第20話 火傷
「あまり気持ちのいい話じゃないから、話すのもちょっと悪いなって気はするんだけど、でも訊いてくれたのは嬉しかったよ」
どう答えたものかわからず、私は古い映画の俳優のように肩を竦めた。
「私ね、幽霊もヤクザも怖くないんだよね。だから、ここで働いてんの」
「はい」
耳が捉える彼女の言葉はいつも遠回しですぐには飲み込めない。
だが、それをしっかりと咀嚼する。
ふと、乃亜が考え事をするときに、口をもぐもぐと動かす癖のことを思い出した。
彼女もきっと今の私のように自分と他人の世界をすり合わせようとしていたに違いない。
――乃亜も何言ってるのかよくわからないこと多かったしな。
私が今のように彼女の話すことを咀嚼して、もっと理解しようとしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
――いけない。今は杉本さんの話だ。
「私の火傷がどうして怖いとか怖くないって話になるのかって顔ね。これから話すから」
杉本さんの話は彼女の初恋に遡る。
彼女には幼馴染がいた。
家が隣同士、物心ついた頃には彼に恋をしており、いつか結婚するものと決めていたそうだ。
幼い頃の彼女は――とても今の言動からは信じることができないが――活発で明るい少女だったそうだ。
そんな彼女が自分の恋する相手が〝普通ではない〟と気づいたのは小学校に入ってすぐのことだった。
具体的な症状について彼女は語らなかったが、彼には障害があったらしい。
それを理由に彼はイジメを受ける。
子供は残酷で、少しでも自分よりも劣るところを見つけると、容赦なく攻めた。
だが、彼女は見て見ぬフリはしなかった。
彼女自身は明るい性格と容貌の美しさから人気者に類しており、放っておけば楽しい学生生活が約束されていた。
彼女は自分も共にイジめられるかもしれないと思いつつも、彼を庇う決意をした。
しかし、意外にもイジメは過激化することなく、沈静化したという。
あまりの呆気なさに、やや物足りなさを感じるくらいに。
結局のところ、杉本さんの美しさや人望の力が、イジメたいという欲求を屈服させるだけのものだったということだろう。
彼女に嫌われるくらいであれば、イジメをやめた方がいいと判断するのは理解できる。
実際のところ、彼女の顔【かんばせ】の美しさは 一般人離れしている。
憂鬱で不機嫌そうな表情がそれを曇らせているし、火傷の跡を隠そうともしないことが周囲を委縮させているが、そうでなければ街を少し歩いただけで芸能事務所にスカウトされてもおかしくない。
小学校一年、二年、三年と毎年のように新しいクラスになる度にそれは繰り返された。
彼がイジメのターゲットとなり、彼女が庇い、すぐさま沈静化する。
だが、小四になると彼が学校に来なくなる。
障害が重くなり、一般学級での生活が無理だと判断されたためということだったが、彼女は後に本人が「もういきたくない」と言ったのだと彼の両親から聞かされる。
彼は学校に来ることはなくなり、二人の距離が離れるかというとそんなことはなかった。
彼女の恋心はまったく衰えを知らなかった。
何度もこれは恋愛感情ではなく、同情なのではないか、と自問するが、その答えはいつも「心の底から彼を愛している」だった。
中学、高校と彼女は足しげく彼の実家に通った。
部活もバイトもせず、同級生に交際を申し込まれてもそのすべてを断った。
まだ世間を知らない子供同士の幼い恋人ごっこだと思っていた彼の両親は、いつまでも足繁く通う彼女は幼馴染であるということに縛られているのだと罪悪感を覚えたようだった。
何度ももう自分の人生を歩むべきだと説得し、彼女の両親に対しても、娘さんの人生を無駄にしてしまって申し訳ない、もう家に来させなくていいと直談判もしたらしい。
それでも彼女は意に介することなく、彼の家に通いつめ、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
そして、高校卒業と同時に籍を入れ、アパートを借り、二人で暮らすようになった。
結婚には双方の両親から激しい反対があり、こんなにも祝福されない結婚があろうかと愕然としたそうだ。
式も挙げなかった。
それでも、車椅子を押してアパートの部屋に踏み入れたときは幸せでいっぱいだった。
その幸せは長くは続かなかった。
夜寝ているとき、アパートが炎に包まれたのだ。
出火場所は自宅のキッチンだった。
その時のことは記憶が曖昧だという。
「火事場の馬鹿力って本当なのね」彼女はそう言って力なく笑った。
〝笑った〟という表現しかできないだけで、本当のところそれは笑みでもなんでもない。
だが、悲しみでもない。
私にはわからない感情であり表情だ。
彼女は火がついた寝間着をはぎ取り、火に包まれた夫を抱えて、外に飛び出していたそうだ。
次に目が覚めた時には病院のベッドの上。
彼女は身体に火傷を負ったが、命に別状はなく、日常生活にもさして支障は出なかった。
皮膚移植である程度は元に戻せるという話だったが彼女はそうはしなかった。
彼女の夫もまた火傷を負ったが一命をとりとめ、今もまだ存命だという。
もうわかってはいたが、火を放ったのは彼女の夫だった。
理由はまったくわからなかったのだという。
何故、彼は火をつけたのか。責めるつもりはなかったが、訊かないわけにはいかなかった。
彼は言った。
「おまえがこわい」
そして、彼女もまた自分のことが恐ろしくなった。
自分は人生のすべてを彼に捧げてきた。それでも恐れられるというのか。
だが、彼女はもう今更生き方を変えることはできなかった。
「それで……今も同居されてるんですか?」
私は乾いた口で尋ねた。
「ええ。火は手が届かないようにしてあるけどね」
「幸せですか?」
「えぇ」
彼女は莞爾と微笑んだ。
それは本物の笑みだった。
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