第561話「苦手ならしょうがない」(メリサンド視点)
中央大陸の東の端までは、巨大な海竜の姿になったエンヴィが空を飛び、それに乗る事で移動した。
海竜の頭部の代わりに人の上半身が生えているその様子を見て、メリサンドはチョウチンアンコウを思い出した。やはりリヴァイアサンにとって『人化』は疑似餌らしい。確かにこうして使うのであれば多少下手でも関係ない。
それはそれとして、エンヴィの持つ飛行能力は素直に羨ましい。
ずっと海で過ごしてきたため、これまでは特に必要性を感じた事は無かったが、この世界には海よりは狭いのだろうが陸地もそれなりにある。
新たに出来た友人たちが海より陸地を好む以上、移動に便利な飛行能力は持っていて損はないと感じていた。
メリサンドが知る海洋性の魔物の中には、確か飛行能力を持っている者もいたはずだ。エグゾセと言っただろうか。
異常発達した胸ビレを広げる事で空中を泳ぎ、海鳥などを捕食する肉食性の魔物である。
活きのいいエグゾセを何体か捕まえ、レアのところへ持っていけばメリサンドも翼を得る事が出来るかもしれない。
そんな事をつらつら考えているうちに空の旅は終わり、大陸の東端に到着した。
ここからは海路になる。
ずっと空を飛んで行かない理由は、リヴァイアサンであるエンヴィなら海を泳いだ方が空を飛ぶより速いからだ。
メリサンドも泳ぎは得意なため、これには賛成だった。
海での移動なら背中に乗せてもらう必要もない。
エンヴィの背からばしゃりと海に飛び込むと、メリサンドの下半身は瞬時に泳ぎに適した形状に変化した。
エンヴィはメリサンドが飛び込んだのを確認すると、空中からそのまま海へ飛び込む。
海中のメリサンドは巨大な質量が入って来た事で起きた波にさらされるが、その程度では揺らぐ事はない。
〈じゃあ行くかの。先導は任せた〉
メリサンドがエラを震わせてそう言うと、エンヴィは頷いた。
次の瞬間、メリサンドは衝撃波に吹き飛ばされて海から弾き出され、宙を舞った。
〈ぶっはぁ! まっ、待てい! なんじゃそれ、そんっ、そんなに速いの!?〉
と、叫んだつもりだったが空中であったためエラは機能を果たしてくれず、ただぶぴぴと空気を漏らすだけだった。
*
〈女王様、泳ぐの苦手なんだ、ですね。ごめんなさい。配慮が足りなかったです〉
〈ぐ! いや、苦手っちゅうか、うう……〉
あの巨体であの姿である。
常識的に考えてあの速度で泳げるはずがない。
そう侮っていたのは確かだが、伝説のリヴァイアサンだということで一応警戒はしていた。
しかし足りなかった。
『海内無双』。まさかあれほど無茶苦茶な効果だとは。
レアやブランを始め、仲間たちは誰も強大な力を持っている。
しかし海でならばメリサンドに分がある。
大会では海でもライラに負けてしまったが、あれはライラというより昆布に負けたのだ。その昆布が生えているのだから、ライラもむしろ海側の生き物であると言える。ブランならおそらくそう言う。
そんな海での自信も、今では揺らいでしまっていた。
海でメリサンドに勝てる存在が同陣営に2体もいるとは。
これからどうやって自己主張していけばいいのか。
〈あ〉
〈え、なんじゃ。なんかあったのか?〉
エンヴィの首──なのか腰なのか不明だが、海竜の胴部分から人型上半身に向かって伸びている部位──にしがみついて移動していたところ、そのエンヴィが何かに気づいた。
〈ごめんなさい。見つけてから思い出したです。そういえばこの海域には、実力差があるのにやたらと襲いかかってくる野蛮な魚たちがいたです〉
〈ほう。東にはそんな無謀な魚がおるのか。海じゃ長生き出来なさそうじゃな。ようこれまで生きてこれ──〉
見てから思い出したというならエンヴィから見える位置を泳いでいるのだろう。メリサンドはエンヴィの身体から身を乗り出し、そちらの方を覗きこんでみた。
〈──って、ありゃマーマンではないか!〉
メロウを束ねる女王たるメリサンドにとってマーマンは敵だ。
生息域が離れているため普段出会う事はないが、中央大陸付近の海域では稀に末端のメロウがマーマンたちと小競り合いをすることがある。
別に争う理由があるわけではない。餌も生息環境も似ているため、単純に仲が悪いだけだ。もし生息域が被っていれば餌や棲み処の取り合いで生存競争に発展していただろう。
メロウにとってマーマンとは、そう言える程度にはちゃんとした敵、種族的に敵として存在しうる魔物なのである。メロウと同等の実力を持ち、メロウと同等の賢さを持っている、ということだ。
メリサンドが知る限り、彼らは間違っても実力差を無視して無謀な襲撃をし、寿命を放り投げるような生態ではない。
むしろ群れを作って隠れ住み、確実に勝てる相手にしか挑まない慎重な魔物だったはずだ。これはある程度以上の知性を持つ種族には共通の習性ではあるが。人類も含めて。
そんなマーマンの小規模な群れがエンヴィに向かってくるのが見えた。
エンヴィはリヴァイアサンであり、現在はその巨躯も晒している。
たとえ『真眼』や『魔眼』などの特殊な感覚器官が無かったとしても、普通は挑もうとはしない相手だ。
あれがたまたま経験の浅い無謀な若い個体ばかりの群れだというなら有り得ないでもないが、エンヴィの言い方からするとこれまでも何度か襲われた事があるようだ。
エンヴィについては知り合ったばかりでまだあまり詳しくないが、自分を襲ってきた相手を見逃すような慈悲は持ち合わせていないように思える。言葉の端々からもどこか主君であるレアに似た、無邪気さゆえの残酷性のようなものを感じ取る事が出来る。
何かに襲われたとしたら、必ずその相手を全滅させるだろう。
たまたま経験の浅い無謀な者ばかりの群れがあったとしても、それが何グループも存在し、たまたま何度もエンヴィとエンカウントするとも思えない。
そうなると、マーマンたちはエンヴィを強大な相手だと分かった上で組織的に襲撃をかけていると考えるのが妥当だ。
種族全体がそうなのだとすると、まるで集団で崖から海に飛び込む自殺ネズミのような行動である。およそ知性を持つ種族がするような事ではないが、知性があるからこそ、相応の理由さえあればやってもおかしくないとも言える。
と、そのようにメリサンドが呑気に考え事をしていたのには、現実逃避の側面もあった。
エンヴィに近付いてきたマーマンたちだったが、メリサンドの目の前で全身から血を噴き出しながら潰れて死んでいったのである。
どうやらマーマンたちの周囲の海水を操り、部分的に水圧を高めて圧殺したらしい。
おそらく水に打撃属性を与えてぶつけるスキル『ウォーターハンマー』か何かだと思われるが、精度と発動数が異常だった。小さな『ウォーターハンマー』をいくつも生み出し、それをゆっくりとマーマンの全身に隙間なく食らわせ、継続的にダメージを与えつつ潰したのだろう。
似たような事はメリサンドもやろうと思えば出来る。
出来るが、今すぐには無理だ。何度も訓練が必要だし、もしかしたら別のスキルも必要になるかもしれない。
そうした事をエンヴィは感覚でやってのけていた。考えて行動したというより本能的なものだろう。
人型の上半身を持ち、会話も出来るが、リヴァイアサンはやはり知性ある魔物ではなく、魔物がたまたま知性を持っただけの存在なのだ。
それが実感できた。
──こりゃ勝てぬわ……。
潰してペースト状にしたマーマンを、小さな口で流しこむように飲み下すエンヴィを見ながら、メリサンドは胸中で呟いた。
その後も何度かマーマンたちの襲撃があったが、本来なら海で移動するエンヴィに襲撃をかけられる存在などいない。そもそも速度が違う。
遠方から察知し、エンヴィの進路上で待ち伏せしておくだけなら出来ない事はないが、マーマンが気付くくらいならエンヴィも当然気付いているため、避けるのは容易だ。避けない場合でも、待ち伏せした側が一方的に衝撃で
最初の時のように曲がりなりにも戦闘の形になるとするならそれはエンヴィが敢えて止まった時だけ、つまりエンヴィの腹が減っている時だけだ。
〈そういえば、もうすぐあの弱い魚たちの巣がある場所です〉
〈巣? 集落か? マーマンの集落の場所知っとるのか。ならなんで放っておくんじゃ。襲撃が鬱陶しいなら叩き潰して全滅させてしまえばよかろう〉
これが例えばメロウなら、隠れ住むのに適した集落を破壊され住民のほとんどを殺されてしまったとしたら、いくらか生き残ったところで長くはもたない。
マーマンでも同じはずだ。多少の取りこぼしが出たとしても、集落を破壊してある程度殺してやればそのうち全滅する。
かつてはマーマンを束ねる魚人の王がいたはずだが、それも今は死亡していると聞いた。やったのはレアらしい。
似た種族であるメリサンドで同じ事をされては堪らないので理由を聞いてみたが、大した理由はないと言っていた。
あの時は心底ぞっとしたものだ。
姉のライラは何かヤバいとしか言いようがないが、妹のレアは純粋に恐ろしい。
〈時々攻めてくるからちょうどいい、みたいな感じです。いちどに全滅させてしまったらそれまでだけど、少しずつ削るだけならまた増えて襲ってきてくれるから、その方が長く楽しめるみたいな? よくわからないですけど〉
〈そ、そうか〉
集落の場所がわかっているのに攻撃しないのは、エンヴィにとってマーマンが何の脅威にもならないからなのだろう。
単純に餌としてしか見ていない。
メリサンドとしては、餌として見るのは頼むからマーマンだけにしておいてくれよ、と思わずにはいられない。主君が主君なら配下も配下だ。
ともかく、マーマンたちの集落が近いらしいが、エンヴィは別に襲うつもりはないようだった。単に話のタネとして出しただけらしい。
それだけならばただの雑談であり、集落からエンヴィを狙って寄ってくるマーマンがいたとしても追いつけるわけでもなく、無視するだけのことである。つまりいつも通りだった。
しかしこの時は少々違った。
〈おや。なんか、他のよりニンゲンに似た魚が混ざってるです〉
〈ニンゲン? そういえば、そんな言い伝えもあったような〉
地上にいる人間たちとは違う、ニンゲンという白い謎の魔物が海に棲んでいるという。
もう何百年も前になるだろうか。
メリサンドがまだ幼いオアンネスだった頃、親からそんなお伽話を聞いたことがあったような無かったような。
〈多分違うと思うです。普通の、地上のやつです〉
速度を落としたエンヴィに向かってくるマーマンたちの群れの中には、確かにヒューマンらしきヒレのない人型が混じっていた。
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