バゲットは恋の予感

rokumonsen

バゲットは恋の予感

「先生、ひとつ、質問があります。いいですか」

 彩香が、スッと右手を挙げた。

「はい、なんでも質問して下さい。そのための初心者講座ですよ」

 講師のエテイヤ・鈴木先生が、ほほ笑んだ。

「あの、わたし、フランスパンのバゲットが大好きです。このタロットカードのワンドの絵札にある長ひょろ~い棒は、どうしても、バゲットを連想してしまいます。ワンドの数字の十の絵札は、バゲットを十本抱えて、重くて立ち往生した男を描いているように見えます。作者のミス・コールマン・パメラ・スミスは、バゲットからヒントを得たのではないでしょうか」

 鈴木先生は、冷笑するかのようにしばらく、彩香を凝視した。三十人ほど集まった教室は水を打ったように静まった。鈴木先生は、軽く咳払いした。

「素晴らしい!大変、良い発想です。そのインスピレーションが、占いの世界では一番、大切です。タロットカードのそれぞれの絵を、どうリーディングする、読むかは、霊的な直感が左右します。英語で棒を意味するワンドに、美味しいバゲットを連想する。マジック・ワンドとは魔法の杖。このカードを描いたミス・スミス、愛称、ピクシーがバゲットを食べて、あの形からヒントを得たのではないか。新説です! 世界的な新しい解釈です。だれも否定も肯定も出来ません!きょうの、最大の収穫と言って過言ではないでしょう」

 鈴木先生は、大きく拍手した。会場は、爆笑だ。


「や~んなっちゃった。サ・ヤ・カを、タロット講座に連れて来たのは、あたしの完全なミスね。なに、あの質問。正気なの」

「う~ん、すみません。お昼、食べてなかったものですから」

 先輩の奈津美に、ペコッと頭を下げた。

「お昼の問題ではないの。霊的な宇宙、運命の秘密のマップを示すコスモスを語る講座に、フランスパンのバゲットですって!」

「でも、あれ、見て下さい」

 彩香は、二人が立ち寄ったスタバのガラス越しに、向かいの〈ル・パン トオヤマ〉を指差した。レンガ壁に大きな円形ショーウインドー、その先にパンスタンドや棚が並び、バゲット、バタール、そのほかのバン類が美味しそうに自己主張している。客が次から次と訪れる。

「このお店、インスタグラムの見栄えのするブランジェリーとして有名です。二十年ぐらい前に、未亡人のマダムが独りで始めたそうなの」

「ふ~ん、確かに、なんだかオーラがあるね、このお店」

「そうでしょ。だから、タロット占いの霊的なインスピレーションと、バゲットがつながったわけ、ワ・タ・シ・テ・キ・には」

「少し、説得力あるなあ」

「良かった、先輩に理解してもらうのが一番!」

 彩香は、胸の前で小さく手を叩いた。

「このケニアコーヒー、美味しいです」

「じゃあ、バゲット、買って行くか」

「はい!」

 彩香は、素早くうなずいた。


 早春の週末、西新宿の高層ビルにあるカルチャーセンターで〈タロット占い 初心者講座〉が開かれた。彩香は、美術大学時代の二年先輩、奈津美に誘われた。

 二時間の講座でタロットの歴史や簡単な占い方を習った。十五世紀ごろ、イタリアに発祥した賭博カードゲームが、十八世紀後半に、本格的なカード占いのタロットに発展し、フランス革命下の動乱のパリで、大占い師、エテイヤが現れた。本名は、ジャン=バプティスト・アリエッテ。Allietteの綴りを逆にしたアナグラム、綴り換えでエテイヤにした。鈴木先生のペンネームだ。

 カードは大アルカナと呼ばれる絵札二十二枚と、小アルカナというトランプカードのようにエースからキングまで四種類、五十六枚、大小アルカナ合わせて七十八枚で構成される。四種類はトランプより一枚多い各十四枚で、スペード、ハート、ダイヤ、クラブではなく、世界を構成する四大エレメントとされる火、水、風、地に相当する棒のワンド、聖杯のカップ、剣のソード、金貨のペンタクルスの図柄だ。棒は、火を点すと松明になることから、四大エレメントの情熱や力、エネルギーを意味する火に結び付けられたという。

 カードは、特定の順序で並べ、開いていく。この展開法をスプレッドと言い、鈴木先生は、この日、定番として〈ヘキサグラム・スプレッド〉〈ケルティック・クロス・ブレッド〉〈ホロスコープ・スプレッド〉の三つを紹介した。

 鈴木先生は、強調した。

「タロットの絵柄は、死神、悪魔など占いを信じていなくても、心理的にショックを与える。どんなカードが出ても、それは確定した運命ではない!そうならないために、自分で自分の未来を変えて行く、そのための啓示である。タロットに限らず、占いとは、希望のためにあることを、忘れてはならない!これはきょうの講座の核心として、みなさんの胸に刻んで下さい」

 最後に、もうひと言、付け加えた。

「フランスパンのバゲットは、大いなるインスピレーションです!」

 会場は、再び、爆笑の渦だ。


 彩香は、阿佐ヶ谷に借りた1DKのアパートで、世界中でもっとも愛用されているタロットデッキを広げ、鈴木先生の教科書を開いた。デッキは〈ウェイト=スミス版〉だ。一九○九年の発行で、ウェイトとは、このデッキを監修した著名な魔術に関する文筆家、アーサー・エドワード・ウェイト、スミスとはウェイトの依頼でデザインを担当した画家、パメラ・コールマン・スミス。当時、三十代の女性だ。発行出版社の名前を冠して〈ライダー版〉とも称される。なんといっても、パメラの絵の素晴らしさが、このデッキを世界的な人気に押し上げた。

 パメラは一八七八年、ロンドン生まれ。イングランド南西部に伝わる妖精、ピクシーの愛称で親しまれた。七十八枚の絵は、一九○九年六月から十一月にかけ、たった五カ月で一気に制作されている

 〈ル・パン トオヤマ〉の長さ八十㌢はあるバゲットを千切って食べた。クラストという皮のコンガリしたパリパリ感と、クラムという気泡が膨らんだ中身のフワフワ感が対照的で、焼き上がった小麦の風味が口いっぱいに跳ねる。

 パメラの次の説明にとても興味が湧いた。パメラは共感覚の持ち主だった。

「わたしもよ」

 彩香は、色彩を見ると、音が聴こえ、音を聴くと、色彩が見える、特殊な能力を持っているのだ。でも、パメラが陽気な一方、繊細で、妖精を夢見る浮世離れした人と表現するする描写には、自分と違うと、笑ってしまった。

 でも、生涯、独身。おカネにもあまり縁がない人生だったらしい。

 彩香は、フッとため息をついた。自分の人生と重ね合わせると、といってもまだ、二十四年だが、似たようなアーチストを目指している。挿絵画家の道だ。東京の美術大学を卒業し、先輩の奈津美は国内屈指の製菓会社で、プロダクトデザイナーの職を射止めた。製品パッケージなどの商品デザインを担う仕事だ。彩香は、小さな出版社で本の挿絵を描くアルバイトだ。それも仕事があるときだけ。

 ふるさと、北海道の父母が、心配している。十分、知っている。でも、中学生のころ、若くして夭折した画家、神田日勝のペインティングナイフでベニヤ板に描いた、今にも走り出しそうな馬の躍動感に魅入られ、自分もこの道に進みたいと思った。パメラのように、歴史に残るものを自分も生み出したい。何より、まずは自活して行けるのか、不安でいっぱいだが、持ち前の楽天的な性格で、プロの挿絵画家を目指している。

 彩香は、カードの大アルカナで、美しく着飾って空を見上げる若者を描いた一枚を見つめた。左手に白いバラを持ち、右肩に担いだ長い棒と、その先には荷物袋が括り付けられている。頭には赤い羽根がアクセントだ。足元で小さな犬が跳ねる。でも、若者が立っている場所は、断崖絶壁の淵だ。あと一歩、踏み出すと真っ逆さまに転落するというのに、若者は楽しそうで、天真爛漫だ。カードに〈ТHE FOOL〉とある。〈愚者〉のこと。汚れなき純粋性の象徴である、永遠の少年の意味でもある。

「ピーターパン、ね」

 大人からすると、常識外れで、愚かな行為に見えても、〈愚者〉は自由で無邪気な魂を持っている。早朝の街角で、焼いたパンの美味しい香りが漂う石畳を、母の言い付けで長いバゲットを買って、それを肩に自宅へ足を速める幼い少年の姿。彩香は、そんな情景を思い浮かべ、テンポの軽やかなショパンの〈子犬のワルツ〉が聴こえた。

 部屋の中を、いたずら好きのティンカー・ベルが銀の粉を振り撒いて、飛び回る。少年と重なる〈愚者〉の持つ長い棒は、やはり、焼きたてのバゲットだ。


 出版社から、仕事の連絡が入った。生活費を稼ぐコンビニエンスストアのバイトの合間を縫って神田の会社に顔を出した。いつも腰が低く、温厚な山崎社長が、満面の笑みで迎えてくれた。

 山崎社長は、A4一枚の企画書を手に取り、読みながら説明した。

「パン屋は、フランス語でブランジェリーだろう。創業二十年の小冊子を配りたいそうだ。その中に、挿絵を十枚、入れる。だいたい、今どき、フォトショップやイラストレーターで、サアッとやってしてしまうのに、この依頼主は、ぜひ、多色の手書きの挿絵がほしいそうだ」

「モノクロではなく、カラーですか」

「うん、挿絵はモノクロ中心だが、依頼主が、そう言っているのだから、それでやって下さい。先方と打ち合わせてもらえるかな」

「はい!」

「おっ、元気いっぱいだな」

「ありがとうございます!」

「依頼主は、〈ル・パン トオヤマ〉というブランジェリだよ」

「えっ」

 思わず、声に出した。心の中で、びっくり仰天だ。

 周囲に社員がいなかったなら、自分の父のような年の山崎社長に飛びついて、ハグしていただろう。


 日差しが輝くような午後、彩香は打ち合わせのため〈ル・パン トオヤマ〉の事務を訪れた。いつもはТシャツ、ジーパン、寒いときは、それに紺のダッフルコートと、冴えない格好だが、この日は、桜の固い蕾も喜ぶ陽光なので、春めいた装いにした。青いインディゴのゆったりしたワイドパンツ、長袖ピンクのプルオーバーニット、白いスニーカー。

 彩香を待っていたのは青年だ。青年は名刺を差し出した。

 「母が、ここの社長です。ぼくは、副社長の柄でもないのですが、一応、息子なものですから、そういうことに」

 笑顔が爽やかだ。女性としては背が高い彩香より、頭ひとつ大きい。年は近い。二十六、七ぐらいか。白いコックシャツ、ハンチング型のワークキャップ、レンガ色のスカーフを巻いて、いかにもスマートなパン職人の着こなしだ。

「すみません。わたしは名刺を持っていないので」

「大丈夫です。山崎社長からお聞きしています。とても才能がある方だと」

「いえ、そんなに」

「謙遜しないで下さいね。いい、お仕事をしてほしいですから」

「もちろん、頑張ります!」

「この九月で、店を始めてちょうど、二十周年です。父が海外出張先の交通事故で亡くなって、もともとホームメイドのパンが趣味だった母が決断して、ここまで来ました。お蔭さまで人気店になりました。母が、お店を盛り立ててくれた地元に感謝して、この界隈を散策できるような小冊子を配布したいと言いましてね。地下鉄の駅から歩いて来る道筋に、ちょっとレトロな商店街があるでしょう。それに神社や、花がいっぱいの小公園も、ね。界隈の人たちと共存共栄が母のモットーですから、そのコンセプトが基本です」

「はい」

「もし、ご意見があれば、どうぞ、おっしゃって下さい。いま、聞いたばかりで、すぐにとは、いかないでしょうから、ぼくのほうで、この界隈の地図を用意しました。ボールペンの手書きで、拙いですが」

 B4のコピー用紙に、黒いボールペンで、店を中心にした地図だ。レストラン、居酒屋、金物店、クリーニング店、花屋、呉服屋、理髪店、八百屋、銭湯などなど、几帳面な細かい字で表記してある。

「バゲットを食べながらの散策、これはポイントとして、お願いしますね。小さな工場ですが、案内します。バゲット、エピ、バタール、クッペ、ブール、シャンピニオンとか、バラエティですよ。来客用の帽子、マスク、エプロン、シューズを用意してあるので。では、行きますか」

 青年は、また、ニッコリした。

 エピはフランス語で穂のこと。麦の穂に見立てたたパンだ。クッペは真ん中に直線の窪みがあるラグビーボールの小型版の感じ。ブールはボール状で、シャンピニオンはマッシュルームのことで、大福もちの形の上に平たいカサを乗せ、これが焼き上がると薄い煎餅をかじる食感だ。

 小麦粉、塩、水、イーストのシンプルな材料をミキシング機械で捏ねてパン生地を作る。その生地を寝かせる発酵過程や、ガス抜きのパンチを経て、一個一個の重さを計量した切り分けを行う。切り分けは、ステンレス製のステッパーを使う。柄のない四角い中華包丁みたいなものだ。

 成型は、職人が一個ずつ、丸めて俵型にし、何度か転がして細長い棒状、つまりバゲット型にする。仕上げはペティナイフを小さくしたようなクープナイフで、上部の表面に数本の刻みを入れる。一度に何本も焼ける業務用の大型窯で二○○度、三十分。あの表面がカリカリで波打つ、バゲットが誕生する。

 どんな小麦粉を使うか、また、生地の製法にいくつかの種類があり、どのように風味が違うか、遠山は説明した。彩香は一生懸命、メモした。フランスパンがどんどん、焼き上がり、次から次と店に運ばれていく、その活気、熱気に心が高ぶる。

 打ち合わせと見学を終え、その足で手書き地図を片手に、界隈を歩いてみた。いつも、奈津美の車で近くまで来てスタバと〈ル・パン トオヤマ〉の間を行き来するぐらいだった。

 ふるさとの小さな町も、こんな感じだ。懐かしい。豆腐屋の店頭のガラスケースに並べられた、手作りの木綿、絹、堅豆腐、がんもどき、厚揚げ。夜明け前の二時とか三時に、冷た~い水を使って丁寧に仕込むのだろう。八百屋の段ボール箱に入ったままのタマネギ、ニンジン、キャベツ。土の匂いが漂う。旬のイチゴ、オレンジ、デコポン、キウイ、はっさくも生き生きしている。小さなケーキ屋、和菓子屋の甘い匂い、色とりどりの婦人服を揃えた衣料品店、この横丁では新顔であろう百円ショップ。

 店に立つ人はほとんどが、高齢のおじさん、おばさん。真新しいコンビニは、ユニホーム姿の若い男が二人、レジにいる。

 その先に、神社があった。境内は、大きな桜の木が五本、枝を広げている。蕾がふくらみ、もうじき、開花しそうだ。古びた木製ベンチに掛けた。静寂だ。どんな挿絵を自分が描けるか、思案した。この界隈の春夏秋冬を、どうバゲットとつないで楽しく見てもらえるか。そのためには、自分自身が、喜びを感じなければならない。

 ピクシーの生み出した霊的なタロットカードの世界とは違うけれど、ここに存在するリアルな人々の営み、喜怒哀楽、その片鱗でも活写できたなら、プロとして自信が持てるだろう。依頼主の〈バゲットを食べながらの散策〉を反芻した。

 一匹の三毛猫が、彩香を一瞥し、境内をそそくさと横切った。


「ねえ、その男の人、どんな感じなの」

 奈津美は、好奇心いっぱいだ。給料が出たからと、誘ってくれた神楽坂のビストロで、彩香は仕事を受けた報告をした。奈津美は、仕事の内容はそっちのけで、副社長の青年のことばかり、質問した。彩香は、名刺をポーチから出した。

「ふ~ん、遠山隆、月並みな名前ね。へえ、伊勢屋百貨店や東都百貨店にも店を出しているの。あそこの食品は高級食材が多いのよ。それで、副社長は、イケメンなの」

「これ、仕事です。いま、わたしは人生で最大のチャンスを生かすか、生かし切れずに敗退するか、瀬戸際です。副社長が男でも、女でも、関係ありません!」

「なに、それ、いきり立って。ははあん、動いたな、気持ちが傾いている」

「違います。まったく、顔も浮かびません。頭の中は、挿絵の図案だけです」

「仕事は、もちろん、大事。これから戦いだからね。でもさ、彩香に恋人がいても、ゼンゼ~ン、おかしくないよ。それ、フツ~。ひょっとしたら、玉の輿かもね」

「ビジネスライクです」

「みんな、男女の最初は、そう言うのよね。でもさ、もし、チャンスがあるなら、ちゃんと、相手のことを考えなさい。この人は自分を幸せにしてくれる人なのかどうか。いい人と巡り合うのは、そう、いくつもないよ。あたしは、それを経験しているからね」

 赤と白の格子模様のテーブルクロスの上で、奈津美は彩香の前に名刺を滑らせた。彩香は大事そうにポーチに戻した。


 彩香が目指す挿絵画家というイラストレーターは地味な仕事だ。先輩や同級生たちからも、大丈夫?と心配される。美大出身者の本来の才能や勉学を生かせる仕事は、あまりない。よほどの才能か、幸運がない限り、まったく別な職業への路線変更を余儀なくされる。

 挿絵は新聞、週刊誌、小説誌、児童向け刊行物がマーケットだ。与えられた原稿の構図や雰囲気、キャラクターに合わせて、ロットリングのデザインペンを使い、ほとんどがモノクロだが、自分なりの表現が出来る。流行に関係なく、イラストをじっくり描けるが、彩香には、仕事はなかなか、回ってこない。それだけに、今回のカラーの挿絵は、ミラクルだ。

 アイディア・スケッチをあれこれ、考えながら、ピクシーこと、ミス・パメラ・コールマン・スミスを思い浮かべた。ウィキペディアや、久しぶりに地元の図書館で閲覧したタロット関連本によると、彼女は、フランスには一度も行っていないらしい。カリカリのバゲットは食べていない可能性が高い。

 しかし、彼女は当時、詩人イェーツ、音楽家ドビュッシーと交流があった。フランス人のドビュッシーはフランス料理が当然、食卓に出ていただろうから、バゲットも一緒なはずだ。

 彩香の結論、ピクシーはバゲットを知っており、食べていた。そのイメージが、作画したタロットカードのワンド、すなわち棒に重なっていた。

「まっ、なんの根拠もないけれどね」

 独り呟き、タロットカードを広げた。せっかくだから、自分の運勢を占ってみようか。すっかり、先輩に影響されたと苦笑いしながら、講座で配布された教科書を開き、数例あるスプレッドのうち、一番簡単な〈シンプル・クロス・スプレッド〉を選んだ。

 大アルカナの絵札二十二枚だけを使い、裏向きにしてかき混ぜた。心の中で、このミラクルな仕事が成就しますように、と何度も念じて。二十二枚のうち、二枚のカードだけを引いて占う。一枚を縦に置き、もう一枚を、その上に横向きに重ねる。一枚目は現在の状況、二枚目はどのような結果、または克服すべき問題点を示す。

 一枚目を開いた。〈WHEEL of FORТUNE〉と英語で記し、〈運命の輪〉だ。中央に車輪があり、周囲に、開いた本を持つ天使、スフィンクス、ワシ、翼のある雄牛、翼のあるライオン、蛇などが描かれている。教科書は〈チャンス到来〉〈運気〉〈ターニングポイント〉と説明し、一方で〈思わぬアクシデントの予兆〉とも。

 恐る恐る二枚目を表にした。〈ТHE LOVERS〉、そう〈恋人たち〉だ。上部に翼を広げた天使、下部の両側に裸の男性と女性が向き合って立っている。この意味するところ、〈情熱〉〈調和〉〈モチベーション〉。一方で〈欲望に溺れる〉〈別れ〉〈軽薄〉とも示す。

「う~ん、わからないよ。つまりね、こうリーディングしていいのかなあ、『チャンス到来、モチベーションいっぱい』ということね」

 楽天的な彩香にとって、この結論は自明だった。


 恋人のカードはさつそく、効力を発揮した。山崎社長を通じ、遠山から打ち合わせしたいと連絡が入った。

 三日後の昼過ぎ、彩香は文京区関口に本店を構える〈関口フランスパン〉のテラスで副社長と向かい合っていた。心地よい、春の日差しをいっぱいに浴びる。

 彼は明るいグレーのジャケット、Тシャツは、黒とグレーの濃淡のボーダーで、ベーシックなベージュのチノパン。ワークキャップを脱いだ頭は、両側を刈り上げている。カジュアルだと、いっそう清潔感が際立つ。

「このお店をぜひ、紹介したかったのです。ご存知ですか」

「初めて来ました」

「日本で最古のフランスパンの店です」

 イチョウ並木の目白坂に面したクールな銀色のビル一階は、大きな湾曲したガラス張りで、ショップにはフランスパン、菓子パン、総菜パン、ドーナッツ、デニッシュ、ケーキ、サンドイッチといった数々の商品、奥にあるイートインの客席まで外から見通せる。

「創業は明治二十一年、一八八八年ですから、うちの二十年なんて、ガキみたいなものですよ。もともとカトリック教会が孤児院の子どもたちに手に職をつけさせようとパンを作り始め、第一次世界大戦で教会の後ろ盾だったフランスが主戦場となって、孤児院経営に行き詰まり、日本の民間人が製パン部門を引き継いだそうです。

 まだ、米が主食の時代に、フランスパンに将来を託した日本人の意気込みを感じます。ぼくは、子どもたちのためという企業の社会的な責任がとても重要だと考えています。それと、そのチャレンジ精神です。たかがフランスパンではない、人々に幸せを運ぶパンでなければならない。今回の小冊子のことも、その気持ちの発露です。わかっていただけますか」

「えっ、ええ」

 彩香は戸惑った。話が自分には大き過ぎる。

「突然、このようなことをまくし立てられたら、だれでも困惑しますよね。母からも、出版社の山崎社長や挿絵画家を困らせるな、と釘を刺されていますから。実は、今回の小冊子企画は、ぼくが母に提案しました。この関口フランスパンに伍するようなお店に将来は、してみせる、ぼくの決意です。一緒に、いいものを作って下さい。よろしくお願いします」

 遠山は真剣なまなざしを向ける。

「はい、頑張ります」

 彩香は、そう言うのが精いっぱいだった。とんでもなく情熱的な人なのだ。なんか、プロポーズされているみたいで…ときめいた。同時に、頑張らなくちゃ、と闘志が湧いた。


 週末の金曜日午後、新宿駅東口のスタバで奈津美と落ち合った。月曜日には、新しいアイディア・スケッチを山崎社長に提出しなければならない。息抜きをしている暇はないが、先輩と話していると、少し、気が紛れる。奈津美は、グレイとホワイトのストライプ柄のシャツワンピをサラッと着こなしている。

「デートですか」

「ううん、会社のプロダクトデザインチームが極秘で、集まるの」

「へえ、金曜日の夜に」

「まあ、団結会みたいなものね。これ、極秘よ。うちの会社、チョコレートの新商品で来年の秋あたり、大々的に打って出るのよ。まだ、一年半以上あるけれど、そのパッケージデザインを進めているの。すごいヒット商品になるかもね」

 奈津美の双眸がキラキラと輝いている。

「それより、彩香の挿絵は、どうなの。そのパンのお店の小冊子は」

「笑わないですよね」

「なにかいいアイディア、あるな」

「う~ん、自信ないなあ」

「なにを言っているの、自信、持ちなさいよ。どんなアイディアなの」

「猫」

「ネ・コ?」

「うん。あの界隈を歩いて、神社の境内でベンチにいると、前を三毛猫がこちらをチラっと見て、横切ったの。そのときは、なにも感じなかった。それが、きのうの夜、頭にガツンと来て。あの界隈は昔から、猫好きが多いそう。そうか、散策のガイド役は、猫のキャラクターかなあ、と。猫に白いワークキャップとコックシャツを着せて、バゲットを持たせて登場してもらう。ニャン、とか出来るかも」

「ハハハ、余裕じゃないの。それ、いいよ、ほっこりするし、親しみが湧くよ。こんなのどう、猫の足裏の肉球をかたどった、フランスパン、いや、アンパンなんかも、新商品でいいかもよ。横丁のお店を回るスタンプラリーの印は、そうなると、猫のフットプリントだね」

「先輩、そのアイディア、いただきます!」

「最初の閃きが肝心よ。連想していくの。彩香の得意技でしょう」

「応援してくれて、ありがとうございます」

「イケメン副社長とは、その後、どうなの」

「いやっ、なにもありません。ビジネスライクです」

「そうかなあ。その顔、ウキウキしているように見えるけど」

「そうですかあ」

「目は口ほどにものをいうって、恋の予感、するな。タロットで占う? やはり、占いの本家本元は、恋愛だよ、ね」

「はあ、それは、まあ、別の場面で」

「まっ、どぎまぎしちゃって。そうそう、フランス語版のタロットカードで棒のこと、まさか、まだバゲットと思っては、いないよね」

「どう言うんですか」

「フランス語の棒は、バ・ト・ンだよ。BAТON。リレー競技の受け渡しの、あのバトン。でも、ブランジェリーの恋占いは、バゲットが一番、お似合いね」

「先輩、それってやっぱり、世界的な新説ですね!」

 テーブルに置いたスマホが震えた。液晶画面に、遠山隆の名前がきらめいた。

                                   了                                                                 

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