第488話 誰がマトロートじゃボケ!

 原風景を塗り替えて、悪魔の領域と化したデュロン・ハザークの精神世界は、曇天に稲光閃く、見渡す限りの大湿原となっている。

 マヌアユンマが真っ黒な巨体を宙に浮かせ、精神世界を進んでいると、すぐに依代の精神体を発見した。


「あら?」


 デュロン・ハザークは、猫が眩しいときにする寝方のような姿勢で、ぬかるんだ地面に顔を擦り付け平伏している。

 なるほど、やはり奴の精神は、依然として悪魔に蠱惑されたままなのだ。


「いい子ね、坊や♡ それが上位の存在に対する正しい態度よ♡ いい子のわんちゃんにはご褒美をあげましょうねえ♡」


 その殊勝さに感心したマヌアユンマは、バカデカい鰻の姿から人化変貌を遂げる。

 長い金髪を振り乱す、全身黒タイツの美女となった悪魔は、お座りの上手な駄犬の頭を、ねっとりと万力のように踏みつける。


「!?」


 次の瞬間、足首を掴んでブン投げられ、仮想の泥に塗れたマヌアユンマは、デュロンの喜悦に満ちた灰色の双眸を仰ぐ羽目になる。


「いいサービスだ、悪魔ちゃん。わざわざ与しやすいサイズに縮んでくれるとは思わなかったぜ」

「なっ……あ、アナタ、美しいアタシの威光に屈したんじゃ……!?」

「悪魔の世界に学校はねーのか。なら今日知れて良かったな、狼が騙す生き物だってことをよ!」


 これはたまらない。急いで元の姿に戻るマヌアユンマだが……脚から変化した尻尾の先端近くに、人狼の部分変貌した鉤爪が食い込んでいて抜けない。

 そのまま力任せに振り回され、何度となく湿原に叩きつけられる鰻の悪魔。


「オラオラオラオラァ!」

「あばばばばば!? こ、この、やめ……!」


 放電で振り払おうと試みるマヌアユンマは、彼女自身が衝撃に貫かれたことで閉口した。

 形象通り電気鰻の形態を取っている彼女は、自らの放電でほとんどダメージを受けない。


 だが皮下脂肪を貫く鉤爪が、デュロンに与えた雷の一部をマヌアユンマの体内へ直接返してくる。

 デュロン自身にも鉤爪から骨伝導で深く通電しているはずなので、純粋な我慢比べに持ち込まれる格好となる。


 ……いや、そんなことはない。実際は圧倒的なパワーとタフネスで、デュロンがマヌアユンマを一方的にボコるばかりだった。

 なんの鬱憤が溜まっているのか知らないが、初対面の相手を当てつけでサンドバッグにするのはやめてほしい。


「ま、待って待って! こうしてアナタの中に入ったのもなにかの縁だし、話し合いましょう♡ ほら、ここにはアタシとアナタ以外誰もいないし……アタシで良ければ、色々教えてあげてもいいわよ♡♡」


 力で制するのは諦め、もう一度人化変貌して美女の姿となり、マヌアユンマは誑かしてみるが、それが功を奏した。

 子供がぬいぐるみを乱暴に扱うような、掴んで振り回す手をピタリと止め、コロリと態度を変えるデュロンちゃん。


「マジか? じゃ電気細胞の作り方とか知りてーんだけど」

「思ってたのと全然違った!? アナタもしかしてチョロそうで意外とチョロくないタイプ!?」

「なんだ、できねーんならいいや。俺は今、強くなることにしか興味がねーんだ。試練だの誘惑だの、眠てーお遊戯は他所でやってくれ」

「いやいやいや、もうちょっとお話ししましょう♡ お姉さんなんでも相談に乗ってあげるわよ♡」


 もういい、これでは体を乗っ取れたとして、暴れる時間もほとんど残っていない。

 主導権を握るのは諦めるが、このままなにできずすごすごと帰るのは、悪魔としてのプライドに障る。


 せめて一発くらいは痛いのをブチ込んでから退散したい。そのための電気を溜めている。

 マヌアユンマの体内にではない。頭上の曇天、雷雲のチャージにあと少し時間がかかる。


 悪魔の囁く甘言を聞いて、その意図を知ってか知らずか、デュロンは獰猛な笑みを浮かべてきた。

 その表情はちょっと苦手だ。十年前に悪魔になった新入りの同胞、第三十三、狼のフォルツを思い出す。


「ちょうど良かった。悪魔テメーらに訊きてーことがあったのを思い出した」

「はいはいどうぞどうぞ♡ エロいこと? エロいことかしら? エロいことよね?」

「〈悪魔の王〉ってのはどいつだ?」


 冗談を無視しての単刀直入な問いに、だがマヌアユンマは揺るがない。

 そんなことだろうとは思っていた。デュロンの口調は真剣そのものだ。


「可能ならそいつに伝えてくれ。いつでもかかって来い、どこでも相手になってやるってな」

「えーと……ごめんなさいね坊や。アナタ少し勘違いしてるのよね」


 フルチャージまでもう少し。依代はともかく、状況の主導権は握りつつあることで、マヌアユンマはほくそ笑む余裕が生まれる。


「残念なお知らせね♡ あなたがお探しの相手は、アナタたちが言うところのアタシたち〈五十の悪魔〉、その一から五十の五十体、この中に該当する者はいないのよ♡ よしんばアナタが悪魔となって、アタシたちの世界を来訪したところで、〈悪魔の王〉とやらを見つけることはできないってわけ♡」


 精神世界でも……いや、感情を察する能力なので、だからこそと言うべきかもしれないが、嗅覚感知は作用するようで、デュロンは露骨に顔をしかめた。

 マヌアユンマの言うことが、嘘ではないとわかったためだ。もののついでということで、あと少し撹乱してやろう。


「もう一つだけ、いいことを教えてあげるわね♡ ジュナス、四騎士、オスティリタ……彼らの他にもう一人、〈災禍〉の容疑者が存在することに気付いているかしら? アナタがラムダ村でスティングちゃんから聞いた証言を、もう一度精査してみては?」

「……やっぱお前ら、結構色々見てんだな」

「そうなのお♡ アタシたち悪魔って、情報面でも結構優秀なのよお♡ お役に立てたかしらあ♡♡」

「ああ、ありがとよ」


 そう、悪魔たちは異界から、この世界のかなり多くを観測できる。たとえば悪魔憑依によって展開されている、この精神世界とて例外ではない。

 マヌアユンマの行状は、他の下品な悪魔アホどもに、リアルタイム視聴されているのだ。これ以上の醜態を晒せば沽券に関わる、悪く思うな〈予言の子〉!


「じゃあな」


 マヌアユンマは失念していた。感情感知が有効ということは、抱えた腹蔵も魔術の発動前兆も、すべて筒抜けだということだ。

 雷霆招来を上回る、電光石火の早業で、鰻の悪魔は人貌のまま、狼の鉤爪に掻っ捌かれた。


「がっ……」


 精神世界で悪魔の精神体が死んでも、依代からの排出で済む。本気で悪魔を滅却ころすなら、もう少し複雑な工程が要る。

 だがこれは失態だ。異界あちらに帰ったら他の悪魔やつらから、背開きだの腹開きだのと、向こう一ヶ月はイジられるだろう。

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