第18話 暗夜行路
私は井戸の外に出た瞬間、心臓が跳ね上がり、血液が全身に漏れていくような錯覚を覚えた。
しかし、声を立てることなく、震える手で彼女を引き上げる。
外に這い出た彼女もまた唖然として声が出ないようだった。
目の前に広がるのは神社の裏山ではない。
――これが地獄?
薄闇に目が慣れてくると、見知った風景が広がっていくことに茫然とする。
大学前の大通りが目の前に広がっている。
私たちが大学に通うために歩くいつもの道だ。
だが、誰もいない。そう、誰も。
都内――しかも、山手線の内側――だけあって、二四時間人が途絶えないこの場所に人っ子一人おらず、背後のJRの駅にはまったく電車が乗り入れる気配もない。
慣れ親しんだ場所。ただ、そこに命の気配を感じない。
ここは偽物なのだろうか。
ふと気が付くと、そこには笠を深々と被った僧侶のような男が立っていた。
最初から三人でいたかのように自然にそこに立っている。
私が誰何せんと口を開きかけたところ、僧侶が割って入る。
聞き覚えのない声だ。
「声を出してはいけない」
その声に反応して思わず声を上げそうになるが、乃亜が私の手を握り、すんでのところで飲み込むことができた。
彼女の横顔は驚くほど冷静で、まるでこの状況が自明のことであるかのようだった。
私が落ち着くのを待っていたのか、僧侶はゆっくりと話し始める。
「ここは君たちがやってきた世界と重なった世界。ごく稀に行き来ができる」
そういって、彼は黙って駅前にあるファーストフード店のガラス窓を指さす。
私と乃亜は同時にそちらに視線を送る。
ガラス窓にはいつも私たちが見ている雑踏がうっすらと映っていた。と思えば、すぐに消えてしまった。
「君たちがやってきた世界とは常に繋がっているが、実際に行き来するとなると様々な条件が一致しなければならない。大抵の場合は世界の重なりが濃い部分にある水や鏡、ガラスといったものが出入口になる。君たちのような迷い人は珍しいが全く来ないというわけではない。こちらからの干渉は比較的容易だが、そちらからは干渉することは基本的にできない。理由としては……説明してもわからないだろうが、こちらの方が高位にあるからだということになる。端的に言えば。そして、ここでは時間も過去から未来に流れているわけではなく、自分の位置すらも常に一定ではない」
僧侶の早口の説明は半分ほどしか理解はできなかったが、こちらに現状を納得させ、落ち着かせようという善意は感じた。
「……はい」
「こちらからそちらの世界に水やガラス越しに干渉すれば、だいたいは幽霊とか妖怪、怪奇現象といった歪んだ形でそちらに認識されることになる。そして、こちらの世界に落ちてきてしまった場合、自分たちに縁が強い場所に落ちる。ここまではいいか?」
私たちは首肯する。
「これから君たちを元の世界に帰すが、戻るのにも幾つか条件がある。これから手短に説明する。時間もないから、一度しか言わない。まずはこれを渡しておく」
手渡されたのは蝋燭が立てられた手燭だった。
「この世界はすぐに姿を変えてしまうのだが、だいたいの場合は一本道を行くことになる。道は徐々に暗くなっていく。その際にこの蝋燭の火を頼りに進め。決して転んだり、火を消してはならない。消えれば道を見失う。そして、出口を目指す間は口を利いてもいけない。口を利いてはならない理由はなるべくこの世界とのつながりを持たないためだ。この世界にとらわれる可能性が高くなる。道が真っ暗になると、先の方に明かりが見えてくる。そこに飛び込めば元の世界に戻ることができるはずだ」
そして、僧侶は私と乃亜の蝋燭にマッチで火を灯した。
「あとこれが一番大事なことだが、何か得体のしれないものが君たちを追ってくるだろう。背後から足音が聞こえるはずだ。音だけではまったく正体はつかめない。だが、決して振り返ってはならない。決してだ。振り返らなければ追いつかれない。恐ろしいだろうが道の端まで我慢するんだ。振り返れば……この世界に囚われてしまうかもしれない。わかったか?」
私たちはしっかりとうなずく。
「こちらの世界に囚われると、過去から未来へ流れる時間から解き放たれるが、多くの場合は正気を失う。なぜかはわからないが、囚われた状態になると、元の現実に戻ることは十中八九できない。そして、こちらから悪意を持って現実に危害を加えようとする存在と化す……者もいる。最後に一つずつくらいは質問に答えてあげよう。何か訊きたいことはあるか?」
私ははっきりと動揺しており、質問なんてせずにさっさとここを立ち去りたいと思っている一方で、たしかにわからないことだらけで訊きたいことも沢山あった。
だが、彼の説明で概ね事足りたようにも思える。
――一つだけ……。
「あなたは……どうしてここを立ち去らないんですか?」
「私は自らの意思でここに来たからだ。この世界はどこと言いようもないので、〝ここ〟という表現も変なのだが。そしてもう元の世界との因果もほぼ断ち切られてしまっておそらく戻ることもできない。そちらの女性は?」
「私は……大丈夫です。だいたいわかったので」
「そうか……では、もう行きなさい。君たちはまだ間に合う。さあ」
ふと、最後に彼の顔をみようと目を向けると、笠の陰になっておりその顔を見ることはあたわなかったが、何か咀嚼するように口を動かすのが見えた。
何かを言おうとしているのだろうかと、言葉を待つが結局は何も言わなかった。
彼は私たちの肩を押して、駅を背に歩き出すように促す。
ふと気が付けば僧侶の姿はなかった。
実際にあの怪しげな僧侶のいうことは自然と信用できた。
彼の言うとおりにするしかない状況だということもある。
私は乃亜の存在を気にしながら、ゆっくりと地面を踏んでいく。
転んだり、火を消したりしないためには地面を蹴るイメージよりも踏むイメージを強く持って歩く必要がある。
これまでも何度も危険だと噂されるオカルトスポットに足を運んできた。その経験から自然に見つけた歩き方だ。
乃亜を転ばせないために歩調をあわせ、態勢を崩してもすぐに支えられるように構えておかなければならない。
今回は山道ではなく、どことなく嘘くさい大学前通りだ。
下はアスファルトで通いなれている。
ざっざっざっざ。
――来た。
〝振り返った〟と判定される基準が不明であるため、私はあくまで顔は正面を向けたまま横目に乃亜の様子を窺う。
はっきりと強張っている。
同年代の女性にはあるまじきレベルでホラー/オカルトスポットに対して場慣れしている彼女だが、やはりはっきりと背後に何かが迫っているのを感じると緊張するものらしい。
ざっざっざ。
ざっざ。
ざっざっざっざ。
私たちの背後に迫る何者かの足音は一定ではなく、脚の本数すらわからない。
ぼんやりと視認できていた周囲が徐々に闇に蝕まれていく。
ざっざ。
私は今にも走って逃げだしたい気持ちを無理やり抑え込む。
――この子と一緒に元居た世界に帰るんだ。
ざざ。ざざ。ざざ。
ざざ。ざざ。ざざ。
ざざ。ざざ。ざざ。
ざざ。ざざ。ざざ。
本当に追いつかれないのだろうか。もう首筋にこの化け物の吐息がかかってもおかしくないほどの近さに足音を感じる。
だが、私は勇気を振り絞る。
いつの間にか周囲は真っ暗で、私と乃亜の手燭の小さな小さな火が二つふわりと浮いているようだった。
蝋燭の明かりだけがお互いの存在を確認する唯一の手掛かりになってしまっている。
ふと視界の中に蝋燭の明かりとは別の小さな光を捉える。
――あれがこの世界から脱出する出口か。
私はこの暗夜行路【あんやのみちゆき】が終わると思うと、気持ちが逸った。
「っ……」
だが、歩調を速めた瞬間。蝋燭の火が一瞬消えかけ、息を呑む。
火が消え、しかも声を上げてしまえば、ここまでの道のりがすべて無駄になってしまう。
実際に火が消えたからといって、その瞬間に二度と戻れないだとか、声を出してこの世界と関係を持ったからといって繋ぎとめられるとうわけではないのかもしれない。
それでも、全身から嫌な汗がどっと噴き出る。
私の様子を感じ取ったのだろうか。
左手にぬくもりを感じた。乃亜が私の左手を握っている。
その手はただ温かで、私は持ち直した。
しかし、彼女の小さく子供のような手は震えもせず、汗を掻いてもいない。自分なんかよりも落ち着いている乃亜にどこか母性を感じてもいた。
二人揃って転ぶようなことがないように彼女の手を取らずにここまで歩いてきたが、私はもう彼女の手を離すことができない。
ざざざざざざざざざざ。ざざざざざざざざざざ。
ざざざざざざざざざざ。ざざざざざざざざざざ。
ざざざざざざざざざざ。ざざざざざざざざざざ。
背後に迫る足音はもう一〇や二〇どころではない気配を放っている。
立ち止まればその瞬間にもどこかに引きずり込まれてしまうだろう。
あの坊主の助言がなければとっくに振り返ってしまっているところだ。
あともう少し。
私たちは歩調をそろえて歩き出す。
ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ。
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実際には歩き出してから一〇分か長くても二〇分は経っていないくらいだろう。
だが、無限にも感じる道程だった。
遠くから見ていた明かりは向こう側から光が当てられている障子であった。
私たちはぼんやりと光が溢れる障子戸の前に立つ。
裏に回ったところで光源があるわけではないことはわかる。
おそらくこの戸を引けば、元の世界のどこかに繋がっているのだろう。
どこに出るかもわからないし、同じ時間が流れているかもわからない。浦島太郎のように遥か未来に放り出されるということもあるだろう。
ただ、とにかく進むしかない。
ふと気が付けばこれまでずっと後ろをついてきた足音がぴたりと止まっていた。
私が彼女の手を離して、左手で障子戸に手をかけ、一気に開く。
中空に浮く戸はしっかりとした手ごたえと共に新たな道筋を示した。
光の向こう側が見えたわけではない。
だが、なぜか私には〝帰れる〟という確信があった。
その時だった。
「私は残るので米田さん一人で行ってください」
私はただ目を見開いて、蝋燭で彼女の顔を照らした。
律儀なのか、怯えていたのか、今となってはわからない。ただただ驚いて声が出なかっただけかもしれない。
「さよなら。大好きですよ、これからもずっと」
彼女の小さな身体がぶつかってくる。
異常な環境とここまで歩いたことでの足腰の疲労からか踏ん張りがきかず、思わずたたらを踏んでしまう。
その数歩の後ずさりのせいで私は彼女を失ってしまう。
身体が戸を通過してしまったのだ。
ふと気がつけば、私は井戸の結界の外に一人立っていた。
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