オールアナザー・ハッピーライフ

宇乃夏

オールアナザー・ハッピーライフ

 身体が芯から干上がるのを感じた。倒れる直前に見たのは、ただ広い荒野に佇むガソリンスタンドとその奥に聳え立つ砂ぼこりにまみれた給水塔が、空の青さの中にくっきりと浮んでいる光景だった。先週見た映画の最後のシーン、ポラロイドを持って微笑む少女が脳裏に浮かんだ瞬間、意識は途切れた。

 アメリカに来たのは映画に感銘を受けたからという単純な理由だった。ただ広い荒野の道なき道を、ニューヨークからロサンゼルスまで古いアメ車で横断する映画。見終わってすぐに、ニューヨーク行きのチケットを予約して、パスポートと財布、数日分の衣類だけを持って日本を飛び出した。現地の空港で車を借りようとしたときに国際運転免許証がないことに気づいて、日本にいる友人に電話をかけた。耳を劈くほどの怒声が響いた。

「アメリカにだって頭のいかれた連中は、うようよいるんだ。華僑のスウなんか、バイクで荒野へ出たきり行方不明なんだぞ。おまえも知ってるだろ」

「ああ、あの左目のない中国人? 金払えなくて穿り出されたんだっけ」

 彼はロスの知り合いに連絡はしておく、と言って電話を切った。国際運転免許証が届くとすぐに、憧れのアメ車を借りて大陸横断の旅に出た。

自身の計画性が破綻しているという自覚はあるが、そういう性分なので仕方がないと思った。荒野のど真ん中で車がエンストし、家屋を求めて二日も歩き通しになるまでは。

 

 ラジオの音に目を覚ました。光の向こうに現れたのは、天井の空調機から下がる蜘蛛の巣だった。天井の空気循環器の羽が、染みを目で追えるくらいの速さでカタカタと回っていた。眼球しか動かせない状態だったが、じんわりとした暑さと風の温度から、自分が埃臭いベッドの上に転がっていて、古びた木造家屋の一室にいることがわかった。腰から下の感覚がしばらくなかったが、何度か力を入れることでやっと動いた。首を持ち上げると膝まで包帯が巻かれていて、一寸たりとも動かなかった。ガガガ、と時折回線の途切れるラジオに耳を澄ませながら、マイリーは起き上がることを諦めて、天井をもう一度眺めた。ラジオを聞く限り、ここはアメリカだ。とりあえず、また生き延びたようだ。

 床のきしむ音がして、誰かが部屋の奥から歩いてくるのがわかった。

「目が覚めたのね」

 現れたのは少女だった。黄色とピンクの花柄のワンピースの上に、フリルのついた白いエプロンをつけて、白のトレーに水とタオルを持って立っていた。長い赤毛を左右に束ね、緩く結ばれた三つ編みに、まだ垢ぬけない一重の青い目にそばかす。古い映画に出てきそうな、読書の好きな田舎少女のような印象だった。

「脱水症状で死にかけてたのよ。丸二日も寝てたわ」

 少女が近づいて、水を手渡してきた。少女の言葉はなまりが強く癖のある発音だったが、言われたことを理解するのにそう時間はかからなかった。

「ここはどこ? 今日は何日」

「ニューカークというところで、今日は木曜日よ。あなた、店の前で行き倒れてたの。誘拐でもされたの?」

 彼女の言葉で、自分がハイヒールとスカートで荒野を歩き通したことを思い出した。歩く羽目になるとは思っていなかったので、日本を飛び出した格好のままだった。最初の数キロで足が痛くなり、途中でヒールを折って歩いた。

「ニューヨークから運転してきたんだけど、途中でエンストしたの。最後に見た建築物はハイウェイ・ラジオの大看板」

「ここから五十キロも東の町よ、信じられない。ヒッチハイクは?」

「三回レイプされかけたよ。おかげで元来た道もわからなくなっちまった」

「荒野をなんだと思ってるの? この辺りは家も建物も、草木だってほとんどないの。そんな環境で人間がまともでいられると思う? スカートで歩くなんて無謀だし、生きてたのが奇跡よ」

 彼女は目を見開いて、そこまで捲し立てるように喋った。マイリーは彼女が引っ込み思案な少女ではなく、口の悪い自分と丁々発止できるような人物であることを嬉しく思った。

「助けてくれたんだね、ありがとう。私はマイリー」

「あたしはアンジェ。どこから来たの?」

 握手に応じたアンジェは明るく微笑み、ベッドに腰掛けて話を続けた。目の前の人種の異なる少女に、瞳をまじまじと覗き込まれる。マイリーもその目を見つめた。はっきりとしたブルーアイズを見るのは初めてだった。

「日本。アジア人を見たことある?」

「中国人に一度会ったわ。日本人は初めてよ」

「似たようなもんさ、あんたはアメリカ人?」

 アンジェとの会話は不思議なほどによく弾んで、声による対話をしている気がしなかった。彼女とは仲良くなれる、と打ち解ける前から確信した。マイリーが彼女の髪に触れようとしたとき、また床がきしむ音がして、部屋に大柄な男がぬっと入ってきた。

「客人の様子はどうだい」

 現れたのは、白いひげを蓄えた壮年の白人だった。ギンガムチェックの赤いシャツに薄汚れたジーンズのサスペンダー。手には赤土だらけの工具の入ったカーキのバッグを抱えていた。彼を見ると、アンジェはベッドから転げるように立ち上がって、その横に立った。

「父のジョンよ。親子で一階のダイナーを経営してるの。二階はあたし達の住居よ」

 マイリーが挨拶のために手を差し出すと、ジョンは油で手が汚れているから、と断った。彼の英語にはアンジェと同じなまりがあった。

「酷い出血だったが、傷は浅いしすぐに治るだろう」

 置いてきた車を探しに行きたいと言うマイリーに、彼は無謀だろう、と言った。目印のラジオの大看板自体がいたる場所にあるので、迂闊に乗り出すのは危険だと言った。この荒野に道らしき道はなく、どこまでも荒地が続いているだけで、目印になるものもほとんどないという。保安官には連絡しておこう、というジョンに、マイリーは車種とナンバーを告げると、彼は階段を降りて行った。父親がいないくなると、アンジェは再びベッドに腰掛けた。

「あたしの部屋、ここを出てすぐ左なの。お手洗いは右。ベルを置いておくから、困ったときはすぐに鳴らしてね。もう少し眠る? お腹すいてる?」

 やはり捲し立てるように話すアンジェは微笑ましかった。不思議なことに、アンジェの目を見た途端、言っていることが耳ではなく脳に直接響くように感じて、話そうとしていることが瞬時にわかった。それは彼女も同じようで、「話をするのが初めてじゃない気がする」と笑っていた。

 それからしばらく、マイリーは荒野の真ん中のガソリンスタンド兼ダイナーで世話になった。日に数人程度の客は全て、車で通りかかった旅行者だった。ある程度動けるようになると、ときどきアンジェと共にダイナーに立ったり、給水塔を清掃したりした。荒野のど真ん中での経営は儲からないだろう、とジョンに問いかけると、儲かるかどうかではなく、人命の為に店を構えているのだと言った。ただ広い荒野に憧れを持ち訪れる旅行者は多いが、立ち往生してしまう者が後を絶たないという。最寄りの町は西に四十キロ進んだサンタローザという町らしく、まさにダイナーは陸の孤島だった。二人が旅行者以外と交流をする機会は、週に一度の車での買い出しと、保安官の定期訪問だけだった。マイリーは滞在中に二度保安官に会ったが、車は見つからない(Can’t find)、と言っていた。探しているけど見つからないのか、ハナから探していないのかどっちなんだと詰め寄っても、彼らは見つからない(Can’t find)、を繰り返すだけだった。レンタカー会社とのやりとりはロスの友人に託して、マイリーは車の件を早々に諦めることにした。

 ジョンは週に一度の買い出しに、重いものを買うとき以外は一人で行くらしく、アンジェはもう三ヶ月もこの荒野から出ていないと言った。今年の七月に十六になるらしいが、学校はダイナーを手伝うために辞めたらしかった。マイリーの彼女に自分の洋服を着させたり、日本の話をしたりした。アンジェがある日、変かもしれないけれど、世界のどこかに片割れが居たとしたらそれはあなたかもしれないと思うの、といったとき、マイリーは生の喜びを感じた。それは芯の奥で繋がり合える人間と出会えた喜びだった。お互いの話をするたびに、それらが自分自身の経験と記憶となった。悲しい経験はより切なく、楽しい経験はより喜ばしく感じた。

 ある日、マイリーはアンジェの部屋の入り口が開いているのを見つけた。その扉の間から、部屋を横断するように壁から壁へつたう紐に、十数枚の写真が下げられているのを見た。それは人々の写真だった。どれもがダイナーの前で撮られているようで、モノクロの写真に写る人々は眩しいような笑顔を見せていた。

「あの写真、あんたが撮ったの?」

 アンジェに問いかけると、彼女は目を丸くして、見たの? と詰め寄った。大したものじゃない、と言うアンジェの制止を振り切って部屋に突入すると、そこには多くの写真が飾られていた。数十枚、いや百近くはあるだろうか。その写真を一つずつ眺めたとき、あることに気づいた。被写体の瞳に悲しさが滲んでいたのだ。吸い寄せられるように人々の瞳を見つめると、そこにはカメラを構えるアンジェが居た。素足に触れた波が引いていくような感覚がした。ある写真の中の中国人は、荒野で消えたスウだった。

「どうして教えてくれなかったの? 写真を撮るって」

「お父さんが、嫌いなの」

「どうして?」

「あたしに外の世界に目を向けてほしくないんだって」

 彼女はスラングを使うことはなく、やけに丁寧な言葉遣いで話した。マイリーは父親の教育の厳格さと、親以外とのコミュニケーションの影響を受けずに育った少女の不安定さを感じた。実際にマイリーは、ジョンが娘に過干渉であるのを目の当たりにしていた。彼はアンジェの着る服や、普段の生活について細かく口を出した。この少女は、自分の寂しさの慰めに娘を側に置く父親とこのまま一生をここで終えるのかと思うと、酸っぱいものを適量以上食べたときのように脳から血の気が引く感覚がした。マイリーは暗い表情をするアンジェの横を通り抜けて部屋に戻り、リュックの中からあるものを取り出して、彼女に見せた。

「ポラロイドカメラっていうんだ。ちょっとそこに立って」

 アンジェを部屋の入り口に立たせて、マイリーはシャッターを切った。フラッシュが光り、ガガガ、とカメラが大きな音を立てる。印刷される手のひらサイズの写真を切り取って、アンジェに手渡すと、その上から自分の手を重ね、写真を温めた。三十秒ほど経ってそこには恥ずかしそうに微笑む赤毛の少女が映し出された。

「わぁ、すごい」アンジェの感嘆の声に、マイリーは頬が綻ぶのを感じた。

「画質は少し落ちるけど、味があっていいでしょ。このカメラ、あんたにあげるよ。手当してくれたお礼だ」

「いいの?」

「私はこの写真をもらうから。せっかくできた友達だ、ロスまでの旅の相棒にするよ」

 マイリーがその写真にキスをすると、アンジェは声を立てて笑った。彼女に降りかかる不幸や不運をすべてはねのけてやりたいと思った。

「マイリーは背中に羽が生えてるから、自由にどこへでも行けるのね」

 後ろ手で腕を組んで寂し気に微笑む彼女の姿が、あの映画の最後を彷彿させた。自分の愛した人を写真に携えた少女は、あれからどうしたのだろうか。

「天使(アンジェ)はあんたでしょ。どこへだって行けるよ」

 するとアンジェの表情が曇った。

「それは無理よ」

 若く愛らしい彼女の人生をどうにかしてあげたいと思うと同時に、それが彼女のためになるのだろうかとも思った。アンジェは自分と似てはいるが同じ人間ではないし、きっと望む未来も願望も異なるのだろうと思うからだ。けれどマイリーは彼女に、世界はもっと美しいということを教えたかった。

「私の写真も撮ってよ」

「マイリーは女神さまだから、きっとあたしの写真に納まりきらないわ」

 アンジェはそう言って困ったように微笑んだ。マイリーは意味を聞き返さなかった。

「ねぇマイリー、さっきあたしを友達だって言ってくれた?」

「友達だよ、違うの?」

「あたし、友達ができたのは初めてよ。それがマイリーだってことが嬉しいの」

 アンジェの言葉の節々には諦めのような感情が透けて見えて、拭き去ることのできない物悲しさが滲み出ていた。マイリーは彼女の手を握って言った。

「アンジェ、あんたはこの家を出るべきだ。世界は砂と枯草しかない荒野だけでも、客が日に数人しか来ない小汚いダイナーだけでもない。もっともっと、広いところだ」

「だけど、あたしにはお金も勇気も、知識もないわ……ほかに頼る人だっていないのよ」

「じゃあ、私と来る?」

 マイリーの口から本音が突いて出た。ずっと言いたかった言葉だ。アンジェが目をむいた。

「ロスまで連れてってやるよ。あんたの好きなアイスクリーム屋だってあるぞ」

 彼女の人生を押し流していく運命を、自分がこの手で引き留めたかった。マイリーはかつて自分が囚われていたものと、彼女の境遇を照らし合わせていた。

 アンジェは驚いた表情を浮かべて、それから困惑したように目を背けた。

「だけど、あたし怖いわ。知らない世界に足を踏み出すなんて」

 彼女を見る傍ら、マイリーは普段考えないようにしている過去の記憶の扉を覗いた。目の前で自身の運命と向き合おうとしている少女の役に少しでも立つならと、その経験を語り始めた。

「私ね、むかし一度死んだの」

 古い過去の記憶だった。マイリーはできるだけ感情を乗せずに、掻い摘んで淡々と話した。ちょうど、アンジェくらいの年のときだった。マイリーは悪い連中とつるんでいた。当時の恋人が仕事をしくじって逃げたとき、一緒に捕まったマイリーは辺鄙な土地の倉庫に十ヶ月もの間、監禁された。コンクリートに染みていく自分の血の海を見ても、毎日寝る間もなく暴行されても、気絶さえ許されなかったこと。いっそ殺してくれと何度も縋ったこと。動物以下の扱いを受けて、尊厳を全部失ったこと。ある日、見張りの男が一人きりで、彼の頭を床中に散らばった釘の山に打ち付けたこと。なりふり構わず走ったこと。足に石が刺さろうと、木の枝が身体を引き裂こうと、ひたすらに走って逃げたこと。あの瞬間に見えた空は曇り空だったけれど、二度と空など見られないと思っていたマイリーにとって、それは人生を引き戻す最高の日だった。話を終えてアンジェを見つめると、息もしていないのではないかと思うほど真摯なまなざしで、マイリーを真っすぐに見ていた。

「だから私には、生きるべき理由があると思うんだ。この先何年生きるかわからないけど、感じて、考えたことすべてすると誓った。アメリカの荒野街道をアメ車でぶっ飛ばすのもそのうちの一つだし、自分と同じ境遇の誰かがいたら、見つけ出して救ってやりたいって思うのもそうだ」

 そう、それまでの自分は死んだのだ。一生分の悔しさと悲しみと怒りは、その時に全部使いきった。だからこれからは、嬉しいことと楽しいことしか感じない。きっともう、泣くこともない。ついでに計画性も一緒になくなったみたいだけどな、とマイリーが茶化すと、アンジェがマイリーの手を握りしめた。心の傷に絆創膏をはられたような温かさに、自分はこの手に触れるために生き伸びたのだ、と強く思った。アンジェは真っすぐに前を見つめていた。それまでに見えていた憂いや迷いの表情は見られなかった。マイリーはその表情を見て、更に続けた。

「私は近々ここを出る。そのときあんたにもう一度聞くから、考えておいて」

 アンジェの表情には動揺さえ見られなかった。彼女の中で何かが決まったのを、マイリーは感じた。


 それから三日後の朝、日が昇る前に起床したマイリーは、水を飲もうとダイナーに降りた。カウンター奥の冷蔵庫に手を伸ばしたときに、ジョンの車の鍵がそこに置きっぱなしになっていることに気づいた。窓の外を見ると、ダイナーの入り口に車が横付けしてあるのを見つけた。マイリーは物音を立てないように二階へ戻り、アンジェを揺さぶり起こした。

「どうしたの? また夜明け前よ」

 白いネグリジェ姿のアンジェが上半身を起こしたところに、小声で告げる。

「私と来る?」

「なに……」

「準備をして、下に降りてきて」

 マイリーはそう言うと部屋に戻ってリュックにものを詰めこんだ。最後にベッドわきに飾っていたアンジェの写真を掴んで、極力物音を立てないように一階へ降りた。エンジンを回して窓を開けてから、煙草に火をつける。太陽は昇っておらず気温はまだ低い。旅の続きが出来る、という瑞々しい感情が、夜明け前の曇った空に滲みだすように感じた。

「発つの?」

 降りてきたアンジェが車の横に立ち、寝ぼけ眼で訊ねた。

「きっとお父さんが心配するわ。手紙を書くから待っていて」

「親に言わなきゃなにもできないわけ? 子どもは幸せだな」

 マイリーの挑発に、アンジェは戻る足を止めて、無言のままドアを開けた。今度こそはっきりと目が覚めたような顔をして、冷静な素振りで乗り込んできた。マイリーは笑いを噛み締めながら、彼女に向き直って言った。

「おめでとうアンジェリカ。あんたの人生はあんたのものだ」

 マイリーがブレーキに手を置いて、アクセルを踏もうとしたそのときだった。

「両手を上げろ」

 突然ジョンの声がして、運転席の後ろから後頭部に固い何かを押し付けられた。マイリーはすぐにそれが銃口だと気づいて、おとなしく両手を上げた。空気が張り詰める。

「お前が感づいているのはわかっている。このまま娘を連れていこうったってそうはいかないぞ」

「お父さん、お願い。マイリーは殺さないで」

 アンジェの冷静な口調に、鍵のことも仕組まれていたのだと気づいた。ジョンはマイリーを車から引きずり下ろすと、ダイナーの前に立たせた。そうして後悔したような口調でマイリーの額に銃口を向ける。

「親しくなりすぎる前にこうしておけばよかった。アンジェはここから出さない。外のやつらがお前になにをしたか忘れたわけじゃないだろう」

 ジョンは最初に、アンジェに乱暴した旅行客を殺したのだと言った。それからは金品を奪うために同じことをしていたという。アンジェの部屋の写真はきっと、今まで殺害した旅行客のものだ。

 そのときだった。アンジェがジョンを突き飛ばして、猟銃を奪った。マイリーは即座に走り出して車に乗り込んだ。

「アンジェ、正気か? それは玩具じゃないんだぞ」

「そんなこと知ってるわ。あたしは正気よ、いつだってね。お父さんが思うほど子供でもないし、何も知らないわけじゃないわ」

 アンジェの目は本気だった。娘に銃口を突き付けられたことに動揺しているジョンを遠巻きに、車に近づいてくる。早く乗って、とマイリーが叫ぶ。

「聞いたでしょ、あたしは人殺しなの。あなたをかつて踏みにじった人たちと同じ、人間を消費して生きる怪物よ」

 彼女は、だから行って、あたしにこれ以上失望する前に、と背中を向けて言った。

「それがなんだっていうんだ。あんたは私と同じだろ?」

 猟銃を構えて振り返るアンジェの瞳は、未来を映してキラキラと輝いていた。涙にぬれて美しかった。その表情は喜びに満ち溢れていた。そして彼女は最後に、遠くで立ち尽くす父親を見つめた。

「マイリー、あなたの人生はあなたのものよ。おめでとう」

 そうして彼女は再びマイリーを振り返った。

「あたしはここで父と暮らすわ。それがあたしの人生なの」

 猟銃を父親に向けて、振り返る天使の笑顔を、マイリーは生涯忘れることはないだろう。

「あなたのこと、きっと忘れない。あたしのたったひとりの、大好きな友達」

 彼女は笑った。頬に涙が零れ落ちるその瞬間を、写真に切り取って永遠に残したかった。

「どうか、良い人生を」

 マイリーは弾け飛ぶように車を出した。振り返ることはなかった。暗い砂道が荒野の真ん中、アメリカの冷めた大気の下に延々と続いていた。ダッシュボードに置いた天使の写真を見つめる。ラジオがトレイシー・チャップマンの曲を流している。

 きっといつか、彼女が自由を手に入れたなら、より良い人生へ繋がっていく。今すぐに報われなくても。今すぐに救われなくても。それだけを信じて、今はただ、自分の未来に向かっていく。

その日の空も、曇りだった。「どうか良い人生を」と呟いた声が、ロスを目指す荒野の、冷たい風の中にとけていった。


(了)

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