第347話 年下のちびすけに振り回されるというのも、けっして悪い気はしないのだと
雑魚相手にも惜しまず全力を出すこと……それが自ら寿命を縮める行為だったと、なぜもっと早く気づけなかったのだろう。
エーニャは心から後悔したが、今となってはもう遅い。
「はぁ、はぁ……嘘でしょ……!? どれだけ、いるの……!?」
魔力はとうに尽きかけている。
それでもようやく最後の一匹を倒したところで……第二陣が登場した。
「……え……!?」
今度は
身長約百五十センチのエーニャに近い、いや同じくらい……いや、かなり大きな個体がゴロゴロ現れる。
先ほどの小鬼たちは、こいつらに追い立てられる前陣に過ぎなかったのだ。
ちょっと待ってほしい、こんなのは聞いていない!
「や、やだ……来ないで……」
疲弊し、掠れた声で懇願するエーニャの様子に対して、魔力体力に満ち溢れた
脂汗を流して息を乱し、縺れる足で後ずさるエーニャは、ついに転んで尻餅をつき、完全に追い詰められてしまう。
頭上からは
あいつらはこうなることがわかっていて、高みの見物を決め込んでいたのだ。
翼を広げて空からの脱出を図れば、妖鳥人たちはエーニャを殺しすらしないだろう。
喜んで地上へ叩き落とし、小鬼の餌食となる様を、嘲笑しながら見届けるのだ。
「ひ……あっ……!」
恐怖で喉が引き攣り、もはや悲鳴すら上げることができない。どうしてこんなことになったのだろう? もっと体術を鍛えていれば……そもそも夜にこんなところへ来なければ……レイシーちゃんに一人で逃がしてもらったから、
涙で滲む視界の中で、エーニャはなんとか声を搾り出して叫んだ。
「やめて……わ、わたしに近づかないで……! 誰か、誰か近くにいませんか!? 誰か、助けてください! わたしなんでもします! これからはちゃんと門限を守るし、夕飯を摘み食いしたりしません! 父様や母様や、兄様たちや姉様たちの言うことをよく聞く、素直ないい子でいますから! だから……た、助けて……!」
気づいてくれないだろうか。レイシーは、デュロンたちは、先に引き立てられていったターレットたちは、気配を感じた謎の勢力は。
しかし結論から言えば、そんな期待はすべて無駄だった。
「……おいおい、言い方を間違えてるぜ」
不意に強い風が吹いて、頭上から降る不愉快なクスクス笑いが止む。
あまりに都合の良いその響きを、エーニャは幻聴としか思えなかった。
だが、確かに呼んでいる。一番呼んでほしい声音で、一番呼んでほしい名前を、そっと舌の上で転がすように囁いてくれる。
「かわいいエーニャよ、お前はただこう言えばいい。ドラゴ兄様、わたしはここだよ……ってな」
しかしそんな奴らでも、なけなしの理性が働いたのか……あるいはただ本能に従ったのかは知らないが、自然と地面に膝をつき、脂汗を流しながら
彼らは理解したのだ。彼らが何億体何兆体と地に満ちて一斉に襲いかかろうが、彼らが何億回何兆回転生してやり直そうが、眼前の生物に勝つことは、未来永劫不可能なのだと。
エーニャが好きで真似をする、真っ赤なフードを外した長兄は、怒っているのか笑っているのかわからない、ただ竜の
「やぁ諸君、ご清聴ありがとう。ところで念のため確認しようか。まさかと思うが、俺の妹を泣かしておいて、タダで帰れると思ってるわけじゃねぇよな?」
自分とエヴロシニヤを残して、周囲一帯を真っ平らに均したドラゴスラヴは、妹の小さな肩を抱きしめ、自分と同じ色の髪を優しく撫でていた。
自分の痕跡を嗅ぎ回っている不良グループがあると聞き、そのリーダーがエーニャだと知ったときは驚いたが、以後こうして毎晩様子を見に来ていたのは正解だった。
あいつらは本当に威勢だけだ。しかし一方で……と、いちおう苦言を呈しておくドラゴスラヴ。
「いくら消耗してたとはいえ、あんな連中に追い詰められるとは、お前もまだまだだな、エーニャ」
一番下の妹は赤く腫らした、これも兄と同じ橙色の眼で見上げ、ぷくっと頬を膨らませてくる。
彼がこの顔に弱いというのを、学習されてしまっているようだ。
「ホストハイドの名が廃る……なんて、ドラゴ兄様も言うの?」
「おっと、痛ぇとこを突かれちまった。廃りゃいいんだ、そんな名は」
「そしたらわたしも、兄様と同じ苗字にしてくれる?」
「なっ……!? なんでそのことを知ってんだ、お前……!?」
正直なところドラゴスラヴは、このかわいいちんちくりんに驚かされる日が来るとは思っていなかった。
使い魔を動かせるようになったとは聞いていたが、情報収集の賜物というわけではないだろう。
居場所や動向はまるで掴めなかったくせに、考えだけは見抜いてくるとは恐れ入る。
エーニャの顔が泣き笑いに変化した。
「知ってるよ。わたしはおばかだけど、ドラゴ兄様のことだけは、なんとなくわかるもの……ドラゴ兄様は、新しい家を作りたいんでしょ? まったく新しい、自分を祖とする家を」
「ったく、お前にゃ敵わねぇな」
図星を言い当てた喜びはすぐに引っ込んだようで、エーニャはまた泣き顔に戻ってしまう。
「ド、ドラゴ兄様の嘘つき……わたしがお嫁に行くまでは、同じ苗字でいてくれるって言ったのに……」
「あー……そういう言い方されると弱いんだよな……」
妹の髪をくしゃくしゃに撫で、むくれるほっぺをつつき回しながら、ゆっくりと言い聞かせるしかない。
「確かにそれを第一段階として考えてはいる。だが……魔族社会も完全成立から早二十年が過ぎた、そろそろ教会世界の次を見据える必要が出てきてる。
俺たちはもう『血』だの『家』だのに囚われてる場合じゃなくなるかもだぜ、エーニャ?
たとえばこのラスタード王国で、四大名家なんて呼ばれてる連中は、現にどうだ? 俺程度が最強なんて称号を戴けるようなチンケな枠組みに、果たしてどれほどの意味がある?
ウォルコ・ウィラプスが冠してた〈最強の爪〉の方が、まだしも価値があったんじゃねぇか?」
まぁあれもあれで「ミレイン市内の」「爪や刃に類する能力を持ってる連中の中で」「半ば象徴的な意味合いでの」最強、だったらしいが。
認識を拒むようにいやいやをするエーニャを抱っこし、びっくりした彼女を下ろして話を続ける。
「まぁ聞け。リャルリャドネやグランギニョルが、どうなったかは知ってるな? 末裔たちは逞しくやってるが、ありゃもはや家の
ヴィトゲンライツは安泰か? メリクリーゼやヴィクターは、本当にノーマークで大丈夫か?
かく言うホストハイドは……まぁその、ホストハイドさん家はほら、まず次代の当主候補が出奔中だから、そいつの口からはあまり強く言えねぇんだが……」
その通りだと言いたげに、胸板をポコポコ叩かれて、言葉に詰まった長兄は、苦し紛れに突き放すしかない。
「この話は、おちびちゃんにはまだ早かったかな?」
「ぶー! ドラゴ兄様はすぐわたしを子ども扱いするー!」
「実際お前がガキだからだろうが。とにかく、今夜はもうお家へ帰りな。近くまで送ってやっから」
「うー……!」
むずかりしがみつくエーニャに対し、根負けのため息を吐いたドラゴスラヴは、肩と頭を落とした勢いそのままに、均した地面にしゃがみ込んで、妹の顔を下から覗き込む。
「……そんなに俺に会いたかったのか?」
「会いたかった。寂しかった……離れていても声だけでも聞きたいよ、ドラゴ兄様……」
「そっか……そこまで言われちゃな……」
本当に声だけならば、可能ではある。使い魔という響きから想像される華麗さからはかけ離れた、平べったくてゴツゴツした、どちらかというとイグアナに近い姿をしたその小さな生き物を、ドラゴスラヴは首をかしげるエヴロシニヤの手に乗せた。
「わっ、ツノトカゲくん! かっこいい!」
「だろ。こいつを俺だと思って、肌身離さず連れ歩きな。家に帰るときゃ髪の中にでも隠せ。有事の際には……もちろん俺本体の方でも把握するが、すぐに助けを求めろ。万難廃して駆けつけるくれぇのことはできる」
「で、でも、いいの……?」
迷ったが、デメリットは少ないという結論が出た。これは冷静な理性的判断であると、ドラゴスラヴは自負する。
「たとえばお前を使って俺を絆すよう、親父殿が仕組んでるとか、そういうことは有り得ねぇ。というより、ホストハイドはそういうことをしねぇ。それくらいは信用してるさ」
「良かった……ドラゴ兄様は、わたしたち……ホストハイドのこと、嫌いになったわけじゃないんだね……」
改めて指摘されると面映いものもあるが、ここは真剣に答えておく。
「好きだよ。だから壊すんだ。家族と家どっちが大事なんて、決まってるだろ。家族だよ」
きょとんとする妹の肩を抱いて、ドラゴスラヴは彼女を家路へ誘う。
「さぁ、そろそろタイムアップだ。この話の続きを始めるまでに、ちっちゃなエーニャは少しでも大人になってるかな?」
「なってるもん! 眼から真っ赤なビーム出しちゃうからね!」
「なんでお前ツノトカゲくんになろうとしてんの!?」
「なんなら今できそうかも!」
「おいやめろよ、お前せっかく固有魔術が未覚醒なんだから、方向性間違えんじゃねぇぞ!? 変なこと願ったらわりと叶っちまうもんなんだからな!?」
それがどんな未来に繋がっているかはわからないが、ドラゴスラヴは再認識した。
年下のちびすけに振り回されるというのも、けっして悪い気はしないのだと。
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