第295話 盗賊・詐欺師・墓泥棒、美食家にして悪食家なり

 やられた、とジェドルは歯噛みするしかなかった。

 自ずから血まみれになっていたデュロンがフラついた瞬間、今度こそ仕留めたと思ったのだが、サイラスの誘いにまんまと乗せられ、貴重な悪魔憑依の最後の数秒を、放散からの復帰のために空費してしまった。

 元に戻るのが間に合ったのは幸いだが、明らかにもうジェドルに勝ち筋はない。


「あばよ、ドグレギト。今日のところは、これくらいで勘弁してやるぜ」


 逃げ切りに成功しただけにも関わらず、堂々と啖呵を切るデュロンの声が聞こえる。

 この虚勢はどこから来るのだろうと、もはや感心してしまうジェドル。


 それはドグレギトも同じようで、暗黒物質と化して異界へ帰る悪魔は、平時の冷静さを取り戻したらしく、ニヒルに微笑み去っていく。

 憑く側の奴が憑きものが落ちたような表情をしているのは解せないが、そんなことを気にしている場合ではなかった。


 話に聞いてはいたものの、悪魔憑依に伴う体力の消耗は尋常ではない。魔力ももうあまり残っていない。

 ジェドルは地面に膝をつき、動こうとしない自分の脚を殴って叱咤する。


 そしてさらに深刻な問題がある。悪魔の化身となっていたとき、その炎が自己と認識するのは体と服までだったようで、所有していた消化変貌用の肉片はすべてが焼失してしまっていたのだ。

 代償としては軽いものだが、これは勝ち筋というより、できること自体がなにもない。


 諦めかけたそのとき……彼は近くに転がる物体に気づいた。


「……ん?」


 流木かなにかに見えたが、それは千切れた前腕の肉である。

 理解すると同時、ジェドルの脳に興奮と希望が湧き起こる。


 サイラスも真似をしていたようだが、デュロンは下半身偏重の、上半身が貧弱な変貌形態で戦っていた。

 さらに極度の貧血で組織が脆化しているところへ、サイラスの援護により、ジェドルの炎が至近で誘爆したのだ。

 通常状態ならいざ知らず、あのときのデュロンは片腕を犠牲にしなければ防御しきれなかったらしい。


 その上で平気を装ってドグレギトに挨拶しているのだからなお感心するが、運は依然としてジェドルに向いているようだ。

 地面に倒れ込む形で掴み取り、迷わず噛み千切る。


「んぐっ!」


 人狼の肉を喰うのはもちろん初めてではないが、ドグレギトの言っていた意味がよくわかった。

 血がどうかは知らないが、なるほど肉は極上だ。


「うおおお……こいつはキくぜ……!」


 体力が全回復……どころか、上限値が解放された気すらする。

 筋肉が一回り膨れ上がり、腕の振りや脚の運びを恐ろしいほど軽く感じる。


 そしてやはり特筆すべきは、種族の真髄である心臓の機能だ。

 血流が速いせいか気分が高揚し、今ならなんでもできそうに感じる。


深淵潜者アビスダイバー〉の恩恵には感謝しかない、これならまだ十分以上に戦える。

 喜び勇んで奮起したジェドルは……しかしすぐに気分が変わった。


「おー、喰ったんだな。ったく、テメーそれ、拾得物の着服なんじゃねーの?」


 こうしてデュロンと対峙するのは何度目か。相手の態度も憎らしいほどに同じだ。

 そうして気楽に声をかけられているのに、体が沈み込むような圧力を感じている。

 日常行動の一部である消化変貌を、いささかでも後悔したのは生まれて初めてだ。


「うる、せぇ……テメェの体くれぇ、テメェで管理できねぇ奴が悪ぃ」


 なんとか軽口を返してみせるが、声が震えていなかった自信がない。


 ジェドルはなんとなく原因を悟っていた。

 相手と同じ人狼の白眉という闘技場へと自ら上がり、他の魔術や異能という言い訳も逃げ道もない、最高純度の近接格闘の領域という、極小の煉獄に閉じ込められてしまったことに、本能的な自覚が及んだのだ。


 たとえ実現できるスペックが完全に同値でも、デュロン・ハザークという器を操る技量は、当然だがデュロン・ハザークの方が圧倒的に高い。

 物真似お化けの禁じ手は、戦う相手そのものに化けてしまうことである。古今東西、数多の模倣能力者がそれで敗けてきたと聞く。


 喰屍鬼グールの持ち味は手数の多さと柔軟な対応力なのに、それをかなぐり捨てたのでは勝てるものも勝てない。

 落ちた果実に眼が眩み、完全に選択を誤ってしまったという、まるで寓話の間抜けな主人公だ。万事休すと考えるしか……。


 ……いや、違う。と、ジェドルはさらに認識を改める。まだチャンスはある。

 爆発で千切れたデュロンの右腕はすでに自己修復が終わっているが、貧血含めて、奴の再生能力はもうあまり残っていない、というのが一つ。そしてもう一つは……。


「よー、ジェドルくん。今さらだが、ルールの変更を提案してーんだけど。もちろんどちらかというとお前に有利なやつだ」


 思考を裂いてかけられた声に、不機嫌を装い答える喰屍鬼グール


「あぁ? 言ってみろや……」

「俺かサイラス、どっちか一人でも倒せたら、お前の願いとやらをヒメキアに頼む権利をくれてやる。もっとも彼女が叶えてくれるかはまた別の話だけどな」

「なんだよ、そんなことかよ。どの道テメェら両方潰すんだ、無駄な条件だな」

「そうか、ならいい。今はお前も人狼なんだ、どうせなら殴り合おうぜ」

「上等だ! 株奪われて泣くんじゃねぇぞ!」


 目論見を悟られないため話を合わせているというのもあるが、特に反発を感じるわけでもなく、ジェドルは不思議と素直に構えた。


 次の瞬間、至近に迫られ、重い数発を叩き込まれている。


「ぐっ!?」


 反応くらいは間に合うかと期待していたのだが、消化変貌前と同じで、眼で追うこともままならない。

 予想以上に差があった。せめて借り得た鋼の筋骨を頼りに、らしくもなく防御に徹するジェドル。


 しかし幸いなことに、だけは及んでいた。

 殴りたいなら殴ればいい、蹴飛ばしたいなら好きにしろ。もとより狙いはそこにない。


 喰屍鬼グールは眼も耳も鼻も魔力感知も大して強くはないが、デュロンの上着の中で揺れてカチ合う、その音だけは逃さない。

 ただのお守りに思わせているが、あれは魔石に違いない。


 肉薄の瞬間に手を忍ばせ、鎖ごとり取ることに成功した。

 ザマァ見やがれ、ド突き合いなんぞ勝手にやってろ。

 盗賊・詐欺師・墓泥棒になぞらえられる、喰屍鬼グールの面目躍如と言える。


 引き換えに余計な数発を浴びてしまったが、この二つの中身によっては安い代償だ。

 盗ってしまえばしめたもの、ジェドルは迷うことなく口へ運んだ。


 もし毒などの自滅を誘う罠が仕掛けられていても、通用するのは普通の喰屍鬼グールに対してだけだ。

 悪食の王たる〈深淵潜者アビスダイバー〉は、摂取対象の真髄を我が物とするゆえ。


 なんであろうが血肉にしてやる。噛み砕いて嚥下し、身に訪れる変化を待った。


 ……なにも起こらない。いつまで経っても、ジェドルはジェドルのままだった。


「なんだか知らねーが、気は済んだか?」


 いっそ穏やかなほどに平静な口調と表情で、デュロンに話しかけられたジェドルは、今度こそ一気に血の気が引いていくのを自覚した。


 まさかのスカ、最悪も最悪だ。空っぽの宝箱を掴まされるがために、ただただ無駄に殴られた。

 だが恐ろしいのは、それが原因で敗けてしまう現実ではない。


 これを仕込んだ奴は、相手が喰屍鬼グールなら蓋然的に、これが詰ませる最善手かなと、流動する最終局面を漠然と捉えたまま、結果的に読み切ってしまったという事実に震え上がる。

 そしておそらくそれをろくろく知らずとも、当然のように信じ切る、目の前のバカが心底厭わしい。


 ムカつく奴はブン殴る。敵わなくとも、無駄でも、最後まで抵抗しない理由にはならない。


「クッソがぁぁ、くたばれや、デュロン・ハザーク!!」


 気勢を保てたのは一瞬のこと、最初の一撃で肺の中の空気を全部吐かされ、機能的に叫びを途絶えさせられた。後は拳が雨霰あめあられ、全身の筋骨を殴り潰される。


 なまじ人狼に……消化変貌しているせいで、上がった耐久力が乱打ラッシュを堪えてしまう。最高強度の循環機能も、額の青筋を切るだけだ。


 最後の一撃を顔面に突き刺されるのを感じると同時、潰れたまま遠ざかる視界の真ん中へ、ジェドルは右拳を突き出した。無論届かず、吹っ飛んで転がる。


 ただ意識が途切れる寸前に、賞賛の声が降ってきたのは意外だった。


「やるじゃねーか……。その一発分の負けん気だけは、ギャディーヤやブレントよりも強かったと、覚えておくぜ、ジェドル!」


 そいつらが誰だか知らねぇが、当たり前だ、この俺だぞ……という呟きは、残念ながら彼が落ちていく眠りの中へ、虚しく反響するのみだった。

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