最終話 夜道を歩く時、彼女が隣にいる気がしてならない

 私は就職活動の準備を始め、操山出版のアルバイトを辞めた。

 とはいえ、外部のライターとしてこれからも記事は寄稿し続けるので、単純に会社に頻繁に通わなくなり、雑用から解放されただけだ。

 完全にかかわりを断ったわけではない。

 編集長にはいつ戻ってきてもいい。その際は正社員待遇で雇うと言われているので、正確には辞めたというより、休んでいるような状態といってもいい。

 だが、私はなんとなく操山出版に就職することはないような気がしている。

 労働環境が整えられつつあるこのご時世において残業代がつかず、ボーナスもないような会社だからというわけではない。たぶん。


 そして、今日は私のデビュー作の打ち合わせで操山出版を訪れていた。

 フロアの端に四人掛けのテーブルがあり、そこで矢田部編集長と顔をつき合わせて、何をすればいいのかの説明を受けていた。


「校了だけは雑誌と同じで俺がやってやるが、あとは全部自分でやってみろ。やり方は教えてやるから」

「はい。でも、全部っていうのは……全部?」

「全部だよ。一冊一人で作ってみたら、書籍の編集もできるようになるからな」


 書籍の編集はやってみたいと思ってはいたが、できるようになってどうだというのだろうか。

 どこの新卒採用試験でも自分が雑誌に連載していた実話怪談の記事を一冊の文庫にし、なおかつ自分で編集まで担当したといえるのは他の学生と差がつくエピソードであるとは思うのだが……。

 もしかして、編集長は私を編集者にするつもりなのだろうか。


 ――ここに就職するつもりはないんだけどな。


「おい、話聞いてるか?」

「あ、はい聞いてます」聞いていなかった。

「入稿は雑誌とちょっと違うからな。ルビ指定のやり方は一緒だが、総扉、目次が入るから何ページ目から本文を起こすのかや柱を何行分とるのかは注意しとけ。あと奥付も忘れずに入れろよ。これ忘れると本にならんからな」


 私は必死にメモをとりながら、説明を聞く。

 一通りの説明を受けたあと、私は会社に出入りするライターや編プロの人たちが使うデスクで作業を始める。


「そういえば、書き下ろしで収録する、赤い服の女の話な」

「はい」

「あれはなかなか良かったな」


 編集長はそう言うと、私の「ありがとうございます」を最後まで聞かずにどこかへ行ってしまった。

 多分、早すぎる夕食だろう。そして夜は夜で食事を摂るのだ。そのくらいしないとあの三桁の体重は維持できまい。



 そして、足抜けには身代わりのバイトを置いていかなければならないという伝統――ルールにはきちんと従っていた。

 新人は今まで私が使っていたデスクで、お下がりのノートPCを新人がおっかなびっくり触っている。

 キーボードを見ながらタイプし、追っかけディスプレイに表示された文章を確認しているらしい。

 あんなやり方では時間がかかって仕方がないだろう。


「山城さぁ、タイピング遅くないか?」


 私は金髪の新人に声をかける。


「仕方ないじゃないですか。パソコンなんてあんまり触らないんで」

「はぁ? 触らないって、レポートとかどうしてるんだよ?」


 レポートの提出をする必要がない科目しか受講していないわけではないだろう。


「いや、スマホっすね」

「レポート書けるのか?」

「スマホで下書きして、それを学校のPCルームでコピペして終わりです。そりゃ、見直しはしますし、誤字とかあったらそのときはパソコンで直しますけど。こんな一から十まで全部キーボードで打つことはないです」

「なるほどなぁ」


 山城が仕事に慣れるにはちょっと時間がかかるかもしれない。


「本当に不器用ね、米田君と同じくらい出来るようになるまでは時間かかるかもね」


 そういって、杉本さんが肩を竦める。


「僕も同じこと思ってましたよ」

「二人とも酷いですよ。でも、俺冬休みは毎日通ってすぐに仕事覚えるんで! 米田先輩がいなくなっても問題ないってみんなに早く思ってもらえるよう頑張ります!」

「昨日、矢田部さんに叱られてベソかいてたのにね」

「先輩の前でそれ言わないでくださいよー、杉本さーん」


 私は杉本さんとの距離を縮めるまでに時間がかかったが、山城の様子を見ているとすぐに馴染めそうではあった。

 意外と山城は上手くやれるのかもしれない。

 取次に行っている東さんにも可愛がられていると聞く。

 バイトを紹介した時には、面倒ごとを押し付けてしまったのかもしれないと思ったが、罪悪感が薄らいだ。


 ――しばらくは文庫の作業で通うことになりそうだし、丁寧に仕事の引継ぎしてやろうかな。



 山城の仕事終わりにあわせて、二人で会社を出る。

 気温はぐっと下がり、日が落ちるのも早い。

 私はひ弱な性質なので、分厚いチェスターコートにマフラーを巻いているが、山城は薄手のウィンドブレーカー一枚だ。


「仕事は慣れた?」

「叱られてばっかですよ」

「まぁ、最初はそんなもんだよ。僕もたくさん叱られた」

「米田先輩でも叱られることってあるんですか?」

「あるだろ、そりゃ」

「ちょっと安心しました」

「そりゃよかった」


 だが、安心してもらったところ申し訳ないが、働きぶりを見ているとおそらく彼は私が叱られた総量の五倍は卒業までに叱られることになりそうだ。



「ところで先輩の本っていつ頃出るんですか?」

「三月かな」

「出版記念のお祝いしますね」

「いらないよ」

「そういうわけにはいかないですよ。瑠華ちゃんもやりたいって言ってますしね」

「古川とはうまくいってるの?」


 干渉するつもりもないのに訊くべきではないだろうとも思ったが、やはり心配はしていたので思わず尋ねてしまう。

 二人が別れたという話は聞いていないが、だからといって二人の関係が旅行前と同じまま維持されているとも考えにくかった。

 私はまっすぐ前を向いて歩く。

 山城が今どんな表情をしているのかはわからない。


「正直、あんまりうまくはいってないですね」

「そっか」

「わかりますか?」

「まぁ、なんとなく。最近、古川の話あんまりしないし」


 私自身も自分がどんな表情でこれを言っているのかわからない。

 無表情だとは思うが、変にひきつっているかもしれない。


「いつの間にかよそよそしくなったのは確かですね。俺鈍いんで、何が原因だったのかとか全然心当たりなくて。悪いところあったら直すから教えてほしいって言うんですけど、何も言ってくれなくて」

「そっか」


 何かを言ってやりたいという気持ちはあったが、本当のことを言う勇気はなく、一方で綺麗な嘘も吐けず、曖昧な相槌を打つことしかできなかった。


「先輩はどう思います? 何か心当たりとかありますか? 俺なんか失敗しましたか?」

「客観的に見てる限りは、山城は別に何も失敗してないと思うけどね。古川の内面の問題なんじゃないかな? 女の子が何考えてるのかなんてわからないものだよ。あと気づいた時には大抵手遅れだよね」

「経験談ですか?」

「お、山城にしては鋭いね。僕も同じようなことがあったよ。付き合ってた女の子がずっと考えてたことがあって、僕に対してそれを伝えようとしてくれてたんだけど、結局気づけないままでね。お別れすることになったんだ」

「正直、今のままだと俺もそういうことになりそうです」

「そうか」

「先輩は別れた後ってどうしました?」

「あぁ……なんか、お前みたいな奴にはあんまり言いたくないんだけど……」

「いやいやいや、言ってくださいよ」

「今は彼女が何考えてたのかなんとなくわかるし、僕も彼女もお互い嫌いになって別れたわけじゃないし、むしろお互いに好きだったってことがわかったから……いつか会いに行こうと思ってるよ」


 私たちはいつもラーメンやカレーを食べてから、ゲームセンターで時間を潰すのだが、この日はまっすぐ駅へ向かって解散した。


     *


 乃亜がいなくなっても、何かが大きく変わったわけではない。

 彼女がいないだけの、いつもの日々が続いていくだけだ。

 二人一緒だと幸せになれなかったのかもしれない。

 乃亜のいう永遠が私にはよくわかっていなかった。

 今も理解はできても納得はできていない。

 現実世界を捨てて、〝あちら側〟に彼女を追っていく覚悟はできない。 

 これでいいのだと思う。今は。

 いつかこの身体や時間を捨てて彼女の元に行くのかもしれないし、こちらの世界で一緒に終わりを迎えるために連れ戻しに行くのかもしれない。

 ただ、彼女を愛している。

 今はこれでいい。

 これでいい。

 これでいいのだが、寂しさが消えてなくなるわけじゃない。

 しかし、ある日ふと寂しさを感じていない時があることに気づいた。

 もう彼女と一緒に深夜出歩くことも、奇妙な建築物や奇祭、オカルトスポットを訪れることもないが……きっと彼女はいつまでも私を見つめているのだろう。

 そのことに気づくと、夜が待ち遠しくなる。

 私はまだ彼女のもとへ行くことはできないが、いつだって行く方法を考えている。

 神隠しや異界と繋がる怪談を蒐集している。

 彼女は私を待っているのだ。


 一緒にいるわけではない。

 しかし――。


 夜道を歩く時、彼女が隣にいる気がしてならない。

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