後日談・幸せのありか
整備の行き届いた街道から外れ、人里離れた小道を騎馬で行くこと、しばし。森の奥を切り開き隠すように作られたその場所には、いくつかの石の墓標が並んでいた。
ここは斑点病と呼ばれる疫病に倒れた者達が、密かに眠る墓所である。かつてその病は、死した後も呪いを振り撒くと強く恐れられる存在だった。そのため墓所は森の奥深くに隠されて、親しい者が墓を参ることすら、長年の禁忌とされていたのである。
だが私は無遠慮にその場へ立ち入ると、並ぶ墓標に一つ一つ目を配り、『彼女』の名を探す。やがてひとつの墓石が目に入ると、私はその前に膝をついた。
「ただいま、ロズリーヌ。会いに来るのが随分と遅くなってしまって、ごめんな」
――ロズを失ったあの日から、もう三十年余りの時が経とうとしていた。
私は今、禁忌を破ってここに居るわけではない。正当な根拠を持って、ここに居るのだ。たとえ斑点病患者に触れようと、絶対に感染しない。そのお墨付きを持って、ここにいる。
私は懐から小さな硝子管を取り出すと、墓石に向かってそれをかざした。硝子管の中には先が二股の針が一本、中空に固定するよう保管されている。
「これ、予防薬って言うんだよ。この予防薬を打ったらさ、一生ずっと斑点病にかからなくなるんだ。すごいだろ? この領も、ようやくほぼ全ての領民の接種が完了したよ。……この国から斑点病が消え去る日も、もうすぐだ」
この予防薬の存在を知ってから、私はその普及に奔走した。自領へ、そして近隣他領へ働きかけて、未知なる存在を受け入れてもらえるように、周囲を説得し続けた。そしてようやく……ようやく、役目を終えたのだ。
「だからさ、帰って来たよ。これでようやく、君に触れることができる」
墓石にかかった葉を私が払っていると、カサカサと晩冬の落ち葉を踏みしめる音がする。驚いた私が目を上げると、現れたのは老齢の夫婦らしき者達だった。
「これは……フェルナン様ではございませんか!」
「……すまん、知り合いだったか?」
「いや、覚えてないのもご無理はありません。わしらはかつて、若様に息子の怪我を治療していただいた者でございます」
「ああ、そうだったのか……。そういやお前達、迷いなく入って来たが……ここへは来たことがあるのか?」
「はい。若様がいち早くこの領での予防薬普及に尽力くだすったお陰で、わしらはこうして、再び家族に会いに来ることができたのです。他にも、多くの者達がここに眠る家族と再会することができました。……本当に、ありがたいことでございます」
そういえば三十年も打ち捨てられていたはずなのに、墓石はどれも綺麗に磨かれて、通路の雑草もしっかりと払われているではないか。
「そうか、皆、再会できていたんだな……」
それから私は少しだけ昔話をして老夫婦と別れると、手配しておいた空き家へと向かった。その屋敷は墓所まで日参できる近さの大きめの街の外れにあって、施療院に使えそうな間取りを持つものである。だが買ったはいいものの、一年以上無人だった建物は経年でひどい有様だ。
明日の朝には旧知の使用人が住み込みでやってくる予定だが、老境に差し掛かった歳の夫婦である。あまり力仕事は頼めないだろう。
もっとも改装のための人手を雇うにしても、有り余るほどの蓄えはあるのだが。……前線で貴族が働く見返りは、それ相応のものだった。だが趣味も家族もない身には、これといった使い途もなく……貯まっていく一方だったのである。
「とはいえ、さて、何から手を付けたものか……」
建物を見上げて私が思案していると、通りから野太い声が掛けられた。
「若様! お帰りなさったのですね!」
「お前は、確か……斧で足が千切れかけてた奴か!」
「はい! 今オレが歩けているのは、あのとき若様に救ってもらったおかげです。本当に、本当にありがとうございます!」
無駄に大きな男の声を聞きつけて、わらわらと人が寄って来る。私が驚いていると、集まった者達は口々に喋り始めた。
「私だって、今こうしていられるのは、若様が治してくださったおかげです!」
「わしも、お陰さまでこの年でも元気に野良仕事が続けられとります!」
「出奔なさってから、ずっと戦場を巡っておられたと聞きました。若様よくぞ、よくぞご無事でお帰りに……」
ボロボロと涙をこぼす老婆の方へと目を向けて、私は苦笑した。
「この年になって、どこへ行っても若様と呼ばれる破目になるとはな……」
「ああ、申し訳ございません!」
「いや、あながち間違ってはいないのかもしれんな。年ばかり取って、中身はあの日からちっとも変われない、バカなガキのままだ……」
それから彼らに、ここに診療所を開きたい旨を伝えると、瞬く間に話が前へと進み始めた。他所の集落からまで人手が集まって、空き家は数日とたたずに立派な診療所へと、生まれ変わったのである。
こうして出来た診療所には、連日遠くの村からまで人々が詰めかけるようになった。代金はいらんと言ったら、いつの間にか皆が置いていった礼物の山が出来ていた。
パンに野菜に干し肉まである食糧の山は、あれから何人か増やしたとはいえ、私と使用人達だけで食べ切れる量ではない。
「……傷ませるのも勿体ないな。仕方ない、炊き出しでもやるか。近隣でどこか、大鍋を急ぎ借りられそうな所を知らないか?」
「炊き出し用の大鍋なら修道院にあるはずですが……しかしながら坊っちゃんが、御自らですか!?」
驚いて目を丸める使用人の婆さんに、私はニヤリと笑って見せる。
「前線帰りを舐めるなよ。騎士団じゃ毎日が炊き出しみたいなものだ」
そうして在庫一掃のために実施した炊き出しは、大盛況に終わった。のだが――。
「なんか礼物が前の倍以上に増えているんだが……さすがに我々だけで捌ききれる量じゃないだろ、これは……」
断っても断っても増えてゆく食糧の山を前にして、私が頭を悩ませていると。
「ならば炊き出しは修道院も定期的にされとりますから、協力をお願いしてはいかがでしょう?」
「ああ……それが良いだろう」
使用人達に間を取り持ってもらい、それからの炊き出しは近くの修道院と協力して行うことになった。三人ばかりのその小さな修道院の院長は、私と同年代くらいの女性とのことで、あのブエノワ男爵の遠縁にあたる治療術師であるらしい。
フードを目深に被り物静かなその女性は、顔に子どもの頃に患った斑点病の、ひどい
もうフードなんかで隠す必要はないだろうと言ってはみたが、彼女は黙って首を横に振った。女性にとって、やはり容姿の悩みは男が思うより深いのだろうか。いつか彼女が素顔を晒しても気にならない日が、来ればよいのだが。
――それからも診療所は、大盛況な日が続いていた。動けず来院できない人がいたら、馬を飛ばして駆けつけた。のんびりと余生を暮らすはずだったのに、忙しない日が続いている。
日々を慌ただしく過ごしてゆく中で、私はようやく気が付いた。ただ目の前の一人を、全力で救いたい。一人でも多くの、笑顔を取り戻したい。
かつてはあったその気持ちを、私はなぜ、忘れてしまっていたのだろうか。――難しい理屈など、何も必要なかったのだ。
そして今日も、私は日課の墓参りに向かう。懐から取り出した袋には、今日の治療の礼にともらった花の種が入っていた。私はそれを少しずつ周りに蒔き終えると、墓石に向かって手をかざす。
低く呪文を唱えると、法術の雨がさらさらと辺りに降りそそぎ……春の柔らかな陽光の下で、鮮やかな虹の彩りが揺らめいた。
彼女が眠る墓石の周りへと、種を蒔き続けているうちに――いつしか辺りは、色とりどりの花に包まれていた。吹く風に舞う花びらが、静かに座る
「ロズ、聞いてくれよ。ようやく見つけたんだ。治療術師の存在意義……いや、自分が本当にやりたかったことを。だからもう少しだけ、待っていてくれないか。必ず君に、胸を張って会いにゆくから」
あの日からずっと抑え込んでいた涙があふれ、頬を伝った。
「フェル、
不意に背後から掛けられた声に、私は涙を拭うのも忘れて振り向いた。そこに
「院長……いや、まさか……!」
「本当は、黙って近くにいられるだけでよかったの。でもフェルってば、毎日誰もいないお墓なんかに通っているんだもの」
そういえば、祭壇に置かれたロズの『棺』は空っぽで……その死に顔を見た者はいなかった。ただ葬儀で泣き崩れる母親の姿を、疑うものはいなかったというだけで。
「生きて、いたのか……? なぜ……」
「こんな顔になって、魔物扱いされるくらいなら……いっそ死んだことにして修道院へやってほしいと、お父様にお願いしたの。そうでもしなければ、貴方の隣を諦めることができそうになかった。でも貴方が帰って来たと聞いてしまったら……居ても立ってもいられなかった」
私は覚束ない足でなんとか立ち上がると、彼女に一歩、近づいた。
「ロズリーヌ……なんだな?」
「……はい」
小さな声で応える彼女に、私はまた一歩、歩み寄る。
「顔を……見せてくれないか?」
「それは……」
俯く彼女に触れられる位置まで近づいて、私は震える手を伸ばした。
「見せて欲しいんだ。……頼む」
すると彼女は意を決したように小さくうなずいて、そっとフードを背後にずらす。フードの下から出て来た両頬には、痛ましい
だがその面影は遠い記憶のそのままで――私は思わず、呟いた。
「とても……綺麗だ」
「うそ……」
「嘘じゃない。今も、昔も、ロズはいつだって誰よりも綺麗だ。本当の気持ちを伝えられなかったことを、ずっと後悔してた。僕は、ロズのことが何よりも大切で、そして……大好きなんだ!」
呆然としたように立ち尽くす彼女の瞳に涙があふれ、頬を伝って落ちてゆく。私はまた一歩距離を詰めると、彼女を強く抱きしめた。
「もう二度と離さない。一生、僕のそばに居てくれるんだろう?」
恐る恐る上げられた手が、私の背をつたう。やがてそれは半ばで止まると、ぎゅっと力が込められた。
「はい……!」
再び強い風が吹き、辺りを色とりどりの花びらが舞った。だがこの美しく輝き始めた世界は、天上の景色ではない。
私達が二人で歩む道は、まだ、ここにあったのだ――。
-完-
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
フェルナンが騎士団で何をして来たのかは、同コレクションの長編に少し出てきます。
少年の懺悔、少女の願い 干野ワニ @wani_san
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