第19話 東京に帰る

「じゃあ、東京帰りますか」山城が言った。

「山城君ってもう東京に〝帰る〟って言うんだね」古川がそう言って笑う。

「地元にも〝帰る〟って言うよ。どっちにも貴族意識があるような気がするなー。言われてみると」

「先輩はどう言います?」


 私は荷物をまとめながら「東京に帰る、って言うかな。もともと地元あんまり好きじゃないし」と返す。


 乃亜は〝家の用事で〟一人で先に帰ったことになっており、全員がぼんやりと納得していた。

 彼らの言うことが事実で、私の方が幻覚を見ていたという方が現実味がある。

 異界に行き、彼女は自らの意志で残り、おめおめと一人帰ってきたら、彼女の存在感が薄くなっていたなんてことは常識的にありえない。

 家庭の事情で先に東京に戻った、という方が遥かに説得力がある理由だ。

 だが、私にはわかる。

 東京に帰っても彼女はいない。そして、そもそも彼女に家庭なんてない。

 今回の異界でのことはあまりにも創作じみているし、記事にするつもりはなかった。祭りの取材までしか書けない。


「先輩の実家もやっぱり寄っていきます?」


 同じ県内とはいえ、山城の実家からだと端と端ほどに離れている。

 気遣ってくれるのはありがたいが、私はやんわりと断る。


「実家とはあんまり折り合いがよくなくてね。仲が悪いわけじゃないんだけど、やっぱり就職とか将来のことがはっきりしないうちは直接顔を合わせたくないんだ」

「そうですか」


 それっきり私の実家については誰も言及することなく、帰路についた。

 別れ際、山城のご両親はまた遊びに来るように、としつこいくらいに言っていた。どうやら古川のことが気に入ったらしい。

 帰りの車でこのことを軽くからかうと、山城は赤面したが、古川がやや不愉快そうに顔を顰めた。

 山城はそのことに気づかなかったようで、私は胸をなでおろしたが、再び話題には出そうと思わなかった。

 とりとめのない話で、あまり無言の時間というものはなかったように思うが、ずっと佐倉乃亜のことばかりを考えていたため、何を話したのかは薄靄がかかったようにはっきりと思い出せない。


 ――乃亜……一体、何を考えてたんだ。


 今から思えば、存在自体が嘘のような女だった。

 ただ、私は彼女のことが本当に好きだったのだ。

 私も〝向こう側〟に行ったから……異界に囚われはしなかったが、あの世界と繋がりをもってしまったから、山城たちのように彼女の存在を忘れずにいられているのだろうか。

 時間と共に記憶や感情が薄れていくのだろうか。

 そう思うと、私は自分がやるべきことが見えてきたような気がしてきた。


 ――もう一度、彼女に会いたい。


     *


「はい、校了」

「ありがとうございます」


 矢田部編集長から校了紙を受け取る。

 たかが「校了」の二文字なのにかろうじて判読できる字の汚さだ。前の会社ではライトノベルの編集者だったというが、この字で原稿に赤を入れられる作家は大変だっただろうと思う。


「しかし、取材旅行の甲斐のある記事に仕上がってたな」

「たまたまですよ。後輩の実家での出来事なんで」

「お前の実家の近くじゃやってないのか? 今回の奇祭紹介してくれた奴の実家と近いんだろ?」


 編集長の顔を見るにどうやら冗談ではなく本気で期待しているらしい。


「いや、うちの実家は田舎の中では都会の方ですし、新興住宅地なんで」

「一番つまらんところだな」

「そうですね」


 ――否定できないな。


 実際、昔ながらの風習が残っているわけでもなければ、今の時代に即した新しい

怪談が生まれるような場所でもない。

 変人が奇妙な建築物やオブジェを造ったりするということもない。


「だが、今回の記事で、地方の取材は面白いものになる可能性が見いだせたのは確かだからなぁ」


 私は正直なところ、もうあまり取材旅行に行きたくはなかった。

 だが、来年になったらまた……あそこへ。


「あ、そうだ」編集長が何かを思いついたかのように声を上げる。

 私はあえて「なんですか?」とは聞かず、校了紙のスキャンをとる。


「おい、米田。無視するな」

「……なんですか?」

「夜行バスとビジネスホテル素泊まりに限って、経費で落とすことを許可する」


 ――許可されてもなぁ。


「ありがとうございます」

「感情が籠ってないし、可愛げのない返事だがまぁいい。投稿の中に地方に行く価値があると判断できるものがあれば行ってこい」

「わかりました」


 これで話は終わりだろうと、私がノートPCのモニターに視線を落とすと、まるでちょっとした雑談のような口調で編集長が言った。


「あと、お前が雑誌で書いた記事まとめて文庫で出すことにした」

「え?」

「著作があったら箔もつくし、今後取材もやりやすくなるだろ。ペンネーム考えとけ」

「あ、はい……ところで、いんぜ――」

「お前の原稿は買い切りだから、印税なんてもんはないが、ボーナス出してやる」

「……ありがとうございます」


 学生の身でありながら、著作が出ることは嬉しかったし、印税なんて本当はどうでもよかった。

 ただ、その喜びを一番伝えたい相手がいないことが寂しい。



 編集長がヤクザの事務所への取材のためその巨体を揺らしながら小汚い雑居ビルを出ていくと、編集部は涼しく広くなる。

 営業の東さんも取次に行っているので、社内には経理の杉本さんと私の二人だけだ。


「おめでとう、でいいのかな?」


 杉本さんがぽつりと言った。

 最初は私に話しかけているのだと思わず、一瞬妙な間が空いてしまう。


「たぶん」

「ボーナスって言っても、五万円くらいだと思うわよ」

「僕は最悪一万もあると思ってます」


 私と彼女は静かに笑い、社内の空気が弛緩した。


「デビュー作だから部数は絞るだろうけど、それでもあなたの箔付けも目的なんだから七千、八千くらいは刷ってくれるだろうし、ちょっとは広告も買ってくれるかもね」

「五千部くらいかと思ってました」

「あなた、部数の話とかあんまり聞いてないの?」

「なんかバイト風情がそんなこと聞いたらダメなのかなって」


 実際、私は雑誌も単行本もどのくらい刷っているのか知らない。


「五千の文庫だとうちが使ってる安物の紙で印税やデザイン代ケチって原価率下げても、完売してトントンかギリ赤字ね。一冊千円くらいとる単行本だったら余裕だけど。怪談で単行本って基本作らないから」

「なるほど」

「だから、うちみたいな弱小出版社は返品リスク考えて七千部からスタートして、こつこつ重版かけていくわけ。怪談って出してる出版社多くないし、一定のファンはいるから七、八千くらいだとあんまり出来がよくなくても仕上がっちゃうけどね」

「へぇ、そうなんですね」


 今日の彼女はいつもより饒舌だ。


「矢田部さん、あなたのこと本当に気に入ってるね。今までのバイトの子の記事まとめて書籍化するなんて一度もなかったからね」杉本さんが言う。

「まぁ、可愛がってもらってるのはわかりますけど、気持ち悪いですね」

「そうね。見た目もね」


 またも妙な間が空く。

 彼女のことは嫌いではないが、会話の波長を上手く合わせることができない。

 表情が変わらないので、冗談なのか本気なのかがわかりにくく、急に黙ったりするので、どこで会話が終了するのか判断が難しい。

 彼女の胸元から覗く痛々しい火傷の後から無理やり目を逸らそうとしてしまうのも要因の一つだろう。


「あなたね、世の中には意外と聞いちゃいけないこととか、言っちゃいけないことってないのよ。距離感がちゃんとわかっていれば、訊かないことが逆に相手を傷つけることもあるの」

「え?」


 私は虚けたような面持ちだったろうと思う。

 彼女の言葉が何を指しているのかわからず、続きを待つ。


「あなたは会社の仲間なんだから、どの本をどのくらいの部数刷ってるかなんて訊いたって誰も〝バイトのくせに〟なんて言わないから」

「はい」


 そんなことは、きっとわかってた。

 だけど、自ら〝バイトだから〟と言い聞かせて、耳を塞いできた。


「あとね……私の火傷の跡も……気になるなら訊いて。そんな風に一瞬見ちゃっただけで、申し訳なさそうに目を逸らされる方がね、つらいから」

「すみません……」


 室内に静寂が垂れ込める。

 だが、私はこのままではいけないと口を開く。


「あの……やっぱり女性の肌のこととかを気軽に尋ねるのは気が引けて、それで見てしまった時は罪悪感で目を逸らしてしまっていたんですが……どうして火傷したのか聞いてもいいですか?」

「よくできました」


 彼女はまるで教師のようだった。

 私は彼女の話に集中するため、ノートPCを閉じる。

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