第13話 「呼ばれた」
「明日からの旅行楽しみですね」
乃亜は子供のように荷物を振り回しながら言った。
レジ袋のがさがさという音が夜闇に吸い込まれていく。
「君のは趣味だけど、僕は仕事だからね」
私たちが二人で出かけるのはいつも深夜だった。
家が近いこともあり、最近はこれといった用事がなくてもなんとなく会って、食事をしたり、散策をするのだ。
昼間にお互いの家を行き来することはあっても、なぜか外に出るのは夜だった。
この日は旅行に必要なものを深夜営業のディスカウントショップに買いに行っていたのだが、私たちが集合したのは日付が変わってからだった。
「米田さんの仕事も趣味みたいなものじゃないですか。アルバイトなんだし、もっと肩の力抜けばいいのに」
たしかに彼女の言うとおりだ。
私の仕事はあくまで学業の傍らに、小遣いを稼ぐ程度のものだ。親からの仕送りがあるので、バイトをしなくても生活に不自由はない。
自分でも不思議だった。
なんにでも手を抜くことに定評がある私があまり手を抜いていない。
「趣味みたいなものだから頑張れてるのかもね」
「大学は単位落としまくりですもんね」
「うるさいな。今年はとりあえず前期で落とした単位はないし、一年半後には卒業するつもりでやってるよ」
彼女に言われるまで何とも思わずに、学業を疎かにして、アルバイトに精力的に取り組んできたが、私はやらなければならないことは真面目にやれず、やらなくてもいいことには本気になってしまう性質なのかもしれない。
「卒業……するんですよね?」
「そのつもりだね」
「そしたら、バイトも辞めちゃうんですよね?」
「まぁ、辞めるだろうね」
乃亜はいつまでも大学院に居座るつもりなのだろうか。
彼女の不安げな顔はまるで自分は卒業するつもりがないかのようだった。
私は彼女にとってもまた数少ない友人なのだ。
就職して疎遠になってしまうことを想像したのかもしれない。
「でも、私……米田さんがちゃんと就職活動するとは思えないんです」
神妙な顔で冗談を言われ、私は笑うでも怒るでもない歪な表情を浮かべてしまう。
――鋭いではないか。
「余計なお世話だよ。僕自身ですら自分を信じることができていないくらいだ。でも、やらなきゃいけないんだから、一応はやるんじゃないの? 知らんけど」
「まるで他人事ですね」
「未来の自分なんて他人だよ」
「そうかもしれません」
私たちはどちらともなく公園のベンチに並んで腰かけた。
大通りから一本入ったところにあるからか、深夜に徘徊する泥酔した大学生やサラリーマンもいない。
「静か、ですね」彼女が言った。
「いや、煩いよ」私はこう答えた。
私が生まれ育ったところが、東京と一番違うところは夜の音だと思っていた。
あそこは暗くて静かだ。
どちらかといえば都会――田舎の中では――に類する町でも、夜道を歩くときは自分が独りぼっちであることを強く意識したものだ。
同じような夜道の怪談でも東京では光や音に紛れ、田舎では暗闇の中、息を潜めて近寄ってくるようなイメージがあった。
「私、煩かったですか?」
彼女は自分が煩いと言われたのだと勘違いしたようだ。
私はすぐに否定する。
「いや、そうじゃないそうじゃない。僕の地元だと夜はもっと暗くて、ずっと静かだったんだ」
「私、東京生まれ東京育ちなんで、今でもすごく静かに感じます」
「僕もそのうち同じように感じるようになるかもしれないな」
「そうなるといいですね」
「いいかなぁ」
こんなに周囲の家が明るくて、車や生活音が肌で感じられる状態を静かだと思えるのが良いことだとは思えなかったが、否定はしきれなかった。
地元に戻るつもりはない。
いずれは地元で過ごした年数よりも、東京での生活が長くなるだろう。
田舎に対して愛着があるわけでもないのに、田舎は都会と比べてどうだったと言い続けるのは滑稽かもしれない。
「米田さんって、あんまり私のこと訊かないですよね」
「そうかな?」
そうかもしれない。
「人に話を聞いて記事を書く仕事なのに、自分からは全然訊こうとしないです。映画とかゲームの話はしますけど。山城君に対してもそうです……生い立ちとか家庭のこととか訊かないんです」
「相手が話したがる時には、スムーズに続きが話せるように促すけど、自分の興味本位で他人のことをあれこれ詮索するのは……面倒だからね」
「面倒、ですか?」
「うん。だって、仕事でもなければ必要があるわけでもないのに、相手のことを訊き出そうとするってことは、お互いの距離を縮めていくってことだろ?」
「そうかもしれません」
私は彼女の横顔を見つめる。
いつかと同じような表情だった。
小さな口で何かを咀嚼するようにして考え事をしている。
木製のベンチが体温でぬるくなっていく。
「あのさ……」
彼女の思考を遮って、話しかける。
「はい……」
「乃亜は、どうして異界に行きたいと思ってるの? もしよかったら……だけど、僕に教えてくれないかな?」
乃亜ははっと顔を上げる。
頬を紅潮させ、今にも泣き出さんばかりに戦慄いた。
だが、それが嫌悪によるものでないことはわかっていた。
そして、彼女は俯きがちに訥々と語り始めた。
佐倉乃亜の話は私の想像の斜め下を転がり落ちていくような奇妙なものだった。
そもそも両親に関する記憶が靄がかかったように思い出しにくく、当時の自分の日記が主な情報源だというところからおかしな話だった。
その日記によると――、
彼女は東京生まれ東京育ちで、あまり意識をしたことはないそうだが……今思えばそれなりに裕福な家庭で育てられたという。
両親もまた私たちの大学の先輩であり、父親は大学に残って研究を続け、母親は税理士として日々忙しく働いていた。
そんなある時、父親がアメリカの大学にサバティカルを利用して一年程研究のため滞在することになった。
母親は父親と共に渡米したいと思っている節があったようだが、仕事が忙しく、また幼い乃亜のことを慮って、日本に残る決断をした。
たった一年のことだし、それぞれ休暇には会いに行くということで、単身赴任をすることになった。
幼心にも二人が愛し合っているのは十分伝わっていたし、自分もまた両親を愛し愛されていると感じていたようだ。
だが、乃亜は両親を等しく愛していたが、彼らのそれは配分が均等ではないことを知ることになる。
母親と二人で過ごした一年は平和なものだった。
しかし、父親が帰国してから、家族は以前と似て非なるものになってしまった。
父親はもともとどこか神経質なところがあったのだが、異様に「死」を恐れるようになっていた。
その時は父の状態をただただ不気味に思っていただけのようだが、今思えば「死恐怖症【タナトフォビア】」だったのだろう。
それは母親と乃亜にも伝染していくことになる。
一家三人はこれまでと同じように学校に通い、仕事場に通い、一見すると普通の家族のように振る舞ったが、いつも何かに怯えるようにして生きた。
そんな日々が一年ほど続いた後のこと。
父親がある日こう言った――。
「呼ばれた」
母親と乃亜は一体何に呼ばれたのか尋ねるも、彼が何を言っているのかまったく理解できなかった。
異様な目の輝きは何か悪魔のようなものに魅入られているようだったという。
数日後、父親は姿を消してしまった。
それだけならまだよかったのかもしれない。
夫を失った乃亜の母親は憔悴することもなく――していたのかもしれないが、乃亜の目の前ではまるで何事もなかったのように振る舞っていたらしい――かつて、父親がアメリカにいた時と同じような生活が再び始まった。
と思っていた。
だが、そうではなかった。
父親はどうやらパソコンの中に何かしらの研究データを残していたらしい。
乃亜はある日、母親に父の書斎に呼ばれる。
母は目を輝かせ、こう言った。
「私も呼ばれた」
「何に呼ばれたの?」
以前は理解できなかったが、今度は必至に母親の言う言葉を理解しようと努力した。
どうやら、父親は死を克服するために人格ごと記憶のバックアップをとる研究をしていたようだったのだが、途中からオカルトに走った結果、母曰く――お化けになった、らしい。
そして、ついには母親もどこかへ姿を消してしまった。
母が「呼ばれた」と告げた日から、どこにも行ってしまわないように、数日間ろくに睡眠もとらず、学校すら休み、ずっと近くにいて見張っていたそうだが、ふと気づいたらいなくなっていたという。
パソコンはハードディスクが抜き取られ、何に「呼ばれた」のかは手がかりすらなくなってしまった。
もともと自分が生まれた時から一人暮らしだったような気がしてきた彼女は寂しいという感情を抱くこともなく、抜け殻のようにして生きていたが、連絡が取れないことを不審に思った親戚が尋ねてきて、乃亜が一人残されたことが発覚した。
親戚が警察に捜索願を出したものの、飛行機や新幹線のチケットを購入した形跡もなく、キャッシュカードやクレジットカードの利用もなかった。
そもそも周囲の人間が誰も彼らを探そうともせず、なんとなくそんなこともあり得ると決めつけおり、捜索願もなし崩し的に出されたのだった。
結局、父親はどこかで命を絶ち、母親は彼の後を追って……と結論づけるしかなかった。
だが、乃亜は二人が失踪に至るまでの経緯を我が目で見ていたはずなのだが、ぼんやりとしか思い出せず、当時の日記を読んでも他人事のように感じてしまうらしい。
母も同様に父に対しての記憶が薄れていたはずなのに、どうして父の研究に興味を持ち、後を追ったのか。
ずっとそれを考え続けている。
そういった経験が今の彼女を形成しているのだった。
実はこの話はネットや実話怪談本にも似たような話が散見される。
ある日、突然家族が何かを閃く。
その後、何かしら確信めいたものを匂わせながらこの世を去る。
失踪であったり、自殺であったり、その方法は一定ではない。
彼らは遺書や手記に何を閃いたのかをきちんと書き残している。それは計算式であったり、呪文であったりと幾つかバリエーションが見られるが、共通して殆どの人間にとってはまったく理解できない意味不明な記号の羅列でしかない。
一方で、意味が理解できる者も必ず一人現れ、同様に姿を消してしまう。
文章が記された遺品は概ねこの段階で処分されることが多い。
特定の精神状態の人間を自殺や失踪に追い込むサブリミナルが意図的ではないにしろ組み込まれてしまっていたのではないか、だとか仮説は幾らでも立てることはできるが、真相はわからない。
そもそも最初の一人が閃く原因がわからないのだから。
私自身もまた聞きではあるものの、このパターンの話は取材で出逢ったことはある。
しかし、まさか実体験者がこんな近くにいようとは……。
「なるほど……ね」
「こんなことがあったので、科学とオカルトの両方からのアプローチで両親の失踪を理解したいと思ってるんですよ」
「成果はあるの?」
「正直、科学的な方法で探すのはほぼ諦めてます。二人の足取りがこの監視社会でまったくつかめないなんて、消えたとしか思えません」
「それで、オカルト?」
「正確に言うと、私はオカルト的な現象も科学的に証明できると思ってます。ただ、今の知識や技術ではやはり手も足も出ないというのが結論というだけですね。私は世界にはもう一つ同じような世界のレイヤーが重なっていて、特定の条件で重なりが強くなったり移動したりして、私たちの目には異界や幽霊として映ると考えています。で、あれば両親に起きた出来事に似たような怪談や、ヒントになりそうなオカルトスポットに足を運ぶ方がいいかなと。私たちがオカルトだって言ってることも数年後になれば、技術的に再現できたりするかもしれないですけどね。ほら、前世の記憶みたいについ最近までは嘘吐きだと思われてたのが科学的に解明されたりするわけじゃないですか」
「あぁ」
彼女が言う〝前世の記憶〟というのは、少し前にニュースになったのだが、いわゆる前世の記憶がある人間というのが必ずしも嘘や思い込みではなく、実際に生前の記憶がある――こともある――と科学的に証明されたことを指している。
乃亜の専門分野であり、詳しく説明されたのだが、私には詳細なところまでは理解できず、テレビのニュースよりもやや専門的な説明ができる程度なのだが、なんでも人間の脳の神経細胞にある微小官という部位がこれまでどう機能しているのかわかっていなかったのだが、これがどうやら特定の周波の電波や波動を送受信することができるらしく、遺伝的に微小管が肥大化している赤ん坊が受信した情報を前世の記憶として認識しやすいということらしい。
では、その記憶はどこからやってくるのかというと、人間が死ぬ際にもごく稀に断片的な情報を乗せた電波を微小管から発信するそうだ。
それによって、死んだ人間の記憶を一部引き継ぐ可能性があることが科学的に証明されたのだが、世間は非常にシンプルに〝死んでも生まれ変われる〟のだと受け取ってしまったことと、キリストの生まれ変わりを自称する人間が世界各国に同時多発的に発生したことで、海外などではこの発表を巡って論争が巻き起こっているらしい。
少し話は逸れたが、彼女が言いたいことはわかる。
いつかは科学が追いついて謎が解ける日が来るかもしれないし、その努力を止めることはないが、オカルトが先を行くならそちらに寄りそう方が早道かもしれないということだ。
「というわけなんですよ」
「わかるよ」
これまで彼女のことは理解も共感もできなかった。
好意とも嫌悪ともつかない宙ぶらりんな気持ちは何度も変質を重ねた。
しかし、彼女に寄り添い、こうして話を聞いたことで、私の彼女への感情は結晶化し、それを拒むことはできなくなっていた。
旅行に行く前に好意を認めざるをえなくなるとは思いもよらなかったが、仕方ない。
諦めよう。
どうも私は彼女のことが好きらしい。
どちらともなく互いの手を取り、私たちは一つの部屋で夜を明かした。
一糸まとわぬ姿で絡み合っているうちにカーテンの隙間から光が差し込んでくる。
「米田さん」
「ん?」
「私、死んだり、生まれ変わったりしても傍にいていいですか? 鬱陶しくないですか?」
これはきっとあの〝前世の記憶〟に絡めつつも、そのことを言っているのではない。
あれは結局のところ、他人の記憶の一部を認識できるというだけで、実際に生まれ変わっているわけではないのだから。
だから、彼女が言っているのはそういうことではない。
「鬱陶しくないよ。死んだら僕の中でも傍でも好きなところにいていい」
だがこの時、私は本当の意味では彼女のことを理解できていなかった。
彼女の言うことが比喩ではないということに気づくべきだった。
心の底から〝ずっと一緒にいる〟つもりだったのだ。
真意がわかるのはまだ先のことで、理解した時にはすべてが手遅れであった。
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