第392話「海風は髭がごわつく」(教授視点)
海洋というのは危険な場所である。
陸上でも人の住まない地域には魔物が出没する。しかし棲処として集中しているダンジョンや魔物の領域などを除けば、組織的に行動している魔物は少ない。またそういった場所以外には強力な魔物は基本的にいない。いや、強力な魔物の周囲に他の魔物たちが集まるようにして魔物の領域が作られると言った方がいいのだろうか。
ともかく、そういう危険だとわかっている場所さえ避けておけば、中央大陸で人が暮らしていくのは難しい話ではない。
ここ最近は場所に関わらず出没する魔物の集団や強力な個体も増えているが、それはあくまで例外だ。たまたま例外が続いているだけに過ぎない。
しかし海洋は違う。
海の上では、いつ、どこであっても海中から巨大な魔物に襲われるかわからない。
巨大な魔物だけではない。小型の魔物の群れに襲われる事もある。
言わば、海洋においては全エリアが魔物の領域のようなものなのだ。
それだけではない。
中央大陸近隣ではそういう事は無いが、他大陸や島の周辺では、海からだけでなく空からも海鳥型の魔物に襲われる事もある。
この世界は人に優しくない世界だ。
ただし、優しくないのは人にだけではない。
魔物たちにも災害は等しく訪れる。
海洋性の魔物も海鳥型の魔物も、人が通らなければ別の者を襲うしかない。
では誰を襲うのかと言えば、お互いの魔物たちである。
海では絶えず食物連鎖による争いが行なわれており、そこで負けて逃げたり、弱ったりした魔物を海鳥が狙う。
あるいは弱ったふりをして逆に海鳥を餌にする魔物もいる。
そのような過酷な環境にあっては、魔物の彼らもリスクを最低限に抑えるため、無用な狩りは行なわなくなる。
大規模な食事と戦闘が起きた後は、海にも束の間の静寂が訪れる事がある。
人が海を渡るチャンスがあるとすれば、その時しかない。
そしてその周期やノウハウこそが海運業における何よりの宝であり、また海洋貿易を行う商人が増えていかない理由でもあった。
*
「あの船長というのは処置していないのかね。信用できるのかな?」
「この船の船長は我々が出港した港街ライスバッハの領主、今は都市国家元首ですが、その息のかかった、いわゆる騎士のようでしてね。処置するためには国家元首から手をかけねばなりません。ライスバッハがある元シェイプ王国領はブラン様にお任せしているとのことでしたんで、ひとまずそっとしておくことにしたわけです」
森エッティ教授の質問にグスタフが答えた。
何でもかんでも全て支配下に置いて、万事ぬかりなくというのも確かに面白みがない。
出来るだけ準備は入念にしておくのが教授のスタイルでもあるが、かつてフィールドワークに明け暮れていた頃や、ヒューゲルカップに単身殴りこみをかけた時のように、行き当たりばったりの旅というのも悪くない。
たまには信用できるかわからない船長の船に乗るというのも味があって良いだろう。
現在、教授はこのグスタフ・ウルバンという人物と共に、船で西方大陸に向かっているところだった。
グスタフを連れていくよう言ってきたのはもちろんレアだ。あちらでも商会を展開させたいらしい。
聞いている限りでは西方大陸はそれほど経済的に発展していないというか、人類の居住域自体もかなり限られてしまっているようであるが、だからこそパイオニアとして成功する見込みがあると言える。
グスタフの護衛としてケリーとマリオンという幻獣人の女性も同行している。西方大陸が多少生存が難しい地域だったとしても、これならどうとでも出来るだろう。
もちろん、そんな一般的な船に、一般的な商人と傭兵と共に乗っているくらいだし、教授の外見も一般的なものだ。
教授はウェアビーストとしての特性を活かし、ヒューマンの姿で船に乗っていた。言うまでもないが、ちゃんと服も着ている。
衣服や装備品についてはこのグスタフに用意してもらった。
対価として、物々交換にはなったがいくらかの『錬金』アイテムを渡している。
レアの元で潤沢な素材や資金、設備を使って開発した新しいアイテムだ。
ほとんど流通していない事もあり、かなりの高額扱いで取引してもらえた。
開発したアイテムについては、データさえレアに渡せば現物は好きにしていいと言ってもらっている。随分
その助手は2人とも、あの空中庭園に置いてきた。
片方は助手として、そして片方は護衛として生み出した者たちだったが、『鑑定』や『真眼』を誤魔化すアイテム、隠者のチョーカーはひとつしかない。未知の場所に行くにあたり、情報の秘匿が不完全では危険度が大きい。
ダク・アインにはその隠者のチョーカーの開発を命じ、ダク・ツヴァイにはレア配下の天魔ヴィネアの補佐を命じてある。ヴィネアは『隠伏』なるスキルを持っているということだし、隠者のチョーカーの開発の助けにもなるだろう。
そういうわけで、現在の教授はどこからどう見てもヒューマンの紳士である。
ヒューゲルカップ城に突撃する前に近い風貌かもしれない。
もちろん、特性「美形」のお陰で、あの頃よりさらにイケメンなオヤジになっているが。
ファッションアイテム兼近接武器として装備しているステッキをくるりと回し、船の甲板をかつんと突ついた。
意味があってしたわけではない。ただのポーズだ。
それにしても、揺れる船上でも全く姿勢も乱れず、酔いもしないというのは実にすばらしい。
どれが作用しているのかはわからないが、高い能力値のなせる技だろう。
レイドボス級のモンスターが船酔いなどしていてはイメージが崩れてしまうし、能力値の向上によってそういった状態異常にかからなくなるというのは頷ける話だ。と言っても教授はまだ、贔屓目に言っても準レイドボス級が関の山だが。とはいえもともと積極的に戦闘をするつもりはないので問題はない。
「──格好つけてるところ悪いがな。甲板に傷をつけねえで貰えるか。そこで船員が
「おっと、これは失礼した。申し訳ない」
マグナメルムの息のかかっていない商船であるなら、扱いは適当でもいいかと考えて気にせず振る舞ってしまっていたが、確かにそれが事故を誘発する可能性があるなら危険極まりない行為だ。
この船にもせめて西方大陸に到着するまでは無事に航海してもらわなければならない。
「ふん。船が揺れて落ちちまっても助けねえからな。大人しく船室に入ってた方が身のためだぜ」
船員は悪態をつきながら仕事に戻って行った。
「……態度の悪い従業員ですな」
「いや、命がけで海を渡る船乗りとしては、あんなものなんじゃないかな。私の知る中世の船乗りたちもああいう腕っ節自慢が多かったと聞いている」
「そういうものですか。森エッティ教授は博識ですなあ」
珍しげに身を乗り出してずっと海を見ているケリーやマリオンたちには何も言おうとしないというか、近づこうともしないあたり、船乗りたちは『真眼』を持っているのかもしれない。海中や遠方の危険をいち早く察知するという意味では非常に有用なスキルだし、それが船乗りとなる条件のひとつでもあるのだろう。
下手をすると、陸の上で生活している一般的な騎士よりも船乗りの方が強い可能性さえある。
そう考えると今の教授への態度もわかる。
隠者のチョーカーによって抑えられている教授のLPを見て大したことがないと判断し、小言を言ってきたのだ。
実に人間らしくて結構な事である。
しかし足元を見てみると、確かに船乗りが言った通り、ステッキの先端の形に少しくぼんでしまっている。これはよくない。
教授のステッキは芯材にアダマスを使い、その周りをエルダートレントの枝で覆った特別製だ。
そこらの剣では傷ひとつ付けることはできないし、ライラがユスティースとか言うプレイヤーの為に作った剣とも打ち合う事が出来るほどの強度を備えている。アダマス剣と打ち合えばさすがにトレント部分は傷が付いてしまうだろうが、この部分に限って言えば修復が可能だ。使った枝はうまく『株分け』を利用して生みだした材料になっており、加工するためには『使役』や『大いなる業』が必要だったが、その代わり生きた武器として自己修復能力を持っている。経験値を与えれば強化も可能である。ただし生体武器はアイテムではなくキャラクター扱いになるらしく、インベントリには入らない。
「ステッキは直せるが、甲板の床は直せないな。まあ仕方がない。今後気を付けるとしよう」
それにしてもいい天気である。
嵐の前兆のようなものも感じられないし、海中にいるという魔物たちも静かなものだ。
この船には教授やグスタフたちの他にも数人乗客がいる。船倉には馬も2頭いるようだ。
乗客というのは西方大陸に買い付けに行くらしいライスバッハの商人や、その護衛と思われる怪しいローブ姿の2人組である。馬は彼らの持ち物らしい。薄暗い船倉に閉じ込められていても騒ぎもしないとは、ずいぶんと躾の行き届いた馬──もしかしたら『使役』された魔物なのかもしれない。
だとすると、あやしいローブの護衛2人はプレイヤーである可能性が高い。
使役の首輪の発売以来、プレイヤーが馬を購入して『使役』するケースが増えていると聞く。
しかし普段レアやライラたちで見慣れてしまっているが、フードまで被ったローブ姿というのは相当に怪しいものである。
しかも狙っているのか、2人組は片方は白、片方は黒のローブだ。
彼らがプレイヤーであるなら、マグナメルムのファンなのだろうか。
黒よりは赤の方が知名度が高いと思っていたが、これを見る限りではそうでもないのかもしれない。
いずれ5人組のパーティなどで、白、黒、赤、緑、茶で装飾するプレイヤーなども出てくるのだろうか。
そうなればそれはそれで嬉しいものだが、問題なのは4人組の場合だ。
4人目は果たして緑なのか、茶なのか。
*
幸い教授が甲板から落下する事もなく、また魔物や嵐に襲われる事もなく、順調な数日の航海の後に、船は中継地点である最初の島に到着した。
教授は甲板で揺れずに立つ自分の姿に感動していたものだが、後から聞いた話によれば、もともと船はほとんど揺れていなかったらしい。
波や風にそれほど左右されずに航行できたのもそうだが、それらは操作系のスキルによるものだということだった。
もしかしたらあの口の悪い船乗りは、操作していた船にいきなりダメージが入った事を感知して文句を言ってきたのかも知れない。だとしたらやはり悪い事をした。
補給と休憩のために立ち寄った島は孤島と呼べるもので、教授が見たところでは火山島のようだった。
翌日まで停泊するという話だったため、降りてみる事にした。
グスタフやケリーたちは船に乗ったままだ。船長や船乗りを警戒しているらしい。
この島の気候は温暖かつ湿潤のようで、農業に向いた島であるように思われた。
実際、漁や農業による自給自足で、島だけで生活していく事は容易であるようだ。
今回の教授たちのように立ち寄る船もちらほらあるようだが、波止場近くの集落ではそういった者たち向けに新鮮な作物や酒などを販売している。
基本的に物々交換のようだが、教授が覗いてみた店では金貨でも買い物は可能との事だった。
金貨は島内では大した価値を持たないが、島に立ち寄る船乗りから珍しい海外の品をせびるのに使えるかららしい。
この島を『使役』などによって強制的に支配してやれば、事実上中央大陸から行なわれる海洋貿易を牛耳る事ができるかもしれない。
しかしグスタフは船員を警戒して降りてこないし、教授はそういうプレイは専門ではない。
念のため、いつでも来られるように集落の外でジェノサイダークリケットを数体喚び出し、島に放っておいた。
ついでに島に生息する魔物の調査もやらせておけば、いつか誰かがこの島に興味を持った時の助けになるだろう。
出航は翌日の朝という事なので、夜までに戻る事を考えると探索できる時間はもう半日もない。
教授はとりあえず近くの村の老人にでも島についての話を聞きに行くことにした。
「おや、まあ。こんな所に島の外からお客さんがいらっしゃるとは珍しい」
「そうなのかね」
「ええ。この島に立ち寄る人となると、商売をする人ばかりですからねえ。海の上で食べるためのものは波止場の集落で十分でしょうし、うちの集落もあそこには作物を卸ろしとりますでな。わざわざここへ来たところで、買える物は波止場の集落と変わりませんし、来る意味が薄いってわけです」
「なるほど」
貿易が目的の商人なら確かにそんなものだろう。
ここでもあちらでも同じものしか売っていないのなら、わざわざ足をのばしても仕方ない。
しかし教授が知りたいのはこの島の歴史や風土、文化などだ。
商品には大して興味がない。
なによりプレイヤーである教授は、少なくとも食糧については数週間は困らない程度にストックがある。そもそも島で調達しなければならない物資はない。
「見たところ、温暖な気候で、水も豊富そうだ。不作や飢饉なんかとも無縁そうだし、沿岸部に近寄らなければ魔物による被害も少ないだろう。特に普段の生活に問題もないように思えるが、普段はどのように過ごされているのかな」
農業や生活に何らかの危険が多い地域であれば、そこに住む人たちにとって最も重要なのはそれらの危険に対処する能力や手段である。
しかしこの島ではそういった事は少なそうだった。
生活に不安がなくなった人間が次に求めるのは娯楽だ。
この島が古くから安定した生活を続けてきたのなら、独自に進化した娯楽か何かがあってもおかしくはない。
「そうですなあ。海の近くに行かなければ安全、というわけでもないんですがの」
詳しく聞いてみると、どうやら海鳥型の魔物たちは、海に餌が少ない時は時には島の奥地まで入り込んできて住民をさらったりするらしい。
貿易船が停泊するような時期であればその危険もないため、島全体も賑わう事になるらしいが、それ以外はやはり危険と隣り合わせであるようだ。
「ただ、最近はそれに加えて、もうひとつ心配事がありましてな……。こんな事、旅のお方に言うても仕方ないことなんですが」
言っても仕方がないが、誰かに言いたくて仕方がない。
そんな雰囲気だ。
もしや問題解決型のクエストだろうか。
数時間で済むものならばいいが、教授には時間がない。
しかし、話を聞くだけならいいだろう。この島の風土を知るきっかけになる。
そもそも教授はここへは話を聞きに来ているのである。クエストの達成は目的ではない。それは別の誰かがやればいい。
「この集落からも見える、島の中心にあるあのワサト山なんですがの。
わっしが生まれてこの方、あの山はずっと静かなままだったんです。それがここ最近、やたらと唸るようになりましてな」
「唸る?」
「ええ。ぐるぐる、ぐるぐる、と。ほいで地面も揺れるし、どっかの集落じゃ崖崩れなんかもあったみたいだし、ちょいとそれが心配でしてな」
「ほう。それはそれは……」
長らく活発に活動していなかった火山が、ここに来て噴火の兆候を見せてきたという事だろうか。
火山の活動というのはなかなか奥が深いテーマで、現実世界では数万年単位で噴火の周期をもつ火山も存在する事がわかっている。ゆえに数千年程度噴火が無いというだけでは全く何の安心材料にもならない事から、現在では全ての火山について厳戒な監視体制が敷かれている。
この島が洋上に突然存在しているように見える孤島であることから、中央のワサト山というのが火山であるのは間違いない。
であればその地震はおそらく、噴火の前触れだろう。
コオロギたちには引き続き調査はやらせておくが、この島を支配するという計画はあまり真面目に考える必要はないかもしれない。
中継地点としていつまで存在していられるかわかったものではないからだ。
「それはさぞかし不安でしょうな。しかし残念ながら、私も明日には島を発たねばならない身。その不安を取り除いて差し上げたいのは山々だが、ちょっと時間が無さすぎる。その問題については、いずれ訪れるかもしれない別の者たちに頼まれるといいだろう」
*
翌朝、島を発った船の甲板から、教授は島を感慨深く眺めていた。
もしかしたらこの光景も見納めかもしれない。
そう考えると、景観に大した興味がない教授でもそれなりに思うところも出てくるものだ。
「──まあ、こればかりは仕方ない。噴火を起こした友人ならいるが、噴火を止めた友人はいないしな。他のプレイヤーたちがこの地に大挙して押し寄せる日が来るのかどうかは知らないが、急がなければ島に立ち寄れなくなってしまうぞ」
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