第355話 ファシム・アグニメットの回想と改悛
そして付随してもう一つ気づくことがあり、デュロンはファシムを振り向いた。
「つーかもしかして、ヒメキアに急いで基礎体力を付けさせてたのは、これからウォルコとの放浪生活が始まるから、それに順応できるようにってことだったのか……?」
「さあ、なんのことだか……勘違いするなよ。俺の目的はあくまでも、ジュナス様を直接崇め奉ることそのものだ。
その裏で誰がどんな余録を拾っていようと、俺には関係ない。
ただ、これによって教会組織がどのような変容を来たそうと、変わらぬ下支えができるように、後進の育成を済ませておく必要があった。俺にもそのくらいの責任感はある。
……もういいだろう、後は貴様らで勝手に喋っておけ」
礼拝堂の奥へ歩み寄り、ウーバくんの前に跪いたファシムは、救世主ジュナスを下ろす儀式に必要なのだろう、いくつかの道具を取り出し始めた。
ヴェロニカは自分の研究結果が気になるようで、観劇の準備でもするように、前列の良い席に陣取り、黙ってファシムとウーバくんの様子を見守り始めた。
風呂にでも入るように地面の穴から顔を覗かせていたイザボーは、デュロンとウォルコに声をかけてくる。
「じゃ、アタシはいちおう周囲の様子を見張っとくから、旦那方は好きにしてくんな」
「ありがとう、頼むよ」
デュロンがおもむろに視線を向けると、言いたいことを察したようで、ウォルコは穏やかに笑う。
「あっ、俺? 今回俺はなにもしないよ。というより、しちゃいけないと思う。現時点で背教者扱いされてる俺が触れると、変なアヤがついちゃって、せっかく降臨したジュナスの正統性が疑われる羽目になりかねないからな。
俺がここにいるのは、こうしてお前と一緒に見届けて、儀式が成功したらすぐにこっそりヒメキアを連れ……あ、そうだ、その辺の段取りを忘れるところだった。
悪いんだけどデュロン、この後寮からヒメキアを連れて、ここへ戻ってきてくれないか? そのぶん挨拶する時間くらいは……」
「しっ」
デュロンが返事をする前に、再び発せられた警告により、デュロンとウォルコは説教檀に視線を戻した。
ヴェロニカが言葉少なに、真剣な口調で告げる。
「始まるよ」
ファシムは平時に輪をかけて厳かな低音で、前半は速く、後半はゆっくりと詠唱した。
「祓いたまえ浄めたまえ、守りたまえ
求めに応じるように、ウーバくんの体がおぼろげに輝き始めた。
ファシム・アグニメットは元々、教会などに所属する気はさらさらなかった。
十八年前、当時十代だった彼は武功で名を上げることしか頭になく、海の向こうから商船に乗り合わせてやって来た。
騎士か戦士か、それとも冒険者にでもなってやろうかと、期待に胸を膨らませていた。
なのでまさかその移動すらままならず、すべての可能性を踏み潰されかけるとは思いもしなかったのだ。
人間時代はいざ知らず、魔族時代の海賊はべらぼうに強い。
何十時間の航海でも平気で耐え、あるいは海を知り尽くし、あるいは錬金術で海水から真水をジャンジャカ生み出す、揃いも揃って馬鹿力の獣人や魚人や
ファシムが乗っていた商船側にも護衛はいたが、この日の敵は格別気合いの入った連中だったようで、乗員が瞬く間に全滅し、果敢に挑んだファシム自身も再生限界までタコ殴りにされた挙げ句、両手と両肩甲骨(翼の起点)を鎖で縛られて目隠しをされ、不安定な足場に立たされる羽目になった。
絵に描いたように典型的な、海賊がやるアレだ。船の舳先を歩かされ、今にも海に落とされそうになっているのがわかる。少年ファシムは潮風に吹かれ、己の命脈がもはや風前の灯であることを悟っていた。
なので不意に正面からの強い風に煽られ、もんどりうって尻もちをついたときも、不運と同じで幸運というのも、タイミングを選ばないものなのだなと、虚しい自嘲に頬を歪めてすらいた。
しかしいつまで経っても、海への落下へと引き戻す荒々しい手どころか、罵声の一つすら降ってこない。
そのときもう一度不自然な風が吹いて、ファシムの目隠しが落ちた。
「……な、なんだ、これは……?」
まるで死の風でも吹いたかのように、海賊たちが全滅していたのだ。
しかし病魔や呪詛という様子ではない、明らかに何者かによる殺戮を受けている。
外傷を被ったのは彼らだけではないようで、彼らが乗ってきた海賊船までもが、大破して沈んでいくのを、少年ファシムは呆然と眺めるしかなかった。
いったい何者が助けてくれたというのか? 船は相当沖に出ていたので、たまたま飛行種族が通りかかって英雄行為を働き、なんの見返りも求めず去っていったというのは考えにくい。
それよりは親切な水棲の魔族や魔物が掠奪の現場を見かけて助けてくれたというのが、まだギリギリなくはないかもしれないが、それにしては甲板に水の痕がまったくない。となると、あとは……。
「まさか……いや、しかし……」
この世界に魔族や魔物が既存し、異界から悪魔が来訪するというのなら、神か神に仕える天使による救済という線は、けっして非現実的なものとは規定できない。
神は地上を見放したはず。しかし神の力が、なんらかの気まぐれで遣わされたというのなら……その気まぐれに感謝する他にない。
当時のファシムは若く野心に溢れていたが、受けた恩を返さないほど不精でもなかった。
二日後、運良く通りかかった船に助けられたファシムは、礼として数ヶ月間その船で働いた後、港から〈聖都〉ゾーラ行きの船で発ち、到着するとすぐに教会へ駆け込んで、
あの日、彼を滅びの運命から叩き返してくれたのが、本当に救世主ジュナスだったかはわからない。ただ無関係な偶然が働き、ファシムが勝手にそれを奇跡と見做しているだけかもしれない。
しかし少なくとも今日までジュナス教の聖職者として働いてきて、一度も後悔したことはなかった。信じる者が救われるというなら、勝手に感謝して勝手に祈ったとて、罰が当たるということもないだろう。
伝承がデタラメでないなら、救世主ジュナスは間違いなく信頼に足る男だ。直接会って話してみたい、ただそれだけでも自然な欲求だろうと自負している。
正直、この儀式魔術が成功するかはわからない。〈聖都〉ゾーラで潰えてきた多くの者たちと同じように、ファシムもアクエリカに謀られている可能性もけっして低くはない。
しかし、だからなんだというのだろう? 信じていたのに、裏切られた……そんな浅ましい泣き言を吐けば、都合の良い取り巻きが慰めてでもくれるのか?
本当に信じているのなら、たとえ裏切られようと曲げるべきではないだろう。
かつて己の力のみを信じていた若かりし頃の自分を思い返すたび、ファシムはその貧しい心に対し、慚愧どころか憐憫の情に耐えかねる。
救われるから、その見返りのために信じるなど不純だ。なに一つとして報われず終わり、業火に焼かれる中ですら、けっしてブレることなく神の名を口にしなければならない。
ファシムは敗北主義者でも破滅主義者でもない。だが必死で鍛え戦い抜いた末に、もう一度あの日と同じように力及ばず倒れるなら、そのときは信じるために信じたいのだ。
しかし……それでもやはりウーバーツヴィンガー……神の依代がゆっくりとその眼を開いたとき、ファシムは驚きとともに喜びを禁じ得なかった。
ウーバーツヴィンガーの重厚な面持ちから、予想よりも
「……汝が……我を呼び覚ました子山羊か?」
知らず、ファシムは五体投地の姿勢を取っていた。ジュナス教の作法に則っているわけではない、ただ自然と最敬礼として、這い蹲るのが相応しいと判断しただけだ。
特にあらかじめ考えていたわけでもなく、言葉も自然と口から出てくる。
「真に尊き我らの父よ、不調法な真似をお許しください」
「よい、よい。そう畏まるな。我とてこの俗界に下るのはこれが初めてというわけでもない、そうたびたび
「もったいないお言葉でございます」
「よい。しかし……どうやら汝が、我の……なんと言えばよいのかな。ミレイン司教やゾーラ司教とは意味が異なる、このジュナスの司教となる者であろう?」
「大変僭越ながら、そのように図らせていただきたく……」
「……おい、気をつけろ」
不意に割り込んだ不躾な声に振り向いたファシムは、デュロン・ハザークが青筋を立てて眼を見開き、口を横に開いて歯を剥き出す、怒っているような笑っているような、複雑な表情で言い立てるのを見た。
「そいつさっきから、デタラメしか言ってねーぞ!」
ククク……と噛み殺すような声は、顔を戻したファシムの正面から発せられている。
デュロンのものとよく似た、しかし明らかに異なる喜悦の形相で、ウーバーツヴィンガーの精悍な顔立ちを台無しに崩して、硬く強張ったままの表情筋を目一杯使い、騙り者は哄笑した。
「ケーケケケケ!! バレちまっちゃあしょうがねえ! 良かったなお前ら、人狼のガキがいなきゃあ、マジで俺らを神と崇めたままだったかもしれねえぞ!?
ま、こっちとしても、あのいけ好かねえクソ野郎のジュナスなんかと間違えられるなんてのは、冗談に留めといてほしいもんだがな!
ようよう、改めましてこんばんは! お前らも
もっとも呼ばれたところで、それを理由に退散してやるわけにはいかねえがな!
手違いだろうがなんだろうが、こうして召喚しちまった限りは、還るまでは楽しませてもらうぜえ!」
先ほどはああ考えたが、あくまで信じるべきは教会であり、神様であり、聖女である。
まさか悪魔を信じるわけにはいくまい。ファシムは状況認識を改める必要に迫られた。
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