第518話 イリャヒがミミズを苦手な理由②
ゲオルクの暴風に晒されながら、イリャヒが思い出していたのは、十年前、ミレインに来た頃の出来事だった……。
当時ジュナス教会に〈銀のベナンダンテ〉として迎えられたイリャヒとソネシエは、
深夜、いつものように悪夢で目が覚めたイリャヒは、尿意を覚えたため部屋を出る。
一番近いトイレは庭を通るのが早いのだが、それすら頭が重く辛い。
ふと庭の途中で、ミミズが地面を這っているのを見つけたイリャヒは、ぼんやりと立ち止まった。
「……」
ウネウネと歩く気持ちの悪い虫を眺めていたイリャヒは、もうここでいいかなと思い、おもむろにズボンとパンツを下ろした。
「おいおい待て待て、お前なにしてる?」
と、そこで後ろから声を掛けられたので振り向くと、見知らぬ男が立っていた。
当時のイリャヒは十二歳で、身長が150センチ程度だったというのもあるが、それを差し引いても相手は相当デカい男だ。
ツンツンに逆立った黒髪の下には、目つきの鋭い悪党面があったが、相手が怒っているわけではないことは、イリャヒにはなんとなくわかった。
仕方なくパンツとズボンを上げ、肩をすくめながら説明する。
「これは失礼しました。ミミズを見つけたので小便をかけてやろうと思ったのです」
「賢いんだかアホなんだかわからねえガキだなお前……ミミズかわいそうだろうが」
「つかぬことを伺いますが、あなたはミミズを食べたことはありますか?」
「あるが、それがなんだ?」
当然、ないという答えを想定していたので、驚いたイリャヒは、この男ならわかってくれるかもしれないと思い、正直に話した。
「ミミズを洗わずに食べると泥臭いですよね」
「まあな。俺も極限まで飢えてたから食ってただけで、別に好きなわけじゃねえ」
「私もです。なので小便をかけて汚し、食べられないようにしてやろうと思いまして」
この話だけである程度を察したようで、男はイリャヒをまじまじと見て尋ねてくる。
「お前、名前は?」
「イリャヒ・リャルリャドネと申します」
「リャル……つーと、例の貴族の……ボンボンのくせに立ちションかよ、行儀悪すぎだろ」
「ボンボンだからこそ立ちションするのです」
「嘘吐け、適当言いやがって。しょうがねえ、歩くのがしんどいってんなら、便所まで運んでってやる。ほら」
そのままイリャヒは後ろから腋の下を抱えられ、トイレに連れて行ってもらった。
用を足して外に出ると、ベルエフはしかつめらしい顔をして腕を組み、壁にもたれている。
「あの、別に夜の廊下が怖いとかではないので待っていてもらわなくてもよかったのですが」
「冷てえことを言うんじゃねえよ。良かったら宿直室に来て、甘いものでも食っていけ」
「また歯を磨かないといけなくなります」
「また磨いたらいいじゃねえか」
「またトイレに行かないといけなくなります」
「またついてってやるから」
「だから怖いわけではないのですが」
などと言いつつも、結局は素直についていくイリャヒは、自分を訝しんですらいた。
信用できる理由を言語化すべく、廊下を進むベルエフの後ろ姿に尋ねてみる。
「ベルエフ氏は
「ああ。だが色々と事情があってな、まあ……お前と似たようなもんだ」
「経歴が特殊なのですね。なのでここの寮監をやっておられる」
「そういうこった。だがまったくの無関係ってわけじゃねえな。今、この寮内には未来の若手エース級、管理官級……いや、ひょっとしたら聖騎士級、四騎士級の有望株も紛れているかもしれねえ。そして現実的な話、五年や十年後はここにいる連中を俺が指揮することになるわけだから、こうして見回りなんかするのは、俺にとっては予行演習的な意味合いもある」
「なるほど」
宿直室に入り、ベルエフはイリャヒを椅子に座らせ、自分は魔石式冷蔵庫から色々な材料を取り出し、グラスを並べてなにかを作り始め、二人はそのまま話を続ける。
「ここだけの話、俺の姪と甥もいるぜ。親友のガキでもあるから複雑だけどな」
「ベルエフ氏のご姉妹とご親友が結婚されたのですね。お二人は……」
「死んだよ」
「そうでしたか……」
「そこも、お前と同じだな。良かったら仲良くしてやってくれよ」
「善処します」
話題のわりに、ベルエフの口調に悲壮感は薄く、残された忘形見たちへの期待が大きいのだとわかる。
「俺もお前が庭で立ちションしようとしていたことは黙っててやるから、お前も今聞いたこと秘密にしてくれよ。あいつらに対しては、俺はあくまで親父さんの親友だったよくわかんねえおっさんってことで通してあるからな」
「姪御さんと甥御さんに、あなたが彼らのご母堂のご兄弟だと、伝えていないのですか?」
「姪の方は聡いもんで、薄々知ってる様子だけどな。甥の方はアホだから多分言わなきゃ気づかねえ。いちおう隠してる理由は、あいつらがこの先復讐を企むときに、俺のためって動機が最後の一押しにならねえようにってのがある。この境遇じゃ無理な相談ではあるが、あいつらにはできるだけ自由に生きてほしいんだ。さ、できたぞ。男は黙って、いちごパフェ!」
「今、午前二時ですよ。甘いものといっても、もう少し軽いものを想像していました」
「なんだと!? てめえ俺のいちごパフェが食えねえってのか!?」
「急に話が通じなくなるの怖すぎるんですが、いちごパフェは好きなのでいただきます」
「それでいい。いちごパフェのことを嫌いとか言ってたらお前殺してたぞ」
「どうやら私はすごく独特の化け物に誘われてしまったようですね」
独特の化け物が作ってくれたいちごパフェは美味しく、それを食べるイリャヒの様子を眺めながら、独特の化け物が話を続ける。
「どうでもいいんだよ、血のつながりなんか。お前が妹を好きなのも、一緒に暮らして大切に思っているからであって、血がつながっているからってわけじゃねえだろ?」
「それはまあ、はい」
「同じように、俺があいつらを庇い助け、守り育てる理由に、血のつながりなんざ関係ねえ。そんなもんで愛してるか愛してねえかが変わるわけじゃねえんだよ。
お前もこの先、親のように慕える相手が現れたら、そのときはたかが血ごときのことなんざ考えんな。たった二人で生きていくには、この世界はあまりに広すぎる。早めに頼れる相手を見つけるこったな」
「後学のために覚えておきます」
そのようなことをつらつらと喋った後、ベルエフはいちごパフェを食べ終わったイリャヒを見送りながら、ふと思いついた様子で付け加えた。
「そうだ……イリャヒ、お前はミミズに小便をかけちまったせいで、呪いを受けて股間がパンパンに腫れた。そのせいでミミズが嫌いになったんだ。よし、これでいこうぜ」
「そのような事実はないのですけど」
「わかってるよ。だけどよ、どれだけ論理的に説教したところで、お前がミミズを嫌いな気持ちは和らいでくれるわけじゃねえ。
だったらせめて、理由の方を変えちまったらいい。誰かに話せば笑えるような、できるだけバカみてえなものがいい。
そしたらお前はミミズを見るたびに、当時のことを思い出さなくて済むようになるかもしれねえ」
人狼は匂いで相手の感情をある程度読める。イリャヒがどんな気持ちでミミズを見つめていたかが、この男にはわかってしまったのだ。
教会の軍門に下った日から付けっ放しだった道化の仮面を、イリャヒは少し外して、心から微笑み答えることができていた。
「……妹も、似た理由でムカデが苦手なのです。明日会ったら、あの子にも教えておきます」
ベルエフは黙って頷き手を振り言った。
「おう。じゃあな、ちゃんと歯を磨けよ」
「歯を磨きませんし、トイレにも行きません」
「いや、なんでだよ!? 虫歯やおねしょが怖くねえのか!?」
「怖くありません。悪夢もおばけも、なんともないのです」
「ククッ。そうか、さっさと帰れ悪ガキ!」
「ありがとうございます、おやすみなさい」
あれから十年が経ったが、結局今でも大量のミミズを見ると、イリャヒは気絶してしまう。だがもう怖いものはなくなった。
唯一恐ろしいのは、信頼できる相手の期待を裏切ることだけだ。それだけは絶対にやりたくない。
「んんん!!!」
イリャヒは背中から魔力構築物である皮膜の翼を展開し、なんの因果が協調してくれているパグパブの風除けとなるべく、強引に
翼があるのはなんのためだ?
向かい風に乗るために決まっている。
だがやはり一向に進めはしない。イリャヒの様子を見て笑い、ゲオルクが囃し立ててくる。
「さすがはリャルリャドネの末裔、大した魔力出力だな、羨ましいよイリャヒ! もう少し己の血に感謝したらどうなんだ? 自分でわかってはいるようだが、改めて言っておくぞ? 恩を仇で返す親殺しの不届き者め、そんなだからお前はいつまで経っても弱いままなんだ!」
なんだかんだ言って甘い男だ、どうやらイリャヒを煽って気炎を盛り立てようとしてくれているようだが……激怒や覚醒や悪魔憑きで無理矢理出力を上げる以外に、この局面を突破する方法らしきものを、イリャヒはすでに見つけている。
「恩ある相手を親と呼ぶのなら……私の母親は命懸けで助けに来てくれたシャルドネ・リャルリャドネ。父親はいつも教え導いてくれるベルエフ・ダマシニコフです!」
そうだ、あのときベルエフが言ったように、意識を変えればいいのだ。
ミミズの呪いは小便の流れを遡り、悪ガキの陰茎に至って腫れと痒みをもたらす。
……そんなことが起こらないのはわかっている。ミミズが出るような土を触った手は汚いとか、ある種のミミズは毒成分のある体液を飛ばすことがあるとか、そういう主旨の話なのは知っている。
だがいったいいつまでつまらない現実の力学法則に囚われているつもりなのか? これでも魔術師の端くれか?
イリャヒの〈
風は炎を吹き飛ばす、それはわかっている。だが、鮭が産卵のために川を遡上するように、流れに逆らうことは本当にできないか?
力尽くで覆そうとするからダメなのだ。ゲオルクの魔力を徐々に蝕み、浸透するようにゆっくりとその只中を進んでいく。
か細く、だが確かに火線が通りつつあるも、ゲオルクには今一つ届かない。シンプルにイリャヒの技量が足りていないせいだ。
だが今回はそれで充分だったようだ。
一人で戦っているわけではなかった。
「!!」
イリャヒが通した火線を、パグパブの放った油が
起こした大爆発は、確かにゲオルクが被る道化の仮面に届いた。
今はそれで良しとしておこう。
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