろう、と僕らはクリスマス前の日曜日、一緒に買い物に出かけた。ショッピングセンターは家族連れでいっぱいで、食料品コーナーにはチキンやケーキやオードブルが山盛りになっている。

 喧噪の中、カートを押してサエコと歩く僕の目に、お菓子の隣に並んでいたカップ麺が映った。


 赤いきつねと緑のたぬき。


 あのとき。

 今は義姉になった上司の月子に合わなかったら、僕たちはすれ違ったままだったかもしれない。

「感謝」

 つぶやいて、僕は赤いきつねと緑のたぬきをひとつずつ、かごに入れた。

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リア充なんて一生無理だと思ってた 蕃茉莉 @sottovoce-nikko

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