第17話 井戸の中

 夜になる。

 集落全体が何かに怯えているように感じた。


「じゃあ、俺行ってきますね」


 山城は集落の男たちと一緒に儀式へと向かうために家を出た。

 準備らしい準備は前日までに済んでおり、特別な衣装を纏うようなこともないため、私たちと一緒に夕食を摂り、なんだかんだ腰を上げたのは二〇時のことだった。



 山城との打ち合わせでは、山城の母親が寝静まるのを待ち、勝手口から出て比較的安全な道を使って、神社にある井戸に向かうことになっていた。

 彼の母親は基本的には二二時は寝てしまい、祭りは深夜二時まで続くので多少抜け出す時間が遅れてもまったく見られないということはないだろうという話だった。


 私、古川、乃亜の三人は私に割り当てられた二階の客間に集まっていた。

 階下は電気が消え、山城の母親は布団に入ったようだ。


「先輩、本当に行くんですか?」


 古川が心配そうに尋ねてくる。


「まぁ、どんなものか見てみたいし」

「今日聞いた話で十分じゃないですか? なんかすごく暗いし、単純に危険な感じしますけど」

「用水路はあちこちにあるけど、崖があるわけじゃないし大丈夫だよ」

「これが東京で、コンビニとかもあるならどうとも思わないんでしょうけど。夜になると本当に田舎なんだなって……」

「嫁いできたら大変だね」

「私、仮に山城君と結婚するとしても、ここに済むのは無理ですね。結婚の条件の一つに実家暮らしはしないっていうのはマストにしておきます」


 そう言って笑った。


「転んだりしたら連絡入れるから。山奥といってもなんだかんだちゃんとスマホの電波はあるしね」

「そうですか……わかりました。でも何かあったら、すぐに戻ってきてくださいよ」

「わかったよ。心配してくれてありがとね」


 私がそう言ってカメラを入れたワンショルダーバッグを手に立ち上がると、乃亜も一緒に立ち上がる。


「外まで見送ります」

「あ、あぁ……うん」


 その様子を見た古川は微笑むと手を振った。


「いってらっしゃい。あたしは自分の部屋に戻ってますね。しばらくは起きてますけど、寝ちゃっても何かあればすぐに反応できるようにスマホはマナーモードにしないでおきます」


 古川はこんなに単純で大丈夫なのだろうか。



「結局、ついて来ちゃうんだな」

「わかってたことじゃないですか」


 乃亜はこともなげに言う。


「そうだね」


 私たちは夜闇の中を肩が触れるか触れないかの距離で歩く。

 手をつないでいないと彼女がどこかへ行ってしまうような気がしたが、どうにも気恥ずかしくて握ることはできなかった。

 蒸し暑さと涼しさが混在した気持ちの悪い肌触りの空気だった。

 暑いようだが、ぎりぎりで汗をかかないようなそんな温度。

 人通りはない。

 外灯がぽつりぽつりと立っていて、真っ暗というわけではないが、東京の夜とはまったく異質な夜がそこにあった。

 鈴虫だかコオロギだかの羽をこすり合わせる音がずっと聞こえ続けている。


「コペンハーゲン解釈ってわかりますか」


 乃亜が虫の鳴き声にかき消されるほど小さな声で聞く。


 ――知らん。


 だが、知らないと言って、無知蒙昧だと思われたくはない。

 かといって、知ったかぶりのしようもない。私はカッコをつけることを諦めた。


「さぁ、わからないな」


 逡巡した結果、素直に白状した。


「そうですか。この世界は他の世界が重なり合った状態でできてるっていうものなんですが」

「うん」

「ここの地獄に連れて行かれるっていう話ってそれじゃないかと思うんです」

「そうなの?」

「私はそう思うって話なんですけど」

「重なった世界の方が自分を観測するのか、自分が世界の方を観測するのかは難しいところなんですが、観測し、された世界に自分は存在するんですよ。ただ、前にも言ったとおり、今の科学では観測することはできません」

「だから、オカルトなんだろ?」

「そうです。特定の条件下では別の世界から自分が観測されるのかもしれない」

「今回が……そうだって?」

「そう思いませんか?」

「思わない」


 私たちは遠くから近づいてくる複数の提灯の明かりに気づき、どちらともなく脇道へと入る。

 山城たちが神社を出発し、集落の端に向かって移動しているのだろう。

 あの集団は一件一件ではなく、ランダムで鍵がかかっているか確かめながら時間をかけて神社へと戻ってくる。

 その間、数人は神社に残るようだが、本殿で儀式を行うということで屋外に人はいないという。

 私たちは彼らと上手くすれ違えるように遠回りをしながら、神社へと向かう。

 用水路を流れる水はかぐろい。狭隘なこの地域でこれだけ用水路が縦横無尽に走っていれば、年寄りや子供は祭りがなくとも夜に出歩くのは困難だろう。

 田んぼや畑も住宅地の合間合間に小さなものがぽつぽつとあるが、用水路が多すぎるように思えた。

 時代の移り変わりと一緒に田畑が減る一方で用水路は減らなかったのかもしれない。


「米田さんは宮司さんの話どう思ったんですか? 異界に行けないって思うんですよね?」

「僕は単純に殺人を誤魔化すためか、この地域によく起こる災害のメタファーだと思うけどね。今は天気がいいけど、このあたりはよく台風が来るし」

「そうですか」


 それきり私たちは口を利かずに歩いた。



 神社に到着するが、私たちは正面の階段を使って人目に触れることを嫌い、草をかき分け斜面をよじ登るようにして侵入した。

 乃亜はこのことを予期していたかのようにジーンズにスニーカー、長そでのパーカーといった出で立ちで、半そでを着ていた私の方が腕に細い糸を引いたような切り傷を負い、虫にも刺されることとなった。


 ――たかがバイトでなんでここまでやらなきゃいけないんだ。


 なんで?

 それを考え出すと『好きだから』『趣味』『アイデンティティ』など、結局のところ操山出版などというブラック企業に愛があるという自己嫌悪に陥りそうな答えしか出てこないことを瞬時に察し、言語化される前に井戸に向かって、小走りで近づいた。

 井戸は本殿の裏手から少し上ったところにあり、ほんの短い距離とはいえ山道を通らなければならないため、神社の境内/本殿からは視界に入れることができない。


「あとちょっとですね」


 乃亜が独り言ちる。いや、私に向かって言ったのかもしれないが、判断がつかず返事ができなかった。

 井戸は一目でそれとわかった。

 小さな井戸の周囲に数本の杭が打ち込まれ、縄と紙垂【しで】で結界が作られていた。


「なんだか、化け物を合成できそうな井戸だな」

「たしかに」

「ホラー映画とかも観てるのな」

「まぁ、一般教養として」

「一般教養じゃないだろ、貞子とか伽耶子は」


 私はカメラを構えるが、どうしてもうまく写らない。

 暗視モードでも同じだった。

 液晶はただ夜の底のような黒一色。


 ――こんな時に壊れてくれるなよ。


 だが、どちらにせよ私に与えられたページはモノクロで、夜の写真は綺麗に印刷できない。日中に撮った絵馬の写真を使うことにする。

 カメラをバッグにしまっていると……。


「おい、何やってるんだ!」


 これまで殺していた声を思わず荒げてしまう。

 乃亜が結界を越えて井戸をのぞき込んでいたのだ。


「…………」


 彼女は何も言わない。

 そして、井戸に脚をかける。


「危ないから、やめときなよ」


 私は彼女の手を掴む。


「水はもうほとんど枯れてるみたいですし、すごく浅いですよ」


 彼女に言われて、スマートフォンのライトで底を照らすと意外にも彼女の言うとおりだった。

 小さな水たまりがあるが、これは湧いたものではなく雨が降った後のように見える。

 中に降りても、手を伸ばせば井戸の淵に手がかかる程度の深さしかない。埋めてしまったのかもしれない。

 乃亜が近くに落ちていた小石を井戸の底に水たまりに向かって投げ入れる。

 着水する音は聞こえなかった。


「降りてみましょう。本当にちょっとだけ降りたら、帰りますから」

「わかった」


 降りる降りないの押し問答をしている時間が惜しい。どうせ降りることになるのだ。

 私が先に降り、彼女を受け止める。

 広くもなく狭くもない何もない井戸の底で私たちは抱き合う。

 小さく、か弱い彼女の身体は井戸の底に滲みて消えてしまうように感じた。


「わがままばかり言ってすみません」

「別にいいよ」

「私、米田さんが好きです」

「…………僕も…………」


 私たちはすぐに恥ずかしくなり、外に出ることにした。

 彼女を持ち上げようと思ったが、半端な狭さでうまくいかず、私が一旦外に出て彼女を引き上げる。

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