第3話 赤い服の女

 四月二四日二三時。

 私は大学の後輩であり、私が記事を書くオカルト雑誌『怪奇世界』宛にメールを送って寄越した山城の自宅マンションにいた。

 より臨場感があって、リアルな記事を書くためには現場に足を運ぶべきではないかという山城の意見に乗ったからだ。

 実は後日、彼が幽霊を見たという墓地には足を運ぼうと思っていたというのはあるし、家の中まで見られるのはありがたい。

 それに……やはり大学の後輩が困っているのを見捨てておけない、という気持ちも僅かながらあった。

 私は最低五年は大学に通うことになっているだけあって、愛校心はそれなりにあるのだ。


「米田先輩は幽霊とか怖くないんですか? いや、怖くないから、オカルト雑誌の記事とか書いてるんですよね」


 奇妙な形をした山城の部屋の万年床に二人して座り、テレビを観ていると何の脈絡もなく尋ねられた。

 見た目はホスト風だが、人懐こい田舎出身者の彼とはすっかり打ち解け、私は先輩風を吹かすようになっていた。


「どうだろう……最近はちょっと麻痺しちゃってるかな。むしろ怖いと思いたいからやってるようなところはあるよ」


 私も子供の頃は幽霊やら怪奇現象やらに恐怖を感じていたような気がするが、少しずつ鈍くなってしまっていた。

 だが、まったく恐怖を感じないというわけでもない、はずだ。


「怖くなくなるコツとかあるんですかね?」

「信じないことじゃないかな、幽霊とか」

「先輩、信じてないんですか?」

「まぁ、それは難しいところだね」


 山城は訝しげな顔で私の目を覗き込んだ。


「といいますと?」

「別に信じてないわけじゃない。ただ、所謂……君が思ってるようなお化けはいないと思ってる。たとえば、ここで君が見たってやつについてだけどさ、この部屋とかこの土地で赤ん坊が何か不意の事故で死んで、その母親の霊が迎えに来てるとか、そんなストーリーを頭の中で作っちゃってるのかもしれないけど、そんなわけないとは思ってる。っていうのも、この日本の土地で人が死んだところにいちいち幽霊が出てきてたら、朝の品川駅みたいになってるって」

「言われてみれば……」

「それこそ日本に限らなくてもいいけどさ、戦争があった地域とか殺人事件の現場とかもかたっぱしから幽霊が出るのかって話だよ。あと、何か事件あったとして、幽霊になって出るのは住んでたところなのか、息を引き取った病院なのか、墓地なのかわからないけど、そのへん幽霊本人が選ぶのかとか考えたら、なんつーかな……『うらめしやー』みたいなのはないんじゃないかなって」

「なんか、そう言われるとそんな気がしてきました」

「ただ、怪奇現象自体はなんというか……本当にあるんじゃないかって気はしてる。まったく無関係の人が同じ場所で、同じ変なもの見たって話聞くこともあるし」

「やっぱり幽霊はいるんすね」


 山城が蒼白い顔で言う。


「いや、いるかどうかは知らないよ。僕はいるような気がするってだけで。科学的に証明できることもあるかもしれないし。だから、さっきも言ったけど、ここに仮に外からこっちを見てる女と部屋の隅に赤ん坊がいたとして、それを関連付けたり、怖がったりするのは山城自身の問題なんじゃないのってことが言いたかった」

「要は気の持ち様ってことですね!」


 上手く伝わっていないような気がしたが、私は曖昧に頷いてテレビを眺めた。

 深夜のバラエティ番組は夜を少しだけ明るくした。



 日付が変わって既に火曜になっている。


「明日、授業はいいの?」


 私は五か年計画を立てている身であり、今年は週に三日大学に通い、来年は二日通えば余裕をもって卒業できるように単位を配分している。

 なぜ、週に五日通って今年のうちに卒業してしまわないのか疑問に思われるだろう。

 しかし、それは単純な話で、まだフランス語Iの単位を取得できていないからというだけのことである。

 第二外国語は基礎編であるIと応用編であるⅡが必修なのだが、ⅡはIの単位を取得していないと履修することができないのだ。

 故に、今年規定の限界まで単位を取得したところで来年まで卒業できないという羽目に陥ってしまったのだ。


「明日はバイトも休みで授業も午後からなんで大丈夫です」

「ふーん。語学はちゃんと三年までに単位取っといた方がいいよ」

「実体験ですか?」

「実体験。語学って出席重視なのに午前の講義が多いし、全出席でも最後のテストで六割取らなきゃいけないだろ? 大抵、朝起きれなくて出席足りずにテストすら受けられないとか、なんとかギリ出席日数足りても、テストで落とすとかでなんだかんだ三回連続で落としてるんだよね。通年科目っていうのも性質が悪い」

「先輩って真面目そうな見た目なのに、けっこう駄目人間ですね」

「よく言われるよ」


 まったくもってその通りである。

 結局のところ、私は少し鈍い人間であり、本当に追い詰められないと、焦ったり恐怖を覚えたりしないのだろう。

 だから、周囲の人間が就職活動や資格試験の勉強に必死になっている今も、怖い話を聞いて回って小銭を稼ぐようなこと続けているのだ。

 おそらく、このまま本当の意味でのプロ――ライターや編集職で生計を立てていく――ことはないだろうと漠然と考えてはいるが、ではどんな職に就きたいのかと言われも特にこれといった希望はなく、あまりマトモな職に就けるような気もしない。


 そして、会話は途切れる。


「そろそろ……寝るか」

「先輩は起きててくださいよ」


 同じ部屋に二人いる状態でまったく同じことは起きるのだろうか。

 そもそも再現性のある事象なのだろうか。

 何も起きなかったとしても、私はここで一夜を明かすことで、記事を書くことができるし、彼も恐怖を克服するきっかけができるだろう。


「やっぱり、電気は消すんですよね?」

「消すでしょ。前に部屋の幽霊と墓地の女見たときは消してたんだろ?」

「……はい」

「じゃあ、消すしかないな。まぁ、山城は寝てればいいから」


 私は万年床から、座椅子に移動し、テレビを消音にする。

 そして、彼がトイレから戻り、布団に入ったところで部屋の明かりを落とした。



 なるほど、テレビの明かりだけが照らす三角形の部屋というのは居心地の悪さを覚えるものだった。

 私は座椅子に腰かけ、スマートフォンで記事の下書きをしていた。

 一ページ丸ごとの文字組が確認できない携帯端末での執筆はあまり好まなかったが、せっかく怪談の現場にいるのだから、後日思い出しながらではなく、生の状況や感情を認めようと思ったのだ。

 彼自身が語った恐怖体験を綴りながら、布団を見下ろす。

 そろそろ深夜二時。彼が布団に入って一時間が経とうとしているが、まだ眠っていないようだ。

 不自然な寝返りが目立つ。


「先輩……」山城が頭まですっぽりと布団をかぶったまま言った。「先輩……いる」


 私は霊感などない。

 そう思っていた。

 しかし、この三角形の部屋の角に視線を移すことがどうしてもできない。

 嫌な感じがするのだ。

 何かがジッとこちらを見つめているような気配。

 私は視線をテレビから離すことがきない。

 自分の服の下を鼠が駆け回るような精神的な不快感が〝怖い〟ということなのだろうか。

 ホラー映画、小説、怪談、夜道。どれも恐れた記憶は遠い彼方だ。

 だが、それはどれも自分が直接的に恐怖体験をしたわけではない。

 そういえば、実際に体験者がいる実話怪談に傾倒したのも、彼らと感覚を共有するためだった。

 自分の鈍さが嫌だったのだ。

 私はそんなことをぼんやりと思い出していた。


「先輩、怖い、俺怖い」


 山城は私が何も応えないことで、恐怖や不安が増していったのか、声が震えている。


「大丈夫だよ、何もいない」

「窓の外から俺たちのこと見てます」


 ――え? そっち?


 私はてっきり部屋の隅のことだと思っていたので、拍子抜けした。


「窓の外にいるのか?」

「います」

「本当かぁ?」


 私はカーテンの隙間からそっと窓を開ける。

 窓のサッシの摩擦音にすら怯え、山城がびくりと跳ねた。


 ――いる。


 眼前に広がる真っ暗な墓地の中心に立って、こちらをじっと見上げている。


「ど、ど、どうです?」

「うーん……いるね。赤い服の女」

「ひぃ。嘘じゃないですよね?」


 私もまたじっと彼女を見つめる。


「嘘じゃないけど……嘘くさくはある。ちょっと見てくるよ」

「え? 冗談ですよね?」

「いや、思うに、あれは幽霊とかじゃない」

「じゃあ、なんなんですか?」

「頭がヤバい奴だろ」


 というのも、墓地の真ん中にじっと立つ女は明らかに私の存在を認識したような反応を見せ、その後も腕組みをして何やら考え込む素振りをしている。

 本物の幽霊がこんな風に人間くさく凝視してきて、消えることもなくその場で考え込むなんてことはあるまい。


「僕はちょっと頭おかしい女とっつかまえてくるから、布団被ってろ」

「殺されるかもしれませんよ」

「小柄だし、なんとかなるだろ。刺されたりしたら助け呼ぶから、警察呼んでくれ。いや、刺されたら救急車か? いいや、どっちもで」

「わ、わかりました」


 私はスマートフォンだけポケットに突っ込むと、部屋を飛び出し、マンションの裏手にある墓地に向かって駆けた。

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