第304話 ついに自称し始めた。これは末期

「申し遅れた。今日付けでこのミレインに赴任してきた、近接格闘及び魔術射撃の指導教官を務める、ファシム・アグニメットだ。以後、見知り置きを」


 長い臙脂えんじ色の髪を後ろに撫でつけた、長躯の男だ。

 一見細身だが、鍛え抜かれた筋骨を持っていることが、祓魔官エクソシストの黒い制服の上からでも見て取れる。

 体格も似ているが、年齢もおそらくベルエフと同じ三十代後半くらいだろう。


 鉤鼻、こけた頬、尖った顎、落ち窪んだ垂れ気味の眼は鳶色。

 深い瞼から冷酷な印象を受けるのは気のせいだろうか?


 とにかくなんだか、虫の好かない男だ。

 ギラギラ睨み返すだけで反応しないデュロンに代わって、ソネシエとヒメキアが挨拶してくれる。


「そうとは知らず失礼した。わたしはソネシエ・リャルリャドネという者」

「あ、あたしヒメキアっていいます! はじめまして!」

「うむ、よろしく……」


 対するファシムの相槌は、なぜかどことなく上の空だ。

 先ほど近づいてくる気配に気づけなかったのも、この男からほとんど感情の臭いがしないからなのだが……ヒメキアと眼が合った瞬間だけ、その鉄のごとき心に波紋が広がるのを、人狼の嗅覚は逃さず感じ取った。

 内訳も理由もわからないが、それがますます気に入らず、デュロンは不貞腐れたまま名乗りを上げる。


「デュロン・ハザークだ……よろしくお願いしまーす、アグニメット先生ー」

「あなた、態度が悪すぎる」

「なんでだよ、敬意を示してるじゃねーか」

「嘘。煽っている」

「……フフ……フフフフ……」


 突然ファシムがほとんど表情を変えずに、口元だけをわずかに歪ませ、喉を震わせる。

 別にジョークがツボに入ったわけではないことが、デュロンにはわかった。

 なぜならせせら笑うその男からは、はっきり侮蔑と嘲弄の臭いが漂っていたからだ。


「フフ。いや、なに、すまん。貴様がデュロン・ハザークか……それにしてはずいぶん、ようだと思ってな。心配はないぞ、俺がきっちり鍛えてやる。就任早々、楽しみを増やしてくれてありがたい。では諸君、訓練でまた会おう」


 言うだけ言って元の堅物鉄仮面に戻ったファシムは、ヒラリと手を振って踵を返した。

 その背中を見送っていると、デュロンは腹の中に沸々と生じるものを感じる。


「……ソネシエ。あと何日でハロウィンだっけ」

「あと十五日」

「そうか……」


 うつむいていたデュロンは背筋を伸ばし、ファシムが去った回廊の奥へ向かって、負け犬の遠吠えを放つ。


「俺はデュロン・ハザーク。ここミレインの祓魔官エクソシストの間では、〈教官殺しのデュロン〉と呼ばれている」

「ついに自称し始めた。これは末期」

「デュロン・“教官殺し”ハザークだ」

「間に挟んだ! かっこいいよ!」


 ぴょんぴょん跳ねるヒメキアの頭を右手で撫でながら、左手の関節で敵意を奏でる。


「完っ全に頭にきたぜ……誰の体が弱いって? あの野郎、月末までにブッ飛ばして、教会そのものから除籍させてやる」


 できるかできないかではない、やってやるという気持ちが大切……な一方で。

 デュロンは怒りに駆られていたが、それ以上に警戒心が火花を散らしていた。

 染み付いた固有魔術の匂いが、爆裂系のそれであるからというだけではない。

 あの男からは、どこか危険な香りがする。それが気のせいならばよいのだが。



 見極める機会は早々にやってきた。その日の午後、任務に出ている者以外のほとんどの祓魔官エクソシストを集めた基礎訓練の場に、奴は悠々と姿を現す。


「ファシム・アグニメット、種族は炎熱鳥人ガルーダだ。前任者がどうだったかは知らんが、俺はすべての祓魔官エクソシストを平等に鍛える。もちろん種族や素質によって負荷は増減するが、まったく免除されることはないと思え」


 そうして鋭い眼光で一同を見渡し、事前に資料を読み込んできたようで、何人かに注意勧告を言い渡していく。


「たとえばリュージュ・ゼボヴィッチ、貴様がこれまで常習していたような怠慢は、俺が見ている間は通用しないと心得ろ」

「うっ……は、はい、教官殿。心を入れ替え、鋭意励む所存であります」


 そう言いつつ、すぐにリュージュは「こいつ早く辞めてくんないかな」と言いたげなしかめっ面でファシムを見るが、奴は気づいているのかいないのか、納得したように頷いている。


「よろしい。あるいはイリャヒ・リャルリャドネ、貴様のような貧弱でも、倒れるまで走ることくらいはできるはずだ。魔術に偏重するのが悪いこととは言わんが、体力を完全に放棄するわけにもいくまい」

「お言葉ですが教官殿、私の貧弱はあなたの想像を超えていると推察します」

「わかっている。だが励め。貴様の限界は俺にはわからん、いつダウンしようと構わんが、少なくとも越えようと努めろ」

「承知いたしました」


 こいつなかなかやるな、とデュロンは歯噛みせざるを得なかった。

 イリャヒは疲れやすくて飽きっぽく、二言目には「帰りたい」と言い出す面倒臭がりだが、リュージュと違って体を動かすこと自体が嫌いなわけではない。

 こいつは無理矢理動かす方がいいのか、やる気を引き出す言葉をかけるべきなのか、といった、微妙な性格の違いを見極めるというのは、なかなかできることではない。


 いや、アクエリカが書いたレポートがめちゃくちゃ詳細だっただけだろ……などと考えていると、鉢が回ってきた。


「よし。あとは、そうだな……デュロン・ハザーク」

「ん?」


 ファシムはなにか言おうとしたようだが、思い出しせせら笑いで誤魔化した。


「いいや、なんでもない。フフ……まあ、その……頑張れ」

「なーんでーすかー教官殿ーっ!? 俺はなにを担いでどこを何時間走ればいい!? やってやるぜ、アンタがどうせできねーと思ってることをなんでもな!」

「そう興奮するな。では準備運動からかな」

「そういう態度は後悔するって、俺の方が教えてやんよ!」


 格闘訓練なら鬱憤をぶつけることもできたのだが、あいにく最初は運動場を走るだけだ。

 デュロンはなにも思いつかず、とにかくファシムへの当てつけのつもりで猛ダッシュを繰り返した。


「クソがああああ! 見てろやああああ!」

「あまり無理はするな、貴様も補給が不要というわけではなかろう」

「この流れで優しい言葉かけてくんのどういう情緒なんだアンタ!?」


 どう考えても、おちょくって遊んでやがる。なんとか鼻を明かしてやりたいデュロンは、早くもヘバってきたイリャヒに眼をつけ、彼の両脚を抱えて掲げながら走り始めた。


「ちょっとおおお!? なにしてるんですか!? 確かに任務中たまにこういうことしますけど、今そういう状況じゃないでしょう!?」

「いいから手を貸せ! お前、腕を伸ばして、指先に火を灯すんだ!」

「なにがしたいのかまったく意味がわからないんですけど!? なんで私をトーチにしようとしてるんですか!?」

「無理だったら頭でもいいから!」

「いやそれ以前にまず、背筋伸ばした状態であなたの走る速度の風圧に耐え続ける方が、普通に走るより全然キツいんですが!?」

「体幹鍛えられてよかったな!」

「ていうか揺れで酔ってきどおおおええええ」

「うわこいつゲロ吐きやがった!?」

「うえっぷ……普段のあなたとお互い様でしょうが!」


 途中で真面目に走っているソネシエとすれ違い、冷たい眼で見られたが気にしない。今はファシムの……。


「さっきから気になっていたのだが、貴様はなぜ走っていない?」

「おい!? あいつ全然見てねーじゃん!? ……ん? ちょっと待て……」

「あびゃびゃびゃ! 痛い痛い! 急に止まるから腰が!」


 ベキッと折れたイリャヒはその辺に放って、デュロンはファシムが詰問している相手に早足で歩み寄った。それはヒメキアだ。

 みんなに水を渡したり応援したりしてくれていた彼女は、怯えきった様子で強面の偉丈夫と正対している。


「あ、あの……あたしは訓練に参加しなくてもいいって……みんなのケアやサポートをしなさいって言われてて……」

「それは誰が言った?」

「えっと、ベルエフさんと、前の教官さんの」

「なら俺の方針とは無関係だ。確認だが、ヒメキア、貴様も祓魔官エクソシストだというのは間違いないな?」

「は、はい……」

「戦わずとも、動かなければならない場面は、この先あるはずだ。それを貴様は……」


 ファシムの腕がピクリと動き、怯え切るヒメキアの頭に向かって伸びるのを、デュロンは確かに見た。

 割って入って掴み止め、力の限り捻り上げる……つもりだったが、やはりと言うべきか、相手の方が腕力もやや上のようで、余裕をもって抵抗されてしまっている。


 冷たい猛禽の眼光が見下ろしてくるが、萎縮する理由はデュロンにはもうなにもない。


「……デュロン・ハザーク、この手はなんだ」

「その質問はそっくりそのままお返しするぜ、教官殿」


 こんな陰気なロン毛野郎より、ヒメキアを守れないことの方が。

 次いでそのことでウォルコに叱られる方が、よっぽど恐ろしい。

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