第24話 赤い女が来る
翌日から私の視界の端にぼんやりとした女の影が映り込むようになった。
――なるほど。これは覚悟を決めていないと気が狂うかもしれない。
徐々に徐々に近づいてくる。
ふと気を抜くと背後から刺されそうなイメージが沸いてくる。
風呂場の曇った鏡に赤い人影が映っていたときには、さすがに腰を抜かしかけた。
二週間経ち、もはや常に背後に存在を感じるまでになっていた気配がふと遠のいた。
――来る。
今晩あたり……来る。確信があった。
どこかへ去ったわけではない。
油断させるためなのか、安心したところに攻撃するためなのか、理由はわからない。
しかし、必ず来る。理屈ではない。
理屈ではないが、爆発的に広がったこの都市伝説をずっと蒐集、分析してきて、完全に一致しているということもある。
いざ、乃亜――と思しき怪異――がやってくると思うと、恋愛感情と恐怖と緊張がないまぜになり、胸の奥でどろりとした澱になる。
大学を自主休講し、バイトも休み、家に閉じこもって待った。
アパートの裏手にある深夜〇時まで営業しているスーパーが閉店し、左右の部屋の住人も寝静まる。
カーテンが開け放たれた1Kのアパートは暗闇に包まれている。
コン……コン……コン。
玄関のドアがノックされる。
コン……コン……コン
ノックなど律儀なことをする。
そんなことしなくても勝手に入ってくればいい。
それとも吸血鬼のようにこちらから招き入れないと入ってこられないのだろうか。
先日は塩での結界の作り方を相談者に教えたが、私自身はそのようなものは作らないし、作ったこともない。
これまでに怪奇現象は何度も経験し、完全に実在を信じている。
だが、それは所謂オバケだとかそういうものではない。異界から現実世界への干渉だ
そして私は怪談ライターだ。
自分の身を危険に晒そうとも、怪異/異界からのメッセージに触れたい。
ノックが止まった。
――鍵は開いてるよな……。
私は鍵をかけてはいなかったが、怪異は普通にドアノブを回して入ってくるものなのだろうか。
火を放つというパターンもあったが、部屋までは入ってこずに急に火が上がるのだろうか。
私はノックによって出鼻を挫かれたような気分になった。
――乃亜らしいというか、なんというか。
しかし、私はふと嫌な予感がして、郵便受けから外を覗かんと立ち上がる。
インターフォンはあるが、電池式で音が鳴るだけ。
外の様子を窺うためのモニターなどはついていない。
築数十年でリフォームも入っていないので設備は昭和から受け継がれてきている。私は玄関で膝立ちになり、そっと郵便受けから外の様子を窺う。
そこには何もない。
――やはり実体はなく、先ほどのノックもラップ音みたいなものか。
と、その瞬間向こう側からこちらを覗き込まれる。
「わっ」
私は思わず腰を抜かしてしまう。
向こうからこちらを覗き込む目……。
あれは乃亜のものではない。それだけは瞬時に認識できた。
私はふらつく脚で玄関のドアから離れる。
必死に太ももに力を入れるが、力が入らない。
――なんだ、あの目は。誰だ。
文字通り這う這うの体でベッドにたどり着き、呼吸を整える。
が、しかし。
部屋の中心に女が立っていた。
髪型や体格はたしかに乃亜に似ているような気がする。
だが、その顔【かんばせ】は似ても似つかぬもの。
その瞳に宿る憎しみはこの世のすべてを恨むかのようだった。
声を発しようとするも、喉に石でも引っかかっているように言葉も音も出てはこない。
女の手が私の首に伸びてくる。
まったく手足に力が入らない。
乃亜になら殺されてもいいと思っていた。
だが、こんなわけのわからない恨まれる云われもないものに殺されるのはごめんだ。
――これは僕も化けて出るしかないな。
最後の瞬間にこんなくだらないことしか考えられない。
首に伸びた手に抗うことができず、受け入れようとしていたのだが、ガラス窓から手が伸び、女が引き戻されていく。
これが六畳一間の狭いワンルームでなく、ベッドを窓際に置いていなければ、あの手は空を切ったことだろう。
赤い服の女は何かしらを叫び手足を赤ん坊のようにばたつかせるが、じわじわと溶けるように窓ガラスに引きずり込まれていく。
その引きずり込む手は見覚えがある細い腕。
――助けてくれたのか。
こんな形での再会は予想していなかった。
――でも……いや、そうか。この家で感じる不気味な視線は隣のマンションの管理人のものだけじゃなかったんだな。
視線や気配を感じるこの家もまた異界に近く干渉しやすい重なりの強い場所だったのだ。
乃亜もあちらからずっとストーカーのように覗き見ていたのかもしれない。
冷静にそんなことを思う。
そして女の姿が完全に消えた後、ガラスの向こうに一瞬だけ私の恋人の姿が浮かぶ。
彼女は私が似合うと言ったあのゴブランドレスを身にまとっていたことに気づく。
「助けてくれて……ありがとう」
腰を抜かしたまま言った。
だが、彼女は何も言わない。
莞爾と微笑んで、ふっと姿を消した。
恐怖で全身が冷え切っているのに真夏のように汗だくになっていることに気づく。
あっという間だったが、一生自分の記憶に刻み込まれるだろう濃度の出来事だった。
ベッドの上で我に返る。
愁嘆場にすることもできず、茫然と腰を抜かす自分が間抜けで、醜くて、情けなくて。
胸の澱があふれ出しそうだ。
だが、泣く資格もない。
こんな状況になるまで、彼女のことを愛していたのだと確信を持てず、引き留めることもあちらに留まることも選べなかった自分に泣く資格などないのだ。
乃亜はただ見守ってくれていただけなのに。
怪談になってまで自分を追っていると決めつけた。
こんな屑の何が良くて見守ってくれていたのか。
そして、怪異を呼び込み、自らを危険に晒した間抜けを救ってくれた。
――ごめん。少しだけ泣かせてくれ。
私はベッドから転げ落ち、床に突っ伏して泣いた。
泣いても何も変わらない。
私からは彼女のことが見えない。
彼女は異界からずっとただ私を見つめている。
これからもずっと。
*
数日後――。
女性の焼死体が関東北部の山中で発見され、間もなく犯人――元交際相手の男性――も逮捕されたというニュースが報じられた。
女性は生きたままガソリンをかけられ、火を点けられたのだという。
無理やり関連付けて考えるのであれば、殺された憎しみと誰かに見つけてもらいたいという気持ちが怪奇現象として現れた、というような話を作ることはできる。
死んだ後にも魂だけ異界に行くことはできるのだろうか。
あの僧侶に訊けばよかった。
その物語が正しかろうが、ただのこじつけだろうが焼死体発見のニュースの後、あの怪談の投稿はぱったりとなくなった。
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