第375話 vs.ファシム・Lesson.9 真正の愚者

 さあここからが本番だ、とウォルコは悪魔が去った二人の戦いを注視する。


 ここまで見ていて思ったのは、ファシムはもっと悪魔の魔力をフルに用いた、火力ゴリ押しでも良かったのではないかということだった。

 彼は少し理性が強すぎる気がする。これからは野生のファシムとしてやっていくのだから、徐々に羽目の外し方も覚えていってもらいたいと思う。


 そして悪魔憑き状態のデュロンが、肉体の頑丈さと戦闘センスゆえに比類なく強いというのは、ウォルコは半年前に嫌というほど体感してわからされている。だから重要なのはこの後なのだ。


 今回の憑依は五分以上と、結構長かったのだが、相当以上の負担を強いられたにも関わらず、二人とも当然のように普通に動き出した。

 ……いや、違う。体力と魔力を半々で消費しただろうファシムは、いつもより少し遅い程度。一方のデュロンは、逆になぜかいつもより少し、動きのキレが増している。

 ファシムが初撃で放つ〈透徹榴弾ステルスハウザー〉を、容易に躱して接近し、顔面に跳び蹴りを叩き込んだのだ。


 人間時代の武術で言う、極限の困憊から来る脱力で動きに無駄がなくなった、というのとは少し違う。

 かと言って死力を尽くして無理矢理底上げしているわけでも、身体能力自体が急に伸びたわけでもない。


 キレというのはメリハリだ。魔族たちの間で共通の汎用技術、肉体活性の基本にして奥義とされる〈最適調整オプティマトウィーク〉……それをデュロンはいつの間にか、ことによるとこの五分の間に、高いレベルでものにすることに成功している。


 ウォルコとほぼ同時に、ファシムもその理由を理解したようだった。

 賢い者は悪魔憑依を、穢れの元と嫌忌する。

 普通の者は憑依中、強化されると欣喜する。

 そして真正の愚者は、悪魔憑依をと位置付けるのだろう。


 フォルツの力を借りたデュロンの動きは、肉体と膂力でなんでもできるという、おそらくは彼の理想を体現するものだった。

 悪魔と依代の属性や形象が相性ピッタリというのは、なにも憑依中快適に動けるというだけではない。

 施される一時的な強化が、ほぼ依代自身の適性の延長上にあるということでもある。


 極端なことを言えばその感覚を体で覚えて、可能な限りなぞればよい。

 本来ならそんなことできればいいねという話なのだが、どうやらデュロンはできるらしい。

 いや、ガミブレウのときとの経験値が合算され、できるようになったというのが正確だろうか。


 とにかく相手する側からしたら、単にスピードやパワーが上がるより厄介だ。

 極限まで研ぎ澄まされた一挙一動の緩急が、ついさっきまでは通用した予測や反応を真っ向から裏切ってくる。

 風のような足運びの軽さと、鋼のような一撃の重さが平然と両立し、デュロンの膂力は理論値でなく実測値で、ファシムのそれに肉薄している。


 理屈は単純だが、本来は変貌能力にかなり特化していないと修得に時間のかかる技術とされており、現にデュロンの倍以上生きて鍛え続けているウォルコやファシムも、十全に熟達しているとは言えないのだ。


 しかしもちろんファシムも、黙ってやられるわけがない。

 撃って当たらず、打って効かずと見るや、拳と足に爆裂魔力を満たし、打撃力と機動力を自前で底上げする。


 彼の一突きを咄嗟に受けたデュロンの腕は、可動域とは逆に曲がって腫れ上がる。

 普段ならその程度の損傷、二秒もあれば元通りなはずが、やはり悪魔憑依後で再生能力が落ちているようで、さしものデュロンも治りが遅い。


 これを好機と見たようで、ファシムは一気に攻め立てた。

 長い腕と脚による嵐のような突きと蹴りが、デュロンの全身を乱打する。

 それでもデュロンは諦めず、圧し折れて歪んだままの手足で、いじましくも反撃を試みている。


 ……いや、違う……とウォルコは自嘲の笑みを浮かべ、左手でウサギを撫でながら、右手で自分の頭を抱えた。

 傍目にすら、またしても担がれた。

 狼は騙す生き物なのだと、この半年で喉元過ぎて、その熱さを忘れていたようだ。


 汎用技術〈最適調整オプティマトウィーク〉は、肉体活性の極致の一つである。もしデュロンが本当にそれを習得したのなら、肉体活性による再生能力も、その対象に含まれるはず。

 デュロンは先の攻撃を、あえて無防備に受けてみせ、回復を意識的に遅らせて、弱っている演技をしていたのだ。

 それゆえファシムは勇み足を踏まされ、逆に隙を生むことになった。


 その上でデュロンがファシムの爆裂打撃へ採った対抗策は、悪魔憑依時の焼き直しだ。

 鉤爪による斬撃という高密度攻撃で、ファシムの手足を削っていく。


 デュロンの選択は、確かに正着と言えた。ただ、明らかに鉤爪の長さ以上の斬撃が、デュロンの手先から飛んでいる。そしてやはりウォルコは、それに見覚えがあった。


 半年前、東の森での戦いで、憑依していたガミブレウの力をすべて身体強化に突っ込んでいる状態のデュロンが、似たようなことをやっていた。

 変貌能力を使って一瞬だけリーチを伸ばし、一瞬で引っ込める。あまりの切り替えの速さゆえ、斬撃だけが飛んでいるように見えるという、仕組みは手品未満の代物である。


 それを悪魔憑依でなく通常状態でできているだけなのだが、初見で原理のわからないファシムには、まさしく魔法にしか見えないだろう。

 というかファシムは、ついさっきまで散々、実際にデュロンが魔術を使うところを見せられていたわけで……。


「アンタ、いいの持ってんじゃねーか」


 ゆらりと動くそいつの言葉を、けっして真面目に聞いてはならない。


「でもな、俺もあるんだよ。固有魔術」


 ハッタリだ、どう考えても嘘に決まっている。普通ならこんなものに騙されるわけがない。


「スリンジおじさんは信じてくれたぜ」


 だが奴の掲げた掌に、ファシムがなにを連想したかを、ウォルコも想像できてしまう。


「爆裂系なんだ。アンタたちと一緒さ」


 ドラゴスラヴという男とその実力を、過去に直接会って知っていたことが、この場合はファシムの不運だった。

 もちろん今のデュロンはさっきと違い、あいつのような魔力シールドなど使いようがない。普通に魔力ゼロなのだから。


 咄嗟に防御姿勢を取るファシムは、そうして漫然と受けに回ってしまっていること自体が、思考を狭められた結果だと、自覚するのが少し遅れた。

 デュロン・ハザークは、固有魔術を持っていない。だがそもそも〈最適調整オプティマトウィーク〉の習得により、彼の打撃は一撃の重みを増しているのだ。

 ガードにかざした腕ごと潰され、床を削って後退するファシムだが、今度はなんとか持ち堪えた。


 ……いや、そうじゃない。ファシムは食らった掌底突きの勢いに乗り、望んで距離を取った。攻撃の打ち終わりに間髪入れず叩き込む、そこしかチャンスがないと狙ったのだ。

 その目論見は大当たり。機敏に反応して避けようとした矢先、魔術抵抗力のないデュロンの腹腔に、ファシムの固有魔術〈透徹榴弾ステルスハウザー〉が、吸い込まれるように命中するのを、ウォルコは魔力感知で捉えていた。


「……ウ」


 並の魔族なら、この一発で試合終了である。いくら頑丈なデュロンでも、内臓を直接吹っ飛ばされては、大ダメージは免れない。

 ましてや今は悪魔憑依の直後、再生能力が減っていること自体は本当なのだ。


「ウウッ……」


 弱々しい呻き声とともに、鼻と口から大量の血を溢したデュロンは、痛々しげな、どこか悲しげにすら見える表情でファシムを見返した。

 このとき不覚にもウォルコは、デュロンがそのまま死んでしまうことを危惧したくらいだ。

 だが対峙する者だけが感じ取れる緊張感ゆえなのか、ファシムは追い打ちの必要性を正確に認識しているようだった。


「ウウウ!」


 続く二発目の〈透徹榴弾ステルスハウザー〉は、一瞬前までデュロンが立っていた空間を、虚しく掠めて消えていく。

 唸りを上げた狼は、すでに躱して進んでいる。


「ウウウアアアファシムブッ殺オオオす!!」


 そしてデュロンが放つ、その決死に聞こえる咆哮すらもが偽りだった。

 大きく円を描くように回り込んで高速接近するデュロンの影を、ファシムはすぐさま捉えて冷静な中段蹴りで迎え撃つが、その実デュロンの方がさらに冷静だったのだ。


「!」


 ファシムの左足を紙一重で躱してデュロンが放ったのは、ブチ切れてのブチ殺すからは程遠い、右膝を狙った捻じ込むような左の下段横蹴り。

 人の形をしたファシムの脚を、鳥のような逆関節にしてやろうと言わんばかりに、力で無理矢理皿を割り、向こうっ側に圧し曲げる。

 逆膝カックンとでも呼ぶべき、邪悪な児戯に等しい雑技だ。


 しかも蹴り込むだけに飽き足らず、そのまま体重をかけるのが見て取れた。

 相手の体を破壊して、自分の足場にするとかあるのか?


 ある、というのがウォルコの回想、そしておそらくはファシムの判断だった。

 跳んで顎への右上段膝蹴り、この読みに賭けてもいいだろう。

 しかし残念。次にデュロンが選択したのは、振り回すような右上段跳び後ろ回し蹴り。


「かっ」


 右こめかみに踵をブチ込まれたファシムは、咳き込むような一音を漏らすのが精一杯だったようだ。


「おっと!」


 狙ったわけでもないのだろうが、ウォルコがなんとか避けたところへ、ファシムの長身が吹っ飛んできて、説教壇を破壊する。

 後ろへ撫で付けていた前髪が、崩れて顔を覆った彼は、床に倒れて這い蹲り、痙攣以外の動きができない。

 どうやら勝負は、決着を迎えたと見るしかないようだった。

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