Ash Re:Cord

@Ash_GRIMOIRE

After Epilogue

 無力は恐怖そのものだ。

 手を伸ばしても届かず、何一つ掴むこともできない。ただ脅かされるだけ、失っていくだけ。

 力がなければ、何一つ守れはしない。大切なものも、指の隙間からこぼれていくばかり。

 己の身さえも、守ることができない。

 ここに残ったのは、瓦礫の山と、くれないに染まった雲。死を待つだけの世界と、死を待つだけの

 これはきっと、迎えるべくして迎えた結末なのだろう。

 ひび割れた石畳を、雨の雫が涙のように伝っていく。彼はただ一人、血溜まりに這いつくばり、その様を見送ることしかできなかった。

 滅びゆく世界と、滅びゆく肉体。

 彼の長い銀色の髪に、血の赤が差す。息を呑むほどの光景ではあるが、およそ美しいとは言いがたいものだった。

 もし空が彼の瞳のように青いままであれば、それもまた、違っていたのかもしれない。

 だが、もしもなど、本来はありえないものだ。

 敗北した。それが結果だ。

 多くのものが戦ってきた。散っていった。その長い戦いの歴史の中で、彼は力を求め、戦い、破滅に向かって進み続けていった。

 ただ力のみを求めた末路――それがこの敗北だ。

 

 ずっと暗闇の中にいた。

 向かう先も暗闇だと、知らずにいた。

 希望だと信じた光さえ偽りだということに、気がつかなかった。


――助けて。


 そう聴こえたような気がして、彼は顔を上げた。だが、じきに死を迎える自分に何ができるというのか、と。過った思考が、否定を、無力を突きつけてくる。

 死など恐れはしない。彼は、自分ではそう考えていた。

 しかし同時に、死にたくないとも、死ぬわけにはいかないとも思っていた。

 やるべきこと、果たすべき約束、倒すべき敵。まだ何も、何も――


「俺に、力があれば」


 身を起こし、血溜まりから血溜まりへと歩みを進める。

 ふらつく足取りに合わせて、全身を覆うローブが揺らめいた。


「もっと、力を」


 死の寸前であっても、その渇望が静まることはなかった。

 燦然さんぜんたる炎のように、全てを見渡し、全てを燃やすほどの力。焦がされて、されど望む力の印。それこそが、彼にとってのよすがだった。


「我が友。私の……友よ」


 重く、深く、声が響く。彼が前方に目を向けると、そこには濃い霧が広がっていた。


「話を聞いてくれ。ようやく、お前と……」


 霧が、語りかけてくる。その異様な囁きに動揺する様子もなく、彼は小さくため息をついた。その声の主に、心当たりがあったのだ。

 耳を傾け、言葉の先を促す。


「話がしたい。ずっと、話がしたかった」


「決着をつけにきた、とでも言うのかと思ったが……」


 冗談のように言うが「このまま朽ちていくよりはいい」という思いが彼にはあった。

 しかし、それは本懐などではない。霧は、そのことに気がついているようだった。


「私はそれを望まない。お前も、心から望んでなどいないはずだ」

 

 今度は途切れさせずに、霧がそのまま言葉を続ける。


いかずちが無理やりに幕を引いた。お前と私の戦いは、終わらないままだ」


「それ以外の全てが終わる。あとは死を待つだけだ」


 そう返した彼の声に、力は宿っていなかった。

 勝てると思っていた。敗北などあり得るはずもないと、そう信じていた。

 だが、結果はどうだ? 守ることもできず、無様に敗れ、全てを失った。

 それでもなお諦めきれず、癒えぬ燻りを感じてしまうのもまた事実ではあった。もしも願いが叶うなら、この悪夢を抜け出して、幸せな夢を――と。

 その意図を汲み取ってか、霧が確かめるように問いかける。


「死を待つだけだというのに、宿木やどりぎまでも荒らされる。お前はそれでいいのか?」


「あまり時間がない」と付け足して、語気を強める。


「私の望みは、お前達を知ることだ。お前達の物語を……誰にも語られぬまま、こうして終わらせたくはない」


 じっと霧を見つめる。見つめ返されたような気がしたが、彼は目を逸らさなかった。

 霧は、そのまま言葉を続けた。


「お前の手を、貸してくれ」


「この手を取って……この夜を、共に歩んでほしい」


 以前なら、拒んでいたであろう誘い。だが、今の彼に迷いはなかった。


「取り戻さなければ」


 霧へと手を伸ばし、強く握る。はじめは手のように感じたが、すぐに別の、馴染みある感触へと変わった。


「そのためなら……魔物に魂を売っても構わない」


 彼が霧の中から手を引くと、そこには細身の剣が握られていた。折れてはいるが、紛れもなく彼が振るい続けてきた愛刀だ。

 己が今、何をすべきか。彼は、それが何かわかったようだった。剣を握る手に、自然と力がこもる。


「ここから先は、悪夢ではないのかもしれない。だが、安らかな夢でもないだろう」


 理すら反古ほごにする願い。

 死のきわの永遠、終わらない夢。「その道を進み続ける覚悟はあるか」と霧が問う。


「ああ。この身を捨て去っても構わない」


 それを聞くと、霧は寄り添うように彼を包み込み、優しく囁いた。


「ならば、友よ。私と【契約】してくれ」


 一瞬の間の後、彼は「いいだろう」と返した。己そのものを、余すことなく捧げるように。


「俺の持つ全てを――」


 べる。そう唱え、自らに剣を突き刺す。

 そこから炎が解き放たれ、翼の形へと変わった。直後、その片羽の全てを散らし、その一つ一つが、舞い踊る風に運ばれていく。より強い輝きで光を葬り去るために。

 霧は彼の手に、そっと自らの手を添えた。ほどけぬほどに結ばれたこの手こそが、残された一抹の希望だと信じて。


 もしも。もしも望むなら――

『運命を、書き換えろ』

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