幸福論

青木はじめ

幸福論

 ずっとずっと、考えていた。ずっとずっと、願い祈っていた。叶わないとわかっていたから、強く望んでいた。愛しき子との幸せだった日々を。一度は終止符をうったつもりだった。だが感情は留まることを知らず、十年と少しの間も、休まず願い続けた。のちに願いは歪んだ愛を生み、憎しみは大きく、大きくなっていった。あの子のためならと道徳心も形を変えていることに気付いていながらも、考えるのをやめなかった。まさにインモラル。そう、昔の自分が呆れたように笑った。

 

「十夜さん、十夜さん」

 うつらうつらと微睡んでいた意識を嗄れた声が呼び戻す。

「着きましたよ。相当お疲れだったようですね」

 は、と反射的に窓の外を見る。見慣れた懐かしい風景。いつの間にか目的地に着いたようだ。立派な門構えの屋敷は十数年も前に出た生家だ。家出のように、駆け落ちのように小さなあの子の手を握りしめて飛び出したきりの実家に、思わず手に汗がにじむ。

「ありがとう。このことは……」

「ええ、ええ、わかっております」

 嗄れていても柔らかな声は「ご内密、ですね」と少しだけ茶目っ気混じりに返ってきた。

 そう、これは招かれた帰宅ではない。帰宅、とも違う。密偵によく似た視察だ。

 車から降り、静かにドアを閉めると黒塗りの高級車はゆったりと消えていった。

 監視カメラや自動のライトは設置していない。年季の入った門と少し奥まったところにある屋敷を眺める。これから俺は、犯罪を犯す。あの子を共犯にして。

 

「母さん、死んでください」

 それは己の口から出たものなのか、脳内に流れたものなのか。やけに鮮明な音は感情のない電子音のように耳を震わせた。

 母さんは俺によく似ていた。否、俺は母親似だ。柔らかな癖のある色素の薄い猫毛に、目尻の垂れた大きな茶目。ほんの少しドジなところや大雑把なところも似ているのかもしれない。今は母がどのような姿でいるのか、どこにいるのかすらわからない。母と父は仲が悪かった。本家の血をひく父はあからさまに偉そうで、母はいつも蹴飛ばされ虐げられていた。あたかもそれが当たり前のように。それを見て育ってきた俺は「愛」に不快を覚えていた。あの子に会うまでは。

「あの子」は所謂本家の血をひく跡継ぎの子である。生まれてすぐ父に「ないもの」にされた俺に、現当主であるあの子の母親が「世話係」として傍にいるように、とそれはそれは素晴らしい役職を与えてくださった。それからの日々は毎日が色付き、まるで違う世界になったかのようだった。俺だけのお姫様。俺の全てを捧ぐと誓った。俺はあの子のナイトになりたかった。だが、それは失敗した。俺はまだ子供だった。大人の力には勝てなかったのだ。あの子に別れを告げてもう十数年になる。元気で、いるだろうか。生垣を超えて中庭へ忍び込む。昔の記憶を呼び戻し、脳内で地図を作成する。昔の記憶が正しければ、空き部屋かつ広い部屋はあそこだ。じきに日が落ちる。早く済まさなければ。

 一部屋、二部屋、三部屋目で、心臓が鼓動を止める自体になりそうになった。ああ、あの子だ。目に入れた瞬間、一度心臓が止まり、次の瞬間体中の穴から汗がじわりと吹き出た。ドクドクと動悸のように動き出す鼓動はまるで再会の拍手のよう。

 あの子は真っ白なフリルのついた高価そうなポンチョをハンガーにかけてから、開けっ放しの障子から部屋を出た。動悸に似た鼓動と汗が止まらない。今すぐ駆け寄りたい。駆け寄って、「おまたせ」と「ただいま」を言いたい。いい子で待って偉いね。と小さな頭を撫で回したい。妄想に浸り、気づかなかった。背後の気配に。

 斜め後ろからかさり、と枯葉を踏み潰した音が聞こえてハッと振り返る。

「十夜……?」

 血が沸いた。心の中の自分が「殺せ」と呟く。

 俺の名前を小さく呼んだ人物は、まるで迷子になった子供を見るように目を細めた。懐かしい、母の癖だ。久々に見た母はほんの少しだけ老けたように見えたが、まだまだ若くも感じる。柔らかな髪を肘まで伸ばして、サイドでひとつに結っている姿は優雅、の言葉がよく似合う。

 会いたくなかった。今は、会いたくなかった。「片付けなければ」。何度も脳内を駆け巡る言葉を必死に振り払う。

「久しぶり。母さん」

 極めて自然に振る舞う。帰省した学生のように、歓迎されているように。それに母はほっと息を吐いて胸をなでおろした。危機感はまるでない。それよりいきなり現れた俺に戸惑っている様子だ。

「いつの間に帰ってきてたの?びっくりした」

「ついさっきだよ。驚かせようと思って」

 完全に気を抜いた母は「そんなところにいないで部屋においで」と手招きした。腕を軽く上げた拍子に紫色に変色した手首が見える。思わず目を細める。まだ再婚相手の男は母に対してきつくあたっているのか。呆れるしかなかった。

 みし、みしと古びた廊下が軋む音すら懐かしい。縁側から入って少し歩いた先の部屋が母の部屋だ。また懐かしい香りがする。白檀の香りと、洗いたての洗濯物のような香り。母の香り。

「今日は泊まるの?」

 見るからにそわそわしている。やはり、歓迎なんてされていない。

「いや、挨拶に来ただけだよ」

 極めて自然に。「だけ」という言葉に「最期の」と付け加えると、母は静かに微笑んだ。ここは、俺の居場所ではないと、女神は微笑んだ。内なる自分が現れるのがじわりと感じられる。母のことは嫌いではない。だが、仕方がないのだ。そう、これは仕方の無いこと。

「母さん、死んでください」

 リュックに入れていた出刃包丁に手をかけた。

 

 生温かい液体が手を伝う。リュックからハンドタオルを出し包丁の刃の部分を拭き取りまたリュックにしまう。床に血を流し屍となった存在を持ち上げ、足で押し入れを開けるとそれを中に入れた。死んだ人間はこんなに重いのか。今しがた殺人犯となった己に思うことは特にない。ああ、死んだな。と、それだけ。ぽろ。うろこのような何かが剥がれ落ちた感覚がした。

 どこかから音楽が聴こえる。まるで鎮魂歌のようなそれはずっと昔に聴いた音楽のような気がした。ずっとずっと好きだったような、ずっとずっと聴いていたような。音楽がついてまわる。懐かしい音楽なのに、気分が悪くなってくる。消えろ。消えろ。もう「自分」ではなくなった証を突きつけられるかのように、それは鳴り響いていた。

 

 じゃり、と庭園の砂利石が小さく鳴る。もう戻れない。ならばすることは限られている。あの子のために、俺は何でもする。

 今日は使用人が少なく、人もあまり居ない日だ、と思う。そうすると、多くとも五、六人か。リュックからいつでも包丁を取り出せるように肩にかける。ぎし、ぎし、と古い屋敷の音がする。小さい頃はこの音が好きだった。自分が存在していると証明してくれる音。懐かしい、と考えて、ふと人の気配がした。正面の通路を右に折れたところからだ。やるしかない。

 早足で廊下を進んで、誰かも確認しないで口元を覆い首に凶器をあてた。声にならない悲鳴が聞こえる。ああ、この人は俺が小さい頃暇を持て余していると折り紙を持ってきてくれた使用人だ。笑うと右頬にえくぼが出来るにこやかな人だった。

「さようなら」

 情を持ち込んではならない。そんなものを持ち合わせていたら、あの子を救えない。邪魔なものだ。

 血飛沫があがらないように静かに腹に包丁を刺していく。ずっしりと重たい体と手元。離した口元から何かが聞こえる。断末魔でなければ問題ない、と思っていた。

「坊ちゃん……おおきく、なって……」

 背にひやりとしたものが伝った。やめてくれ。もう戻れないんだ。やめてくれ。

 先程手を下した母親に似た、少し伸びた猫毛の前髪が鼻先をつついてくすぐったい。しんと静まり返っている屋敷には殺人鬼が一人。どこまで鬼になりきれるか、あの子に会うまで人間でいられるか。

 また亡骸を近くの部屋の押し入れに押し込みながら、ふと走馬灯のように昔を思い出した、ああ、もう人間じゃなくなるんだな。

 

 古き良家の分家の末っ子として生まれた俺は、何も望まれず、期待されず、厳格な父には物心つく前から見限られていた。幼いながらに、家族は他人だとわかっていた。母親は凡庸な人だった。自分には何も無い。そうやって何も無い、与えられない自分と共に生きてきたが、中学生の時、宗家である叔母が身篭ったと噂で聞いた。まず思ったのが「かわいそうに」。叔母はまだ若い方だが、なかなか子供に恵まれず、家督は俺の兄にあたる、分家の長男にすると半ば無理矢理決めようとしていたところにこのニュースだ。しかも産まれるのは女の子らしい。くだらない家督争いでも起こる未来を予想して、それでも自分は蚊帳の外だろうと小さくため息をついた。

 それから数ヶ月、そろそろ臨月も近い年末、叔母に会いに行くことになった。内心興味が無いのでとっとと済ませて帰りたい。家族と共に車を停めたら、駐車場だけで一軒家くらいあるのではないかと思う広い敷地が垣間見えた。他の親戚も来ているらしい。ぞろぞろと立派な門構えをくぐり、大人達に着いていく。年に数回来る、やたら広い別荘だ。基本的に古風なThe日本屋敷だが、ところどころリフォームされていて、どこか浪漫を感じる。少しどき、どき、と緊張してきた。大人達の数歩後ろから、障子が開けっ放しの部屋へ入る。先に着いたのであろう人達がなにやら話している。その中心より少し離れたところに叔母は座っていた。お腹が、大きい。近付く気にならなくて、どうせ気にされないであろうから部屋の隅に立ってぼうっとしていた。

「十夜くん」

 どきりと心臓が跳ねた。

 手招きされている。どうして呼ぶんだ。なんで。何か言っている。どうして。

 次の瞬間、僕は叔母の膨らんだお腹に触れていた。魔法みたいだ。「触ってごらん。十夜くんを呼んでるの」。あたたかい。この中に人間が入っているのか。そう思うと、触れている手のひらに小さな小さな鼓動を感じた。それはだんだんと大きく優しく柔らかくなっていった。柔らかさに、電撃のように僕の中に何かが入り込んでくる。何も無い僕に、誰かがノックするように。

「十夜くん」

 鼓動がリンクする。

「あなたが護ってあげるのよ」

 小さな小さな、僕の、

「誰より優しい貴方だもの。立派なナイトになるのよ」

 大切なひと。

 それからは目まぐるしく日々が過ぎていって、とある雪の残る冬の日、大切なひとはこの世の陽を浴びた。産まれたと母親からメールが帰りのホームルーム中にきて、僕はチャイムが鳴ると同時に慌てて教室を飛び出た。友人が何やら言っていたが、適当に返した。わくわくと心が転がる感覚と、ぞわぞわと背筋を伸ばされる妙な感覚。道の隅の凍った雪に足を取られないように気を付けてひたすら走る。吐く息が白い。周りの音が全く聞こえなくて、世界にたった一人ぼっちみたいだ。それでも、君さえいれば、陽の当たる場所へ行ける。早く、早く。君の鼓動を感じた時、思ったんだ。何も無い僕だけど、僕の全てをあげるよ。だから、だから、早く顔を見せて。

 電車を乗り継いで、やっと屋敷が見えた。玄関の階段に躓いて顔面を打ったがどうとでも無い。あの日のように、障子が開け放たれた部屋に駆け込む。光が、見えた。

 つまめば弾けてしまいそうな小さな物体。顔に生ぬるい液体が垂れる感覚。周りの大人達がぎょっとした顔をしていて、一人の使用人がハンカチを持って寄ってきた。

「十夜くん、鼻血と涙が…」

 なんだそれかっこ悪い。だなんて思いながらも涙は止まらないようで、わあわあ泣いて大人達には変に心配され、叔母には苦笑いされた。叔母の腕の中には大切なひと。泣き止まない僕を慰めるように小さく脆そうでもしっかりとした存在感の腕がひょこっと音をつけたように叔母の腕の中から飛び出した。「なかないで」。そういったように。

 思わず笑ってしまった。あれよあれよと叔母は僕を世話係に決めて、あからさまなウインクをした。

 それからは学校に育児書を持ち込んで、教科書で隠して読んだり、帰ってからは日中世話をしていた叔母とチェンジして、叔母は仕事へ向かい、僕は赤子と向かい合った。子育ては本の通りになるわけじゃないとつくづく思った。そして中学生がやることじゃないとも思った。だが、つらさも苦しさも、この子が笑うと何もなかったかのように疲れが取れる。そんなこんなで一年、二年経った頃、周囲の大人達がピリピリと殺気に似た雰囲気でこの子を見るようになっていった。考えなくともわかる。家督の件だ。僕は幼子を護るために何ができるか。一つ思いついたが、高校生とはいえまだ世間一般では子供の僕には無理な話だ。しかし幼子を護るにはやり遂げたい。そう思った時、実父が亡くなった。突然の死に、思うことは特になかった。でも一つだけ、たった一つだけ、財産を遺してくれたのだけはありがとうと言ってもいいかもしれない。金があれば、何とかできるかもしれない。

 そしてある日、僕達は朝日が昇る前に、こっそりと屋敷を出た。

 すぐ着くからね、お兄ちゃんがいるから大丈夫だからね。流石に不安そうな幼子に言い聞かせるように小さな手を握る。自分自身にも、言い聞かせるように。この子には僕しかいない。僕が手を離したら死んでしまうかもしれない。そう思うと背筋がぞくりとした。搭乗時間まで、あと三十分。

 

 ぎしり、ぎしりとまた床板が傷んでいるのか、何度も音を立てる。あれから数十分は経ったが、他の使用人には鉢合わせない。予想とは違い、使用人の数を多く見積もりすぎたか?と思いながら廊下の角を曲がると、キッチンから光がもれているのが目に入った。冷蔵庫を開閉する音が聞こえる。キッチンにいる使用人にはよく覚えがある。覚えのないことで父親に折檻された後とぼとぼと廊下を歩いていると声をかけてくれて、皆には内緒だよと焼きたてのクッキーをくれた。今もほんのり甘い香りがする。甘さが少ないうちに、始末をしないと。

「こんにちは、お久しぶりです、十夜です」

「えっ?あら!十夜くん?久しぶりねぇ」

 会話一つで穏やかな人柄がわかる。小柄な彼女はぱたぱたとスリッパを鳴らして近寄ってきた。

「今クッキー作ってるのよ。時間があれば食べていって?」

 彼女の目尻に涙が溜まる。ああ、よく見るとシワも増えている。まるで浦島太郎だ。あの日あの時から僕の、ここでの世界は止まっている。だから、だからこそ終わらせなければならない。

「すみません、あんまり時間ないんです」

「あら、そうなの?じゃあまた来た時に作る……っ」

 この人には笑顔で楽しそうにしていてほしい。にこやかに、少し残念そうに話してる途中に、彼女の細い首に包丁を突き刺した。小さな唇がルージュのように真っ赤に染まっていく。崩れ落ちるように倒れた彼女をぼーと見ていると、フローリングの床にぽたりぽたりと水滴が零れ落ちた。頬が冷えて冷たい。顔を何度洗っても生暖かいそれは暫くやむことはなかった。

 

 ドイツにある叔父の使っていたアパートを譲り受けた、僕とあの子の城は直ぐに崩れ去った。

 海外で住むようになってから二年程だろうか、叔母から手紙がよく届くようになった。多いと週に一回。内容は見なくてもわかった。義務教育だ。僕もあの子も籍は日本。相応の歳になったら小学校へ通わなければならない。本当はそれも引き受けるつもりだった。しかし、僕にはもうその余力は残っていなかった。高校を中退して海外へとんだはいいが、見えないストレスと焦りが僕を追い詰めた。僕の大切なお姫様。本当はずっと一緒に二人で過ごしたかった。本当は、本当は。質素なテーブルに乱雑に散らばした、雑に開けた手紙が物言わずとも圧をかけてくる。

「おにいちゃん?」

 はっと意識が戻る。部屋は薄暗く、電気をつけないままぼーっとしていたことに気付いた。

 ぬいぐるみを持ったまま不安そうに首を傾げる幼子の目線に合わせるように屈む。

「ね、明日はデートに行こっか」

 おしゃれして、普段は着ないジャケットなんて着ちゃって。一日ローマの休日のように街を楽しんだ。これが最期だというように。

 夕方に帰ってきて、眠りについたお姫様のおでこに軽くキスをして、静かに荷造りをはじめた。元々荷物が少ないのですぐに終わった。深夜、最終電車に乗り遅れないように、白い息を吐き出しながら石畳を靴を鳴らして歩く。はあ、はあ、と早歩きのせいか息が荒くなる。呼吸音はだんだんと嗚咽がまじり、時折鼻をすする音も混ざってきた。頬が凍りついてしまいそうな寒空の下、僕は、俺は、駅へとひたすら歩いた。

 

 俺にはとっくに道徳なんてないんだろう。あの子に出会ってから、全てはあの子のもの。心配や後悔はしても反省なんてできない。

 あの子の部屋の前に辿り着いた。障子の隙間から光がもれている。嫌に緊張する。それでも「お兄ちゃんが護る」。卑しいこの世界から、今度こそ救ってあげる。

「司ちゃん」

「……はい?」

 警戒しているのか、間を置いた返事にぞくぞくと心臓が震える。

「十夜です。開けても?」

「えっ……」

 一気に警戒から驚愕に変わる。障子に手をかけると、すごいスピードで影が近付いてきた。

「うわっ、びっくりした」

「十夜お兄ちゃん……?」

 静かに障子を開けると、今にも零れそうな大きな瞳に見つめられた。

「今まで、なんっ、どうして」

「落ち着いて、ほら、深呼吸」

 文字通りパニックになっている彼女に、落ち着いてと背中をさすると、ダムが決壊したようにぽろぽろと涙が溢れた。

「そんなに泣かないで。これからはずっと一緒だからね」

「ずっと……?」

「うん、俺から離れないでね。どんな時も俺を信じて」

 幼い頃ビデオで見たアニメ映画のように手を差し出すと、突然のことなのに迷いなく、白くて小さな手が重なった。

「さぁ、行こう」

「どこへ?」

「どこへでも」

 二人でにっこりと笑うと、廊下から足音が聞こえた。

「おい!誰か来てなかったか?……十夜?」

 どすどすと音を立てて部屋の前まで来た彼は庭師だ。屈強な体はボディービルダーのよう。

「さっきから使用人が見えない。何かあったのか?」

 心の中で舌打ちする。こいつも始末したい、だがこの子の前では殺りづらい。

「……なあ、十夜。その鞄の中……」

 庭師が俺のリュックを見た後顔を青くしてリュックを指さした。ああ、もしかしてと鞄のファスナーを見ると、少し隙間が開いていて、中の包丁と血まみれのタオルが見えていた。俺はスイッチが入ったように鞄から包丁を取り出し、庭師に詰め寄った。

「ああ、これ?」

「な、なんでそんなもの」

「人を殺すためだよ」

 そう言った瞬間、包丁を持っていた腕を弾かれ、包丁は部屋の隅に飛ばされた。

「おっ、お前、自首しろ!」

「なんで?」

「……頼む、警察を呼ぶから自首してくれ」

 電話をしに行くのであろう、廊下へ進んでいこうとする庭師を引き留める。それでも尚止まらない彼に苛立ちが芽生えてくる。だが凶器は部屋の隅だ。なんとか引き留めていると、今まで隠れるように静かだった柔らかな声が震えた。

「どうして邪魔するの?」

「お、お嬢。こいつは殺人もしくは殺傷してるんですよ?」

「そんなのどうでもいい。邪魔するなら……」

 いつの間にか近寄ってきた彼女が庭師に一歩踏ん張るように寄った。彼が次に口から出したのは真っ赤な鮮血だった。

「これで、共犯」

 赤い包丁を両手で握りしめてはにかむ彼女はこの世で一番美しかった。

 

「準備はいいかな?」

「うん、元々物少ないし」

「ふふ、それ俺も思ってた」

 空港のロビー。十数年前と同じベンチに座る。しかし、あの日のような不安や恐怖感は無い。あるのは愛の逃避行のような胸をくすぐる何か。

「流暢に喋る司ちゃんかわゆい……」

「え?なに?」

「ううん、成長したなあって。お兄ちゃん感動しちゃって」

 くすくす笑いあっていると、搭乗のアナウンスが流れた。ベンチから立ち上がると何ともなしに手を繋ぐ。

「次はどこにいくの?」

「どこへでも」

 ざわざわと人波の中へ入っていく。

「月の裏側まで行っちゃおうか」

 

「ほら見て、司ちゃん」

「なあに?」

「月がとても綺麗」

「星もよく見えるね」

「ねぇ、綺麗だね」

「うん、わたし死んでもいい」

「その時は一緒だよ」

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