第233話 ミレインに巣食うもう一人の大悪

 その後でぴょこりと現れてお辞儀した、赤紫色の髪で猫を抱えた、笑顔が素敵なヒメキアという女の子も、食堂から顔を出したかと思うと丁寧に挨拶してくれた、栗色の髪で笑顔が素敵なネモネモという女の子も気になったが、やはり目下シャルドネの関心は、アクエリカに釘付けとなっていた。

 優雅に歩いて朝食の席へ就いたアクエリカは、食堂の責任者らしいネモネモちゃんに叱られている。


「もー、猊下、来るなら来るって言っておいてほしいの! あと、なんでドレスなの!? 朝からそんなお上品に食べられるものは用意していないの! もー、おばかな猊下には、涎掛けがお似合いなの! こうしてこうしてやるの!」


 ネモネモはアクエリカが膝へ乗せようとしていたナプキンを引ったくり、勝手に相手の襟に巻いてしまった。アクエリカは鷹揚に笑っている。


「あらあら、ごめんなさいね。でもこの後わたくしがのんびり着替えていたら、先方への到着が遅れてしまうのよ。今回は特に、できるだけ余裕を持って行きたいですからね」

「そういうことなら仕方がないの! でも汚れても弁償しないの! その高そうなドレスに対して、当方は責任を持たないなの〜!」


 言うだけ言って厨房へ引っ込んでしまうネモネモを、アクエリカは楽しそうに見送り、彼女が作ってくれた朝食に舌鼓を打った。


 シャルドネが戸惑いつつ食卓を見回すと、普段からこんな感じのようで、ヒメキアちゃんも美味しそうに食べているし、イリャヒやソネシエも平静そのものだ。萎縮する必要がないことがわかり、シャルドネも彼らに倣った。


 しばらく食器を鳴らす音だけが響いた後、視線を感じたシャルドネは、アクエリカが自分を見ていることに気づき、喋ろうとしてせた。


「ごめんなさいね、シャルドネさん。せっかく本当に水入らずで話せるというときに、無理矢理同席するような形になってしまって」

「ゲホゲホ……い、いえいえ、いいんです。それよりアクエリカ様、私を助けるよう手配してくださって、ありがとうございます!」

「様はやめてくださいな。それに業務の範囲内で、当然のことをしたまでよ。

 だからヒメキア、同じように任務を熟したあなたも、当然ここにいていいんですよ?」


 ちょっぴりいたたまれなさそうにお尻をもぞもぞしていた彼女の様子は、位置関係的にアクエリカの席からは見えなかったはずだが、どうしてわかったのだろう?

 とにかくヒメキアちゃんは再び安堵した様子で、ふにゃっと笑った。かわいい、養子にしたい。


「は、はい、アクエリカさん! あたしがんばりました!」

「わかっていましてよ。結果的に被害ゼロで済んだどころか、わたくしのために書記官を募兵リクルートしてきてくれるとは、十分以上の働きです。もちろんイリャヒとソネシエも、よくやったわね」

「恐縮です」「猊下の御意に」「ぎょ、ぎょいです!」


 こうして側から見ていると、支配者としての実力で部下たちを心服させているというのが、シャルドネにもわかる。

 その引力のごとき求心力を湛えた群青の瞳に吸い寄せられる心地がして、シャルドネは思わず固唾を呑んだ。


「さて、ここから本題なのだけど……今もチラッと触れましたように、我々ジュナス教会及びミレインは、常に優秀な人材を求めています。戦闘職である祓魔官エクソシストに限らず、あらゆる才能をね。シャルドネさん、あなた借金がチャラになった後でも、安定した働き口は欲しいでしょう?」

「は、はい! それはもう!」


 もしかして雇ってもらえるのだろうか、というシャルドネの期待は裏切られず、アクエリカは完全にそういう体で話を進める。


「あなたなら身元がはっきりしているし、人格的な信用性も保証されている。こちらとしても安心して受け入れられましてよ」

「こちらこそ、そこまでしていただけるなら、申し訳ないくらいです! それで、あの、職種は……?」


 そこでなぜかアクエリカは動きを止めたかと思うと、やけに緩慢な動きでスープを掬った。

 口元に添えたスプーンを、ほんの刹那ながら明らかにそれとわかるように、ねっとりと艶かしく蠢かす。


「……実はわたくし、の方はまったく不得手でして……最近は特に、その……お恥ずかしい話ですけど、溜まってしまっているんです……やはり一人でするより、誰かの手を借りたいなと思いまして……わたくしとしては、男性よりも女性の方が、良い……というか、相性が良いかなと思いまして……」


 なぜか顔を赤らめてもぞもぞする彼女に対し、イリャヒとソネシエが発する冷たいオーラで場が冷え込んだような気もしたが、シャルドネは両拳を握ってやる気を見せた。


「なるほど、書類仕事ですね!? 私すごく得意です! 任せてください!」

「チッ。そうですそうです、よろしくお願いいたしましてよ」しかしなぜかアクエリカは露骨に不貞腐れた様子で舌打ちし、部下をぞんざいに振り返った。「ねえイリャヒ、どうしてあなたの叔母様なのに、この人こんなに純粋なの? もっとグチャグチャに汚れていないとおかしいでしょう?」

「あの、猊下……私たちのたった一人の親族に対して、そういう話するのやめてもらえます? しかもあんまり冗談に聞こえなかったのですけど? 結構真剣に照準しておられますよね?」

「もう、まだ照れてるの? 素直に家族と言いなさいな☆」

「朝から叔母を邪な眼で見てくる上司に、そんな言質取られたくないです」

「ソネシエちゃん、ごはんおいしいね! アクエリカさんはなんの話をしてるの?」

「ヒメキア、あなたは知らなくていい。ずっとそのままでいて」


 よくわからないが、事務方として雇用してもらえることが決まったようだ。

 ありがたい申し出とともに朝食の席を終えたアクエリカは、改めて一同を促す。


「さあ、そろそろ行きましょうか。恒久的平和というやつを勝ち取りにね」


 不安は渦巻くが、今のシャルドネは彼女に従うしかなかった。



 どこの土地でもそうだが、暗黒街や路地裏というのは、明確にここからがそうと線引きされているわけではない。

 その建物も外観・内装含めて、一般的な事務所にしか見えないし、10年前ここを訪れたシャルドネも、そうとしか感じなかった。


 しかし理解が及んだ今となっては、記憶通りの廊下を歩くだけで頭痛と悪心が襲い、脂汗が全身に満ちる。

 横を歩きながら背中を撫でてくれるアクエリカは、笑みを消して真剣な慰撫の言葉を囁いてくれる。


「大丈夫よ。交渉が失敗に終わったら、あなた以外、わたくしも含めて皆殺しにしてもいい。後ろの二人には、そう言い置いてあります」


 教会最高峰の女傑、最愛の甥と姪に守られていてなお、シャルドネの震えは止まらない。

 それくらい、は恐ろしいのだ。いや、その恐ろしさを、10年越しで今思い知らされていると言った方が適切かもしれない。


「よお、お嬢ちゃん。さっきぶりだな?」


 通されたなんの変哲もない応接スペースの対面には、すでに知った顔が鎮座している。

 臙脂色の背広に帽子、寸詰まりで堅肥りの、圧がある男……スリンジだ。

 シャルドネを見るとニヤニヤしながら声をかけてくるが、今の彼女は震えつつも、その三白眼をキッと見返すことができた。だが……。


「おいおい、失礼だぞスリンジ。酸いも甘いも噛み分けて、立派な大人の女になって帰ってきたじゃねぇか。なぁ、シャルドネ・リャルリャドネ。ところで」


 駄目だ。その隣に座る隙のない男には、恐る恐る視線を向けるのが精一杯だった。

 彼が言うのが皮肉なのはわかる。彼にとってシャルドネなど、いつまで経っても変わらず、いつでも殺せる小動物に過ぎないのだ。


 弟や部下たちと同じ臙脂色の背広の上に、さして寒くもない室内であるにもかかわらず、黒いコートを羽織り、長い脚をゆったりと広げている。


 長い黒髪をオールバックに撫で付け、顎髭を蓄えた半眼の巨漢。

 仕立てと着こなしで細身に見せているが、その体がガチガチに鍛え上げた筋骨の塊であることがわかるのが、今のシャルドネの観察眼で、唯一看破できる彼の正体の極一部であった。


 魔族時代の高利貸しは、物理的に抑えつける膂力を必要とするのだろう。

 そして当時の彼はいざ知らず、今や彼はそれに留まらず、ミレインの暗黒産業の大部分を掌握する、もはや黒幕フィクサーと呼ぶに相応しい存在になっていることも、彼女は知っていた。


 その男……トレンチ・リッジハングの一声は、街中の裏稼業を叩き起こす銅鑼の音に等しい。


「今日はどういったご用向きかな? 貸した金、耳揃えて返してもらえるってことでいいんだよなぁ? え?


 渇いた舌が口蓋に貼り付き、呼吸困難にすらなりかけていたシャルドネに代わって、アクエリカが実に滑らかに、世間話でもするかのように切り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る