第370話 狼さんの言うことにゃ

 望むと望まざるとを問わず、デュロンが悪魔に憑依されるのは、これで三度目の経験となる。


 憑依した悪魔は依代の精神世界に入り込んできて、本来は依代自身の原風景が広がっているらしいそこを、悪魔が勝手に悪魔の領域へと塗り替えてくるのだ。

 その中のどこかにいる悪魔の精神体を探し出し、ブチのめして捻じ伏せれば肉体の主導権を奪還できるし、いっそその精神体を殺してしまえば、憑依自体を中止させることができる。

 悪魔を完全滅却する方法というのは今のところ見つかっていない、悪魔の世界で悪魔が殺す以外では死なないというのが定説である。


 ちなみにこれまでの経験からも、精神世界の中はほぼ時間経過が止まっていると考えて良さそうだ。

 自分の精神世界が燃えていようが凍っていようが、落ち着いて悪魔をブン殴ればいい。


 ……はずなのだが、どうも今回は様子が違った。

 猫の悪魔ガミブレウのときは未知の洞窟と化していたし、鯉の悪魔オロオロのときは知らん国の庭園が広がっていたのだが……。


「なんでだ……? ここは、確か……」


 デュロンは途方に暮れていた。理解不能の空間が展開されていたからではない。そこがおぼろげとはいえ、自分の知っている場所だったからだ。


 死んだ両親の顔も声も覚えていないデュロンだが、通りの雰囲気はなんとなく記憶を掠めるものがあるから不思議だ。


 ここは〈聖都〉ゾーラの近くにある、ヘヤルゴという小さな田舎町……を映した景色、らしい。

 ミレインと比べて道幅が狭く、壁が灰色で、とてもごみごみした印象を受ける。


 10年前まで住んでいた、デュロンやオノリーヌ、ベルエフの故郷である。

 もちろんそのものではないため、住民は一人もおらず、デュロンは少し寂しい気持ちでそぞろ歩く。


 これは、つまり……デュロン自身の心象風景が、悪魔に塗り替えられずに映し出されているということなのか? 目的はなんだろう? 油断させるためか?


 しかし少なくとも、投影された故郷の街並みは、憑依してきた悪魔の影響を、まったく受けていないわけではないようだ。

 ある方向へ進んでいくと、巨人かなにかが暴れたかのように、建物がボコボコに荒廃していく。


 別に悪魔が癇癪を起こして壊したわけではなく、どうやらこういった破損や侵食の様相が、その悪魔の持つ属性を表現しているようなのである。

 そこへ行くとこいつの権能は……さっきウォルコが、召喚するときに言っていたっけ。


【やあ、少年。元気かな】


 角を曲がった途端、不意に姿を見せた悪魔に、穏やかな声音で話しかけられ、デュロンは思わずビクッとなってしまった。


【ふふ、そう畏まらなくていい。さあ、もっと近くへ来なさい。いや、わたしの方から行こうかな】


 廃屋の屋根に行儀良く前足を揃えて鎮座しているのは、真っ白い狼だった。

 本物の獣であるかのように二足歩行だが、かなりデカい。


 優雅に伸び上がったかと思うと、音もなく地面に降り立ち、しずしずと美しい所作で歩いてくる。

 その容貌に見惚れてしまっていたデュロンは、いつの間にか眼と鼻の先まで接近されていることに気づき、慌てて構えを取る。


「よーし、やったろうじゃねーか」

【まあまあ待ちなさいってば。ひとまず改めて自己紹介しておこう。わたしは第三十の悪魔、名はフォルツ。形象は見ての通り狼。属性は、力だ】

「力……」

【そう。といっても悪魔憑依に伴う標準能力である、身体強化に特化しているとか、それしかできないとかじゃないよ。まあ、内訳は実際に使ってみればわかるさ。はい、お試しあれ】


 言うなりフォルツはゴロンと寝そべり、無防備に腹を見せてくる。

 動物がやる服従のポーズだ、ヒメキアの猫たちがヒメキアにやっているのをたまに見る。

 デュロンは安心するどころか、ますます尻込みし、固唾を呑んで問いかけた。


「なんのつもりだ?」

【なにって、どうしたの? 知ってるでしょう? このままわたしにマウントを取れば、わたしの力を存分に振るえるよ。ウォルコくんの選定は間違っていない、きみにぴったり合ってるさ。悪魔と依代で形が似ているというのは、悪魔の方からしても快適なんだよ、実は】

「さすがにそんなもんに引っかかるほど、俺もバカじゃねーぞ」


 警戒して距離を取るデュロンを見て、フォルツはため息を吐いて体を起こし、アプローチを変えてくる。


【じゃ、こういうのはどうかな? ……少年よ。力が欲しいか?】

「いや演出の問題じゃなくて」

【小僧ッ! 力が欲しいのかッ!?】

「そういう感じのが好みとかでもなくて!」


 フォルツは立ち上がってデュロンの周りをウロウロ歩いたかと思うと、どうでもいい位置でぼんやり立ち止まり、説明らしきものを持ちかけてくる。


【別に珍しい話でもないと思うけどね。ほら、半年前を思い出してみなよ。当時は〈永久の産褥〉の一員だったサイラスくんが、所属していた教派の信仰する豚の悪魔アネグトンに、自分から体を開け渡していただろう? あれの逆だと考えればいいよ】

「やっぱお前らこの世界のことめちゃめちゃ観てんのな……複雑な気分だぜ」

【いつもってわけじゃないけどね、盛り上がってるとこだけ。〈ロウル・ロウン〉良かったよ、わたしはきみに賭けてたからね。優勝すると思ってた】

「そりゃどーも。なんの話だっけ」

【平たく言うとね、わたしはきみの潜在能力を買っているんだ。きみがわたしの力を使って、戦っているところを見てみたい。きみの中という特等席でね。

 悪魔の嗜好はきみらにはわからないだろうけど、魔族という着ぐるみを使った遊びには、実はそういうプレースタイルもあるんだよ。たとえばそれ同士で戦うっていうルールでやっているときもあるし。ねえ、やってみない?】


 この精神世界で嗅覚感知が正常に作用している確信は持てないが、少なくともデュロンに察せられる範囲では、フォルツは嘘を吐いていない。

 しかし悪魔が囁く甘言なのだ、なにかデメリットがあるとしか思えない。

 逆に狼の悪魔であるフォルツも、デュロンの感情を嗅ぎ取れるようで、そのあからさまな猜疑に対して、気分を害することもなく答えた。


【仮にわたしの言っていることが全部嘘だとしても、きみに『体を乗っ取られてこき使われる』以外のリスクが発生しないってことはわかるかな? わたしに騙されたとわかった瞬間から全力で抵抗すればいいだけだし、それが徒労に終わったとしてもただめちゃくちゃ疲れるだけ。それってそんなに怖いことかな? それとも体力に自信がないかな?】


 デュロンは頭に血が昇るどころか、スッと冷静になっていくのを感じた。

 今の実力でファシムに勝つには、どの道こいつの力を借りるしかないのだ。


 たとえば今、現実世界でデュロンたちがいる礼拝堂の扉には、鍵などかかっていない。

 扉を蹴り開けて廊下を走り、屋外へ出るか、アクエリカの執務室にでも駆け込むという選択肢もあったはずだ。


爆風刃傷ブラストリッパー〉や〈透徹榴弾ステルスハウザー〉を何発かは食らうだろうが、頑丈さなら負けやしない。

 そのことを今の今まで考えなかった理由は、やはりどうしても、腕尽くで勝ち獲りたいと思ったからなのかもしれない。


 ウォルコのときに賭けたのは、ヒメキアの身柄そのものだった。

 ファシムのときに賭けるのは、守っていける立場や資格だろう。


 それこそ比喩抜きで、悪魔と契約してでも欲しいものがそれだ。

 答えが決まったことも筒抜けで、狼の悪魔は言葉も要らず承る。


【じゃ、どうしよっか? ガミブレウのときみたいに、身体能力に全部突っ込む? きみとしてはその方が効率いいものね】

「それもいいが……ガミブレウのときも最初はそうだったんだが、アンタの魔術を使ってみたいよ」

【ほう、殊勝だね。なぜだい?】

「その方がだろ。俺にとってはともかく、アンタにとっては」

【なかなか悪魔のことがわかってきたじゃないか。祓魔官エクソシストとしての成長だよ、それは】

「だといいけどな……いい加減、俺らの神様に怒られちまうよ」

【んー、それはどうかな?『別にいいんじゃねぇの?』とか言ってると思うよ】


 神と悪魔が戦うのは宿命なのか、とにかくデュロンよりフォルツの方が、ジュナスのことをよく知っていることは確からしい。

 話がまとまったところで、フォルツは今度は尻を見せてきた。


【そうだ、わたしにお腹側から接触するというのは抵抗があるだろう。こうすればいいんだ。改めまして、どうぞ】


 躊躇うデュロンを、フォルツは尻尾を振って待っている。

 どう足掻いても悪感情が伝わってこない。

 ここは乗るしかないようだ。


「んじゃ、失礼して……」


 狼の背中によじ登ったデュロンは、落ち着きなく座る位置を調整する。


「俺、重くね? 重いよな? 重かったら重いって言って、気遣われるとか逆に傷つくから」

【乙女かな? 精神体なんだ、筋骨の重さはそこまで反映されないって】

「あーやっぱ少しは反映されんだ……なんだか申し訳ねーな」

【その性格がちょっと重いかなあ】


 主導権の在処ありかが確定したところで、デュロンの意識が現実世界へ帰っていく。

 いちおう精神世界にも割り振りは残るが、外なる戦いの方が集中力を要求してくる。


 デュロンを背中に乗せて歩き出しながら、フォルツが忠告らしきものを発してきた。


【気をつけなよ。相手も手強いぞ】

「悪魔と依代、どっちが?」

【そりゃ、どっちもさ】

「わかったよ」

【最後にそれっぽいことを言っておこうかな。わたしの力を使っておいて、負けたら承知しないよ、おちびくん】


 どこまでも演出に凝る悪魔だと、デュロンの頬は少し綻んでいた。

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