一つ目の少年
少年が歩いている。
アスファルトの熱と、それに焼けたかのように赤いランドセルを引きずりながら。
少年が歩いている。
カラスの声を伴奏に、鼻唄を歌いながら。
少年が歩いている。
遠い潮騒に身をゆだね、誘われるように、吸い込まれるように、海の方に。
視界の左端、誰も座っていないバス停のベンチにクマのぬいぐるみが座り込んでいる。ベンチのすぐ左に置いてある、「バス停」と書いた看板のおかげでやっとそうだと認識できるような形ばかりの発着所で、もう行ってしまった最終の便を見送ったばかりのクマは、寂しさとはまた違った異なる感情を湛えたまま、座っている。少年は、一瞥をくれただけで歩いて行ってしまった。
ランドセルがアスファルトと摩擦し、悲鳴を上げている。
はたと、少年が顔を上げた。遠くから足音が聞こえてくる。スーツ姿の男がこちらに向かってきている。リズミカルに響く音からは、その男が急ぎながら走っていることが容易に想像できる。緩慢に歩く少年の横を辻風のように駆け抜け、バス停の標識を確認、左手首に巻いた腕時計を慌てて覗き、そうして愕然と言った様子で俯いている。肩が上下し、白いシャツにうっすらと浮かび上がっている汗の跡が、男の焦り様をこれ以上ないほど的確に表現していて、滑稽極まりない様子であった。
少年は、男の一部始終を見物し終わった後、また鼻唄混じりの足取りで、海岸の方へと歩いていく。
「ちょっとそこの君!」
少年の背後から、声が飛んでくる。振り向いた少年の視界に、クマのぬいぐるみを持った男が立っている。走ったからか呼吸が荒く、表情も険しいものがあるが、その様子に怪しいところはない。善意だけに突き動かされ少年に声をかけたようだった。
「これ、忘れものじゃないかな」
「僕のじゃないね」
考えることもせず返事をした少年の顔を、男はまじまじと観察する。
「あれ……累くん……?」
それは意図して発話された言葉というよりかは、心から自然に漏れ出たとでもいうべき音だった。少年の表情は変わらない。男が疲労を湛えた目を向けたまま呆然としている。二人の間に、沈黙が流れる。口を開いたのは少年の方からだった。
「最終の便はもう行ってしまったよ」
少年の声で我に返った男は、狐につままれたような表情のまま佇んでいる。
「それで、累くんって誰」
またも少年の言。ごまかすように男がもごもごしゃべった後、観念したように声を投げた。
「いや……小学校時代の友人に君が随分似通っていたもんで……他意はないよ」
「他意って何のつもりで言っているの」
少年が疑問を投げかける。男は真面目くさった顔で考えた。
「この場合、君を誘拐しようとしたらなんか……狙って言うんじゃないかな……わかんないけどさ」
「不思議だね、別に誘拐しようとしたわけじゃないなら堂々とすればいいのに」
「いや、仰る通りです」
またも沈黙。少年は足元のランドセルを背負い、小石を拾い上げて海岸の方へ向かおうとする。男がまた声を掛けた。
「親御さん、のところに行くの」
「一人だよ」
「ここからどうやって帰るつもり」
「そんなに遠くないから」
そっか、男が呟いた。少年は困り果てている男の顔を見つめる。道路の真ん中、もう今日は車も通らないだろうアスファルトに立ち右往左往している男を見かね、少年が声を掛けた。
「どうしたの」
男ははっと顔を上げ、泣き出しそうな顔を向けた後、無理に笑顔を作って話し出す。
「いやちょっと……嫌なことがあって、営業ですって言って逃げてきたんだ……でもやっぱり逃げられないような気がして、帰ったほうがいい……というか帰らなきゃいけないような気がして、最終のバスに間に合うように走ったわけだけど……笑っちゃうよな、毎回何につけても後手後手で……くっそこんなことなら逃げなきゃよかったって……小学生相手に話すことじゃないけど……」
沈黙。少年が手慰みに、明後日の方角に小石を投げる。アスファルトに小石が跳ね、火花が散るような小さな音を立てた。ぱち、というその音に男がびくつく。少年は、今にも崩れそうな男の顔を見つめている。少年の真っ直ぐで無垢な視線から逃れるように、男が顔をそむけた。しかしすぐに思い立った顔をして、男が口を開く。
「ここから駅までどこくらいかかる?」
「さぁ、一時間くらいじゃない」
「そう……だよなぁ」
「帰るの」
「いっ……やぁ……どうだろうね……」
乾いた短い笑いが男の口から漏れる。
「帰りたいの?」
少年の言葉に押されたように、男はその場に腰を下ろした。抱えていたフェイクレザーの鞄から書類を取り出し、眺め始める。少年の目からは、感情が読み取れない。いっそ軽蔑でもしてくれればいいのに、男はそうとまで考えた。
「楽しいの、それ」
「仕事は楽しいよ、向いていると思う」
「後手後手だけれど?」
少年の返答に、男は思わず笑い声をあげる。瞬間、書類を持っていない右の手で口を押えた。男のその反応は、自分が笑い出したことに対して向けられた驚きの感情の発露だった。
「で、帰るの?」
男は右手でぼりぼりと頭を掻き、そうしてから書類を鞄に詰めなおした。金具を止める音が、真夏のアスファルトに反響する。男はその音に、驚くことはしなかった。
「……まだいいかな」
たっぷりと間をおいて、男が少年にほころんだ顔を向けた。下瞼に疲労の跡は見られるが、しかし良い笑顔だった。男は立ち上がって、少年の方に近づく。少年はまたランドセルを地面に置き、引きずるように歩き出した。男は鞄を持ち、左手でクマのぬいぐるみを抱えたまま少年の後に続く。夕焼け迫る発着所に、空白だけが残された。
少年は、海岸に向かっているようだった。男は、少年に引かれるままに、来た道を遡上する。少年のランドセルが発する悲鳴と、革靴の跳ねる音、カラスの鳴き声、それに遠くの潮騒を耳に入れながら、半ば放心状態の男は歩き続けている。
陽光を真正面から受けた少年の顔は、光のままに表情が読めない。男は心配ながらも、覗くことはせず、歩いている。
累くんだった。男にとっては。
別段、一致した特徴があるわけではない。累くんは赤色より黒色を好んだし、暑がりで、アスファルトはおろかプールサイドすら、裸足ではまともに歩けない。正面の少年のように落ち着いた態度の子どもではなかった。
しかし、男にとって、眼前の少年は「累くん」そのものであった。
「なぁ」
男はこらえきれず、少年に声を掛ける。少年は顔だけ振り向いて、それでも歩みは止めない。少年の顔を見るなり男は恥ずかしさを感じて、ごまかすようなしぐさをしてしまう。
「いやぁ、名前聞いてなかったな、と思って」
「『るい』でいいよ、そう呼んで」
「間違ってしまっただけだから、申し訳ない」
「いいよ、むしろそれでいいんだよ」
男は判然としない感覚を抱くが、少年の澄み切った瞳を見るなり、馬鹿にするような意図を汲むことができなかった。曖昧に頷く。
「るいくんは、家に帰らなくても平気?」
「会社よりはね」
あどけない表情で、少年はほほ笑む。少年の健康的な肌が、男の目を奪った。ハイライトの少ない男の目に、寸刻映り込んだその光を少年は見て、男に気付かれないほんの一瞬、少年は軽蔑の表情を露にした。
夕日が、水平線に落ちていく。
十分もしないうちに、海岸に辿り着いた。
太陽が水平線に沈もうとしている。少年の横顔が赤に照らされて、男の顔が少し赤らんだ。
男は、自分の気持ちを判じがたく思っていた。少年に魅了されている自分を、男自身も理解していた。恋愛のような甘い感傷ではなく、独占欲を肥えた 何か別の感情だった。
男がそうやって立ち尽くしている間に、少年がランドセルから軟式野球ボールを取り出した。
「キャッチボールをしようよ」
男は困惑顔をしながらも、少し笑って少年から距離を取る。会社に帰る気力も失って、男がいま求めるのはこの何回りも下のこの少年と、一緒に過ごす口実だけだった。
グローブを持っていない男に向かって、弧線を描くような投球が行われる。男は辛うじてそれを受け取る。何往復かの後、少年が海の方へとボールを投げた。
呆気にとられた男に向かって、少年が「取ってきてよ」と言い出す。冗談だと判断して、笑ってごまかす男に、少年が含みのある笑みを飛ばした。男はその表情から、少年が至って真剣であることを読み取った。
累くんを、思い出した。
男にとってそこまで仲のいい間柄ではなかった累くんを、それでも未練がましく覚えていたのは、ある日の放課後の光景が、男の記憶に深く焼き付いていたからである。校舎裏、日頃から中のよさそうにつるんでいる級友を呼び出して、累くんは遊びに興じていた。
級友は、累くんが押さえつけているその顔面を水面から上げて、荒々しく呼吸をしていた。数秒の後、級友の顔面はバケツの中に沈む。累くんが髪を掴んで沈める。恍惚とした表情が、累くんとその級友を支配していた。男はそれを、黙って見ていた。
この事態を把握していたのは何も男だけではなかったはずだ。しかし男にとっては手の届かない神聖な領域だったこの出来事も、オトナ達にとっては理解のできないいじめに他ならなかったのであろう。気付かないうちに、累くんは男の学校から姿を消した。
それだけである。男は、累くんとしゃべった事すらない、その辺の一般人に他ならなかった。気付けばオトナになって、見つかるはずのない累くんの影を、男は探していた。
幸いにも波の影響か、ボールは沖合に行くことなく水面に浮いている。しかし、手の範囲まで移動するのに膝ほどまでの海につからなければいけない様だった。
「どうせ会社には戻らないんでしょ?」
少年が砂を足でいじりながら、声を掛ける。男は、少年の、心を透かすような眦を見て、心を決めたのか、革靴のまま波間に入る。ボールが手に届く。
「取ったよ」
男が少年の方を向く。遠くの方にいることを想定していた男の視界に、少年の顔が大きく映る。驚き見ると、三十センチメートルほどある身長差を埋めるように、少年が浮いていた。
「しゃがんでよ」
男は理性ではなく本能から、その場に膝をつく。海水がいやに冷たかった。男はそこで、自分はもう帰ることができないのだと悟った。少年が、男の瞼にキスをした。男は、糸の切れた人形のように、顔から倒れ込んだ
「お疲れ様」
12月短編集 真槻梓 @matsuki_azusa
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