第464話 愛や信仰の形はみんなそれぞれ②

「ふう……こんなところかしらね」


 夜。地元の教区から持ってきた執務に一区切りがついたヴァイオレイン・ヴァレンタイン枢機卿は、大きく息を吐いて伸びをした。


 他者ひとを信用していないわけではないが、身一つの方が気が楽だ。

 護衛どころか身の回りの世話をさせる者すら連れてきていないが、特に不自由はしていない。

 枢機卿だろうがなんだろうが、どんなお偉い地位を得ようと、自分のことが自分でできないようでは困る。


 バルトレイド枢機卿も似て非なる考えに至ったようで、陽が落ちる少し前に、この宿舎の中庭から騒がしい声が聞こえてきたと思ったら、お付きの聖騎士アックスフォルドとともに、なぜか上半身裸で走ってくる姿が見られた。

 あれはちょっとやりすぎな気がするが、彼の元聖騎士という経歴を考えれば、表へ出ていく方が彼の強みを活かせるのは違いない。


 グーゼンバウアー枢機卿もある意味ではそうで、結局最後に彼の身を守るのは、彼自身に根差す因果系の固有魔術だ。

 運に恵まれつつも情報集めを欠かさないあの気質も含め、物腰だけを見て侮っていい相手でないことはわかっている。


 ステヴィゴロ枢機卿は世間がイメージする老枢機卿そのものといった感じだが、実際には彼の能力や魔術は、系統すら明らかになっていない。

 普段から自分でなんでもやるタイプかもしれないし、いざ戦えば強いとしてなにも不思議ではない。


 そしてグランギニョル枢機卿は……。


「……」


 その名を思い浮かべた途端、ヴァイオレインの体は伸びをした姿勢でピタリと止まった。

 まなじりを決し、顔の紅潮を自覚する彼女は、宿舎の部屋に備え付けの椅子から立ち上がり、地元の教区から持ってきた中でも一番大きく重い荷物である、ゼファイル教区司教執務室に先代教区司教の時代から置かれていた、特別な椅子にツカツカと歩み寄る。


 現在ヴァイオレインが統括しているゼファイル教区というのは、アクエリカがミレインに赴任する直前の任地である。

 つまりヴァイオレインはアクエリカの後釜として、今の席に座っていることになる。


 ヴァイオレインが聖職者として頭角を現し始めたのはおよそ十年前なのだが、アクエリカの名はとうにジュナス教会全体に轟いており、ヴァイオレインは七つ年下の先輩として彼女を仰ぎ、後塵を拝する形ながら、着実に成長を重ね、何度か直前ぶつかりつつもへこたれず、今年ようやく対等の地位まで登り詰めた。


 昼間のアクエリカの、同席する枢機卿たちに対する不遜極まりない態度を思い出したヴァイオレインは、わなわなと震えつつもしゃがみ込み……その特別な椅子に抱きついて、緩み切った頬を全力で座面に擦り付け始めた。


「ふわあああああああん♡ エリカちゃん大好きいいいいっ♡ あああああやっぱり疲れた夜にはエリカちゃん汁の染み付いたこの椅子がないとダメだわああああ、持ってきて良かった♡♡」


 あとついでに言うとこの教皇庁付属の宿舎が全室に優れた防音性が保証されているのも良かった、でなければこうして気軽に発狂できない。

 やはりプライベートやプライバシーは大切にしたいものだ、特にヴァイオレインのような者にとっては。


 意外とあまり知られていないようだが、アクエリカはちょっと心配になるレベルの、ものすごい汗っかきである。

 ということは彼女が任期だった三年弱座ったゼファイル教区司教執務椅子にも、かなりの量の汁……もとい汗が染み込んでいるはずであるいやそうに決まっているこの匂いは絶対間違いない。


 そうでなくともあのかわいらしいでっけぇケツ(もちろん褒め言葉である)がのしかかっていたのだと思うと、むしろこの椅子に嫉妬由来の憎悪が湧いてきて破壊しそうになってしまうがもちろんしない。

 椅子じゃなかったら殺していたところだったが、椅子なのでアクエリカの代用として使ってやるので、椅子にはヴァイオレインへの感謝を要求する。

 そんなことよりアクエリカの尊さを噛み締めた。


「はあ、はあ、じゅるっ……ひ、久しぶりに本物と会ったけど、やっぱり記憶の千倍かわいいわ……なにでできてるのかってくらい肌ツヤッツヤだし……私なりに結構頑張ってネチネチ絡んでみたのに、全然笑顔だし、超余裕で捌いてくれるし、そういうところが好き……ていうかもう受け答えしてくれるだけで嬉しすぎて死ぬわ……スンッて澄ました感じ出し続けるのにもずいぶん神経削ったわよ……あれトビアスくんまさかそういう意味で言ったわけじゃないわよね……? 私ちゃんと素っ気なく振る舞えてたわよね……?」


 椅子にのしかかったり周りを這いずり回ったり、自分でも相当やばいとわかっている動きを、それでもやめられずに繰り返したヴァイオレインは、はしゃぎすぎで息が上がる。


 このやばすぎる醜態を唯一見たことのあるヴァレリアンは、「そんなに好きならアクエリカ自身に襲い掛かればいいじゃねぇか」などとアホをぬかしているが、わかっていない、あいつは本当にわかっていない。

 ヴァイオレインごときが手を出すどころか、そんなことを考えてもいけない。


 ヴァレリアンにもいい加減身の程を弁えてほしいものだ。

 ヴァイオレインはたかが枢機卿、ヴァレリアンはたかが四騎士。

 引きかえアクエリカは……次期教皇選挙で当選間違いなし、未来の教皇なのだから。


 なぜそう確信しているのに、ヴァイオレイン自身が烏滸おこがましくも、あのアクエリカの対抗馬などと呼ばれるような、有力枢機卿の地位までのし上がっているのかというと……平たく言えばヴァレリアンに「必要なことだからやってくれよ」と言われて、嫌々ながらやってみたら、結果できたという答えになる。

 というのもヴァレリアンが陰に日向に全力で後押しして、膨大な執務の半分弱を肩代わりした(「ヴァイオレイン・ヴァレンタインは不眠である」というデマはこれに由来する」)からなのだが、前述の通りの経緯なので、別にヴァイオレインが感謝する必要はない。


 ヴァレリアンはヴァイオレインにとって半身であり、逆も然り。

 たまに貸し借りは発生するが、恩も仇もその身一つに納まるものだ。


 なので、〈白騎士〉マキシルを除く現行〈四騎士〉は全員副業を持っているのだが、〈赤騎士〉ヴァレリアン・ヴァレンタインの副業は他ならぬ枢機卿代行ということになる。

 アホのヴァレリアンの話はこのくらいにして、そんなことよりアクエリカだ。


 彼女が次期教皇に当確する未来は、ヴァイオレインの中では決まっている。

 それはヴァイオレインごときがどのような妨害を働いたことで、一向に揺らぐものではないし、揺らぐようなことはあってはならない。


 ヴァイオレインは政敵として、全力でアクエリカの邪魔をする。

 それはアクエリカが無敵であることを絶対的に信じているからこそ与える、愛する彼女への試練である。


 こんな形でしか気持ちを表現できないのがもどかしいが、気づいてほしいと思っているわけではないというか、むしろ気づかず眼中にもなく叩き潰して通って行ってほしい。

 誰にも知られず万策尽きて、アクエリカが踏み越えていく屍の山の一部になりたい……それこそがヴァイオレインの唯一の望みである。


 絶対に有り得ないことではあるが、万が一アクエリカがヴァイオレインや、他の枢機卿に敗れて失脚するようなことがあれば……それはヴァイオレインが愛するアクエリカ・グランギニョルではないということになる。

 偽者としてヴァイオレインを騙してきた罪は重い、そのときはヴァイオレインの手でしっかりと地獄の苦しみを与えてから殺してやろうと思っている。


 もっともそれは要らぬ心配に違いない。

 なので安心して手下の一人を密かに動かし、刺客として潜伏させている。


「彼女」の罠をアクエリカがどう掻い潜るか、今から楽しみで仕方がない。

 もちろんアクエリカに敗けるのは仕方ないことなので、失敗した「彼女」へは罰を与えたりなどしない、帰ってきたら普通に褒めたり労ったりする用意がある。


 ただしもしアクエリカに対して手加減などすれば、それだけは冒涜として許さず、そのときはヴァイオレインの手でしっかりと地獄の苦しみを与えてから殺してやろうと思っている。

 もっともそちらもやはり要らぬ心配である。なぜなら「彼女」はアクエリカを心底憎んでいる、手心を加える理由がない。


 やることはやった、今は結果を座して待とうと思う。

 もちろんこのエリカちゃん椅子にではない。

 これは愛でる用の椅子であり、ヴァイオレインも座る用には使っていない。

 他の誰かが座ったら、汚したものとして当然殺す。

 ヴァレリアンもさすがにそこは弁えているようだ。


 情念を燃やし肢体を動かしたせいで、執務の何倍も疲れてしまった。

 欠伸が漏れるヴァイオレインは、ふと窓を見て呟く。


「ああ、そっか。もうそんな時間だったわね」


 そこには彼女と同じ菫色の髪をぼうぼうに伸ばし、彼女とは違う赤い眼をした大男が、不敵な笑みを浮かべていて、ガサツな声音で言ってくる。


「交代だ、妹よ」


 だから強いて言うなら私の方が姉なんですけど、といつもの繰り言を発しようとしたが、結局彼女は眠気に敗け、意識の底に沈んでいった。

 明日の朝の、会議が始まる時間までおやすみである。


 戦闘に関して言うなら、ヴァイオレイン自身も幻惑系の結構高度なものを持っている。

 だがそれ以上にヴァレリアンが、ジュナス教会内で五本の指に入る武力を持っている。


 だから護衛がどうこうというレベルの話ではない。

 ヴァレンタインにいささかなりとも脅威を与えたいなら、最低でも竜か巨人を連れてきてもらわないといけない。

 もっとも無謀な挑戦者は、嫌いではないというか、むしろ好きだが。

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